友好都市・風土が絆-洞庭の水駿河湾に連なる

洞庭の水駿河湾に連なる

沼津市と岳陽市 

「中日友好の船」の湖南省班が、一九七九年五月に沼津市を視察したことが両市の友好提携の契機となった。それと同時に、翌八〇年四月に沼津市出身で岳陽市に住んでいた福地愛子さんが戦後三五年ぶりに一時帰国した。その際に富士山の美しい姿と桜、「平和であることの幸福感」を痛感し、市同士の交流がベースとなって平和が守られると確信して庄司辰雄市長に面会、岳陽市との友好提携を強く訴えたことも見落とすことができない。

「昔聞く洞庭の水、今上る岳陽楼」
の杜甫の詩で知られ、屈原が投身した汨羅江がある名勝古跡のまち岳陽。両市の交流に庄司市長も賛同した。

岳陽市に戻った菊地さんは両市の関係者に手紙を書き、友好都市への井戸掘り役を務めた。その年の末に岳陽市から友好交流の意向と市民団体の来訪を希望する書簡が沼津市に届いた。庄司市長はすぐに対応して八一年五月、市長を団長とする市民有志が岳陽市を訪問し、みずから両市交流の足がかりをつくった。次いで沼津市議会有志が訪問、岳陽工業技術団の来訪、再び庄司市長が代表団を率いて岳陽市へ、沼津市議会の決議へと進んだ。

そして八五年四月五日、沼津市市民文化センターで、市民一五〇〇人余が見守るなかで、友好都市締結の調印式が催され、儲波市長と庄司辰雄市長が協定書にサインした。

沼津市は、秀峰富士を仰ぎ、駿河湾を望む景勝の地である。茶、みかん、養殖漁業のほか、立地条件や地域資源を活かして「キラリと光る」まちづくりをめざす。人口は約二一万人。

岳陽市は、湖南省の東北端にあって、西に洞庭湖に臨み、北に長江に接する水陸路交通の要衝である。三国時代には呉の守りとなった。城西門に当たるのが岳陽楼である。肥沃な土地で、茶(君山銀針)や漁業が盛んな観光都市。人口は約五二五万人。

両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問、各界の考察団や行政・看護・医療・教育などの研修生受け入れ、日本語教師・私費留学生の派遣。友好会館の設立、「龍舟祭」への参加、仏教・書画・スポーツ交流など。二〇周年に当たる二〇〇五年には、岳陽市代表団や愛知万博「岳陽の日」への参加団が沼津市を来訪した。沼津市からは市・市民代表団を送り、新たな発展を誓い合った。

「洞庭の水駿河湾に連なり、君山は遥かに富士山と対す。岳陽沼津は友好を結び、山高水長代々に伝う」(祖雄)

洞庭湖畔と富士山麓の両市の交流は、ゆったりと世々代々、着実に引き継がれていくだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-「天府」の豊かさを基に 

「天府」の豊かさを基に 

甲府市と成都市  

「天府の国」といえば、自然条件が優れ、土地が肥沃で物産が豊かな地方をいうが、そのなかでも四川盆地はだれもが認める「天府の国」である。米、イモ類、菜種、柑橘、繭、茶、豚肉といった豊かな産物に恵まれている。その上で四川料理や薬膳がもてはやされることになる。その中心都市が成都である。

三国時代に天下人たりえなかったものの、優れた武将として名を馳せた劉備玄徳と軍師諸葛孔明を誇りとしている。

わが国ではどこか、ということになれば、山梨県と甲府市ということになるだろう。天然の要害に守られた盆地であること、伝統文化を大切して自立性を保っていること、天下人たりえなかったものの優れた武将としての武田信玄を誇りとしていることなど。地理・地形、歴史・伝統文化での類似性から共感をもって友好関係を築ける対象として、山梨県が四川省を、甲府市が成都市を選び実現をしたことは、自然の成り行きだったといえるだろう。

 甲府・成都両市の友好都市締結は、成都から代表団を迎えて、八四年九月二七日、胡懋洲市長と原忠三両市長が議定書に調印して成立した。山梨県と四川省の友好省県締結は、翌八五年六月一八日に成立している。

成都市は、四川省の省都であり、西南地区の産業、商業の中心地で、現在は外資系企業の進出も多い。それとともに二三〇〇年余の歴史をもつ古都である。北京までは北東二〇四八キロよく知られた三国時代の蜀の都で、二三四年に五丈原で没した諸葛孔明をまつる「武侯祠」は最大の観光名所。劉備の「漢昭烈廟」との君臣合廟だが、地元の人びとは孔明の才徳を慕って「武侯祠」と呼んでいる。ほかに唐の詩人杜甫に因む「少陵草堂」や道教の「青羊宮」が有名。〇六年の最優秀旅行都市に選ばれた。市の中心には〇七年に改修された「天府広場」がある。〇八年五月一二日には大地震に見舞われたが、成都市市内には被害はなかった。人口は約一〇四四万人。  

 甲府市は、歴史は古く、甲斐の国の中心として戦国時代の一五一九(永正一六)年に武田信虎が築城し、信玄はここに拠って天下統一をめざした。甲斐の府中としての甲府の始まりである。甲府駅前の信玄座像は市のシンボル。国際的には水晶研磨加工や彫刻工芸で知られ、ぶどうの産地である。人口は約二〇万人。

両市の友好交流は、農業では、ぶどうとそ菜の技術支援をおこない、九〇年には「日中友誼ぶどう園」が開園している。甲府市制一〇〇周年の八九年にはパンダのふるさと四川省から借り受けて「甲府パンダ展」を開催した。教育では小・中学校の友好校一〇校による作品交換や作品展も回を重ねている。経済交流も盛んで、技術研修生の受け入れや物産展、九六年には甲府商工会議所成都事務所を開設した。

二〇〇四年は二〇周年に当たった。九月二七日に成都市を訪れた宮島雅典市長と葛紅林市長の間で、相互交流をいっそう促進する新たな「交流事業協議書」が交わされた。〇七年七月には甲府商工会議所による「甲府ジュエリーフェアin成都」が開かれた。〇八年五月の大地震のあと、市内各界が義援金を送った。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-ふたつの県・市とともに

ふたつの県・市とともに

和歌山市と済南市  

「一山一水一聖人」

済南市は、この三つを誇りとしている。山は泰山であり、水は黄河であり、そして聖人はいうまでもなく孔子である。これはさすがというほかない。

漢代にはすでに済南と呼ばれ、その中心都市として栄えてきた。済水の南の地だったのでその名があるが、いまの黄河が一八五五年に河道を移動して済水の河流に重なった。新石器時代の「竜山文化」の発現地で、歴史文化名城。市の花は蓮である。地下資源に恵まれており、機械、化学工業などが盛ん。農産物も豊かである。人口は約五七五万人。

ひとつの省・省都がふたつの県・県都と友好提携を結んでいる例は珍しい。山東省と省都の済南市が、和歌山県と和歌山市それに山口県と山口市と提携を結んでいるのがそれ。

山口市の場合は、一九七九年五月に山東省の青島市を出港した「中日友好の船」が最初に寄港したのが山口県下関だったことで、団長だった廖承志中日友好協会会長が山口、下関の双方に友好交流を提案したことが契機となった。下関市―青島市は七九年一〇月に友好都市になった。その後、八二年八月に山東省と山口県、八五年九月に済南市と山口市の提携へと進んだ。

一方の和歌山市の場合は、別のルートによる。
八〇年に発足した和歌山県日中経済交流協会が、友好関係をもつことで経済交流の可能性が大きいところして、山東省と済南市を斡旋したことから、和歌山県と和歌山市は、八一年になって山東省と済南市それに中日友好協会あてに友好都市提携の要望書を提出した。その後、代表団や書簡の交換を重ねて、八三年一月一四日に、和歌山市に済南市代表団を迎えて、宇治田*市長と李元栄市長が友好都市議定書に調印した。翌八四年四月には山東省と和歌山県の提携も成立した。といった経緯がある。 

実務に当たった人びとの労苦が思われる経緯であるが、県、市、市民それぞれに特徴を持つ三省県・三市交流の成果が期待される。

和歌山市は、紀州五五万五千石の城下町である。紀の川と和歌の浦はよく知られた景勝の地。温和な風土と開放性、それに時代を画した人物、徳川吉宗、本居宣長、南方熊楠、松下幸之助らを輩出したことで知られる。関西国際空港にも近く国際的な発信拠点をめざす。人口は約三八万人。

両市の友好交流には、二一次*に及ぶ和歌山市友好訪中団の派遣、済南市友好経済貿易訪問団や民政視察団の来訪がある。歴史文物展や書画展といった文化事業、友好校の書画や手紙の交換、教師の訪問など教育部門も。「全国花いっぱい大会(二〇〇二年・世界大会)」への参加など。

二〇〇四年の二〇周年には、一月に済南市友好都市建設視察団が訪れ、お返しに一〇月には大橋建一市長を団長とする和歌山市友好訪中団が訪問して祝賀した。

〇五年七月には、和歌山県日中友好協会の招きで「山東省友好訪日団」がフエリーで下関へ、山口市で交流のあと和歌山市入り。授業参観や二胡の演奏などで交流を深めた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-未来都市への基盤づくり 

未来都市への基盤づくり   

さいたま市と鄭州市  

大黄河は、青海省に発して渤海にそそぐまで五五〇〇キロの旅をする。そのうち鄭州市の北の桃花峪(海抜九六メートル)から河口までが下流域で、七八〇キロをゆったりと流れている。黄河はこのあたりを支えにして巨龍が首を振るように南に北に河道を変えてきた。先の日中戦争の際に、一九三八年六月、蒋介石軍が堤防を切ったのは旧河筋を利用した濁流で日本軍の進撃を阻止するためだった。その地点が鄭州市北の花園口だった。

鄭州市は、黄河文明発祥の地で「華夏文明の揺籃」といわれる河南省の省都である。黄河の南岸にあって、西に洛陽市、東に開封市という歴史文化地域をつなぐ位置にある。中岳崇山や少林寺にも近い。市内に商代の城壁が残る中国八大古都のひとつである。歴史上の人物とその古跡も多い。まずは黄帝故里、玄奘故里、杜甫故里、少林寺の塔林には高名な日本僧のものもある。現在も中原地域の政治、経済、文化の中心で、科学肥料、機械、食品、薬品などといった工業が盛ん。大陸を横断・縦断する鉄道と高速道路が十字にぶつかる交通路の要衝である。人口は約二六〇万人。

鄭州市と浦和市(当時)との友好都市提携をすすめたのは日中友好協会浦和支部だった。友好協会の関係者が行き来するうちに、埼玉県の県都浦和市と河南省の省都鄭州市との提携を中日友好協会が推薦することになり、両市での調整を経て合意をえて実現した。

八一年一〇月一二日、浦和市へ鄭州市友好代表団を迎えて、徐学龍市長と中川健吉市長が友好都市提携の議定書に調印した。これを機に三〇年間にわたって井戸掘り役をつとめてきた協会浦和支部は官民一体の「浦和市日中友好協会」となり、市長が会長に就任した。浦和市は二〇〇一年五月に大宮市、与野市と合併して、さいたま市となった。友好関係は新市にそのまま受け継がれている。

さいたま市は、古くは中山道・日光街道の宿場町としての歴史をもち、現在は東北・上越新幹線ほかが結節する交通の要衝である。首都圏の北の中核都市として三市が合併して誕生し、〇三年四月には全国一三番目の政令指定都市となった。〇五年にはさらに岩槻市が加わり、大型合併都市としてのこれからが注目されている。人口は約一一八万人。

両市の友好交流の実績としては、自治体、議会、市民による訪問団派遣、教育交流、園芸交流など。とくに目立つのが青少年のスポーツ交流である。Jリーグの浦和レッズと大宮アルディージャを持つさいたま市は、県主催の「国際ジュニアサッカー大会」を成功させてきた。鄭州チームをふくむ姉妹・友好都市チームを通じてのジュニアの国際交流を熱心におこなっている。

さいたま市の国際交流は新たな構想で始まったばかり。一方の鄭州市もいま新都市建設の真っ只中にある。空港は南の新鄭に移ったが、その跡地をふくむ鄭州市鄭東新区の新都市計画(一五年完成)は、黒川紀章氏の設計により始まったばかり。お互いに未来都市への脱皮をはたし、相互互恵の立場で、さいたま―鄭州が友好都市交流の成果を得るにはまだ間がありそうである。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

 

友好都市・風土が絆-工業都市化の実務を支援

工業都市化の実務を支援

明石市と無錫市  

海峡交流都市――明石。
古代から都と大宰府を結ぶ海上交通の要衝として栄えてきた。旅の途中で柿本人麿が詠んだ、
「天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」
も、紫式部が『源氏物語』の「明石の巻」で書いた浜辺の情景も、古代から人と物資が行き交う景勝の地であった明石の特徴と魅力を伝えている。

世界最長の吊り橋(中央支間一九九一メートル)である明石海峡大橋は、明石市ではなく神戸市垂水区と淡路市を結んでいるが、かつては明石と呼ばれていた地域である。また明石市は東経一三五度線上にあって日本標準時を知らせる「子午線のまち」でもある。人口は約二九万人。

日中国交回復が実現(一九七二年九月二九日)した翌年の一九七三年に、「全国自治体首長訪中団」の一員として、衣笠哲市長が参加し、その滞在中に神戸ー天津が初の友好都市(七三年六月)となった。同じ県にある明石市として、衣笠市長はお互いに古代から海上交通の要衝として知られた「寧波市」との提携を中日友好協会側に申し入れて帰国したのだった。  

だが、現地側の事情もあって、唐家璇中日友好協会理事から無錫市を推薦する助言があった。明石市は、七五年に改めて江南の景勝地で古い歴史をもつ無錫市との提携希望を中国側に伝えた。七七年には衣笠市長を団長とする「第一次明石市各界代表友好訪中団」が無錫市を訪れている。その後も市議会代表、教職員、市民などが相次いで訪問し、友好を深めた。 

友好都市提携の調印式は、八一年八月二九日、無錫市で催され、当日の模様はKDDの協力で両会場を結んでおこなわれた。無錫市の馬健市長と明石市の衣笠哲市長の調印のようすや挨拶が双方に同時に伝えられ、両会場を市民の拍手と歓声が包んだのだった。

無錫市は、上海と南京の中間に位置し、大運河が市内を貫通している。南に臨む太湖は淡水で、琵琶湖のほぼ三倍ほど。無錫の歴史は古く周代に始まり、蘇州に移るまでは呉国の都だった。錫山で大量の錫がとれたことから有錫と呼ばれていたが、後漢時代に錫が採れなくなって無錫の名になったといわれがある。南の越国が呉王に送った美女西施と功臣范蟸の故事にちなむ蟸園がある。総合工業都市として発展している。人口は約四三〇万人。

両市の友好交流は、友好代表団の相互訪問、研修生の受け入れ、物産展の開催、友好校提携など。あずまや「明錫亭」(八四年・明石市に)の建設、山水画・書道の交流、月照寺から無錫市の開源寺に梵鐘と鐘楼の贈呈(八五年)もおこなった。「江南の文物展」(一〇周年)、教育、歌舞、武術・太極拳、柔道、料理、梅、生け花交流など暮らしの文化交流もある。

 二〇周年に当たった二〇〇一年に、歩道橋事故に見舞われた明石市。その中でも「江南の文物Ⅱ―南京博物院・無錫市博物館特別展」や「無錫市・明石市児童作品交流展」が催されて、市民の心を明るくした。最近は工業都市化のすすむ無錫市から、環境、都市計画、交通管理といった実務型の研修生を受け入れて支援している。民間の投資・貿易による「春華秋実」(二〇周年記念友好旗)にはまだ遠い道のりである。無錫市は、その後八五年に相模原市とも友好都市となっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-北の大地と開拓者魂

北の大地と開拓者魂

札幌市と瀋陽市  

北の大地――北海道。

一八六九年の北海道開道とともにその中心地としての地歩を刻んできた札幌。北海道には、全国各地からさまざまな暮らしの伝統や文化を持つ開拓者が移住して、進取の気性あふれる開放的な地域を形成してきた。

札幌市は、北方圏の拠点都市として、「世界とむすぶ高い文化のまち」(市民憲章)をめざしている。人口は約一八七万人。

一方、奉天府として清朝の陪都だった瀋陽。一六二五年に後金(のち清)を建てたヌルハチが盛京として都と定め、北京遷都後も陪都とし、奉天府を置いた。いまに壮大な瀋陽故宮が残っている。清末騒乱期の一九〇五年、日露争奪の大激戦地となり、双方で約一六万の戦傷者を出してついに日本側の勝利に終わった。三月一〇日に、日本軍は「奉天入城」を果たしたのだった(のち三月一〇日は「陸軍記念日」になった)。

さらにその後の三一年九月一八日には、北郊「柳条湖」での線路爆破が「満州事変(九・一八事変)」の勃発となり、全土に抗日運動が拡大した。瀋陽市には「九・一八事変陳列館」が設けられている。奉天時代に二度も日本軍の入城を経験しているまちなのである。製鉄の鞍山、石炭の撫順が近く、瀋陽自身も鉄、石炭、銅、鉛、ニッケルなど二〇種類もの地下資源を産出する。六路線が交差する鉄道交通の要衝である。いまは遼寧省の省都であり、多民族が共和して住む東北地区の中心都市である。人口は約七四〇万人。 

平和の時代を築くための友好都市として、札幌市には「往来がしやすく、緯度が似通っている都市」という希望があり、東北地区の瀋陽市を対象とする交渉は、板垣武四市長が、七五年一一月に北海道市長会友好訪中団の団長として瀋陽市を訪れ、好印象を得たのが契機となった。

七九年五月に「中日友好の船」で札幌を訪れた孫平化副団長(中日友好協会秘書長)との話合いで双方の意向が確かめられ、往復書簡や訪問団派遣を重ねて実現に進んだ。八〇年八月に開設したばかりの中国の札幌総領事館は初しごととして取り組み、一〇月には札幌市議会も全議員提出による決議案を全会一致で可決して提携を進めた。 

そして八〇年一一月一八日、両市の友好都市提携の調印式は、宋光市長ら瀋陽市友好代表団を迎えて、札幌市でおこなわれた。板垣武四市長と宋光市長が議定書に調印し、「永遠に輝く日中友好」と「中日友誼万古長青」の文字を染め抜いた友好旗を交換をおこなった。

提携後の友好交流は、寒冷地の水道・道路建設技術協力や市職員の相互派遣をはじめ、幼稚園から大学までの相互交流、障害者、労働組合、デパート、放送、観光、スポーツなど、さまざま分野におよぶ。往来には札幌―瀋陽を週二便の直行便が三時間で結んでいる。

二〇〇五年は二五周年にあたった。一一月には瀋陽市で記念式典が開かれ、「札幌の日」が設けられ、文化紹介や商談など、新たな交流にむけた活動がおこなわれた。
瀋陽市は川崎市とも友好都市提携をしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-東北同士の類似都市

東北同士の類似都市 

仙台市と長春市(吉林省) 

東北を代表する類似都市―といえば仙台市と長春市で異論はないだろう。
日本の東北地方最大の都市仙台市と中国の東北地区中央に位置する重要な歴史都市である長春市。

日中両国の友好都市提携が、比較的に交流の歴史の古く長い九州地方や近畿地域で進むなかで、仙台市は、市の成り立ちがよく似た性格を持つ東北地区の都市との提携を希望として中国側に打診したのだった。
中日友好協会の廖承志会長から長春市との提携について提案があったのが、一九七九年七月のことだった。その後、文書の交換や先遣隊の派遣などを通して合意に達した。

そして長春市代表団を迎えて、八〇年一〇月二七日、馮英奎市長と島野武仙台市長とが議定書に調印し、東北初の友好都市提携が成立した。

長春市は、建都して二〇〇年余になる吉林省の省都である。「一汽」(長春第一自動車工場)のトラック「解放」で知られるが、ほかに機関車、客車、トラクターなどの工場がある。吉林大学など二五の大学、一〇〇余の研究所がある緑の多い文化・芸術都市でもある。満族、朝鮮族、回族、蒙古族、壮族など四六の少数民族が在住する。近代の歴史の渦中にあっては、一九三二年から四五年のあいだ「偽満州国の首都・新京」として戦禍を免れえなかった。

愛新覚羅溥儀が執政した建物は「偽満皇宮」の名で博物館として保存されている。また官庁街は吉林大学などの施設として利用されている。かつての満映は長春映画撮影所として生まれかわり、有名な「白毛女」などを送りだし、長春は「電影城」と称された。二〇〇五年には「長映世紀城」がオープンしている。〇七年にはアジア冬季大会が開かれた。人口は約七一八万人。

仙台市は、人口約一〇二万人を擁する東北最大の都市。一六〇一年に仙台藩の城下町として伊達政宗によって開かれた。緑と文化の街で「杜の都」と呼ばれる。市内を清流広瀬川が流れ、青葉通りのケヤキ並木が街を彩るなど、環境先進都市を誇る。

両市の友好交流は、各界で着実に進められてきた。市代表団の相互訪問、行政各課の研修生の受け入れ。さらに経済視察団、「仙台フェア」「長春展」といった展示会。学術、医療交流。中学校・高校の友好校提携、児童絵画展、少年少女合唱隊、雑技公演。動物交換。放送、観光、サッカー、卓球、ロードレース、茶道、書法、囲碁のスポーツ・文化交流。在住日本人孤児の激励や「長春中日友好会館」(九八年)の開設など。多彩な成果を積み重ねてきている。

二五周年にあたる〇五年、五月一三日には祝業精市長を団長とする長春市代表団が仙台市を訪れ、藤井黎市長と会見した。両市長は新たな交流を誓い、仙台で学んだ魯迅の碑に献花した。仙台時代の魯迅についてはあわら市のところで述べている。

「二五周年記念写真展」の作品には、歴史に学びながら新たな信頼に根ざした四半世紀にわたる両市の交流の成果が、かけがえのない平和友好の証しとして写し出されている。

 東北同士の仙台市と長春市が世紀にわたって蓄積する友好交流の成果は、そのまま日中両国都市の友好交流を代表する「平和の絆」の証しとして、ひとつの標準を示すことになるだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

 

友好都市・風土が絆-都市形態の類似性を活かす

都市形態の類似性を活かす

久留米市と合肥市(安徽省) 

中国の省都(省会)のうちにはわが国との長い関係もあってよく知られたところが多い。長江流域でも南京市(江蘇省)、武漢市(湖北省)、成都市(四川省)はそのうちだが、なぜか安徽省の合肥市は知られる機会がなかったうち。

歴史は古く、秦が合肥県を置いた。三国時代には、曹操配下の張遼が拠り、孫権の大軍を寄せ付けなかった「合肥の戦い」が有名。宋代の清官として京劇にも登場する包拯や近代では日清戦争の講和条約(下関条約)で全権大使をつとめた李鴻章の生地。

化学工業のほか先端技術開発をすすめ、近年はハイテク産業の誘致にも務めている。伝統産業としては、文房四宝(筆・硯・紙・墨)がある。理工系の有名校、中国科学技術大学がある。人口は約四六〇万人。 

将来の交流の発展性を考慮すると久留米市は大物を提携相手としたともいえよう。
久留米市は、すでに七一年に商工会議所主催の「中国物産展」を、七二年には「久留米中国展」を催しており、早くから市民の間には中国の都市との友好交流の機運が高かった。

一九七九年六月に「中日友好の船」が博多港に入港した際に、郭献瑞副団長(北京副市長)が久留米市を訪れた。これを契機にして、市内各界代表からなる日中友好都市促進期成会が発足し、友好都市の候補選定が本格化した。

都市形態が類似していることで選定されたのが合肥市だった。久留米市は直接に書簡を送って希望を伝え、友好都市提携の申し入れをおこなった。これに駐日中国大使館も支援を表明、八〇年四月に久留米市長が招請に応じるかたちで合肥を訪れて協議し、合意をみた。

そして八〇年五月一二日、合肥市からの友好訪問団を迎え、団長の魏安民市長と近見敏之市長が友好都市提携の議定書に署名した。市民約一三〇〇人が見守る式典会場(石橋文化ホール)で友好旗を交換し、友好都市宣言をおこなった。

久留米市は、筑紫平野の中心にあり、自然の恵みを活かした独自の文化や産物を築いてきた拠点都市である。江戸以来の絣、足袋、ゴムなどは地場物産を超えて近代化のなかで産業化された。また近代に画家の青木繁、坂本繁次郎らを輩出したことでも知られる。市町村合併で人口が約三〇万人となり、中核市をめざす。

主な友好交流は、両市の代表団の相互訪問をはじめ、都市建設・農業・教育・環境などの行政交流、技術研修生の受け入れ。孔雀(久留米)と丹頂鶴(合肥)といった動物交流、美術展・歌舞団公演などの文化交流。小学校同士の友好学校、中学生相互派遣、サッカー、卓球など青少年・スポーツ交流。さらには日中友好協会や各種市民団体同士による民間交流など、さまざまな分野での友好達成の努力が、着実に積み重ねられている。 

二〇〇五年は二五周年に当たった。記念式典は〇五年一〇月に合肥市で実施された。式典・植樹のほか、「合肥―久留米友好美術館」での合同美術展、新装なった長江大劇場での市民吹奏楽団と市歌舞団による合同公演がおこなわれた。江藤守國市長と郭万清市長が新協議書を交わし、両市は各分野での交流を深めていくことになった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-環日本海の「面」の交流

環日本海の「面」の交流

新潟市とハルビン市(黒龍江省) 

ハルビン、中国語では哈爾浜。

その名は白鳥(満州語)からとも、平地(モンゴル語)からともいわれる。わが国の近代史では、一九〇九年にハルビン駅頭で、伊藤博文(当時枢密院議長)が安重根によって暗殺されたことで知られる。一九世紀末のロシアによる鉄道敷設で開かれ、ロシア風のまちづくりがすすんだ。いまもロシア風の建物が見られる国際都市。シンボルとして残る聖ソフィア大聖堂は博物館となっている。 

ハルビン市は、中国東北地区の経済・文化の中心であり、黒龍江省の省都である。松花江が市内を流れる。平均気温は三・八度。新潟が「水の都」に対してハルビンは「氷の都」と称される。機械、医薬、ハイテク産業が盛んで、農産物は大豆やジャガイモが特産である。ロシア語や日本語教育で実績のある黒龍江大学は有名。人口は約九四八万人。

新潟市は、信濃川河口に位置する日本海側最大の都市である。新幹線で東京へ二時間。九八年に定期航空路が開設されてハルビンまでも二時間である。古くから米どころの港町として発展してきたが、とくに安政の通商条約(一八五八年)で外国に対して開かれた五港のひとつに指定されたことで海外との交流が進んだ。ロシアのハバロフスク市、ウラジオストク市とも姉妹友好都市関係を結んでおり、とくに環日本海地域での「面」の交流の拠点都市として成果を蓄積してきている。都市と農村が調和した「田園型政令指定都市」をめざす。人口は約八〇万人。

中国との友好都市提携にあたっては、戦前に多くの新潟県人が黒龍江地域に渡ったこと、戦後にも同省の土地改良事業に協力してきた関係などから、黒龍江省の省都であるハルビン市との提携が模索された。そして一九七九年一二月一七日に、新潟市にハルビン市友好代表団を迎え、文敏生市革命委員会主任(市長)と川上喜八郎市長とによって友好都市提携の議定書の調印がおこなわれた。日本海側都市では初、全国では一四番目だった。 

両市の友好交流として、新潟市は市民病院や水道局、環境対策課、国際課などへ研修生を受け入れてきた。いまや新潟市で学んだ医学研修生が医療技術協力の第一線で活躍するまでになっている。八九年の一〇周年記念にはハルビン市内に「ハルビン・新潟友誼園」が建設されたが、その際には市民募金も展開した。ハルビン物産展や九七年以降は毎年「ハルビン経済貿易商談会」に新潟ブースを出展している。小・中学生の相互交流、市民レベルではハルビン市の「氷彫刻・雪像コンテスト」への参加、太極拳交流など多彩である。九八年に両市間の定期航空路が開かれ、新潟・ハルビン・ハバロフスク三都市を結ぶ「三角航空路」が実現している。三市による「環境保護会議」(二〇〇一年から)では、共有する課題の意見交換をつづけている。二〇〇二年には、ハルビン市からライラック(市の花)の苗木の提供を受けて新潟市に「ライラック通り」が完成した。

二五周年の二〇〇四年には、今後の指針となる「覚書」を交わした。中国経済の急速な発展を受けて中国企業の日本進出誘致など新たな経済交流や観光ビザ緩和による中国旅行客の来訪といった観光での交流を強めることとなる。

〇五年一一月に新潟市で開催された見本市・シンポジウム「食と花の世界フォーラム・にいがた2005」へはハルビン市はじめ交流都市が参加した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

友好都市・風土が絆-環境保全と観光立市 

環境保全と観光立市  

熊本市と桂林市(広西壮族自治区) 

山水画のふるさと―桂林。

四方を奇峰奇岩に囲まれて漓江はゆったりと南へ流れる。桂林から九〇キロ下流の陽朔までの漓江は、山と水が織り成す独特の美しい景観を楽しむ中国有数の観光名勝である。

桂林市は、八二年に指定された第一回の「国家歴史文化名城」二四カ所のひとつである。秦始皇帝によって桂林郡が置かれ、明清時代は広西地域の中心 (省会)であった。一九四〇年に市制に。四四年には一時、日本軍に占領されたこともある。広西壮族自治区の東北部に位置し、市の中央を漓江が流れる。郊外二八キロに桂林両江国際空港があり、各都市と結んでいる。桂林動物園ではパンダに出会える。もちろん市の樹も市の花も桂である。人口は約四八〇万人。

熊本市は、九州の中央に位置する城下町である。一六〇七(慶長一二)年に加藤清正が現在地に熊本城(隈本を改めて熊本に)を築き、その後は細川氏が肥後藩主となって、学問好きで剛直な「もっこす気質」を育てた。藩校時習館は一七五四(宝暦四)年の開設。明治期には五高に加納治五郎、小泉八雲、夏目漱石が着任したことで知られる。徳富蘇峰も活躍した。これまで市議会は、「森の都」「地下水保全」「健康」「平和」「環境保全」「スポーツ」「観光立市くまもと」といった都市宣言をおこなって市民活動の指針としている。国際交流会館が中心になって、情報サービスや留学相談、在住外国人と市民の交流の場を提供している。人口は六七万人。

熊本市と桂林市との友好都市提携は、熊本市の市制九〇周年に当たる一九七九年を機に友好都市締結についての機運が市議会、市民に高まり、五月に「中日友好の船・明華号」で来日した廖承志団長(中日友好協会会長)から、桂林市との提携提案がなされて、「長い歴史と風光明媚な景観」をもつ都市同士ということで、実現へとむかった。

さっそく七月には熊本市の先遣団が協議のために桂林へとんだ。そして一〇月一日には、熊本市へ桂林市革命委員会の梁成業主任(市長)を迎えて、熊本市の星子敏雄市長との間で友好都市提携の調印にこぎつけたのだった。

その後の友好交流では、熊本市からの「市民の翼」訪問団がすでに二三〇〇人に及んでいることからも、桂林の観光地としての魅力が知られる。おもな合意事項としては、地球環境保全にむけた取り組み、観光協力、文化交流による相互理解、それに高校生・留学生の相互派遣などがある。

二〇〇四年は提携二五周年に当たった。新たな交流内容を協議するために、八月に幸山政史市長らの代表団が桂林市を訪れて、王躍飛市長と覚書を交わした。九月には熊本市で「桂林週間」を催し、映像、展示、文化体験、民族音楽などによって桂林市の現況を紹介した。

両市の友好交流の成果として、合作映画「チンパオ」(陳宝的故事。中田新一監督)がある。九九年に平和友好条約締結二〇周年を記念して制作され、全国巡回で放映された。大戦さなかの桂林が舞台、一頭の子牛をめぐる熊本出身の軍曹と少年陳宝との物語である。戦場の村で軍曹も牛も陳宝も死ぬが、最終シーンの漓江の水田で働く農民と牛と子どもの笑顔は、平和のシンボルとして生きつづけることとなった。(二〇〇八年九月・堀内正範)