友好都市・風土が絆-未来都市への基盤づくり 

未来都市への基盤づくり   

さいたま市と鄭州市  

大黄河は、青海省に発して渤海にそそぐまで五五〇〇キロの旅をする。そのうち鄭州市の北の桃花峪(海抜九六メートル)から河口までが下流域で、七八〇キロをゆったりと流れている。黄河はこのあたりを支えにして巨龍が首を振るように南に北に河道を変えてきた。先の日中戦争の際に、一九三八年六月、蒋介石軍が堤防を切ったのは旧河筋を利用した濁流で日本軍の進撃を阻止するためだった。その地点が鄭州市北の花園口だった。

鄭州市は、黄河文明発祥の地で「華夏文明の揺籃」といわれる河南省の省都である。黄河の南岸にあって、西に洛陽市、東に開封市という歴史文化地域をつなぐ位置にある。中岳崇山や少林寺にも近い。市内に商代の城壁が残る中国八大古都のひとつである。歴史上の人物とその古跡も多い。まずは黄帝故里、玄奘故里、杜甫故里、少林寺の塔林には高名な日本僧のものもある。現在も中原地域の政治、経済、文化の中心で、科学肥料、機械、食品、薬品などといった工業が盛ん。大陸を横断・縦断する鉄道と高速道路が十字にぶつかる交通路の要衝である。人口は約二六〇万人。

鄭州市と浦和市(当時)との友好都市提携をすすめたのは日中友好協会浦和支部だった。友好協会の関係者が行き来するうちに、埼玉県の県都浦和市と河南省の省都鄭州市との提携を中日友好協会が推薦することになり、両市での調整を経て合意をえて実現した。

八一年一〇月一二日、浦和市へ鄭州市友好代表団を迎えて、徐学龍市長と中川健吉市長が友好都市提携の議定書に調印した。これを機に三〇年間にわたって井戸掘り役をつとめてきた協会浦和支部は官民一体の「浦和市日中友好協会」となり、市長が会長に就任した。浦和市は二〇〇一年五月に大宮市、与野市と合併して、さいたま市となった。友好関係は新市にそのまま受け継がれている。

さいたま市は、古くは中山道・日光街道の宿場町としての歴史をもち、現在は東北・上越新幹線ほかが結節する交通の要衝である。首都圏の北の中核都市として三市が合併して誕生し、〇三年四月には全国一三番目の政令指定都市となった。〇五年にはさらに岩槻市が加わり、大型合併都市としてのこれからが注目されている。人口は約一一八万人。

両市の友好交流の実績としては、自治体、議会、市民による訪問団派遣、教育交流、園芸交流など。とくに目立つのが青少年のスポーツ交流である。Jリーグの浦和レッズと大宮アルディージャを持つさいたま市は、県主催の「国際ジュニアサッカー大会」を成功させてきた。鄭州チームをふくむ姉妹・友好都市チームを通じてのジュニアの国際交流を熱心におこなっている。

さいたま市の国際交流は新たな構想で始まったばかり。一方の鄭州市もいま新都市建設の真っ只中にある。空港は南の新鄭に移ったが、その跡地をふくむ鄭州市鄭東新区の新都市計画(一五年完成)は、黒川紀章氏の設計により始まったばかり。お互いに未来都市への脱皮をはたし、相互互恵の立場で、さいたま―鄭州が友好都市交流の成果を得るにはまだ間がありそうである。(二〇〇八年九月・堀内正範)