友好都市・風土が絆-工業都市化の実務を支援

工業都市化の実務を支援

明石市と無錫市  

海峡交流都市――明石。
古代から都と大宰府を結ぶ海上交通の要衝として栄えてきた。旅の途中で柿本人麿が詠んだ、
「天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」
も、紫式部が『源氏物語』の「明石の巻」で書いた浜辺の情景も、古代から人と物資が行き交う景勝の地であった明石の特徴と魅力を伝えている。

世界最長の吊り橋(中央支間一九九一メートル)である明石海峡大橋は、明石市ではなく神戸市垂水区と淡路市を結んでいるが、かつては明石と呼ばれていた地域である。また明石市は東経一三五度線上にあって日本標準時を知らせる「子午線のまち」でもある。人口は約二九万人。

日中国交回復が実現(一九七二年九月二九日)した翌年の一九七三年に、「全国自治体首長訪中団」の一員として、衣笠哲市長が参加し、その滞在中に神戸ー天津が初の友好都市(七三年六月)となった。同じ県にある明石市として、衣笠市長はお互いに古代から海上交通の要衝として知られた「寧波市」との提携を中日友好協会側に申し入れて帰国したのだった。  

だが、現地側の事情もあって、唐家璇中日友好協会理事から無錫市を推薦する助言があった。明石市は、七五年に改めて江南の景勝地で古い歴史をもつ無錫市との提携希望を中国側に伝えた。七七年には衣笠市長を団長とする「第一次明石市各界代表友好訪中団」が無錫市を訪れている。その後も市議会代表、教職員、市民などが相次いで訪問し、友好を深めた。 

友好都市提携の調印式は、八一年八月二九日、無錫市で催され、当日の模様はKDDの協力で両会場を結んでおこなわれた。無錫市の馬健市長と明石市の衣笠哲市長の調印のようすや挨拶が双方に同時に伝えられ、両会場を市民の拍手と歓声が包んだのだった。

無錫市は、上海と南京の中間に位置し、大運河が市内を貫通している。南に臨む太湖は淡水で、琵琶湖のほぼ三倍ほど。無錫の歴史は古く周代に始まり、蘇州に移るまでは呉国の都だった。錫山で大量の錫がとれたことから有錫と呼ばれていたが、後漢時代に錫が採れなくなって無錫の名になったといわれがある。南の越国が呉王に送った美女西施と功臣范蟸の故事にちなむ蟸園がある。総合工業都市として発展している。人口は約四三〇万人。

両市の友好交流は、友好代表団の相互訪問、研修生の受け入れ、物産展の開催、友好校提携など。あずまや「明錫亭」(八四年・明石市に)の建設、山水画・書道の交流、月照寺から無錫市の開源寺に梵鐘と鐘楼の贈呈(八五年)もおこなった。「江南の文物展」(一〇周年)、教育、歌舞、武術・太極拳、柔道、料理、梅、生け花交流など暮らしの文化交流もある。

 二〇周年に当たった二〇〇一年に、歩道橋事故に見舞われた明石市。その中でも「江南の文物Ⅱ―南京博物院・無錫市博物館特別展」や「無錫市・明石市児童作品交流展」が催されて、市民の心を明るくした。最近は工業都市化のすすむ無錫市から、環境、都市計画、交通管理といった実務型の研修生を受け入れて支援している。民間の投資・貿易による「春華秋実」(二〇周年記念友好旗)にはまだ遠い道のりである。無錫市は、その後八五年に相模原市とも友好都市となっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)