幻の都と東海に輝く明州
長岡京市と寧波市(浙江省)
「幻の都」と呼ばれてきたみずからの遠い日の都の記憶をまさぐるように、長岡京市代表団が訪れたのは、杭州市や寧波市など江南の古都だった。その後、中国側からの紹介もあって寧波市との提携へと進むことになった。
長岡京市の市民の間に、中国の都市とくに江南の古都との友好交流を期待する声が一九六〇年代から広まり、七四年二月には「日中友好長岡京市市民会議」が結成されたのだった。
そして八三年四月二一日、長岡京市へ寧波市の代表団をむかえて、五十棲辰男市長と劉徳焜市長が友好都市提携の議定書に調印した。
長岡京市は、上代に王城となった地である。平城京(奈良)と平安京(京都)とをつなぐ長岡京(七八四~七九四年)が桓武天皇によって造営された。
当時の中国は中唐期。七八五年、こちらでは大伴家持が没した年に顔真卿が説諭にいった先で殺害されている。この間に遣唐船はなかったが、遣使をはじめ日本からの渡海者の多くは南路をとって、「明州」をめざした。明州というのは寧波市の古名である。
寧波市は、唐・宋代には江南屈指の対外貿易港であった。鑑真和上も天平勝宝五(七五三)年、明州と呼ばれたからこの地から遣唐使帰国船に乗って船出した。明代から寧波の名になった。市の東郊にある古刹天童寺は、禅宗五刹のひとつである。
渡海してこの地で修行して名をなした日本の僧侶として、臨済宗の栄西禅師や曹洞宗の道元禅師がいる。雪舟もここで画境を開いた。雪舟にゆかりのある益田市とは九一年に、また別所安楽寺の開祖樵谷惟僊禅師との縁で上田市が九五年に、寧波市と友好都市になっている。
市の郊外には竹林が多く、竹刻や麻雀牌などの竹製品の産地でもある。寧波市は麻雀の発祥の地とされている。人口は約五四〇万人。
長岡京市は、水陸路交通の要衝で、山城盆地の温暖な気候に恵まれ、京銘竹とよばれる竹製品の産地として有名である。戦国時代には細川氏の所領となった。明智光秀の娘玉は、細川忠興の妻となり、洗礼を受けてガラシャ(恵みの意)として生き、夫のためにここで自害した。ガラシャは戦国時代に咲いた一輪の白百合といわれる。ふるさと創生事業として一九九二年に市民主体で始まった「長岡京ガラシャ祭」(市民まつり)は、当時の風俗衣装をつけた玉が細川忠興のもとにお輿入れをする行列を再現したもので、農業祭や商工フェスタを兼ねた楽市楽座ももうけられ、秋季一一月の年中行事として定着している。人口は約七万八〇〇〇人。
その後の両市の交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、医療ほか各分野の技術研修生の受け入れ。市民訪中団としては婦人訪中団が最初だった。中学生、少年友好使節団(八五年、昭和の遣唐使)による交流。文化・スポーツの交歓交流、吟詠・漢詩交流などさまざまである。
友好二〇周年の記念式典は、二〇〇三年四月に金徳水寧波市長らを迎えて長岡京市で催されたが、当時SARS騒ぎの最中であったため寧波市への訪問は延期した。寧波市から贈呈された雲龍石柱を龍勝寺に建立し、春日灯篭を寄贈した。
二〇〇八年は二五周年に当たった。四月一八日に長岡京市代表団(団長小田豊市長)が寧波市を訪れて毛光烈市長と意見を交換し、東銭湖畔に八重桜一五〇本を植樹した。七月一八日には寧波市友好代表団を迎えて記念祝賀会がおこなわれた。寧波市からは石門鼓一対が贈られた。(二〇〇八年九月・堀内正範)