友好都市・歴史が絆-幻の都と東海に輝く明州

幻の都と東海に輝く明州

長岡京市と寧波市(浙江省)  

「幻の都」と呼ばれてきたみずからの遠い日の都の記憶をまさぐるように、長岡京市代表団が訪れたのは、杭州市や寧波市など江南の古都だった。その後、中国側からの紹介もあって寧波市との提携へと進むことになった。

長岡京市の市民の間に、中国の都市とくに江南の古都との友好交流を期待する声が一九六〇年代から広まり、七四年二月には「日中友好長岡京市市民会議」が結成されたのだった。
そして八三年四月二一日、長岡京市へ寧波市の代表団をむかえて、五十棲辰男市長と劉徳焜市長が友好都市提携の議定書に調印した。

長岡京市は、上代に王城となった地である。平城京(奈良)と平安京(京都)とをつなぐ長岡京(七八四~七九四年)が桓武天皇によって造営された。

当時の中国は中唐期。七八五年、こちらでは大伴家持が没した年に顔真卿が説諭にいった先で殺害されている。この間に遣唐船はなかったが、遣使をはじめ日本からの渡海者の多くは南路をとって、「明州」をめざした。明州というのは寧波市の古名である。

寧波市は、唐・宋代には江南屈指の対外貿易港であった。鑑真和上も天平勝宝五(七五三)年、明州と呼ばれたからこの地から遣唐使帰国船に乗って船出した。明代から寧波の名になった。市の東郊にある古刹天童寺は、禅宗五刹のひとつである。

渡海してこの地で修行して名をなした日本の僧侶として、臨済宗の栄西禅師や曹洞宗の道元禅師がいる。雪舟もここで画境を開いた。雪舟にゆかりのある益田市とは九一年に、また別所安楽寺の開祖樵谷惟僊禅師との縁で上田市が九五年に、寧波市と友好都市になっている。

市の郊外には竹林が多く、竹刻や麻雀牌などの竹製品の産地でもある。寧波市は麻雀の発祥の地とされている。人口は約五四〇万人。 

長岡京市は、水陸路交通の要衝で、山城盆地の温暖な気候に恵まれ、京銘竹とよばれる竹製品の産地として有名である。戦国時代には細川氏の所領となった。明智光秀の娘玉は、細川忠興の妻となり、洗礼を受けてガラシャ(恵みの意)として生き、夫のためにここで自害した。ガラシャは戦国時代に咲いた一輪の白百合といわれる。ふるさと創生事業として一九九二年に市民主体で始まった「長岡京ガラシャ祭」(市民まつり)は、当時の風俗衣装をつけた玉が細川忠興のもとにお輿入れをする行列を再現したもので、農業祭や商工フェスタを兼ねた楽市楽座ももうけられ、秋季一一月の年中行事として定着している。人口は約七万八〇〇〇人。

その後の両市の交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、医療ほか各分野の技術研修生の受け入れ。市民訪中団としては婦人訪中団が最初だった。中学生、少年友好使節団(八五年、昭和の遣唐使)による交流。文化・スポーツの交歓交流、吟詠・漢詩交流などさまざまである。

友好二〇周年の記念式典は、二〇〇三年四月に金徳水寧波市長らを迎えて長岡京市で催されたが、当時SARS騒ぎの最中であったため寧波市への訪問は延期した。寧波市から贈呈された雲龍石柱を龍勝寺に建立し、春日灯篭を寄贈した。

二〇〇八年は二五周年に当たった。四月一八日に長岡京市代表団(団長小田豊市長)が寧波市を訪れて毛光烈市長と意見を交換し、東銭湖畔に八重桜一五〇本を植樹した。七月一八日には寧波市友好代表団を迎えて記念祝賀会がおこなわれた。寧波市からは石門鼓一対が贈られた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-軍港から開かれた商港へ

軍港から開かれた商港へ

舞鶴市と大連市(遼寧省) 

 舞鶴といえば細川藤孝(幽斎)によって築かれた田辺藩の城下町である。「舞鶴」という美しい名は、城の別名に由来しているという。

明治になって、一九〇一年にロシアの南下という不穏な日本海の波立ちの中で、舞鶴鎮守府(初代長官は東郷平八郎)が開庁し、海軍のまちとなった。それにあわせて東舞鶴の市街地化がおこなわれた。〇三年には舞鶴海軍魚形水雷庫(現赤れんが博物館)が竣工した。三六年、第一回舞鶴みなとまつり開催。四三年に舞鶴市と東舞鶴市が合併。四五年七月二九日、三〇日とアメリカ軍の空襲により海軍工廠、舞鶴港が爆撃を受けた。

そして一九四五年の終戦。以後一三年にわたって大陸からの引揚港としての役割を果たすこととなった。大陸各地かあの引揚者は、六六万五〇〇〇人に及んだ。

無言で、無表情で、疲れきって帰国した人びと。長い桟橋をひきずって歩く軍靴の音。そして帰らぬ子を待ちつづけた「岸壁の母」たち。現代につながる東北アジアの不幸な歴史を知っている桟橋は「引揚桟橋」として九四年に復元され、戦乱によって人民が遭遇した惨禍を未来に語り継いでいる。史実を伝える「引揚記念館」も八八年に開設されている。また一九〇三年に竣工した旧海軍の魚形水雷庫は、「赤れんが博物館」に変わり、その後に次々に建てられた一二棟の「赤れんが倉庫群」は、夏の「赤煉瓦サマー・ジャズ・イン舞鶴」の会場ともなっている。

大連市は、一八九九年、南下したロシアによって不凍結の軍港として築かれた。一九〇四年一二月の「二〇三高地」での「山形改まる」ほどの激戦によって犠牲になった兵士の屍の山が築かれた。そして〇五年年初の旅順陥落。その後は中国東北地域への門戸として、四五年まで日本が施設の整備をおこなった。いまも市内のホテル、銀行、学校、病院、橋ほか、旧時代に日本が建てた建造物が残る。解放後の発展は著しく、経済技術開発区には日本企業も数多く進出している。都市部の人口は約二五〇万人。

戦後にともに軍港から商港への道を歩むことになった舞鶴市と大連市の友好都市提携は、「地理的条件や貿易の経緯からぜひ」という市民の要望が強く、地道な努力がつづけられた。そして八二年五月八日、舞鶴市に大連市友好訪問団を迎えて、崔栄漢市長と町井正登市長が議定書に署名した。

提携後の友好交流は、市友好訪問団をはじめ、港湾管理、海運、教育、福祉、観光、医療などの各界視察団や雑技団の公演、とくに少年交流使節団の派遣は毎年交互に実施されている。舞鶴市民は、「日中友好の船」や「日中友好の翼」で大連市を訪問してきている。

二〇周年の二〇〇二年には、李永金・江守光起両市長が舞鶴自然文化園でアカシア二〇本の植樹をおこなった。李市長は「順調に育って、毎年五月には美しい花を」と交流への期待と重ねて挨拶した。「アカシアの大連」として有名だが、大連市の市花は「月季」(バラ)である。

〇七年は二五周年に当たった。五月八~一〇日、舞鶴市友好団(団長は斎藤彰市長)が訪れて、前年に締結した「市民交流の強化に関する合意書」を基にして、互利互恵の関係による交流を進めることなどを確認した。

〇七年四月には大連市で「日中合同ギター演奏会」が、〇八年一月には舞鶴市で、両市市民グループによる交流音楽会も開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-日中韓交流の回路を開く

日中韓交流の回路を開く

唐津市と揚州市(江蘇省) 

唐(大陸)に渡る津(みなと)という名をもつ唐津市には、長い間かかって先人が培ってきた外向的な気風が市民の間に息づいている。日中友好都市の交流や環黄海圏域の国際交流にスムーズに対応できるのは、そういう「草の根交流」の伝統が生きているからだろう。これまでに揚州市のほか大連旅順口区(交流意向書締結)、韓国の麗水市や西帰浦市(済州島)との交流も市民ぐるみで培われてきたものである。

日中友好都市の提携に際しても、国交正常化以来、中国のいずれかの都市との友好関係をむすぶため、行政の枠を越えて市・市議会・市民による訪中団を結成し、一九七八年からは四次にわたって代表団を派遣して、自主的に候補市探しをおこなった。

その結果、文化遺産と風光美との調和を図りながら生産都市としても発展するというまちづくりに期待して選んだのが揚州市であった。とくに鑑真和上の生誕地であるとともに日本との交流の深いつながりがあり、独自に選んで積極的に締結の交渉をすすめたのだった。

そして国交正常化一〇周年に当たる八二年二月二二日に、瀬戸尚市長ら代表団が揚州市を訪れて、祝志福市長との間で友好都市締結の議定書を交わした。

揚州市は、二四〇〇年前の春秋時代から知られ、隋の煬帝が黄河と長江を結ぶ大運河を造り、ここに離宮を置いたことから水運の拠点として栄えた。京杭運河が長江と交わる地点の北岸に位置している。かつて海路をたどった遣唐使が、南方の海岸にたどり着き、のちに西方の長安市や洛陽市などへむかう途中に必ず滞在した歴史文化都市であった。鑑真和上はここで生まれ、出家し修行し、のち日本を知り、留学僧の要請に応じて渡海したのだった。

文化事業である書画、琴、戯曲、工芸技術、造園、盆景などで揚州は一派をなしている。漆器、玉器、剪紙、刺繍が名産品。古運河、鑑真記念堂がある大明寺、何園など名勝古跡は数多い。人口は約四四〇万人。

唐津市は、佐賀県の西北部に位置し、玄界灘に面した城下町である。日本三大松原のひとつ虹の松原が知られる。天正年間に豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地として名護屋城を築いた。また港から送り出した伝統工芸の茶器「唐津焼」は有名で、九州では陶器を一般に唐津もの(瀬戸ものと同じ)と呼ぶほど。勇壮華麗な一四台の曳山が巡行する「からつくんち」は、国の重要無形文化財である。二〇〇五年一〇月一日に合併して、人口約一三万人の唐津市になった。

主な友好交流は、両市の友好都市訪問団をはじめ、食品加工、水産、調理、医療、農業、縫製技術ほかの分野の研修生の受け入れ。中学生交歓、囲碁交流、児童書画展、日本舞踊と揚州人形劇の交換公演、花火競演、「煙花三月祭」「美食節」への参加、大型バスなどの車両の贈呈、「揚州友好会館」の開設支援などがある。 

唐津市が、国際交流事業で官民一体となって力を入れているのが、日中韓の三都市交流である。九三年から唐津市、揚州市、韓国の麗水市が持ちまわりで「三市長会談」を開催している。職員の相互派遣や共有文化である囲碁の「日中韓囲碁交流大会」などを通じて、たやすくはないが玄界灘の荒波を越えて、唐津の名にふさわしい日中韓交流の成果を着実に実現している。

二〇〇七年は二五周年にあたり、四月には坂井俊之市長らが訪れて揚州市で、一一月には揚州からの友好訪問団をむかえて唐津市で記念式典がおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

友好都市・歴史が絆-友誼万年を願う鐘の音

友誼万年を願う鐘の音

長野市と石家荘市(河北省) 

長野県の「県民の翼訪中団」(団長西沢権一郎県知事)が河北省の省都である石家荘市を訪れたのは、一九七七年のことであった。訪れた一行が驚くほどに実感したのは、まちの立地条件や気候がたいへんよく似ており、果樹(リンゴや梨など)が目立ち、さらには善光寺に対して隆興寺があるなど、類似点の多いことであった。かつて長野県出身の兵士が駐屯していたところ(三七年に日本軍が占領し華北の重要拠点となった)であり、接触するまでは一抹の不安があったが、暖かく迎え入れられたことにも感激した。

その後、まず友好都市として長野市と石家荘市をという希望を中日友好協会(廖承志会長)に伝え、長野市とともに日中友好協会長野支部も仲介役として提携に尽力し、全市あげての活動となった。

石家荘市から賈然市長らを招待して、柳原正之市長との間で友好都市締結の調印式がおこなわれたのは、八一年四月一九日のことで、
「相隣一帯水 友誼万年春」(石家荘市からの友好旗)
の思いをともにしたのだった。

長野県と河北省の県省提携も、八三年一一月に調印され、交流は安定した基盤を持つこととなった。 

石家荘市は、北京から南西へ約二八〇キロ。列車の窓外にどこまでもつづく畑で知れるように、華北平原は小麦、綿花の主要産地で、果樹栽培も盛んである。西に連なる太行山脈のふもとに位置し、河北省の省都として政治、経済、文化の中心となっている。京広線(北京・広州)と石太線(石家荘・太原)が通じ、北京からは高速道路が完成している。人口は約九二四万人。

長野市は、善光寺(国宝)の門前町として古くから親しまれてきた。とくに九八年の冬季オリンピックとパラリンピックの成功は「世界に開かれたまちNAGANO」としての知名度を高める契機となり、その後も国際会議やスポーツ大会など、さまざまな国際交流活動の舞台を提供してきた。人口は約三八万人。

友好都市提携以後の両市の交流は、友好代表団の相互訪問、市民や中学生訪中団の派遣、視察団・各種研修生の受け入れなどの人的交流のほか、レッサーパンダとチンパンジーとの動物交換もおこなわれ、子どもたちの人気者になっている。九八年の「長野オリンピック国際協力募金」には、市内の企業や民間団体などからの募金やTシャツなどの販売収益やテレホンカード販売などで、二億四〇〇〇万円余が集まった。その中から友好都市の石家荘市には小学校三校の建設費が贈られた。

二〇周年の二〇〇一年には、蔵勝業市長と塚田佐市長が相互訪問した。石家荘市からは、記念に戦国時代中山国の装飾武器をかたどった「山形器」が贈られ、長野市からは善光寺の鐘を模した「友好の鐘」を贈った。

〇五年四月一四、一五日には、戦後六〇年の節目を記念する「第一〇回日中友好交流会議」が、長野市で開かれた。両国の各地から参集した人びとは、悠久の平和を願う善光寺の鐘の音と市民の歓迎を受けたのだった。

 〇八年は河北省と長野県の省県提携から二五周年に当たった。五月一九日、石家荘市の河北会堂で、胡春華省長代理と村井知事が会談、大学・短大の交流促進に関する覚書を交わした。〇九年四月から長野県短大卒業生が河北大学に編入できることになる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-「不再戦」と「友好下去」の碑 

「不再戦」と「友好下去」の碑 

岐阜市と杭州市(浙江省) 

「日中不再戦」と岐阜市の松尾吾策市長は揮毫した。
一方、杭州市の王子達市長は「中日両国人民世世代代友好下去」と書き下ろした。 

日中両国の市民が再び戦うことなく、世々代々の友好関係を引き継いでいこうという平和と友好への願いを込めた二つの碑文は、一九六二年一〇月七日に、杭州市において交換された。杭州市側の碑文は、周恩来首相の直接指示によるものといわれる。

翌六三年六月二日、まず岐阜市の岐阜公園に「中日両国人民世世代代友好下去」碑が建立された。そして一二月一五日、杭州市の柳浪聞鶯公園に「日中不再戦」碑が完成した。

日本で中国人殉難者の遺骨送還運動が始まったのは一九五三年だった。四三年四月から四五年五月までに約四万二千人が強制連行され、うち六八〇〇人余が死亡したという。岐阜県内では一六八九人のうち七三人が死亡した。

五六年六月に、七二柱の合同慰霊祭が岐阜東別院で営まれた。折りから来日中だった京劇代表団の孫平化副団長(のち中日友好協会会長)らが霊前に献花した。八月には岐阜県の遺骨送還代表団が訪中して、位牌を天津市の抗日烈士の墓に安置したのだった。

友好と平和を誓い合う碑が建立した後も、岐阜市は七一年に同じ公園内に「中国人受難者之碑」を建て、七二年の日中国交正常化を受けて、七三年には「碑建立一〇周年式」を開催している。

 七八年の日中平和条約締結に先立つ一五年前の「不再戦」の碑の建立、そして平和条約締結後の七九年二月二一日には、岐阜市に杭州市友好代表団を迎えて、両市の友好都市提携の調印式がおこなわれた。条約締結のあとの提携では名古屋市―南京市についでのもので、全国では七番目の友好都市提携となった。

岐阜市は、日本のほぼ中央に位置している。街の真ん中、金華山の頂きには戦国武将の斉藤道三が居城とし、天下統一を夢見た織田信長が拠点とした岐阜城がそびえ立つ。傍らを鵜飼で知られる清流長良川が流れる。自然環境と伝統文化を活かして「個性輝く市民協働都市」をめざしている。人口は約四〇万人。

杭州市は、浙江省の省都で、「上に天堂あり、下に蘇杭あり」と詠われてきた江南屈指の歴史文化名城である。南宋のみやこ。南北を貫く大運河の最南端に当たる。有名な白堤と蘇堤のある西湖は、市内湖として市民に親しまれている。霊隠寺、西冷印社ほか旧跡や博物館も多い。特産はシルク、龍井茶。人口は約六四三万人。

 両市は友好都市提携のあと、小・中学友好校、「少年友好団」の派遣、大学提携、市仏教協会提携、友好病院などの交流事業を進めてきた。アパレル関係の職員交流も続いている。伝統劇のほか中日合同音楽劇「太陽をさがして」「ブンナよ木からおりてこい」の公演もおこなった。西湖マラソンや西湖博覧会には、同じ杭州市と友好都市となっている福井市とともに参加している。「不再戦」の碑には、八二年九月に鈴木善幸首相が訪れている。

二五周年にあたる二〇〇四年には、双方で記念式典がおこなわれた。中日合同音楽劇「尾なし龍」が式典を盛り上げた。〇六年に杭州市で開催された「世界レジャー博覧会」への参加を通じて交流を強化した。杭州市は女子十二楽坊をイメージキャラクターに起用して、市の魅力をアピールしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-世界歴史都市への視座

世界歴史都市への視座

京都市と西安市(陝西省) 

 奈良市―西安市に三カ月遅れて、京都市―西安市の友好提携は一九七四年五月におこなわれた。京都市の船橋求己市長を団長とする京都市友好訪中代表団が西安市を訪れ、五月一〇日、孫長興市革命委員会主任(市長)と船橋求己市長が友好都市結成の宣言式をおこなったのだった。西安市各界市民の熱い歓迎ぶりには、交流の将来への期待が強く込められたものであった。

孫長興市革命委員会主任(市長)は、
「西安と京都はともに悠久の歴史を持つ古都である。すでに一千年余りの友好往来があり、正式に友好都市になったこれからは、西安市民は京都市民と固く手を取り合って、両国の友好善隣を発展させたい」
と述べ、船橋求己市長も、
「二千年の交流の歴史を通じて、日本は中国から多くのものを学んでまいりました。なかでも京都は、唐時代の長安から数えきれぬ影響を受けました。京都と西安は、長い歴史の過程を通じて、日中両国の友好往来の中心地でありました」
と応じて、両市の世々代々の友好を熱望した。

両国を代表する歴史古都である奈良市・京都市と西安市が他に先がけて友好都市の提携をしたことになる。千年を越える往来の中心地同士が、新たな発展をめざして「世々代々」に繋ぐことを宣言する。それは両都市の市民をはるかに越えて、両国国民の熱い願いを代表するものでもあった。

京都市は、「国際文化観光都市の市民」であることを市民憲章にうたい、年間観光客五〇〇〇万人をめざしている。
一九九四年には一七の社寺などからなる「古都京都の文化財」が世界文化遺産に登録された。日本全国の五分の一にあたる国宝二一一点を保有している。京都市と友好・姉妹都市を結んでいる都市には、西安市をはじめパリ、フィレンツェ、ケルン、プラハ、ザグレブ、キエフ、ボストン、グアダラハラといった世界の歴史都市が名を連ねている。人口は約一四六万人。四万人余の外国人が住んでいる。

西安市は、中国屈指の国際文化観光都市でありながら西北地区の産業基地でもあり、歴史的市街地の景観保存には苦慮している。市内の名所としては、一級の展示品を誇る「陝西歴史博物館」(収蔵品三七万点、常時展示約六〇〇〇点)、二三〇〇点余の石碑・石刻が並ぶ「碑林」、玄奘三蔵の訳経にちなむ大雁塔と小雁塔、明代の城壁(一三・七キロ)、そして空海が学んだ「青龍寺」や日中協力による「唐朝芸術博物館」など。市内・郊外の旧跡は記す余地がないほどである。 

「歴史都市としての経験を活かして、新しいものの創造・蓄積・継承を」という京都市のリーダーシップは、八七年に始まった「世界歴史都市会議」(二六都市が参加)にいかんなく発揮されている。九四年の第四回会議を主宰して発展的に改組し、「世界歴史都市連盟」を設立した。事務局は京都市に置かれ、会長は京都市長が務める。七六都市が参加(〇八年六月)。第一二回の二〇一〇年には奈良市でおこなわれる。歴史都市が直面している課題の解決にむけての情報交換や共同研究をおこなうもので、日本は奈良と京都、中国は西安、成都、南京、鄭州が参加している。これまでの会議は西安のほかにフィレンツェ、バルセロナ、クラクフ、モンペリエ、モントリオールなどでも開かれている。

 提携三〇年にあたる二〇〇四年には、西安で「中日韓友好都市書法篆刻交流展」が開かれた。また京都市内の学生による「二一世紀の遣唐使」が訪れて、西北大学での交流や現地企業の就労を体験した。両市は文字通りの「温故知新」を実践する未来志向の歴史都市同士である。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-千年交流史に新篇を加える

千年交流史に新篇を加える

奈良市と西安市(陝西省)

西安市と奈良市ほどに長く深い文化交流の絆でむすばれた友好都市は他にないだろう。長安が盛唐から中唐にかけての都であったころ、八世紀には奈良が平城京としてこの国の都であった。玄宗や楊貴妃や李白や杜甫と聖武天皇や大伴家持や山上憶良の時代であった。遣唐使、留学生、留学僧ほか名の残らなかった多くの人びとがそれをつないだ。関わった人びとは去ったが、東大寺、薬師寺、唐招提寺といった建造物や数々の国宝級の文物は、古代の人びとの熱い交流の息吹きを伝えていまも新しい。

西安との友好都市へむけて、奈良市はすでに一九六九年三月には、西安市革命委員会主任(市長)あて親書を送り、のち書簡や要請書を重ねて提携への熱意を示した。七二年一〇月に奈良を訪れた中日備忘録弁事処の肖向前首席代表や七二年一二月には北京の中日友好協会の廖承志会長あてにも早期実現を依頼している。

そして七四年一月末に鍵田忠三郎奈良市長を団長とする奈良市訪中友好代表団が西安を訪れて、二月一日、西安市大講堂に集った千余の各界代表を前にして奈良市と西安市の友好都市宣言式が行われたのだった。

孫長興西安市革命委員会主任(市長)は、
「悠久の歴史を持つ西安と奈良が正式に友好都市関係を締結する」
と、力強く宣言した。代表団を率いて訪れた奈良市の鍵田忠三郎市長は、
「一二五〇年前より厚い友好と深い交流に結ばれ、西安市の皆さんには強い友好の心を持っている」
とあいさつし、熱烈な拍手の中で錦旗を交換した。

西安市は、中国中西部の中心都市である。都になったことのある中国八大古都のひとつで、秦・漢、隋・唐など六王朝一〇政権が建都した。とくに唐代の長安は世界に輝く文化都市であった。明代になって西安と改名し、現在残る城壁はそれ以降のものである。市章には玄奘三蔵にちなむ大雁塔がデザインされている。八七年に秦始皇帝陵が世界遺産に登録され、訪れる観光客は多い。人口は約七四二万人。

奈良市は、七一〇年の平城京建都から七九四年の平安京遷都まで奈良時代の都。民族のふるさと「やまとのまほろば」と呼ばれる。一九八八年の市制九〇年には「なら・シルクロード博」が開かれ、九八年の市制一〇〇年には「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録された。「世界遺産に学び、ともに歩む」という国際文化観光都市へのまちづくりをめざす。人口は約三六万人。

友好都市提携後の両市の交流は、友好旗に「千載友誼續新篇」とあるように、各界で新たな成果を重ねている。市職員の交流はもちろん、「阿倍仲麻呂記念碑」の建立や「シルクロード国際マラソン城壁大会」への参加、「日中友好都市交流奈良会議」(第一回が九四年)、文物展、映画祭、民族芸術団・雑技団公演、書画展とつづく。さらに気功、鍼灸、調理、囲碁など身近な暮らしの分野にも幅広く及んでいる。

安倍仲麻呂らと共に唐に渡り、七三四年に客死したとされる井真成の墓誌が帰国し話題になった。「愛・地球博」のあと「遣唐使と唐の美術」展として東京と奈良の国立博物館で展覧された。

また両市と韓国の慶州を結ぶ「姉妹三都市体育大会」が九月に奈良で開かれたが、日中韓三国三市の友好交流は新たな方向を示すものとして注目されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-湖の恵みを知る開放都市

湖の恵みを知る開放都市 

彦根市と湘潭市

両国を代表する湖といえば、琵琶湖と洞庭湖。

琵琶湖のある滋賀県と洞庭湖をもつ湖南省という「湖の恵み」を知る者同士が友好省県になったのは、一九八三年三月のことだった。
両省県の友好提携の調印式は、琵琶湖の遊覧船「ミシガン」の船上でおこなわれた。
その後の市町村レベルでの友好提携として、「湖東の中核都市」彦根市と「湖南の名鎮」湘潭市とがつづいた。

唐代から一三〇〇年余の歴史を誇る湘潭市から、彦根藩井伊家の城下町として歴史を刻んできた彦根市へ提携の希望が伝えられたのが八六年であった。それから相互交流がはじまった。とくに八七年の「彦根世界古城博覧会」に、湘潭市で発掘された殷代の「青銅豕尊」(豚の形をした酒器。重点保護文物)の出品を得たことで、両市の信頼が深まり、市民の間に関心が広がった。

そして九一年一一月一日、彦根市へ湘潭市の範多富市長ら代表団を迎え、獅山向洋市長との間で、友好都市提携の調印式がおこなわれた。

湘潭市は、湖畔ではないが、洞庭湖へと注ぐ湘江に面した水運の中継地であり、「金湘潭」と呼ばれるほどに商業で栄えた。現在は工業都市化に力を入れている。省都の長沙からは南へ四〇キロ。北京―広州と上海―昆明の交通路が交差する通運の拠点であり、「開放的湘潭」をめざしている。毛沢東主席の生地である韶山には、故居や記念館がある。人口は約二八〇万人。

彦根市は、国宝彦根城を擁する国際観光モデル都市である。江戸の息吹きを町並みや四季の行事に織り込みながら、「異文化が交流し、世界に開かれたまち」をめざしている。外国語の案内板や広報紙の発行、ボランティアの育成を進め、三〇余カ国の人びとが暮らしている。人口は約一〇万人。

主な友好交流活動に、市代表団の相互訪問、国際交流員や研修生の受け入れ、中学生の交流、書画展、湘潭市での「毛沢東生誕一〇〇年記念事業」(九三年)や「斉白石国際文化芸術祭」(〇四年)への参加などがある。
二〇〇一年一一月に、彦根市で開かれた一〇周年記念式典は、新世紀の交流を協議する場となった。文化と経済、そして中学生の相互交流など「友誼長存」のために教育に重点を置くこととなった。

記念式典での湘潭市児童芸術団の歌舞公演は、彦根市民のあたたかな共感で迎えられたが、日本の福笑いに興じ、給食に戸惑い、ゴミ分別システムに驚く団員の感想もまた率直だった。教育を大切にする両市の交流の成果が期待される。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-同年の大災害を克服

同年の大災害を克服

酒田市と唐山市 

一九七六年一〇月二九日の夕、酒田市「中町銀座」の映画館から出た火の手は、折からの西寄りの強風にあおられて繁華街へと燃え広がり、火の波となって住宅地へと押し寄せた。酒田の夜空を焦がして一一時間にわたって燃えつづけた「坂田大火」は、一七〇〇余棟を焼き尽くして新井田川の右岸で止まった。市民は寒風にさらされながら恐怖の夜を過ごしたのだった。

それより三カ月前の七月二八日未明、河北省唐山市付近を震源とする地震は、北京、天津など首都圏の住民をも恐怖の底に引き込んだ。マグニチュード七・五。震源に近い唐山市では煉瓦や石組みの家々が倒壊し、阿鼻叫喚の巷と化した。瓦礫の下敷きになるなどで市民約二四万人(死者一四万八〇〇〇人)が被災するという、世紀最大の惨事となった。「自力更生」による復旧を指示した毛沢東主席が九月九日に亡くなるなど、中国激震の年でもあった。

災害から一四年、酒田市は「燃えない町」を、唐山市は「地震に強い町」をめざして復興を果たしつつあった九〇年七月二六日、唐山市の陳立友市長と酒田市の相馬大作両市長が酒田に会して、友好都市締結の調印がなされた。酒田地区日中友好協会も数次の訪中団を送って友好都市の成立に尽力した。

唐山市は、北京市の東約一八〇キロ、人口は七〇四万人。電力、セメント、鉄鋼といった重工業や陶磁器の生産が盛んである。農産物では栗が有名で、天津から天津甘栗として輸出されている。遵化には「清朝皇帝陵墓群」がある。

酒田市は、人口約一〇万人。日本海に臨み、最上川の河口に開けた港町である。江戸時代には「西の堺、東の酒田」といわれ、廻船問屋の鐙屋や「本間さまには及びもないが」と豪勢さを詠われた本間家の旧本邸がいまも残る。八〇〇〇羽を超える白鳥の飛来は冬の風物詩になっている。

友好交流提携の一〇周年に当たる二〇〇〇年五月には、阿部寿一市長ら代表団が唐山を訪問して、張和市長と会談した。両市は代表団の交互訪問、農業技術、文化・スポーツ・青少年、消防などの交流に加えて、酒田―京唐港を生かした物流の発展も検討し、記念に桜の植樹をおこなった。

大災害の克服に発揮された市民の結束力は、酒田市では防災地域・公園の整備、そして「がんぎ型」を一新した「セットバック方式」の「中通り商店街」などを誕生させた。唐山市では地震予知や耐震建造物の研究、地震に関する国際会議などが行われている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-「龍馬精神」が生きる街

「龍馬精神」が生きる街

高知市と蕪湖市  

地上一三・五メートル、桂浜の龍頭岬に立つ坂本龍馬像は、はるか太平洋のかなたを見据えて立っている。龍馬が背にしているのは四国山地ではなく日本国である。高知には坂本龍馬とともに、伝説中の駿馬のもつ旺盛壮健な「龍馬精神」が息づいている。先見性のある行動によって拓く二一世紀のまちづくり「龍馬都市一〇の理念」にも、「協調と平和の精神で世界とふれあう国際交流を進める」と謳っている。

新世紀の初め、二〇〇一年四月に高知市は、「築城四〇〇年祭」を記念して、「高知サミット」を開催した。海外と国内の姉妹・友好都市の五市長ら代表者が一堂に会して、それぞれが取り組んでいる特徴のあるまちづくりを語り合い、交流を通じてお互いの発展を誓う「高知サミット宣言」を発表した。子どもたちによる「伝統芸能公演」は、民族のもつ表現の豊かさを伝え、明るい未来を思わせた。中国からは蕪湖市が参加した。

高知市と長江下流域の水運都市蕪湖市との友好都市提携の調印式は、高知市の市制一〇〇年を前にした八五年四月一九日に高知市で、趙衡蘧・横山龍雄両市長の間でおこなわれ、四国では最初の日中友好都市提携となった。

蕪湖市は、上海から三〇〇キロほど長江をさかのぼった南岸に位置する安徽省南部の都市である。一万トン級の船が出入りし、四〇余の国と地域と繋がっている。農産・漁獲は豊か。名刹広済寺と中江塔で知られる。人口は約二一五万人。

高知市は、慶長六(一六〇一)年、関が原の戦いに勲功のあった山内一豊が封じられて入国し、築城してから四〇〇年、南国土佐の城下町として栄えてきた。明治二二(一八八九)年に市制に。幕末の坂本龍馬はじめ、明治民権運動の板垣退助、中江兆民、科学者の寺田寅彦、牧野富太郎などを輩出している。夏の「よさこい祭り」は有名である。人口は約三二万人。

提携後の友好交流は教育、環境、港湾、新聞、中小企業、観光、茶道などの分野に及び、とくに書道交流は提携記念交流展以来、隔年に双方で開かれている。九三年には蕪湖市鏡湖畔に「蕪湖・高知友好会館」が完成した。経済技術開発区には、エアコンの日立家用電器や刃物製造の蕪高産業などが進出している。 

 二〇周年に当たる二〇〇五年五月には、蕪湖市から代表団を迎え、記念式典のほか「蕪湖展」や「書道交流展」を開催した。高知市内の「蕪湖園」には「一衣帯水」モニュメントが寄贈された。(二〇〇八年九月・堀内正範)