らうんじ*茶王樹*「百齢眉寿」


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「百齢」は
百歳のこと。
大正元年(一九
一二)生まれの人が
ちょうど百歳である。
わが国では百歳以上の人が
五万人を超えてなお増えつづけており、
いかに史上稀な長寿国であるかが知られる。
「人生七十古来希なり」といわれ、七〇歳が
長寿の証とされてきた。とすれば百歳ははるか遠い願望だったろう。
「眉寿」は長寿のこと。老齢になると白い長毛の眉(眉雪)が生えて特徴となる。
同じ唐の書家虞世南は「願うこと百齢眉寿」(琵琶賦)と記して百歳を願ったが、
八〇歳を天寿として去った。「七十古希」の杜甫は五九歳だったから、
長寿への願望は遠くに置いたほうがいい。
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「百齢眉寿」
20120209

四字熟語-美意延年 

美意延年 

びいえんねん

情意がのびやかであればみずからの人生を楽しめるばかりでなく、周囲のみんなの歓びも合わせることができ、寿命を延ばすことができるというのが「美意延年」である。新年にふさわしい賀辞のひとつ。

思えばこの国でみんなが長寿を得たのも、長らく大きな震災も戦災もなく、誰もが等しくよく働いて衣食足りた日々を楽しんで過ごしてきたからだろう。

安徽省亳州市譙城は、曹操のというより「鶴髪童顔」で百寿をすごした神医華佗の故郷であり、千年白酒・薬材の郷ともいわれる。
汚染源がなく空気も水も清らかで、みんなよく働いたから身体は丈夫、性格は朗らかで楽観的、素食だが多種類をとって早寝早起き。武術もさかんで太極拳、舞刀、健美体操なども暮らしに欠かせない。区政府も尊老、愛老、助老活動に熱心で、百歳になると毎月三〇〇元の健康保健金がもらえる。中国老年学会が「中国長寿の郷」に認定したのも納得がいく「美意延年」の息づく城市である。 

『荀子「致仕」』から 

 

四字熟語-松柏之茂

松柏之茂

しょうはくのも

他の植物が葉を落として新年を待つのに、松と柏は寒中にも葉を緑に繁らせて長寿であることから、「松柏の茂」は衰微せずに不変であることに例えられる。

この柏は日本のカシワではなく和名コノテガシワ(児の手柏)のことで常緑樹。カシワは落葉するので一見すれば違いがわかるのに、なぜか先人は柏の字にカシワを当ててきた。わが国に老樹は多くないが、東京・国分寺市の祥應寺で樹齢六〇〇年を超える大樹をみることができる。

実は南京の老樹「六朝松」が柏であるなど、中国でも松と柏をわけずに用いてきた例は多い。旅先で「古老柏」に出会う。中岳嵩山の嵩陽書院内には漢の武帝によって将軍に封じられた「将軍柏」がいまも傾きながら雄姿をみせているし、山西省太原市の晋祠や高平市には三千年柏もある。

先人は松柏に託して長寿を願ってきた。「松柏の茂」は堅固で厳しさに耐える品格を評することばとして、二千年傾くことなく故事成語の林に立っている。 

『詩経「小雅・天保」』など

四字熟語資料 動物に関する四字熟語

うさぎ

狡兎三窟 こうとさんくつ

ずるがしこい兎は三つの隠れ場所を持っているというのが「狡兎三窟」(*1)である。ずるがしこいといわれようと、強者の多い原野で、とくに武器になるような器官をもたない弱者である兎が難を逃がれて生きていく道は、危機察知能力とすばしっこいことと三つの隠れ場所を持っていることにある。そのうちのひとつは子育てのためのようだが。戦国時代斉の孟嘗君の食客のひとり馮諼(ふうけん)は、「狡兎三窟ありてわずかにその死を免るるのみ」といい、君が高枕をして臥すためには、あと二窟をつくりなされと説いて、他の二策を用意するよう勧めた。「二兎を追うもの」は六窟を相手にするのだから、一兎をも得られない結果になってもいたしかたがないだろう。

*1『戦国策「斉策」』から。

「狐兎之悲」「兎走烏飛」「守株待兎」「兎死狗烹」

 ねずみ・ねこ

猫鼠同眠 びょうそどうみん 

猫と鼠がいっしょに眠る「猫鼠同眠」(*1)というのはありえない情景だから、このことばはネコに問題があることを示唆していることに注意しよう。たとえば不正を働いた部下を見つけたら、通常なら罰しなければならないはずの上司や管理者が、何もしないで見過ごしたり、いっしょになって不正に荷担するなどがそれ。犯人を捕えなければならない警察官が犯人を捕らえられないこともまたその類ということになる。各代王朝の後退期には「猫鼠同眠」といった情景はいくらでもみられた事象だったことが想定される。一方に、鼠を見て捕らえないのは猫の「仁」であり、鼠が食を奪うのに譲ってやるのは猫の「義」であるとする猫擁護派の意見もある。

*1『金瓶梅「七六回」』など。

「看猫画虎」「目光如鼠」「鼠雀之輩」

 いぬ

桀犬吠尭 けつけんぼうぎょう  桀犬尭に吠ゆ 

禹が開いた夏王朝を滅亡させてしまったのが桀王。次の湯が開いた商・殷を滅ぼしてしまったのが紂王。ふたり揃えて「桀紂」といえば、暴虐非道の君主の例とされる。一方で尭と舜と禹は、人民とともに仁政を尽くした聖君主の例とされる。だから「桀犬尭に吠ゆ」(桀犬吠尭。*1)というのは、桀のような暴君の飼い犬が、尭のような聖人に向かって、時代を飛び越えて吠えかかるということになる。悪玉の大盗の跖の犬が、「跖狗尭に吠ゆ」(跖狗吠尭。*2)というのもある。犬は飼い主の善し悪しにかかわらず、ひたすらに主人のために吠えかかるということなら、「尭犬桀に吠ゆ」もあっていいのだが、こちらではあたりまえすぎて用いる場がない。

*1『晋書「康帝紀」』など。 *2『戦国策「斉策」』から。

「鷹犬塞途」「犬馬之労」「喪家之狗」

にわとり

鶴立鶏群 かくりつけいぐん

鶏の群れの中に、背が高く首が長く真っ白い鶴が混じって「鶴立鶏群」(*1)であれば目立つには違いない。が、鶴は鶏群に混じるより飛び去ってしまうだろうから、実見してのことではあるまい。風姿や才能が他に抜きんでて際立つことにいう。「竹林七賢」のひとり嵆康のむすこの嵆紹が、はじめて都の洛陽に入ったのをみた人が、これも竹林七賢のひとり王戎に「昂昂然として野鶴の鶏群に在るがごとし」(*2)といったことからといわれる。「君はあれの父を知らないからね」と王戎は答えているが、鶏群には居らず独立不羈だった嵆康の姿を対置しているように思える。「鶏群之鶴」(*3)ともいう。

*1耶律楚材『湛然居士文集「和景賢十首」』など。

*2『晋書「忠義伝・嵆紹」』から。 *3梁紹壬『論交十六首「其七」』など。

「鶏鳴狗盗」「牝鶏無晨」

 うし

対牛弾琴 たいぎゅうだんきん

 牛に向かって琴を弾ずるのが「対牛弾琴」(*1)で、やってみたものの結局は徒労無効の営為だったということになる。公明儀は、牛に正調の音楽を弾いて聞かせたところ、牛が伏して食べているようすはもとのままだった。牛が聞かなかったのではなく、正調の音楽が牛の耳に合わなかったからだという(*2)。人間の尺度で説法をされたり音楽を聞かされて、まるで分からないといわれるのは牛や馬にとっては迷惑なことだ。牛が聞いて喜ぶような音楽をつくってやってみなければわかるまいというのが、このことばの原意である。熊は踊るようだが、牛耳にやさしい演奏を聞けば腰を振るに違いないのである。

*1普済『五灯会元「惟簡禅師」』など。*2牟融『理惑論』から

 「牛刀割鶏」「汗牛充棟」「鶏口牛後」

 うま

老馬識途 ろうばしきと 

馬は往きの路をよく覚えていて、主人が疲れたり泥酔したりして馬上や馬車で寝込んでしまっても、路を間違えずにもどってくる。だから酒酔い運転の心配もない。「老馬識途」(*1)である。春秋時代に、斉の桓公の軍が春に遠征をし、冬に帰国するということになった。帰国の途上で行軍の道に迷った時、管仲が「老馬の智は用いるべきなり」(馬は道をよく知っていて迷わない。まかせましょう。老馬之智。*2)といって老馬を放ち、その後に従って国に戻ることができた。老馬にしてしかり、高年社員や引退社友が持っている知識や経験は、困ったときには大いに用いるがいい。わが社の「老馬之智」は、求めて学び継いでいくべきものであろう。

*1文康『児女英雄伝「一三回」』など。

*2『韓非子「説林上」』から。

「走馬看花」「龍馬精神」「伯楽相馬」

さかな

太公釣魚 たいこうちょうぎょ

周初に文王に求められ、子の武王を補佐して殷の紂王を倒した功臣である太公望(呂尚)は、かつて渭水の北で釣りをしながら賢君(文王)の招請を待っていたという。終日糸を垂らして一匹も釣れなかったのは、餌もつけず水面から三尺も離れて糸を垂れていたからだが、呂尚はいう、「魚は求めて針にとびついてくるものだ」(*1)と後世の話には尾ひれがつく。「太公望」と呼ばれるのは「わが太公(父)、子を望むこと久し」(*2)という人物であったことから。「太公望」は、釣り人の代名詞になっているからよく使われるが、自称「太公望」なら、釣果はともかく、語りかけてくる人には穏やかに接するくらいは心得ておこう。

*1『武王伐紂平話「中巻」』から。 *2『史記「斉太公世家」』から。

「沈魚落雁」「縁木求魚」「水清無魚」

 はえ

蝿頭微利 ようとうびり

蝿の頭ほどのちっぽけな利益ということ。日本で少量をいう「雀の涙」は中国では使わない。また狭小な土地に対して「猫の額」というのも聞かない。少量を代表するのは「蝿頭蝸角」(*1)である。つまり蝿の頭と蝸牛の角は身近に見られて小さくて気になるものだからであろう。いずれも猫の額よりは微小なことになる。だから「蝿利蝸名」(*2)ということになると、ともにささやかな利益と名声を得ること。宋の蘇軾は「蝸角虚名、蝿頭微利」(*3)といって名声も利得もまとめて突き放している。会話では「蝿頭小利」ともいう。狭小な土地については「弾丸之地」(*4)や「弾丸黒子の地」がある。

*1 趙師侠『水調歌頭「和石林韵」』など。 *2盧炳「念奴嬌」など。*3 蘇軾「満庭芳」から。 *4『戦国策「趙三」』など。

「蠅声蛙噪」「蠅糞点玉」

 りゅう・とら

葉公好龍 しょうこうこうりゅう  葉公龍を好む 

春秋時代の楚の葉公(しょうこうと読む。地名)沈子高は、龍を愛好することで知られ、その屋内は龍の画や彫りもので満たされていた。それを聞いて本物の龍が天から下りてきて堂内を窺ったところ、葉公はキモをつぶし魂を失って逃げ去ったという(*1)。表向きは愛好しているようにみえて、実際には名ばかりの愛好家であったという話。楚の葉公は、孔子の弟子の子路に師の人となりを問い(*2)、孔子と問答をしているが、龍くらい歓迎しそうな鷹揚な楚の重臣である。政治について孔子に問い、「近き者は説(よろこ)び、遠き者は来たる」(*3)という答えを引き出している。

*1劉向『新序「雑事五」』から *2『論語「述而」』 *3『論語「子路第一三」』から

「龍争虎闘」「龍潭虎穴」「画龍点睛」「虎視眈眈」「龍頭蛇尾」

 

友好都市・歴史が絆-六〇年余戦禍を語り継ぐ

六〇年余戦禍を語り継ぐ

広島市と重慶市 

一九四五年八月六日午前八時一五分、広島市細工町の上空五八〇メートルで、人類史初の原子爆弾が炸裂、熱線、爆風、放射線は一瞬にして多くの市民を殺傷し、街を廃墟とした。傷ついた市民は肉親の姿を求めてさまよった。この一発で約三五万人が被爆し、四五年末までに約一四万人が死亡したといわれる。この未曾有の惨状を現出したのは、米軍B29エノラ・ゲイ号による無差別爆撃であった。

中国の臨時首都であった重慶市の中央放送局は、八月一〇日午後六時、「日本無条件投降」の重大ニュースを放送した。日本軍による空爆の恐れがなくなった重慶の街は沸騰し、市民は歓喜の声をあげて屋外へ繰り出し、街にあるかぎりの爆竹を鳴らして戦争終結を祝ったのだった。 

しかし、米国大使の仲介で八月二八日に延安から重慶に着いた毛沢東・周恩来と、蒋介石との溝は埋まらず、さらに四年にわたる国共内戦がつづくことになる。

大戦後、平和を希求する人々の要請が、両市を引き寄せていったといえよう。八〇年には広島市議訪中団が重慶市を訪れた。八四年には重慶市で「現在の広島」写真展と「原爆ポスター」展を開催する。そして八五年八月に広島市で開かれた「第一回世界平和連帯都市市長会議」(現平和市長会議)には、重慶市の肖秧市長が出席した。八六年五月には、荒木武市長ら広島市代表団が重慶を訪れた。

そして八六年一〇月二三日、重慶市代表団を迎え、荒木市長と肖市長が友好都市提携の協定書に調印した。他にも増して大きな戦禍を蒙った両市提携の意味は、
「この提携はアジア、世界の平和に貢献することを確信する」
という荒木市長のあいさつに込められて、両市を越えて両国の国民の間に伝わった。肖市長も、

「両市、両国の人々の幸福、平和のために、協定書の精神を守っていきたい」

 と述べた。友好交流都市提携を記念して、広島市からは「平和の鐘」が、重慶市からは彫塑像が贈られることになった。また広島市からキリン二頭、フラミンゴ一六羽が、重慶市からレッサーパンダ三匹が、動物大使として交換された。記念植樹には、白モクレンが市役所の緑地帯に植えられた。

両市の友好交流は、平和市長会議への重慶市代表の参加、平和の絵コンクールへの重慶児童の応募など「平和」を軸に多分野に及び、近年は酸性雨研究や環境保全、市立病院の交流、さらには自動車関連など経済交流にも取り組んでいる。

重慶市は直轄市のひとつ。長江上流で最大の商工業都市である。南宋の趙淳が王になり、その後に皇帝についたことから、二重の喜びを意味する「重慶」と呼ばれるようになった。人口は約三一〇〇万人。上流の三峡ダム建設で新たな時代を迎えようとしている。  

広島市は、人口約一一五万人。一五八九(天正一七)年、毛利輝元が海陸路交通の要衝の地に築城し、広島と命名した。近代の日清戦争(一八九四年)には大本営が置かれ、また高等教育機関が設けられて、軍都、学都として知られた。

被爆から六〇年、核兵器廃絶への道は進まない。原爆犠牲者を追悼し、「核兵器廃絶」と恒久平和を願って八月六日に開催される平和記念式典では、二〇〇五年、「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切る「希望」を掲げて新たな道へと踏み出した。二〇〇六年は二〇周年に当たった。広島友好訪問団(団長秋葉忠利市長)が一〇月二三~二七日まで重慶市を訪問して王鴻挙市長と協議、世界恒久平和への貢献と友好都市関係の強化に関する覚書を交わした。あと「広島園」近くの公園内に「常緑と永遠の友情を表わす」松の木を植樹した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-小学校交流から友好区へ

小学校交流から友好区へ

東京都北区と北京市宣武区
北京市城内は四つの地区に分かれている。北側半分は政治の中心となる区域で、故宮をはさんで西城区と東城区。それに対して南側半分は庶民が暮らす区域で、西に宣武区と東に崇文区がある。

北京オリンピックのマラソンで天安門前のスタート地点から少し東に走って南に折れて天壇公園を通過してもどってきたが、あのあたりが崇文区である。もどって今度は西長安街を西に走って右折して北京動物園を通過したが、あのあたりが西城区である。北京大学や清華大学は西北郊外で、ゴール地点の「鳥の巣」は北の郊外ということになる。

だからここに取り上げる北京市第一実験小学校のある宣武区は走らなかったし、競技会場もなかったから、五輪の影響が最も少なかった地区ということになる。穏やかな北京が戻ってくれば、和平門の南、骨董のまちとして有名な瑠璃廠文化街のあるところだから、文化的な賑わいが戻ってくるだろう。瑠璃廠のすぐ北に、北京第一実験小学はある。

一九一二年に北京高等師範学校附属小学校として創設され、九〇年余の歴史を持つ。北京第一実験小学となったのは解放後の五五年。周恩来夫人で全国政協主席だった鄧頴超さんが初の女性教員として務めていたことでも知られ、「鄧頴超教師奨励金」が設けられている。「全面育人」の先進学校であり、「北京第一実験小学教育叢書」を出版している。余暇活動では紅十字活動にも力を入れている。

王子小学校のある東京都北区は、その名のとおり東京都の北部に位置して、荒川を隔てて埼玉県と接している。飛鳥山は江戸時代に享保の改革で桜を植えて行楽地としたことから、江戸庶民が訪れる景勝地となった。一九一一年には王子電車(今も残る都電荒川線の前身)が開通し、二三年の関東大震災のあとに都市化が進んだ。 

王子小学校は一八七四(明治七)年に荒川学校として開校し、八四年に王子小学校に改称。戦後の四七年に北区立王子小学校となり、二〇〇四年には創立一三〇年を迎えた。青少年赤十字(JCR)活動は四〇年を越えてつづき、奉仕・国際理解の伝統は親子二代に受け継がれている。また国語教育のための「ことば・きこえの教室」で知られる。

 一九八五年七月に、由緒のある両小学校校の交流が正式に決まり、関係者の往来や絵画や書の交換が始まった。それをきっかけに荒川区議会の調査団や区民の友好交流が進み、九三年四月二二日、宣武区友好代表団を迎えて、北本正雄・劉敬民両区長の間で友好交流と協力関係の合意書の調印が交わされたのだった。

それ以後、両区の間では文化、スポーツ、青少年、環境、女性など、大都市が共有する課題について交流は幅広い分野でおこなわれている。

学校交流をはじめ、両区の市民交流に関わってきた丸山典義さんの活動を忘れるわけにいかない。九四年八月には小学生の野球チーム「王子ドルフィンズ」を率いて親善交流試合を成功させ、それ以来、子どもたちの出会いの場も作った。また不動産のしごとがら多くの留学生の面倒もみた。「青少年の間にまかれた友好の種」は将来かならず実となることを丸山さんは確信している。

二〇〇四年には、協定締結一〇周年を記念して区長を代表とする友好代表団を相互に派遣して、次世代を担う子どもたちを中心にした交流を推進することを確認した。二〇〇五年九月には「北京第一実験小学校管楽団」(四四人)が交流に訪れた。紅葉中学校吹奏楽部との交流演奏会などをおこなった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-同名都市である親しみ

同名都市である親しみ

南陽市と南陽市(河南省) 

山形県南陽市は、一九六七年四月に二町一村が合併して誕生した。命名にあたって、当時の安孫子藤吉県知事が、「北に丘陵、南に沃野で住み良いところ」という土地柄から、「南陽市」を提案した。

中国の内陸中央部の河南省にあって、長命の霊水「南陽の菊水」(この水を飲むと上寿は百二十、中寿は百余といわれる寿命が得られる)が流れる歴史都市である南陽市と地形が類似していることも紹介されたのだった。

その後、「中国南陽市を訪問する会」(二三人)が八四年に初訪問したことから本格的な交流がはじまり、八五年には南陽市日中友好協会が設立された。八七年「市名発祥の地友好訪問・南陽市民のつばさ」(三〇人)が訪問し、技術研修生の受け入れを確認した。

そして八八年一〇月六日に、大竹俊博市長を団長とする友好代表団を送って、李宝興市長との間で日中の同名都市「南陽市―南陽市」の友好都市締結を果たしたのだった。

河南省南陽市は、中国の中央部にあって河南省西南地域の中心都市である。東部、北部、西部は山に囲まれ、南部は湖北省の襄樊市に通じる広大な盆地になっている。襄樊市を流れる漢水に合流する支流の白河に南面することから、「南陽」と名づけられた。 

西暦二五年に後漢王朝を建て、五七年に都の洛陽で倭の奴国からの遣いに面謁した光武帝劉秀の生地である。また三国時代には南陽のすぐ南にある新野の小城で「脾肉復た生ず」を嘆いていた劉備玄徳が、「三顧の礼」を尽くして諸葛孔明を得た(二〇七年)ことを記念する「武侯祠」がある。漢代の画像石刻が集中出土している歴史文化都市で、人口は一市二区一〇県を管轄して約一〇二六万人。面積、人口とも河南省で最大の都市である。

山形県南陽市は、県南部に位置し、北に丘陵、南に沃野が広がる田園都市である。特産はぶどう、さくらんぼ、ラ・フランス、りんご、ワインなど。一八七八(明治一一)年、英国人旅行家イザベラ・バード女史が東北、北海道を旅した際に、「東洋のアルカディア(桃源郷)」と評した置賜盆地に位置している。四季の自然に恵まれた資源を活かしながら、生活環境や社会資本の充実にじっくりと努めていくと荒井幸昭市長も述べている。

開湯九○○年の伝統がある赤湯温泉や宮内熊野大社が有名。心やさしい農民の民話「鶴の恩返し」が伝わる鶴布山珍蔵寺や「夕鶴の里資料館」、国指定史跡の稲荷森古墳など伝統と歴史を引き継ぐ。その一方で、国際的ハングライダー基地「南陽スカイパーク」もある。秋を彩る「南陽の菊まつり」でも知られる。人口は約一万八〇〇〇人。

 両市の主な友好交流は、両市がそれぞれに内陸だけに急速には進みづらいが、市の友好代表団の相互訪問をはじめ、語学・農業・縫製・電子・食品加工・製靴といった生活分野の技術研修生の受け入れ、胸部検診車の寄贈など仔細に地道に行われている。

文化面では、「中国南陽古文化展(恐竜の卵も展示した)」や「日中両南陽市書画交流展」、烙画箸(菜箸・五周年の記念)の全世帯配布もおこなった。スポーツ交流では日中友好協会主催の「日中友好都市交歓卓球大会」(九○年の第一回以来)、「南陽―南陽」チームとして参加している。そのほか市卓球協会が選手を送って、両市対抗卓球大会を催すなど、民間交流の一翼を担っている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-歴史都市の「草の根交流」

歴史都市の「草の根交流」

宇治市と咸陽市(陝西省)  

京都市と西安市が日中両国を代表する歴史古都同士として、一九七四年にはやばや友好都市となり、その後、八三年には京都府と陝西省とが友好省府となった。そのあとを受けるようにして、お互いの第二番目の都市であり、類似した立地条件を持つ、宇治市と咸陽市とが結ばれる契機が次第に熟していった。 

咸陽市は、渭水のほとり、西安からは北西へ二五キロの至近距離にある。周代から秦までは咸陽が中国西北地区の中心であった。とくに東方にあった先進国の六カ国(戦国六雄)を滅ぼして天下統一を成し遂げた始皇帝は、ここに安房宮を造営して巨大都市となったが、項羽によって焼き尽くし破壊されたという。項羽に勝利した劉邦は、咸陽郊外の長安を新たな都としたため、さらに隋・唐代になると長安(西安)へと中心が移ったため、その後の発展はなかった。旧跡も多く、漢武帝の茂陵、唐太祖の昭陵などの漢、唐代の皇帝陵はこの周りに集中している。漢代兵馬俑坑が発掘されている。秦の始皇帝兵馬俑ほど大きくはないが、漢代独自の時代性が対比されるもの。明代の孔子廟跡を利用した咸陽博物館は、市域での優れた発掘品を展示している。市域に国際空港が開設されており、その縁で成田市とも友好都市になっている。人口は約四八〇万人。

宇治市は、宇治川のほとり、水陸路交通の要衝で風光明媚な地であったため、上代には貴族の荘園、別業地となった。
文化遺産の代表格は、世界文化遺産にも登録されている平等院鳳凰堂である。『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台として、また室町時代以来の宇治茶の産地としても知られる。隠元禅師にちなむ満福寺、道元禅師にちなむ興聖寺など、禅宗の名刹がある歴史文化都市である。人口は約二〇万人。

両市の友好都市提携は、八六年七月二四日、宇治市に咸陽市の代表団を迎えて、市文化センターで池本正夫市長と祝新民市長が協定書に調印して成立した。双方が持つ歴史都市としての特徴を活かした交流が期待された。その後、両市長は市民広場の公園の一角で、宇治市の木であるイロハモミジの記念植樹をおこなった。

両市の主な友好交流には、市の友好訪問団の相互訪問や職員交換事業、学校提携。空手、気功、太極拳といった武道競技のほか、青少年の卓球、野球、サッカー、児童絵画展。マイクロバスやピアノの寄贈など。

多くの市民が自主参加し、宇治日中友好協会が進めてきた交流事業に、「咸陽の子どもたちに本を贈る」運動と「友誼小学校」の建設がある。本の贈呈のほうは、九六年から五〇余校に二万冊を届けた。学校の建設のほうは、淳化県に「寨子宇治友誼小学校」を建設し、内陸の貧しい農村の教育施設を支援してきた。贈る会の「会報」には子どもたちの喜びの手紙や写真が紹介されている。 

また二〇〇一年の提携一五周年の記念事業として、「黄土高原植林緑化事業」を開始し、永寿県の林業組合とともに五年間の目標とした一五〇ヘクタールの植林を完了した。この事業もまた募金活動など、宇治市市民の「草の根交流」の成果である。

両市の友好交流は、〇六年に二〇周年を迎えた。「経済格差の中で取り残されている内陸の貧しい農村の実情を見聞するとき、まだまだ宇治市民の手を差しのべてゆかねば」と、宇治日中友好協会会長で宇治御茶師の後裔である上林春松さんはいい、市民に協力を訴えつづけている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-景観を誇る湖と歴史古跡

景観を誇る湖と歴史古跡

大津市と牡丹江市(黒竜江省)  

 この国の新たな時代への胎動期であった六六七年、天智天皇は、大和飛鳥宮から「志賀大津の宮」を造営し遷都している。同じころ、海を隔てた中国東北地区の現在の牡丹江市南の寧安には、唐の長安を手本にして渤海国の都城、上京龍泉府が造営され、その後、七世紀末から一〇世紀にかけて栄えたという。

かつて同じころの都城であり、そして牡丹江市には琵琶湖と形状がよく似ている鏡泊湖がある「水の都」であることも、両市の友好を深める機縁となった。 

両市を結んだのは一九八三年五月のこと、大津市との友好関係を期待しているという牡丹江市の意向を伝える一通の書簡であった。牡丹江市黒龍江商学院の曲更非教授から送られてきたものだった。そこで大津市は、市の大要をまとめた資料を曲氏を介して牡丹江市へと送った。牡丹江市からは提携を結びたい旨の返信が届き、またそのころ訪日したチチハル市の都市建設団からも直接に希望が伝えられた。

琵琶湖をもつ滋賀県としては八三年三月に洞庭湖を有する湖南省と友好省県協定をおこなった後だけに、大津市と湖南省の省都である長沙市との提携も考えられたが、さらに加えて戦前の開拓期の歴史的事情を考慮すれば困難も予想されたのだったが、山田豊三郎市長は積極的に牡丹江市の要請を受け止めて、八四年七月にはみずからが団長となって親善訪問している。

そして同八四年一二月三日には、牡丹江市の訾顕章市長を迎え、山田豊三郎市長との間で友好都市提携の調印をおこなったのだった。 

牡丹江市は、黒竜江省の東南部に位置し、西は省都ハルビン市と東はロシア沿海地域と接している。寧安、海林など四市二県を管轄している。大戦中は日本から多くの木材、食品関係の工場が進出し、入植者も多く、戦後の混乱で多くの犠牲者を出した。地理的優位性があり、鉄道・道路・航路の要所として、東北アジア圏の中堅都市として発展している。対ロシア貿易額では中国でも最大規模である。近年は日本海を通じた国際貿易と観光にも力をいれている。「塞北の江南」と呼ばれる観光都市である。 

牡丹江市内には世界最大の「東北虎林園」もある。江浜公園には日本軍と戦った女性戦士を記念する「八女投江群像」もある。人口は約二七〇万人。

大津市は、琵琶湖の西南端に位置して、京阪神、中京、北陸の三経済圏の要にある。江戸以後は幕府の直轄地として京滋地域の備えとなってきた。政令指定の古都のひとつ。

主な名所としては、比叡山延暦寺根本中堂、近江神宮、園城寺(三井寺)、義仲寺、瀬田の唐橋、石山寺、幻住庵、琵琶湖大橋などの建造物のほか、唐招来の「玉篇」「六祖慧能伝」や奈良・平安時代の典籍の国宝も多い。琵琶湖の水質をはじめ環境の保全については「共生と循環の湖都・大津」を掲げて活動している。人口は約三〇万人。

一九八四年以来の両市の交流は、市の代表団の相互訪問をはじめ、都市計画、ゴミし尿処理、医療、ガス事業などの技術研修生受け入れ。経済貿易団体、医療施設、福祉保健、公園緑化、教育視察団の訪問、小学校提携、留学生交換、青少年スポーツ交流など。 

提携一〇周年の九四年には、牡丹江市では「日本国・大津展」が、大津市では「牡丹江書画展」が開催され、水墨画五〇点が大津市に寄贈された。
二〇周年の〇四年には目片信大津市長ら代表団が牡丹江市を訪問している。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-東北地区の戦傷を超えて

東北地区の戦傷を超えて

宇都宮市とチチハル市(黒竜江省) 

 チチハル(斉斉哈爾)市は、東北地区黒龍江省の省都ハルビン市から北西に約二七〇キロに位置する省第二の都市である。チチハルは「辺境」という意味だが、一六九二年にまちづくりがはじまり、農業、林業、牧畜で着実に発展してきたが、豊富な天然資源を利用した工業都市化もすすんでいる。新中国成立後の一九五四年にハルビンに移るまでは省都であった。丹頂鶴が有名で、保護区となっており、世界のツル一四種のうち半数以上が飼育されている。そのため「鶴城」とも呼ばれている。人口は約五九〇万人。

宇都宮市とチチハル市とのつながりは、一九八〇年五月に第一次宇都宮市民訪中団三〇人のうち六人が未開放地区だったチチハルを訪ねたことが契機となった。八二年五月の第二次市民訪中団九〇人のうち三二人が再び訪問し、八三年一二月にはチチハル市代表団が市長の親書を携えて来訪し、友好都市提携の申し入れをするまで進んだ。八四年七月にはチチハル市陳雲林市長一行が来訪し、両市の友好都市締結に関する合意書を取り交わした。

そして調印式は八四年九月三〇日、チチハル市でおこなわれた。訪れた宇都宮市友好都市締結調印団団長の増山道保市長と陳雲林市長が議定書に署名した。

戦時中の東北地区での歴史を踏まえて、陳市長は「調印までの関係者の方の努力に感謝する」と述べ、増子市長は「皆さんから多くのことを学びたい」と挨拶した。

宇都宮市は、古くから二荒山神社への門前町として栄え、平安時代末期には宇都宮城が築かれた。江戸期には日光街道、奥州街道の要地として参勤交代や参詣客でにぎわった。

一八八四(明治一七)年には県庁が置かれ、九六年には市制が施行されている。先の大戦中は一四師団(東北地区へ出兵)の軍都となり、一九四五(昭和二〇)年の戦災で市街の大半を焼失したが、いちはやく復興を遂げた。昭和の大合併で隣接一町一〇村を合併編入して現在の市域になった。現在は東北自動車道と新幹線の拠点やテクノポリスなど中核市として重要な役割を担う。宇都宮の「餃子」は、全国的に名を馳せたが、一四師団の帰還兵が持ち帰って家庭に定着させたというのが通説になっている。人口は約四五万人。

両市の主な交流は、市職員や市議会代表団の相互訪問をはじめ、酪農、コンピユーター、医学、建築、縫製などの研修生受け入れ、企業研修生の受け入れ、接骨医研修生を派遣、留学生の交換、姉妹校交流など。書画、語学、スポーツも。「チチハル建城三百年記念式典」(九一年)への出席(九一年)や市制百年記念「姉妹友好都市市長サミット」(九六年)への参加、このとき消防梯子車を贈る。そして丹頂鶴の寄贈(九六年)などがある。

二〇周年の二〇〇四年には、七月一五日にチチハル市で、九月二四日に宇都宮市で、それぞれに記念式典をおこなった。水墨画、気功の交流、青少年訪問団の受け入れなどが記念事業。〇五年の「愛知万博」中国館での「チチハルの日」(四月二五日)には激励に駆けつけた。

二〇〇三年八月にチチハル市の工事現場で旧日本軍の遺棄化学兵器が破裂して四〇人余が重軽傷、ひとりが死亡するという事件(八・四事件)が起こり、折りから「侵華日軍」の証拠として報道された。

宇都宮市は、戦禍の歴史を底流として引き受けながら、「平和都市宣言」に沿って友好都市による平和の絆を引き継いでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範)