友好都市・歴史が絆-東北地区の戦傷を超えて

東北地区の戦傷を超えて

宇都宮市とチチハル市(黒竜江省) 

 チチハル(斉斉哈爾)市は、東北地区黒龍江省の省都ハルビン市から北西に約二七〇キロに位置する省第二の都市である。チチハルは「辺境」という意味だが、一六九二年にまちづくりがはじまり、農業、林業、牧畜で着実に発展してきたが、豊富な天然資源を利用した工業都市化もすすんでいる。新中国成立後の一九五四年にハルビンに移るまでは省都であった。丹頂鶴が有名で、保護区となっており、世界のツル一四種のうち半数以上が飼育されている。そのため「鶴城」とも呼ばれている。人口は約五九〇万人。

宇都宮市とチチハル市とのつながりは、一九八〇年五月に第一次宇都宮市民訪中団三〇人のうち六人が未開放地区だったチチハルを訪ねたことが契機となった。八二年五月の第二次市民訪中団九〇人のうち三二人が再び訪問し、八三年一二月にはチチハル市代表団が市長の親書を携えて来訪し、友好都市提携の申し入れをするまで進んだ。八四年七月にはチチハル市陳雲林市長一行が来訪し、両市の友好都市締結に関する合意書を取り交わした。

そして調印式は八四年九月三〇日、チチハル市でおこなわれた。訪れた宇都宮市友好都市締結調印団団長の増山道保市長と陳雲林市長が議定書に署名した。

戦時中の東北地区での歴史を踏まえて、陳市長は「調印までの関係者の方の努力に感謝する」と述べ、増子市長は「皆さんから多くのことを学びたい」と挨拶した。

宇都宮市は、古くから二荒山神社への門前町として栄え、平安時代末期には宇都宮城が築かれた。江戸期には日光街道、奥州街道の要地として参勤交代や参詣客でにぎわった。

一八八四(明治一七)年には県庁が置かれ、九六年には市制が施行されている。先の大戦中は一四師団(東北地区へ出兵)の軍都となり、一九四五(昭和二〇)年の戦災で市街の大半を焼失したが、いちはやく復興を遂げた。昭和の大合併で隣接一町一〇村を合併編入して現在の市域になった。現在は東北自動車道と新幹線の拠点やテクノポリスなど中核市として重要な役割を担う。宇都宮の「餃子」は、全国的に名を馳せたが、一四師団の帰還兵が持ち帰って家庭に定着させたというのが通説になっている。人口は約四五万人。

両市の主な交流は、市職員や市議会代表団の相互訪問をはじめ、酪農、コンピユーター、医学、建築、縫製などの研修生受け入れ、企業研修生の受け入れ、接骨医研修生を派遣、留学生の交換、姉妹校交流など。書画、語学、スポーツも。「チチハル建城三百年記念式典」(九一年)への出席(九一年)や市制百年記念「姉妹友好都市市長サミット」(九六年)への参加、このとき消防梯子車を贈る。そして丹頂鶴の寄贈(九六年)などがある。

二〇周年の二〇〇四年には、七月一五日にチチハル市で、九月二四日に宇都宮市で、それぞれに記念式典をおこなった。水墨画、気功の交流、青少年訪問団の受け入れなどが記念事業。〇五年の「愛知万博」中国館での「チチハルの日」(四月二五日)には激励に駆けつけた。

二〇〇三年八月にチチハル市の工事現場で旧日本軍の遺棄化学兵器が破裂して四〇人余が重軽傷、ひとりが死亡するという事件(八・四事件)が起こり、折りから「侵華日軍」の証拠として報道された。

宇都宮市は、戦禍の歴史を底流として引き受けながら、「平和都市宣言」に沿って友好都市による平和の絆を引き継いでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範)