四字熟語-著述等身

著述等身
ちょじゅつとうしん

著作が作者の身長に等しいほど多産なことを「著述等身」または「著作等身」という。数多くの小説や劇作で知られた作者や生涯を著述にささげた学者への賛辞として用いられている。

竹簡に手書きして「汗牛充棟」といった時代には「等身」では足りなかっただろう。『史記』五二万字の編冊を思えばわかる。古典ドラマで壁面を覆う書棚や書籍を牛車や馬車に積んで運ぶ場面を見かける。「学富五車」というのが分量でいう知識の豊かさであった。

紙の時代になって公文書も竹冊を排し、宋代には蔵書や読書量が多いことで「等身書」(読書等身)がいわれ、その後に「著述等身」が用いられた。印刷時代の「等身書」は四〇〇〇万字というから現代の量産作家でも作品が等身高になることは稀れである。「他人が珈琲を飲んでいる時も書いていた」と記す魯迅が一一〇〇万字というから「著作半身」にも及ばない。

さて、IT革命の後には労作多作の人をどう表現することになるのだろう。

趙翼『瓯北詩鈔』など

四字熟語-挙棋不定

挙棋不定
きょきふてい

将棋や囲碁の駒や碁石を手にして打とうして挙げたものの、迷いが生じて決めかねているのが「挙棋不定」。よく見かける情景である。しかし挙げた駒は打たねばならない。プロ棋士の場合は持ち時間が決められ、最後は秒読みによって急かされることになる。

囲碁は日中韓が同ルールで「世界囲碁名人争覇戦」がおこなわれる。一方、盤上が戦場であり駒が戦力である将棋と象棋は、ゲーム(智力運動)とはいえ「闘い」への意識の違いを表現している。将棋の王将は自陣から出て応戦するが、象棋の帥将は自陣中央の城から動かない。将棋の駒は敵陣に至ると裏返って成り金になる。象棋の駒はチェスと同様に捕えられれば盤上から消えるが、将棋の駒は相手方の持ち駒になって残る。この戦場での人道主義は将棋の特徴であろう。

TPP交渉での日本の態度は「挙棋不定」であり、内閣支持率では民主・自民両党が二〇%で「挙棋不定」の有権者が四〇%である。次の一手はわからない。

『左伝「襄公二五年」』など

四字熟語-来日方長

来日方長
らいじつほうちょう

「来日まさに長し」というのは、これからやってくる未来の日々が長く豊かであること、前途に希望があること。国会論議が「消費税増税」で財政の帳尻あわせをし、その先も増税。これでは国の将来像をイメージできないし、国民の活力を呼びさますことはむずかしい。みんなが納得して参加できる展望を示してこそ「来日方長」なのである。

実際の使い方ではもっと軽く、たとえばスポーツ競技で新記録にわずか及ばなかったり、球技で惜敗したりしたときに、機会はある他日を期そうといった意味合いで用いられている。

山東省の臨海都市日照市(室蘭市の友好都市)は、わが市にくれば人は健康で長寿になり、投資企業は末長く発展しますと「来日方長」を市の紹介に援用している。こんな「来日」の読み方なら、わが国は滞在が長い知名の親日家を数多く有している。ハンソンさん、ニコルさん、キーンさんなどの姿が思い浮かぶが、国別トップの中国からの老朋友は枚挙にいとまがない。

汪由敦『瓯北初集序』など

四字熟語-目迷五色

目迷五色
もくめいごしき

色や香は五感を刺激して脳を活性化すると有名化粧品の宣伝にあったが、そうだろうか。先人は逆に「目は五色に迷う」という。

色はいまでは人為的につくれるからその数は無限といっていい。人為的色彩による感覚のマヒを予見しているようなことばである。老子は「五色は人の目を盲ならしむ」といい、荘子も「五色は目を乱す」という。さまざまな色彩に迷わされていると、色を失っていく夕暮れの風景が目にやさしい。モノクロ写真や映画や夢が伝える情感には捨てがたい味がある。

古来、伝統の五色は青赤(朱)白黒(玄)黄で、これがいわゆる正色。正色の朱に対して間色の紅や紫が際立って正色の朱を乱すことを「紅紫は朱を乱す」(紅紫乱朱)といった。たしかに誰の目にも朱衣よりも紫の袈裟や紅裙(紅いもすそ)のほうが目立つ。人びとが好む衣装の色は時代表現のひとつだが、正統というものはワンポイント目立たないところにあるものだと知る例証でもある。

沈徳符『万暦野獲編』など

四字熟語-単刀赴会

単刀赴会
たんとうふかい

三国時代の蜀の英傑関羽の豪胆さを伝える故事成語といえば「単刀にして会に赴く」であろう。「単刀」は一刀あるいは単身の意味。交渉のため単身で敵陣に乗り込むこと。関羽は呉の魯粛との交渉のためにわずかな供の者をつれただけで赴き、堂々の対論を果たして無事にもどったのだった。

会社を代表してひとり資料を抱えて敵陣ともいうべき相手会社や監督官庁に赴く者を、胸の中で支えてくれる強いことばである。

また「言笑自若」は、毒矢がひじを貫き毒が骨に及んだため、名医華佗に手術をまかせた関羽が、肉をほおばり酒を飲み、平然として諸将と談笑しつづけていたというもの。この激痛に平然としている関羽を思えば、少々のピンチにあわてることもない。

世界中の中国商人を支えているのが中華街の「関帝廟」。関羽と商人の出会いの原型は、曹操が手厚く葬った洛陽の関羽首塚とそれを守るため商人に身をやつして訪れて市をつくった蜀の武人たちにあるという。

『三国演義「六六回」』から

四字熟語-如座春風

如座春風
じょざしゅんぷう

「春風に座すが如し」というのは、春の情景ではなく、恩恵を受けた教師に対する賛辞にいう。小・中学校の教場を明るくしてくれていたこういう先生の記憶は、いつまでも暖かく新しい。人生の静かな追い風であったように思える。

後世にまで影響をなす学派や流派というのは、こういう和気をたたえた人物を中心にした一団から生まれるにちがいない。

兄弟が中心の場合が、宋代の二程子(兄が程顥で明道先生、弟が程頤で伊川先生)で、弟が兄を「時雨の潤いのごとし」とその温和さをたたえている。のちの程子学流の興隆をみるとき、このことばが生まれたふたりの師と居合わせた人びとの「春風」の暖かさを思うのである。

伊川先生に教えを求めてやってきた学生が、師が瞑座しているので、一尺を越すほどの大雪の門外で先生が目覚めるのを待ったという「立雪程門」からは、師を敬い教えを求めるとともに、きびしく処する学生の姿がしのばれる。

『二程集「外書一二」』から

四字熟語-花花世界

花花世界
はなばなせかい

春の野に見渡すかぎり一面に咲き誇る花々の世界。梅のあと杏、桃、櫻と季を追って各地に展開する。中国で「最も美しい郷村」と称しているのは江西省婺源で、金黄の菜の花と紅い桃と白い梨の花が特徴のある黒い屋根、白壁の建物を包んでひとしきり別世界を現出する。櫻だと鎮海(韓国)、吉野(日本)、無錫(中国)といったところ。

かつて「花花世界」といえば、宋代に都を追われて南遷した人びとが奪回しようとしてはたせず、夢にみた北方の東京(開封)や西京(洛陽)のことで、「中原花花世界」と呼んで慕った。

繁華な都市の爛熟する文化が生みだす戯れの花が「花花公子」(プレイボーイ)である。富家の出で正業に就かず、着飾って酒を飲み遊びに時を費やした若者たち。新中国には無縁だろうが、「花花公子」(アメリカの雑誌『PLYBOY』の中国名)は北京や上海の若者にも人気があり、性感美女の卡卡(ガガ)から捷豹(ジャガー)まで、現代都市を彩る花々は魅惑的である。

『説岳全伝「一五回」』など

四字熟語-走馬看花

走馬看花
そうばかんか

馬を走らせて花を看ることが「走馬看花」で、難関の科挙に通った高揚した気分で、馬を走らせて長安の街中の花を看てまわったという晴れやかな実景として唐の孟郊の詩に詠われている。明の于謙の場合は、任地でのしごとを無事におえて、都へもどる得意な心情を表現している。

後にはそういう高揚する心情での走馬の姿を離れて、清の呉喬になると、事物の観察が粗略である例えに引かれる。そこで仔細に観察する「下馬看花」が登場する。こうなるともう孟郊が走馬して看た花の実景の世界にはもどれない。

いまは移動が多くて風物はちょっと見ですますパック旅行や、観察がおおまかだったり、多用で仔細なしごとができなかった言い訳にも用いられる。聞くほうも印象が悪くないので納得しやすいせいだろう。高速道路を走るドライバーのよそ見運転にもいわれる。

そんな来歴を知るのも一興だが、日々を「走馬看花」に送る多忙なビジネスマンには無縁であろう。

『孟東野集「登科後」』から

 

四字熟語-三更半夜

三更半夜
さんこうはんや

年度末の東京の夜は明るい。とくに霞が関界隈では深更までしごとをしているからだといわれた。

旧暦では日暮れから日の出までを五つの刻みにわけて初更~五更と呼ぶ。すると三更が真夜中であり半夜でもあることから「三更半夜」といわれ、いわゆる午前さまである。

宋の塩鉄税の徴収官であった陳象輿と財政官であった董儼らは、夕方から趙昌言の屋敷に会して、深更まで熱心に談議していたという。それで都の連中からは「陳三更、董半夜」といわれた。

晩唐の詩人李商隠の「半夜詩」にあるように、「三更三点萬家眠る」という寝静まった長安と違い、宋都の東京開封(「清明上河図」に画かれる)は深夜まで夜市で賑わった。それでも能吏に三更まで税徴収の談議などされたら、おちおち眠れない者もあったであろう。

冬の夜の霞が関。かつての国土発展の予算配分ではなく、増税や予算を減らす「三更半夜」の明かりだと思うと寒さがつのる。

『宋史「趙昌言伝」』から

 

 

 

四字熟語-「雪中高士」

「雪中高士」
せっちゅうこうし

ご存じ松竹梅の三つを「歳寒三友」という。多くの植物が厳冬のさなかに息をひそめても、松と竹は姿あせずに過ごし、梅は寒中に花を咲かせる。三品の格を日中ともに高位の松から梅にいたるとするが甲乙はつけがたい。

「歳寒三友」は詩画はもちろん、磁器や織物の意匠としても好まれて名品を生んできた。だれもが親しい三友を持って暮らしている。

「雪中高士」というのは、雪中の梅の木を高潔の士に見立ててのもの。雪中の梅はたたずまいも花も香もよく、とくに寒に耐えて命を保つ風情は節を持する高士と呼ぶにふさわしい。

「梅花」九首のうちにこう詠じた明初の詩人高啓は、のち「十の行人去りて九は還らず、自ら知る清徹もとより愧じるなし」と覚悟して連座の死に赴いた。

高啓と花といえば、よく吟じられる「水を渡り復た水を渡る、花を看還た花を看る」(「胡隠君を尋ぬ」から)が有名だが、この花は春風江上の路でなので、江南の桃李であろう。

『高青邱詩集「梅花」』から