歴史都市の「草の根交流」
宇治市と咸陽市(陝西省)
京都市と西安市が日中両国を代表する歴史古都同士として、一九七四年にはやばや友好都市となり、その後、八三年には京都府と陝西省とが友好省府となった。そのあとを受けるようにして、お互いの第二番目の都市であり、類似した立地条件を持つ、宇治市と咸陽市とが結ばれる契機が次第に熟していった。
咸陽市は、渭水のほとり、西安からは北西へ二五キロの至近距離にある。周代から秦までは咸陽が中国西北地区の中心であった。とくに東方にあった先進国の六カ国(戦国六雄)を滅ぼして天下統一を成し遂げた始皇帝は、ここに安房宮を造営して巨大都市となったが、項羽によって焼き尽くし破壊されたという。項羽に勝利した劉邦は、咸陽郊外の長安を新たな都としたため、さらに隋・唐代になると長安(西安)へと中心が移ったため、その後の発展はなかった。旧跡も多く、漢武帝の茂陵、唐太祖の昭陵などの漢、唐代の皇帝陵はこの周りに集中している。漢代兵馬俑坑が発掘されている。秦の始皇帝兵馬俑ほど大きくはないが、漢代独自の時代性が対比されるもの。明代の孔子廟跡を利用した咸陽博物館は、市域での優れた発掘品を展示している。市域に国際空港が開設されており、その縁で成田市とも友好都市になっている。人口は約四八〇万人。
宇治市は、宇治川のほとり、水陸路交通の要衝で風光明媚な地であったため、上代には貴族の荘園、別業地となった。
文化遺産の代表格は、世界文化遺産にも登録されている平等院鳳凰堂である。『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台として、また室町時代以来の宇治茶の産地としても知られる。隠元禅師にちなむ満福寺、道元禅師にちなむ興聖寺など、禅宗の名刹がある歴史文化都市である。人口は約二〇万人。
両市の友好都市提携は、八六年七月二四日、宇治市に咸陽市の代表団を迎えて、市文化センターで池本正夫市長と祝新民市長が協定書に調印して成立した。双方が持つ歴史都市としての特徴を活かした交流が期待された。その後、両市長は市民広場の公園の一角で、宇治市の木であるイロハモミジの記念植樹をおこなった。
両市の主な友好交流には、市の友好訪問団の相互訪問や職員交換事業、学校提携。空手、気功、太極拳といった武道競技のほか、青少年の卓球、野球、サッカー、児童絵画展。マイクロバスやピアノの寄贈など。
多くの市民が自主参加し、宇治日中友好協会が進めてきた交流事業に、「咸陽の子どもたちに本を贈る」運動と「友誼小学校」の建設がある。本の贈呈のほうは、九六年から五〇余校に二万冊を届けた。学校の建設のほうは、淳化県に「寨子宇治友誼小学校」を建設し、内陸の貧しい農村の教育施設を支援してきた。贈る会の「会報」には子どもたちの喜びの手紙や写真が紹介されている。
また二〇〇一年の提携一五周年の記念事業として、「黄土高原植林緑化事業」を開始し、永寿県の林業組合とともに五年間の目標とした一五〇ヘクタールの植林を完了した。この事業もまた募金活動など、宇治市市民の「草の根交流」の成果である。
両市の友好交流は、〇六年に二〇周年を迎えた。「経済格差の中で取り残されている内陸の貧しい農村の実情を見聞するとき、まだまだ宇治市民の手を差しのべてゆかねば」と、宇治日中友好協会会長で宇治御茶師の後裔である上林春松さんはいい、市民に協力を訴えつづけている。(二〇〇八年九月・堀内正範)