友好都市・歴史が絆-千年交流史に新篇を加える

千年交流史に新篇を加える

奈良市と西安市(陝西省)

西安市と奈良市ほどに長く深い文化交流の絆でむすばれた友好都市は他にないだろう。長安が盛唐から中唐にかけての都であったころ、八世紀には奈良が平城京としてこの国の都であった。玄宗や楊貴妃や李白や杜甫と聖武天皇や大伴家持や山上憶良の時代であった。遣唐使、留学生、留学僧ほか名の残らなかった多くの人びとがそれをつないだ。関わった人びとは去ったが、東大寺、薬師寺、唐招提寺といった建造物や数々の国宝級の文物は、古代の人びとの熱い交流の息吹きを伝えていまも新しい。

西安との友好都市へむけて、奈良市はすでに一九六九年三月には、西安市革命委員会主任(市長)あて親書を送り、のち書簡や要請書を重ねて提携への熱意を示した。七二年一〇月に奈良を訪れた中日備忘録弁事処の肖向前首席代表や七二年一二月には北京の中日友好協会の廖承志会長あてにも早期実現を依頼している。

そして七四年一月末に鍵田忠三郎奈良市長を団長とする奈良市訪中友好代表団が西安を訪れて、二月一日、西安市大講堂に集った千余の各界代表を前にして奈良市と西安市の友好都市宣言式が行われたのだった。

孫長興西安市革命委員会主任(市長)は、
「悠久の歴史を持つ西安と奈良が正式に友好都市関係を締結する」
と、力強く宣言した。代表団を率いて訪れた奈良市の鍵田忠三郎市長は、
「一二五〇年前より厚い友好と深い交流に結ばれ、西安市の皆さんには強い友好の心を持っている」
とあいさつし、熱烈な拍手の中で錦旗を交換した。

西安市は、中国中西部の中心都市である。都になったことのある中国八大古都のひとつで、秦・漢、隋・唐など六王朝一〇政権が建都した。とくに唐代の長安は世界に輝く文化都市であった。明代になって西安と改名し、現在残る城壁はそれ以降のものである。市章には玄奘三蔵にちなむ大雁塔がデザインされている。八七年に秦始皇帝陵が世界遺産に登録され、訪れる観光客は多い。人口は約七四二万人。

奈良市は、七一〇年の平城京建都から七九四年の平安京遷都まで奈良時代の都。民族のふるさと「やまとのまほろば」と呼ばれる。一九八八年の市制九〇年には「なら・シルクロード博」が開かれ、九八年の市制一〇〇年には「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録された。「世界遺産に学び、ともに歩む」という国際文化観光都市へのまちづくりをめざす。人口は約三六万人。

友好都市提携後の両市の交流は、友好旗に「千載友誼續新篇」とあるように、各界で新たな成果を重ねている。市職員の交流はもちろん、「阿倍仲麻呂記念碑」の建立や「シルクロード国際マラソン城壁大会」への参加、「日中友好都市交流奈良会議」(第一回が九四年)、文物展、映画祭、民族芸術団・雑技団公演、書画展とつづく。さらに気功、鍼灸、調理、囲碁など身近な暮らしの分野にも幅広く及んでいる。

安倍仲麻呂らと共に唐に渡り、七三四年に客死したとされる井真成の墓誌が帰国し話題になった。「愛・地球博」のあと「遣唐使と唐の美術」展として東京と奈良の国立博物館で展覧された。

また両市と韓国の慶州を結ぶ「姉妹三都市体育大会」が九月に奈良で開かれたが、日中韓三国三市の友好交流は新たな方向を示すものとして注目されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)