友好都市・歴史が絆-「不再戦」と「友好下去」の碑 

「不再戦」と「友好下去」の碑 

岐阜市と杭州市(浙江省) 

「日中不再戦」と岐阜市の松尾吾策市長は揮毫した。
一方、杭州市の王子達市長は「中日両国人民世世代代友好下去」と書き下ろした。 

日中両国の市民が再び戦うことなく、世々代々の友好関係を引き継いでいこうという平和と友好への願いを込めた二つの碑文は、一九六二年一〇月七日に、杭州市において交換された。杭州市側の碑文は、周恩来首相の直接指示によるものといわれる。

翌六三年六月二日、まず岐阜市の岐阜公園に「中日両国人民世世代代友好下去」碑が建立された。そして一二月一五日、杭州市の柳浪聞鶯公園に「日中不再戦」碑が完成した。

日本で中国人殉難者の遺骨送還運動が始まったのは一九五三年だった。四三年四月から四五年五月までに約四万二千人が強制連行され、うち六八〇〇人余が死亡したという。岐阜県内では一六八九人のうち七三人が死亡した。

五六年六月に、七二柱の合同慰霊祭が岐阜東別院で営まれた。折りから来日中だった京劇代表団の孫平化副団長(のち中日友好協会会長)らが霊前に献花した。八月には岐阜県の遺骨送還代表団が訪中して、位牌を天津市の抗日烈士の墓に安置したのだった。

友好と平和を誓い合う碑が建立した後も、岐阜市は七一年に同じ公園内に「中国人受難者之碑」を建て、七二年の日中国交正常化を受けて、七三年には「碑建立一〇周年式」を開催している。

 七八年の日中平和条約締結に先立つ一五年前の「不再戦」の碑の建立、そして平和条約締結後の七九年二月二一日には、岐阜市に杭州市友好代表団を迎えて、両市の友好都市提携の調印式がおこなわれた。条約締結のあとの提携では名古屋市―南京市についでのもので、全国では七番目の友好都市提携となった。

岐阜市は、日本のほぼ中央に位置している。街の真ん中、金華山の頂きには戦国武将の斉藤道三が居城とし、天下統一を夢見た織田信長が拠点とした岐阜城がそびえ立つ。傍らを鵜飼で知られる清流長良川が流れる。自然環境と伝統文化を活かして「個性輝く市民協働都市」をめざしている。人口は約四〇万人。

杭州市は、浙江省の省都で、「上に天堂あり、下に蘇杭あり」と詠われてきた江南屈指の歴史文化名城である。南宋のみやこ。南北を貫く大運河の最南端に当たる。有名な白堤と蘇堤のある西湖は、市内湖として市民に親しまれている。霊隠寺、西冷印社ほか旧跡や博物館も多い。特産はシルク、龍井茶。人口は約六四三万人。

 両市は友好都市提携のあと、小・中学友好校、「少年友好団」の派遣、大学提携、市仏教協会提携、友好病院などの交流事業を進めてきた。アパレル関係の職員交流も続いている。伝統劇のほか中日合同音楽劇「太陽をさがして」「ブンナよ木からおりてこい」の公演もおこなった。西湖マラソンや西湖博覧会には、同じ杭州市と友好都市となっている福井市とともに参加している。「不再戦」の碑には、八二年九月に鈴木善幸首相が訪れている。

二五周年にあたる二〇〇四年には、双方で記念式典がおこなわれた。中日合同音楽劇「尾なし龍」が式典を盛り上げた。〇六年に杭州市で開催された「世界レジャー博覧会」への参加を通じて交流を強化した。杭州市は女子十二楽坊をイメージキャラクターに起用して、市の魅力をアピールしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)