友好都市・歴史が絆-軍港から開かれた商港へ

軍港から開かれた商港へ

舞鶴市と大連市(遼寧省) 

 舞鶴といえば細川藤孝(幽斎)によって築かれた田辺藩の城下町である。「舞鶴」という美しい名は、城の別名に由来しているという。

明治になって、一九〇一年にロシアの南下という不穏な日本海の波立ちの中で、舞鶴鎮守府(初代長官は東郷平八郎)が開庁し、海軍のまちとなった。それにあわせて東舞鶴の市街地化がおこなわれた。〇三年には舞鶴海軍魚形水雷庫(現赤れんが博物館)が竣工した。三六年、第一回舞鶴みなとまつり開催。四三年に舞鶴市と東舞鶴市が合併。四五年七月二九日、三〇日とアメリカ軍の空襲により海軍工廠、舞鶴港が爆撃を受けた。

そして一九四五年の終戦。以後一三年にわたって大陸からの引揚港としての役割を果たすこととなった。大陸各地かあの引揚者は、六六万五〇〇〇人に及んだ。

無言で、無表情で、疲れきって帰国した人びと。長い桟橋をひきずって歩く軍靴の音。そして帰らぬ子を待ちつづけた「岸壁の母」たち。現代につながる東北アジアの不幸な歴史を知っている桟橋は「引揚桟橋」として九四年に復元され、戦乱によって人民が遭遇した惨禍を未来に語り継いでいる。史実を伝える「引揚記念館」も八八年に開設されている。また一九〇三年に竣工した旧海軍の魚形水雷庫は、「赤れんが博物館」に変わり、その後に次々に建てられた一二棟の「赤れんが倉庫群」は、夏の「赤煉瓦サマー・ジャズ・イン舞鶴」の会場ともなっている。

大連市は、一八九九年、南下したロシアによって不凍結の軍港として築かれた。一九〇四年一二月の「二〇三高地」での「山形改まる」ほどの激戦によって犠牲になった兵士の屍の山が築かれた。そして〇五年年初の旅順陥落。その後は中国東北地域への門戸として、四五年まで日本が施設の整備をおこなった。いまも市内のホテル、銀行、学校、病院、橋ほか、旧時代に日本が建てた建造物が残る。解放後の発展は著しく、経済技術開発区には日本企業も数多く進出している。都市部の人口は約二五〇万人。

戦後にともに軍港から商港への道を歩むことになった舞鶴市と大連市の友好都市提携は、「地理的条件や貿易の経緯からぜひ」という市民の要望が強く、地道な努力がつづけられた。そして八二年五月八日、舞鶴市に大連市友好訪問団を迎えて、崔栄漢市長と町井正登市長が議定書に署名した。

提携後の友好交流は、市友好訪問団をはじめ、港湾管理、海運、教育、福祉、観光、医療などの各界視察団や雑技団の公演、とくに少年交流使節団の派遣は毎年交互に実施されている。舞鶴市民は、「日中友好の船」や「日中友好の翼」で大連市を訪問してきている。

二〇周年の二〇〇二年には、李永金・江守光起両市長が舞鶴自然文化園でアカシア二〇本の植樹をおこなった。李市長は「順調に育って、毎年五月には美しい花を」と交流への期待と重ねて挨拶した。「アカシアの大連」として有名だが、大連市の市花は「月季」(バラ)である。

〇七年は二五周年に当たった。五月八~一〇日、舞鶴市友好団(団長は斎藤彰市長)が訪れて、前年に締結した「市民交流の強化に関する合意書」を基にして、互利互恵の関係による交流を進めることなどを確認した。

〇七年四月には大連市で「日中合同ギター演奏会」が、〇八年一月には舞鶴市で、両市市民グループによる交流音楽会も開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)