同年の大災害を克服
酒田市と唐山市
一九七六年一〇月二九日の夕、酒田市「中町銀座」の映画館から出た火の手は、折からの西寄りの強風にあおられて繁華街へと燃え広がり、火の波となって住宅地へと押し寄せた。酒田の夜空を焦がして一一時間にわたって燃えつづけた「坂田大火」は、一七〇〇余棟を焼き尽くして新井田川の右岸で止まった。市民は寒風にさらされながら恐怖の夜を過ごしたのだった。
それより三カ月前の七月二八日未明、河北省唐山市付近を震源とする地震は、北京、天津など首都圏の住民をも恐怖の底に引き込んだ。マグニチュード七・五。震源に近い唐山市では煉瓦や石組みの家々が倒壊し、阿鼻叫喚の巷と化した。瓦礫の下敷きになるなどで市民約二四万人(死者一四万八〇〇〇人)が被災するという、世紀最大の惨事となった。「自力更生」による復旧を指示した毛沢東主席が九月九日に亡くなるなど、中国激震の年でもあった。
災害から一四年、酒田市は「燃えない町」を、唐山市は「地震に強い町」をめざして復興を果たしつつあった九〇年七月二六日、唐山市の陳立友市長と酒田市の相馬大作両市長が酒田に会して、友好都市締結の調印がなされた。酒田地区日中友好協会も数次の訪中団を送って友好都市の成立に尽力した。
唐山市は、北京市の東約一八〇キロ、人口は七〇四万人。電力、セメント、鉄鋼といった重工業や陶磁器の生産が盛んである。農産物では栗が有名で、天津から天津甘栗として輸出されている。遵化には「清朝皇帝陵墓群」がある。
酒田市は、人口約一〇万人。日本海に臨み、最上川の河口に開けた港町である。江戸時代には「西の堺、東の酒田」といわれ、廻船問屋の鐙屋や「本間さまには及びもないが」と豪勢さを詠われた本間家の旧本邸がいまも残る。八〇〇〇羽を超える白鳥の飛来は冬の風物詩になっている。
友好交流提携の一〇周年に当たる二〇〇〇年五月には、阿部寿一市長ら代表団が唐山を訪問して、張和市長と会談した。両市は代表団の交互訪問、農業技術、文化・スポーツ・青少年、消防などの交流に加えて、酒田―京唐港を生かした物流の発展も検討し、記念に桜の植樹をおこなった。
大災害の克服に発揮された市民の結束力は、酒田市では防災地域・公園の整備、そして「がんぎ型」を一新した「セットバック方式」の「中通り商店街」などを誕生させた。唐山市では地震予知や耐震建造物の研究、地震に関する国際会議などが行われている。(二〇〇八年九月・堀内正範)