中京と南京の史的役割
名古屋市と南京市(江蘇省)
中京と南京。
両国のふたつの重要な拠点都市、名古屋市と南京市を友好都市とする提案は、「日中平和友好条約」の批准書交換のために来日中だった鄧小平副首相の歓迎宴でなされた。席上で、中日友好協会廖承志会長から友好条約締結のあと最初の友好都市とする提案として発表されたのだった。七八年一〇月二四日のことである。
おりしも「名古屋市民の翼友好訪中団」(公募市民五五人を含む一三八人)を率いて上海市にいた本山政雄市長には、孫平化中日友好協会秘書長から伝えられた。訪中団から田辺広雄市議会議長らが急遽、南京へと向かった。一一月には名古屋市議会と南京市革命委員会常務委員会の了承をえた。
そして同年一二月二〇日に、日中友好の機運が盛り上がる中に南京市代表団を迎え、一二月二一日に名古屋市役所正庁で提携の調印式をおこなった。関係者三〇〇人余が見守るなかで、儲江南京市革命委員会主任(市長)と本山政雄名古屋市長が両市を代表して調印した。
南京市は、中国七大古都のひとつで、三世紀の呉をはじめ一〇王朝が都を置いた。南京を称したのは明を建てた朱元璋。近代には一九一二年一月、南京を首都と定め、孫文が臨時大総統に就任して「中華民国」が成立した。以後、北伐期には国民党軍により十数万人の愛国志士と市民が犠牲となり、三七年一二月の日本軍による南京陥落では「三十数万人の受難同胞」を出した。「雨花台烈士紀念館」と「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」がそれぞれ設けられて、ともに全国愛国主義教育の拠点となっている。「中山陵」は孫文の死後、二六年に着工し二九年に完成。北京の碧雲寺から遺体を移して六月一日にここに安置した。長江の南岸にある江蘇省の省都。人口は約五六三万人。
名古屋市は、慶長一五(一六一〇)年の徳川家康による名古屋築城と城下町づくりに始まる。以後育まれた「モノづくり」の伝統は、近代になって自動車、陶磁器、バイオリンなどを生み出す基盤となった。一八八九年に市制施行。二〇〇五年の「愛・地球博」ではホストシティーをつとめる。日本のほぼ中央に位置し、東西の大都市圏の間にあって国際交流時代にふさわしい都市をめざしている。人口約二二〇万人。
両市はともに工業都市であり、とくに経済分野の交流は使節団の訪問、技術研修生の受け入れや指導員の派遣、工業産品展示会、商店街の友好提携ほか多岐に及んでいる。動植物交流も多い。八九年の名古屋市制一〇〇年の「世界デザイン博覧会」には南京明朝王公貴族文物展を開催した。名古屋市からは救急車やごみ収集車、観覧車などの寄贈もおこなっている。
二五周年の二〇〇三年には、南京市からは市章にもなっている神獣「辟邪」が、名古屋市からは「金鯱」が記念に贈られた。「南京城壁修復」事業が一〇周年を迎えた〇五年、日中友好協会は九月六日に南京につどい、日中友好運動の原点を再確認し、新たなステップとする記念行事をおこなった。
二〇〇八年は三〇周年にあたる。(二〇〇八年九月・堀内正範)