友好都市・風土が絆-中京と南京の史的役割

中京と南京の史的役割

名古屋市と南京市(江蘇省)

中京と南京。

両国のふたつの重要な拠点都市、名古屋市と南京市を友好都市とする提案は、「日中平和友好条約」の批准書交換のために来日中だった鄧小平副首相の歓迎宴でなされた。席上で、中日友好協会廖承志会長から友好条約締結のあと最初の友好都市とする提案として発表されたのだった。七八年一〇月二四日のことである。

おりしも「名古屋市民の翼友好訪中団」(公募市民五五人を含む一三八人)を率いて上海市にいた本山政雄市長には、孫平化中日友好協会秘書長から伝えられた。訪中団から田辺広雄市議会議長らが急遽、南京へと向かった。一一月には名古屋市議会と南京市革命委員会常務委員会の了承をえた。

そして同年一二月二〇日に、日中友好の機運が盛り上がる中に南京市代表団を迎え、一二月二一日に名古屋市役所正庁で提携の調印式をおこなった。関係者三〇〇人余が見守るなかで、儲江南京市革命委員会主任(市長)と本山政雄名古屋市長が両市を代表して調印した。

南京市は、中国七大古都のひとつで、三世紀の呉をはじめ一〇王朝が都を置いた。南京を称したのは明を建てた朱元璋。近代には一九一二年一月、南京を首都と定め、孫文が臨時大総統に就任して「中華民国」が成立した。以後、北伐期には国民党軍により十数万人の愛国志士と市民が犠牲となり、三七年一二月の日本軍による南京陥落では「三十数万人の受難同胞」を出した。「雨花台烈士紀念館」と「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」がそれぞれ設けられて、ともに全国愛国主義教育の拠点となっている。「中山陵」は孫文の死後、二六年に着工し二九年に完成。北京の碧雲寺から遺体を移して六月一日にここに安置した。長江の南岸にある江蘇省の省都。人口は約五六三万人。

名古屋市は、慶長一五(一六一〇)年の徳川家康による名古屋築城と城下町づくりに始まる。以後育まれた「モノづくり」の伝統は、近代になって自動車、陶磁器、バイオリンなどを生み出す基盤となった。一八八九年に市制施行。二〇〇五年の「愛・地球博」ではホストシティーをつとめる。日本のほぼ中央に位置し、東西の大都市圏の間にあって国際交流時代にふさわしい都市をめざしている。人口約二二〇万人。

両市はともに工業都市であり、とくに経済分野の交流は使節団の訪問、技術研修生の受け入れや指導員の派遣、工業産品展示会、商店街の友好提携ほか多岐に及んでいる。動植物交流も多い。八九年の名古屋市制一〇〇年の「世界デザイン博覧会」には南京明朝王公貴族文物展を開催した。名古屋市からは救急車やごみ収集車、観覧車などの寄贈もおこなっている。

二五周年の二〇〇三年には、南京市からは市章にもなっている神獣「辟邪」が、名古屋市からは「金鯱」が記念に贈られた。「南京城壁修復」事業が一〇周年を迎えた〇五年、日中友好協会は九月六日に南京につどい、日中友好運動の原点を再確認し、新たなステップとする記念行事をおこなった。

二〇〇八年は三〇周年にあたる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

 

 

情報-若年有意

昨夜(6日)、橋下大阪市長(維新の会)が古舘氏に若年世代(わたし)に支持を集中するよう訴えていたが、高齢者が大事ではないというわけではないがといいながら、高齢者無視ともとれる発言にア然とする。敬意がなさすぎる。TV・20120106

と同じように、「高齢者のための高齢者の活動」というだけでは若年者を無視したことになり、反発がでるかもしれない。
「三世代同等(平等)」として、①高齢者のために務めながらも、②「自分がその蔭で憩うことがない樹を植える」という次世代への配慮、③さらには物心での直接の支援を子・孫におこなうこと。
次世代の人口の回復につとめ、家計資産(1400兆円という)は個人が抱えこまずに1/3を留保して、1/3(400兆円)をみずからと高齢社会のために、1/3(400兆円)を子・孫のために出費(出資)すること。その経済効果は増税(欧米に学ぶな)をはるかに超えた効果をもたらすだろう。①のための就労は若年者から奪うのではなく、新たに作り出す。高齢者それぞれが保持する知識・技術・健康・資産を活用して、みんなが安心して暮らせる社会づくりに参加しよう。20120117

友好都市・港が絆-国際観光の優れた標識都市

国際観光の優れた標識都市

別府市と煙台市(山東省)  

日本からの最初の遣唐使は、六三一年に山東半島北部の登州に上陸している。いまの煙台市である。明朝になって一三九八年、倭寇防御のために烽火台を築き、煙台と呼ぶようになった。さらに遠くは秦代に、徐福が不老長寿の仙薬を求めてここ(蓬莱)から海を渡ったと伝えられる。どれもあまり知られていない煙台と日本との絆である。

煙台市は、山東省北東部にあって黄海と渤海に面している。古くから芝罘(チーフー)と称された歴史都市でもある。蓬莱というのは、蜃気楼が発生することであらわれる「仙境」で、海中にある仙山や仙薬のありかを映しだしたとものと考えられた。そのことが、ここから徐福が渡海した背景にあるのだろう。

一八六一年の中仏通商条約で開港し、以後、英、米、日、独、伊、露、仏など一七カ国が領事館を開設した。その当時からの建物が市内に多く残されている。ワイン、リンゴ、じゅうたん、水産品が特産。開発区には日本企業も進出して活況を呈している。煙台市には養馬島に温泉があって、海のむこうに仙境蓬莱の日本が見られるかもしれない露天風呂もある。〇八年七月には市内にJASCO煙台店も開店している。全国優秀観光都市のひとつで、人口は約四四七万人。 

 別府市は、大分県東海岸の中央に位置する観光都市。古くから「別府八湯」と呼ばれる温泉群が点在し、江戸時代には貝原益軒の「豊国紀行」にも静かな湯治場として記されている。二九〇〇余の源泉は湧出量とともに全国一を誇る。戦災をまぬかれた観光温泉地として発展し、また学術・文化交流を進める「国際観光温泉文化都市」という役割を果たしている。年間の来客数は、約一一〇〇万人。市の人口は約一二万人である。 

友好都市について、当時の別府市長から市日中友好協会が折衝の要請を受けたのは、一九八三年一二月のことだった。全国本部に取り次いで駐日中国大使館を通じて働きかけ、八四年一月には宋之光大使から観光都市で形態が類似している煙台市が紹介されたのだった。

さっそく脇屋良可市長を団長とする視察団が八四年二月には北京、済南(山東省の省都)を経て煙台市を訪問し、董伝周市長に友好都市提携の希望を伝えた。一〇月には煙台市からも経済考察団が訪れて、観光施設等を視察した。さらに八五年四月には別府市長が再訪して、議定書作成や調印日程など事前協議をおこなって友好交流を深め、提携への準備を整えていった。

友好都市締結の調印式は、大阪から船で別府入りした煙台市代表団を迎えて、八五年七月二六日に催された。董伝周・脇屋長可両市長が議定書に署名した。

別府・煙台両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問、留学生派遣、経済・文化交流、歌舞団公演など。市日中友好協会は、市を支援して一、五、一〇周年には歌舞団の招聘や物産展を開催した。また桜を贈る運動を展開、九五年の一〇周年には桜一千本を植樹し記念碑を建立(天地公園)、〇五年の一五周年にはさらに一千本(西砲台公園)を記念植樹した。〇四年四月には煙台で桜花を見る訪中団を派遣するなど両市交流に努めてきた。煙台産のぶどうで作った「別府貴人香」は白ワイン。日中国交正常化三五周年を記念して北京でおこなわれた「中日友好都市小学生交歓卓球大会」には五八チームが参加した。四つのブロックで優勝があらそわれて、煙台・別府組は優勝した。

〇五年の二〇周年には、煙台市から友好の証しとして「八仙人彫刻像」が贈られた。 (二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-地方都市の経済技術交流

地方都市の経済技術交流

佐世保市と厦門市(福建省) 

福建省と長崎県との交流の歴史は古く長く濃い。江戸初期いらい着実に現在にまで続いている。長崎市と福州市についてはすでに述べたが、省県それぞれの第二の都市である佐世保市と厦門市も友好都市となっている。

鎖国状態にあった江戸時代に、海外にわずかに開かれていた長崎に福建の人びとが唐船に乗って来航して以来、盛んな経済活動を営んできた。日中国交が回復し、友好都市提携がいわれるようになって、一九八〇年にはまず長崎市と福州市が友好都市となり、次いで八二年に福建省と長崎県の友好提携が成立している。 

立地条件の類似性をもつ省第二の厦門市と県第二の佐世保市との交流と友好都市提携は、八一年から双方で実現への努力がなされた。八三年一月には厦門市長から佐世保市との友好都市提携についての国務院承認が伝えられ、これを受けて市の委員会が「厦門市との友好都市締結は適切」との答申をおこなった。同年一〇月二八日、佐世保市に厦門市代表団を迎えて、桟橋熊獅市長と鄒爾均市長(代理李秀記副市長)が議定書に署名し提携が成立した。

佐世保市は、江戸時代までは静かな農漁村だったが、脚光を浴びたのは長崎県の北部に位置する良港として、一八八九年に佐世保鎮守府が開庁したことによる。翌年には構内に造船部を設置(今の佐世保重工業)、一九〇二年には村から一足とびに市制を施行した。

先の大戦中に戦災で市街の大半を焼失したが、戦後いちはやく造船や炭鉱産業で復活した。原潜「エンタープライズ」入港では騒動となった。その後「西海国立公園九十九島」や「ハウステンボス」を有する国際観光都市として展開している。「ハウステンボス」はオランダ語で「森の家」。オランダの町並みを再現したテーマパークである。「ひと、交流創造都市」が市の目標。人口は約二四万人。

厦門市は、福建省南部に位置する観光港湾都市である。九竜江の河口にあり、台湾の対岸に位置する。金門島に近い。明代に城堡が築かれて厦門と称した。

その後、外国船の来航がふえて、貿易拠点となった。一八四二年の南京条約により開港して発展し、ウーロン茶の積出港として知られた。一九〇二年に列強国の共同租界地となり、いまも町並みに異国情緒を残している。厦門島、コロンス島、九竜江北岸沿岸部からなる。経済特区に指定されて急速に発展。人口は約一三六万人。

佐世保・厦門両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、経済貿易交流、技術研修生受け入れ、教育・文化・スポーツ、青少年、音楽・雑技団公演、書画展など。当初は文化交流が主体だったが、地方都市同士の経済交流こそ新たな流れとして、九九年の一五周年を機に発足したのが佐世保厦門経済技術交流研究会である。技術研修生の受け入れ、両市の企業間の交流拡大を目的としている。

地元企業が研修生を受け入れ、技術研修とともに人的交流も担っている。「みんな温かで、困るとすぐ助けてくれる」と評判がいい。帰国した研修生が会社を設立するなどの成果を生んでいる。万里の長城や中華料理を楽しんで、中国を体験し交流した時代は終わり。これから一〇〇年は、商いを通じ、どう中国と関わるかが地方都市の大きなテーマ」と主張する厦門市の光武顕市長は、一歩先を読んで実践に移している。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-新亜欧交流の東の起点

新亜欧交流の東の起点

堺市と連雲港市(江蘇省)  

ピラミッド、秦始皇帝陵とともに「世界三大墳墓」のひとつに数えられるのが仁徳陵古墳である。
仁徳陵を中央にかかえ、大阪湾に面する堺市。そこから同緯度を西にたどって約一五七〇キロ、黄海に面しているのが連雲港市である。

紀元前二一〇年ころ、徐福は、始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めて、童男童女(未婚の若者)や百工(技術者)を連れ、五穀の種子を携えてこの国にやってきた。薬は得られず、各地にさまざまな技術を伝えたとされる徐福の生地が連雲港といわれる。
徐福伝説のある地は二〇カ所にも及ぶが、堺市にはそれにちなむ行事はない。が、弥生時代の集落遺跡や仁徳陵をはじめとする古墳群の存在は、当時の大陸からの人的・物的な影響を強く受けずにはありえないものだろう。仁徳陵と秦始皇帝陵というふたつの巨大陵墓をつなぐ人物徐福の実在は、堺市と連雲港をつなぐ絆を太くした。 

その連雲港を起点として、鉄道はもうひとつの大墳墓「秦始皇帝陵」がある西安市をつないでいる。その先さらに西方のオランダまで、全長約一万九〇〇キロの「ユーラシア・ランド・ブリッジ」(新亜欧大陸橋)が通じている。二〇〇四年には高速道路が貫通して、道ははるか西方の第三の大墳墓、エジプトの「クフ王ピラミッド」へと連なる。歴史の大ロマンにはちがいない。
連雲港市は、亜欧ルートの東端であり、堺市はさらにその東の起点となる。 

日中国交が回復して友好交流が広まるなか、堺市では同緯度にあって中国八大重要港であり工業都市を擁するという類似性から、連雲港市との友好提携への機運が高まった。一九八三年四月に堺市友好訪中代表団が連雲港市を訪問、さらに一〇月に堺市友好訪中視察団が訪れて友好交流、調印について協議をおこなった。
そして一二月三日、連雲港市何仁華市長ら代表団が友好都市提携の式典に臨み、堺市の我堂武夫市長とともに議定書に調印した。 

連雲港市は、「沿岸開放都市」として、めざましい発展を遂げている。北京と上海とを南北につなぐ物流の要衝ともなっている。歴史上の人物、徐福の生地はいま徐福村になっている。孫悟空の誕生にちなむ花果山は観光名所である。人口は約四六五万人。 

堺市は、人口約八〇万人。すでに中世に「自由・自治都市」として「ベニス市のよう」(宣教師ビレラ)と報告されたように、早くから都市経営と海外交易の先端に立ってきた。戦国時代に自由人として死を賭して茶道を完成させた千利休を生み、日露戦争に際して「君死にたまふことなかれ」と詠った与謝野晶子を生んだ堺の街は、平和を願う民の心を潜在させている街である。

友好都市提携の一五周年に当たった九八年には、交流の拠点として連雲港市に「中日友好会館」を建設した。二〇周年の〇三年一〇月には、市長と代表団が相互訪問して両市で記念式典をおこない、太極拳の競演や胡弓と琵琶の競演などで交流を深めた。
八三年九月に提携と同時に発足した堺日中友好協会は、友好訪中団や技術者・経営管理者の派遣、各種研修生の受け入れ、京劇公演、書画展、中国語教育、スポーツ大会など、市の活動の中で重要な役割を果たしてきた。二〇周年には連雲港市を紹介する経済セミナーと徐福伝説の研究を発表する文化セミナーも主催した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-四〇〇年の国際海路を繋ぐ

四〇〇年の国際海路を繋ぐ

長崎市と福州市(福建省) 

長崎は開港のはじめから「世界への窓」としての役割を担い、いくつもの困難な主役を果たしてきた。
世界が大航海の時代に、逆に江戸幕府は門戸を閉ざして外国からの影響を避ける鎖国策をとった。唯一の窓として開かれつづけたのが長崎だった。  

長崎は、一五七〇年、基督教布教の住民への影響を危惧されて平戸を追われたポルトガルの要請に応じて、領主大村純忠が開港したもの。一六三六年に出島が完成した後は、和蘭(オランダ)船と唐(中国)船にのみ来航が許されることとなった。一六八八(元禄元)年には、入港する唐船が一九四隻に達し、金銀、絹織物、陶磁器、漢方薬などの交易が盛んに行われた。翌年には唐人屋敷も開設されている。

居留した唐人の多くは福州出身者だった。その後も福州からの華僑が多く訪れて、いまでも長崎市の華僑はほとんどが福建省の出身者である。
「国際港」長崎は、交易の裏で、医術ほかの学術・文化の窓口として「国際文化都市」の役割を果たしてきた。多くの有為な若者たちが長崎遊学をし、江戸期の文化を豊かにしたばかりか、日本近代化の礎石となった。

福州出身の人びとは、長崎にある崇福寺などゆかりの施設を大切にしてきた。一六二九(寛永六)年に建立の崇福寺は日本に類をみない南中国形式の寺院で、大雄宝殿や第一峰門は国宝に指定されている。いまも旧正月(春節)や中国盆会、「くんち」の龍踊りや「ペーロン(伯龍)競漕」といった行事が長崎名物になるなど、長崎・福州の交流の歴史は長く深く濃く生活とかかわっている。

福州市は、二二〇〇年の歴史をもつ港町で、福建省の中心都市である。閩江の河口に広がる馬尾港は、唐代以来の東方に開く「国際港」である。崇福寺(同名の寺が長崎にある)など禅寺も多い。長崎の興福寺に招請された隠元禅師は、福建の人である。一六五四(承応三)年に六三歳のときに弟子を伴って来朝し、後水尾法皇や徳川家綱の崇敬をえて、のちに宇治に黄檗山万福寺を創建した。人口六八〇万人。

両市の友好都市提携は、一九七九年六月に中日友好の船「明華号」が来航した際に、中日友好協会会長の廖承志団長に要望書を出したことに始まる。翌八〇年四月には本島等市長らが訪中して申し入れをおこない、七月には市議会全員協議会で承認した。一〇月には福州市友好訪問団(団長・游徳馨市長)が来日、一〇月二〇日の市議会会議場での調印式に臨んだ。

以後両市は、長崎・福州直通貨物航路の開設、長崎貿易協会の設立、物産展。水産農林、水道、アマチュア無線、医学などの技術交流やスポーツ、友好校提携、「ながさきジュニア世界見聞録」派遣などの交流を幅広くつづけている。九八年の「福州市建城二二〇〇年」記念のドラゴンボート・レース大会には、長崎市ペーロンチームも参加した。
二〇〇五年は提携二五周年に当たった。長崎市では一〇月二二日~二三日にわたって記念イベント「福州デイ」が開かれた。セレモニー会場となった駅前かもめ広場には福州市の紹介や両市の交流史のパネル展のコーナーも設けられ、蛇踊りも登場した。

長崎市は、一九四五年八月九日の原子爆弾投下という被爆経験をもつ「国際平和文化都市」として、国際的役割を担うこととなった。原爆写真展や世界平和連帯都市市長会議、反核NGO国際会議などを開催しつづけている。「平和公園」にある「乙女の像」は、福州市から贈られたものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-三方に開く海を恵みに

三方に開く海を恵みに

下関市と青島市(山東省)  

下関は、古くから開かれた大陸への門戸であった。また水産業での深い関連もあって、早くから官民一体で日中友好促進の活動に取り組んできた。すでに一九七四年と七七年には下関市訪中団を派遣している。

そして七九年五月に「友好の船・明華号」が訪日の折り、最初の寄港地となったのが下関だった。訪れた中日友好協会会長である廖承志団長から、青島市との友好都市提携の正式な呼びかけがあって、締結へと進むことになった。知日家の廖承志団長の意中には、赤間関市(下関市の旧名)と青島市とのあざやかな色同士の配合もあったかもしれない。

両市の友好都市議定書の調印式は、七九年一〇月三日、下関市に青島市友好訪問団を迎えて、市民会館でおこなわれた。劉衆前革命委員会主任(市長)と泉田芳次市長が議定書に署名して交換した。下関市の泉田市長は、
「関門海峡の水は膠州湾からうちよせたもの」
と、国境を越えた両市の近くて密接な絆を強調し、訪れた劉市長に国際親善名誉市民の称号を贈り、両市の友好交流への熱意を示した。その後、八二年八月には山東省と山口県の省県友好提携も成立している。

下関市は、本州と九州の結節点であり、源平の合戦や明治維新といった歴史の転換期の舞台となってきた。一八八九年に初の市制による三一市のひとつ赤間関市として誕生した。九七年には「日清講和条約」(下関条約)の締結地になった。一九〇二年に下関市と改称した。吟詩の人なら知らないもののない伊形霊雨の「赤間関舟中」には「碧海遥かに回る赤間関」とある。フグ、アンコウの水揚げは日本一である。人口は約三〇万人。

青島市は、山東半島の西南に位置する沿海開放都市である。二〇世紀初頭にドイツ統治下にあって形成された街並みがいまに残る。「赤い瓦、紺碧の海、真っ青な空、緑の樹」の美しい町並みは観光客を楽しませている。毎年八月に開かれる青島ビール「国際ビール祭り」(二〇〇三年は一〇〇年記念だった)は青島の夏の最大イベントとなっている。経済技術開発区には内外の進出企業も目立つ。人口約七〇〇万人。 

提携後の友好交流は、市代表団の相互訪問、青年研修団(八一年から)や小・中学生(九〇年から)の派遣、市職員の相互受け入れなど。SARS募金(〇三年)で医療機器を寄贈、国際フォーラム、青島物産展、八九年の下関市市制一〇〇周年記念中国青島市博物館所蔵「明清書画名品展」などもおこなわれている。八〇年に初就航したフェリー「ゆうとぴあ」が週二便(所要時間は下関―青島二八・五時間)就航している。

二〇〇四年一〇月九日~一五日には、青島市で「青島日本週間」が開催された。「投資、ビジネス、生活、観光」をテーマとしたもので、この年の開校しあ青島日本人小学校の生徒によるソーラン踊りは人気を博した。JASCO(佳世客)での「日本商品展示会」は大賑いとなった。つづいて一〇月一八日には、下関・青島両市の「友好都市二五周年記念式典」がおこなわれ、晩餐会では和太鼓・三味線に合わせて江島潔・夏耕両市長をはじめ関係者みんなが加わった「平家踊り」が友好を実感させるセレモニーとなった。お茶・いけばななどの文化交流展や記念植樹のほかに、親善ヨット競技大会も青島江泉湾海域で実施した。

この会場は、〇八年の「北京オリンピック」ではヨット競技の会場になった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-海外に扉を開く自立都市

海外に扉を開く自立都市

福岡市と広州市(広東省)  

「南大門」の称があるほど、広州市は開放的な港湾都市として栄えてきた。福岡市・広州両市ともに首都とは遠く離れた地にありながら、古くから海外への門戸を開いて独自の発展をしてきた大都市である。同じ経緯をもつことから福岡市による友好都市提携への取り組みも早かった。 

すでに一九七二年には福岡市議会が、友好都市の相手として広州市を決定し、「広州交易会」の折りに市長の親書を届けている。それ以後も、往来のあるたびに友好都市提携への交渉がなされた。
そして広州市から楊尚昆市革命委員会主任(市長。後の国家主席)を迎えて、進藤一馬市長との間で友好都市提携の調印式がおこなわれたのは、七九年五月二日、全国で一〇番目、北九州市・大連市の調印の翌日のことだった。

友好交流は多彩である。さっそく広州動物園から二頭のパンダを借り受けて公開(八〇年)し、翌年お礼に子どもたちが喜ぶジェットコースターを贈呈した。
市友好訪問団はもちろん、都市建設、教育、医療衛生代表団の派遣などの行政交流、「アジア太平洋都市サミット」での多都市間交流、「広州旅遊博」への出展、「女性の翼」や弁論大会、少年野球といった民間交流や学校提携など。福岡は海外の七市と広州は一五市と友好関係を持っているが、とくに両市の交流は古き良き朋友として、新たな創造をめざして推進されている。

広州市は、広東省の省都で、華南地区の中心都市である。二八〇〇年を越える歴史をもつ。粤菜は広東料理、粤劇は広東方言の地方劇だが、海外の華僑にも人気がある。近代革命でも重要な役割を果たしている。
一九二一年、孫文はここで非常大統領の就任式をおこなった。その官邸の跡地に、孫文没後の三一年、広州市民と海外華僑が資金を集めて建設したのが「中山記念堂」である。
湾口で香港と澳門に接している。春秋二回の「広州交易会」には一〇万人を超えるバイヤーが訪れる改革開放の先進都市として知られる。上海市、北京市に継ぐ第三位の経済力を誇る。わが国の自動車メーカーもここに集中進出している。人口は約七二〇万人。

福岡市は、北は玄海灘に臨み、博多湾を擁する九州の中枢都市である。「日中交流二千年」が福岡から始まったといわれるのは、西暦五七年に後漢の光武帝劉秀から与えられた倭の奴国王の金印(国宝)が、江戸時代に博多湾で発見されたことが実証しているからである。東アジアの主要都市を結ぶのに最適の位置にある。入国外国人は年間約四〇万人で、七割がアジア地域から。福岡アジアビジネス特区に認定されている。福岡アジア文化賞や福岡国際マラソン大会は有名である。人口は約一三八万人。

 二〇〇四年は友好二五周年に当たった。九月二三日に広州市で、張広寧・山崎広太郎両市長が会見し、経済、物流をさらに強め、観光、スポーツ、青少年などの市民交流をいっそう進める新たな覚書に署名した。

福岡市には「二一世紀新中華街」構想がある。二〇〇〇年に及ぶアジア各地との独自の交流は、倭の奴国の遣いからはじまり、中世の「大唐街」(初の中華街)などの経緯を経て、一九八九年の「アジア太平洋博覧会」(三七カ国・地域、二国際機関が参加)につながり、さらに二一世紀には、アジアのビジネス交流拠点としての「二一世紀新中華街」が求められるというもの。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-環境国際協力に友好の成果

環境国際協力に友好の成果

北九州市と大連市(遼寧省) 
 
産業の発展と引き換えに「灰色の空」と「生物がすめない海」という公害に直面していた六〇年代の日本の都市。北九州地域もそのひとつだった。同じ課題をもつ門司、小倉、若松、八幡、戸畑の五市が対等合併をして一九六三年に北九州市が発足した。九州の最北端に位置する日本有数の工業・港湾都市の誕生である。

北九州市はそれから四五年、市民、企業、大学および行政が一体となって、公害克服に努めてきた。その過程で蓄積したさまざまな技術や経験は、現在おくれて公害問題に遭遇しているアジア地域の諸都市に、環境国際協力として積極的に活かされている。「東アジア(環黄海)都市会議」を提唱し、推進している。

大連市は、遼東半島の南端に位置して、西は渤海に、東は黄海に面している。北には広大な中国東北地域が広がっており、「中国東北の窓口」として重要な役割を果たしてきた。一九世紀末にロシアによって港湾建設がなされ、一九〇五年の日露戦争による日本占領後は、大連と呼ばれて港湾、鉄道、工業の開発・整備が加速されて、都市の形態が整った。そのころの市街や建物が多く利用されている。

四九年の新中国建国後に旅順と金州を合併して旅大市となったが、八一年に再び大連市に。外資系企業も多く、東北地区随一の経済都市となっている。毎年五月の「アカシア祭り」が有名で、同時に開かれる「中国大連輸出商品交易会」とあわせて、世界各地からの訪問客で賑わう。

また大連市は中国有数の工業都市であり、八〇年代の急激な工業化や都市化により、大気汚染や水質汚染、廃棄物処理などの深刻な環境問題に苦慮することとなった。漁業も盛んでとくにホタテやウニなどの養殖がすすんでいる。

都市形態が類似していることから、北九州市が大連市との提携を希望して両市が友好都市となったのは、七九年五月一日だった。北九州市に友好訪問団を迎え、崔宋漢市革命委主任(市長)と谷伍平市長が議定書に調印して成立した。全国で九番目だった。

九三年、北九州市が大連市に提案した「大連市環境モデル地区計画」の開発調査は、地方自治体レベルの協力としてはじめて政府間ODA案件となり、国と自治体が共同して取り組む画期的な事業となった。

中心市街地をモデル地区として、総合的な環境改善対策をおこない、大連市の環境は大幅に改善された。二〇〇一年には国連環境計画(UNEP)から「グローバル500」を受賞し、同年に中国政府から北九州市長に「中国国家友誼賞」が贈られている。北九州市は、国連の同賞を九〇年に受けており、友好都市同士の受賞は世界で初となった。

「北九州市との環境パートナーシップにより青い空をとりもどした大連市」

として国際的に評価された。
提携後の主な交流は、友好港締結、「東アジア(環黄海)都市会議」の開催、「大連ファッション祭」(毎年九月)への参加、北九州博覧会にパビリオン参加、研修生交換、環境技術ビジネス交流、大北亭(三周年に建設)や国際友好記念図書館(一五周年に開設)、クルージング(二〇周年)など。
〇四年五月の二五周年は、両市の市民交流団が相互に訪問して祝った。

「世界の環境首都」をめざしている北九州市は、市民と一体となって環境国際協力に取り組んでいる。途上国からの研修員の受け入れは、約九〇カ国一〇〇〇人に及んでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

友好都市・港が絆-表玄関である自負と実力

表玄関である自負と実力

大阪市と上海市  

「上海が稼ぎ、北京が使う」というようだが、そう一方的なものではないだろう。大都市住民の活力によって、それぞれに発展してゆくのだろう。二〇〇八年の「北京五輪」と一〇年の「上海万博」を機にして、南北のふたつの大都市が競って都市インフラを含めた変容を遂げようとしている。

一九七〇年の「大阪万博」や〇五年の「名古屋博」を上まわる規模の「上海万博」は、一〇年五月一日~一〇月三一日の会期で、七〇〇〇万人の入場者を見込んでいる。テーマは「都市、生活をさらに美しく」(城市、譲生活更美好)で、先に東京が返上した都市博であることがまた示唆的である。

日中国交回復後の七三年、中日友好協会の招きを受けた「京阪神三市長訪中友好代表団」は、六月二二日に北京で李先念副首相、廖承志中日友好協会会長と会見した。その後、京都市長は西安市へ、神戸市長は天津市へ、そして大阪市の大島靖市長は上海市へとそれぞれ向かった。大島市長は、翌七四年に友好都市提携をおこなうという合意をみて帰国した。京阪神三市による日中友好都市提携の幕開けであった。

七四年四月一五日、「大阪日中友好の船」は、団員四二〇人余を乗せて大阪港を出港した。各団体・協会の代表をはじめ、書道家、鍼灸師、医師、棋士、ママさんバレーや児童劇団のメンバーなど各界の市民代表が参加、四月一八日の上海市大会堂での式典に臨んだ。

四月一八日、会場では上海市各界の市民代表が大阪市友好訪中団を熱烈に歓迎、馬天水上海市革命委員会副主任(副市長)と大島靖大阪市長が、両市が正式に友好都市になったという歴史的な宣言をおこなった。集会のあと代表団は、雨のなかを西郊公園での記念植樹に臨んだ。

上海市は、横浜市との友好都市提携のところでも述べたように、一八四三年の南京条約によって開港して以来、飛躍的に発展した。新中国成立の後、ことに改革開放後に長江流域を龍身とする「龍の頭」として、首をもたげるように沿岸地域の経済をリードしながら、その地位を揺るぎないものとした。最近では浦東新区の開発により、国際的な金融、貿易、経済のセンターとしての機能を果たしている。

大阪市は、古代日本の海外への門戸であった難波津のころから水運によって栄えた水の都である。江戸期には全国からの物資の集散地となり、「天下の台所」といわれて、国内最大の経済都市に発展した。歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃(世界無形文化遺産)などの上方文化は、いまに伝統芸能として伝えられている。大戦後は東京に首位を譲ったが、西日本の中枢として「大阪万博」や「花と緑の博覧会」(九〇年)などを開催した。「二一世紀のモデル都市」をめざしている。人口は約二六〇万人。

提携後の友好交流は、各界にわたって展開している。七五年の一周年記念展物産展の開催、七八年には「大阪教育の翼」訪中団の派遣、八〇年には大阪府が上海市と友好提携をおこなった。八一年には上海曲技団がパンダ「偉偉(ウエイウエイ)を伴って来阪、八五年には大阪上海経済交流会議(第一回)を大阪で開催、九五年にはビジネスパートナー都市(商業伙伴城市)として提携した。

三〇周年の〇四年の記念事業も、「中国五千年の名宝・上海博物館展」、フォーラム「都市の相互依存」をはじめ、写真展「上海の風情」、「中国の調べ、日本の調べ」演奏会、小中学生絵手紙交流展、記念植樹(大阪に白玉蘭、上海に桜)など、多彩な分野で開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)