友好都市・港が絆-四〇〇年の国際海路を繋ぐ

四〇〇年の国際海路を繋ぐ

長崎市と福州市(福建省) 

長崎は開港のはじめから「世界への窓」としての役割を担い、いくつもの困難な主役を果たしてきた。
世界が大航海の時代に、逆に江戸幕府は門戸を閉ざして外国からの影響を避ける鎖国策をとった。唯一の窓として開かれつづけたのが長崎だった。  

長崎は、一五七〇年、基督教布教の住民への影響を危惧されて平戸を追われたポルトガルの要請に応じて、領主大村純忠が開港したもの。一六三六年に出島が完成した後は、和蘭(オランダ)船と唐(中国)船にのみ来航が許されることとなった。一六八八(元禄元)年には、入港する唐船が一九四隻に達し、金銀、絹織物、陶磁器、漢方薬などの交易が盛んに行われた。翌年には唐人屋敷も開設されている。

居留した唐人の多くは福州出身者だった。その後も福州からの華僑が多く訪れて、いまでも長崎市の華僑はほとんどが福建省の出身者である。
「国際港」長崎は、交易の裏で、医術ほかの学術・文化の窓口として「国際文化都市」の役割を果たしてきた。多くの有為な若者たちが長崎遊学をし、江戸期の文化を豊かにしたばかりか、日本近代化の礎石となった。

福州出身の人びとは、長崎にある崇福寺などゆかりの施設を大切にしてきた。一六二九(寛永六)年に建立の崇福寺は日本に類をみない南中国形式の寺院で、大雄宝殿や第一峰門は国宝に指定されている。いまも旧正月(春節)や中国盆会、「くんち」の龍踊りや「ペーロン(伯龍)競漕」といった行事が長崎名物になるなど、長崎・福州の交流の歴史は長く深く濃く生活とかかわっている。

福州市は、二二〇〇年の歴史をもつ港町で、福建省の中心都市である。閩江の河口に広がる馬尾港は、唐代以来の東方に開く「国際港」である。崇福寺(同名の寺が長崎にある)など禅寺も多い。長崎の興福寺に招請された隠元禅師は、福建の人である。一六五四(承応三)年に六三歳のときに弟子を伴って来朝し、後水尾法皇や徳川家綱の崇敬をえて、のちに宇治に黄檗山万福寺を創建した。人口六八〇万人。

両市の友好都市提携は、一九七九年六月に中日友好の船「明華号」が来航した際に、中日友好協会会長の廖承志団長に要望書を出したことに始まる。翌八〇年四月には本島等市長らが訪中して申し入れをおこない、七月には市議会全員協議会で承認した。一〇月には福州市友好訪問団(団長・游徳馨市長)が来日、一〇月二〇日の市議会会議場での調印式に臨んだ。

以後両市は、長崎・福州直通貨物航路の開設、長崎貿易協会の設立、物産展。水産農林、水道、アマチュア無線、医学などの技術交流やスポーツ、友好校提携、「ながさきジュニア世界見聞録」派遣などの交流を幅広くつづけている。九八年の「福州市建城二二〇〇年」記念のドラゴンボート・レース大会には、長崎市ペーロンチームも参加した。
二〇〇五年は提携二五周年に当たった。長崎市では一〇月二二日~二三日にわたって記念イベント「福州デイ」が開かれた。セレモニー会場となった駅前かもめ広場には福州市の紹介や両市の交流史のパネル展のコーナーも設けられ、蛇踊りも登場した。

長崎市は、一九四五年八月九日の原子爆弾投下という被爆経験をもつ「国際平和文化都市」として、国際的役割を担うこととなった。原爆写真展や世界平和連帯都市市長会議、反核NGO国際会議などを開催しつづけている。「平和公園」にある「乙女の像」は、福州市から贈られたものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)