友好都市・港が絆-近代開港ふたつの東方明珠

近代開港ふたつの東方明珠

横浜市と上海市  

上海の虹橋空港に飛鳥田一雄横浜市長ら市友好代表団が降り立ったのは、一九七三年一一月二八日のことだった。

色とりどりの旗や桜の造花を手に手に、歌い踊る数百人の市民の歓迎を受けた。一一月三〇日、飛鳥田市長は上海市革命委員会の馬天水副主任(副市長)とともに「友好都市宣言」をおこない、上海市大会堂に集まった市民代表の熱烈な拍手のなかで、錦旗を交換した。神戸市―天津市に次いで二番目、上海市にとっては海外初の友好都市となった。

上海が正式に開港したのは、一八四三年。横浜は一八五九年である。
ともに東アジア近代化の門戸として類似した役割をになってすすむことになった。一八七一(明治四)年の日清修交条約締結のあと、欧米諸国の通商事業に合わせて両市の接触も始まった。初の国際航路として横浜―上海が結ばれたのは七五年のこと。それ以来、近代化の役割を共有しながら港湾都市としてともに発展してきた。

新中国になってからの出会いは、一九六四年八月に貨物船「燎原号」が中国船として横浜に入港したときに始まる。以後、両港を窓口として人や物の往来が活発になり、中国との交流をつづけてきた市民団体や地元経済界、横浜華僑総会などを中心に、上海市との友好都市提携への活動が地道にすすめられた。
すでに横浜市は、サンディエゴ市(米)、リヨン市(仏)、ボンベイ市(インド)、オデッサ市(ウクライナ)、バンクーバー市(カナダ)、マニラ市(フィリピン)などと姉妹都市提携を結んでおり、隣国中国の上海市ともという機運が市民のなかに強まった。

横浜市が上海市に友好都市提携を呼びかけたのは、一九七一年六月だった。七二年九月の日中国交正常化より前だったが、卓球、バスケット、サッカー(けがをした劉文斌君の入院と激励)といったスポーツを通じた青少年の交流が、両市の市民の関心と親近感を高めるのに力があった。横浜市には、とびきり元気なまち元町中華街があることで知られる。人口は約三五五万人、中国人は約二万三千人が居住する。

上海市は、一八四三年に南京条約により開港し、英米仏などが租界を開設、外灘には次々に洋風建築が並んだ。一九二一年には共産党第一回全国代表大会が開かれ、三七年の日本軍による占領など苦難な時期を経て、四九年に解放された。とくに改革開放以後の発展はめざましく、二〇一〇年には万国博が開かれる。人口は約一三三四万人。

これまでの両市の友好交流の主なものは、両市友好代表団の相互訪問をはじめ各分野での幅広い交流、横浜工業展覧会や上海工芸品展覧会の開催、友好港提携、横浜上海友好園の開設と朱鎔基上海市長の来浜、金絲猴の寄贈など。二〇周年には両国関係者が五年をかけて制作した『横浜と上海』が発刊された。

二〇〇三年は、友好都市提携三〇周年に当たった。日中間のきびしい政治環境を象徴する上海市へ、横浜市友好訪問代表団が訪れ、一一月三日には中田宏市長と韓正市長との間で五年間の「友好交流事業に係る協定書」に調印、「横浜港セミナー」や「日中観光フォーラム」などを開催した。〇五年が創立三五年の横浜日中友好協会は、七月に日中韓民族舞踊交流会を催し、機関誌「移山」は一〇〇号を迎えた。
横浜は開港一五〇年を迎える二〇〇九年に「世界卓球選手権横浜大会」を開催する。それに先立って「横浜・上海・北京友好都市対抗卓球大会」が開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-友好都市の第一号として

友好都市の第一号として 

神戸市と天津市

神戸市と天津市が、「日中友好都市」の第一号となった。
その記念すべき「友好都市宣言」は、一九七三年六月二四日に、天津市でおこなわれたのだった。

北京にある中日友好協会の招きを受けた「京阪神三市長訪中友好代表団」は、香港・広州をへて北京に到着し、六月二二日に、李先念副首相および廖承志中日友好協会会長と会見した。そのあと六月二三日にはそれぞれに、神戸市の宮崎辰雄市長は天津市へ、大阪市の大島靖市長は上海市へ、そして京都市の船橋求己市長は西安市へと友好訪問に向かった。

神戸市の宮崎辰雄市長一行は、六月二四日、熱烈歓迎をうけて天津市が主催した歓迎集会に出席した。
席上、解学恭天津市革命委員会主任(市長)が挨拶し、
「天津市と神戸市は、きょうから正式に友好都市関係をうち立てた」
と宣言した時、参加した一五〇〇人余の市民代表の拍手は鳴り止まなかったという。

宮崎市長は、前年の七二年一〇月、日中国交正常化の直後に「日中友好青少年水泳訪中団」の団長として、北京で周恩来総理と会見し、天津市との「友好都市」提携という新たな平和の絆の実現に同意を得たのだった。当時、訪中団員として参加をしたために、橋爪四郎、木原美知子選手らが日本水泳連盟から除名されるというきびしい両国関係の環境のもとでのことであった。

天津市は、直轄市のひとつである。人口は約九五七万人。北京への海の玄関として、一八五八年に天津条約により西欧列強の租界地となって開けた。現在は中国北方地域の総合産業都市として発展している。周総理はここで青年期を過ごし、南開中学へと通った。夫人となる鄧頴超女史とはここで出会っている。市内に「周恩来鄧頴超紀念館」がある。

神戸市と天津市が友好都市として結ばれるにあたって、孫文の姿を重ねないわけにはいかないだろう。孫文は一九二四年、死の前年に神戸を訪れて、日本国民にむかって最後の問いかけをし、船で天津に向かったのだった。

神戸市の舞子浜にある「孫中山記念館」には、神戸から天津にむけて出航した「北嶺丸」船上での孫文と宋慶齢の写真が残っている。孫文の表情は、日本への永別と病気の進行による疲労が重なってか、鎮痛である。
このとき、上海から長崎経由で神戸入りした孫文は、二四年一一月二八日、「大アジア問題」と題して講演し、

「西方覇道の鷹犬(手先)となるか、東方王道の干城(守り手)となるか」

について日本国民の慎重な選択を求めたのだった。アジアのリーダーとしての選択は、なお今日的な課題である。

神戸市は、一八六八年の開港以来、外国人が最も住みやすい町といわれて発展してきた。いまでも人口約一五〇万人のうち約四・五万人が外国人である。一万人を超える中国人が居住し、中華街(南京町)、学校、病院、墓地などもそろっている。神戸・天津両市を結ぶフェリー「燕京号」が就航し、ポートアイランドでは二一世紀の日中関連ビジネスの核となる「新たな中国人街」の形成が進んでいる。

市民の交流活動も多彩である。神戸市外国語大学と天津外国語学院の学術交流協定、「中国五〇〇〇年の秘宝展」の開催、神戸・天津友好画家交流会、太極拳カーニバル、神戸王子動物園と天津動物園の動物交流、天津水上公園「日本神戸園」の建造など。中国にとっては世界の一四〇〇友好都市のうちの第一号であり、日中友好の絆は、国際都市神戸市―天津市の成功にひとつの象徴をみることになるだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-世界をめざす二つの瓷都

世界をめざす二つの瓷都

有田町と景徳鎮市 

「世界・焱の博覧会」の会場は、その時、熱気に包まれた。一九九六年八月二八日、新世紀の「国際的な陶磁文化のまち・有田」をめざして、有田町が総力をあげて催した博覧会の会場で、多くの町民・観光客が見守る中で、有田町の川口武彦町長と景徳鎮市を代表して訪れた舒暁琴市長は、両町市の友好都市締結の調印式をおこなった。いっそう盛大になったのは、同時に韓国陶磁器文化振興会との間に友好団体協定が結ばれたからである。

日中韓三国の有名な陶磁器の生産地が交流を深めることによって、「伝統ある東洋陶磁器文化の発展の流れを促進していきたい」と、川口町長が力を込めて挨拶した歴史的な瞬間であった。

四〇〇年前に、朝鮮渡来の陶工(李参平)に学びながら、草創期の有田の陶工たちが炎の中に追求して極めた磁器「伊万里」は、時を経てふたつの著名な陶磁器の生産地を結ぶ絆となったのである。

景徳鎮市といえば、一〇〇〇年余の歴史をもつ陶磁器生産の「瓷都」である。人口は一三二万人。一四世紀の元末から明初に景徳鎮で焼かれた「染付磁器」が、長江を下って海路、ヨーロッパ、朝鮮、日本にもたらされて、その名を国際的なものにした。ドイツのマイセンと盛名を二分する世界的な陶磁器の産地である。

有田町は、人口約一万三〇〇〇人。景徳鎮には比すべくもないこぢんまりした町である。山合いに東西に伝統的な町並みが保存されている。西には「焱の博記念堂」のある「歴史と文化の森公園」が広がり、南にはドレスデンのツヴィンガー宮殿(陶磁コレクションで有名)を模した「有田ポーセリンパーク」がある。豊かな自然の中で、過去と現在の陶磁器の良品にふれながら、新しい「有田文様」を生み出す拠点づくりが進んでいる。春のゴールデンウイークに開かれる「有田陶器市」には町内四キロにわたって約七〇〇軒の店舗が並び、一〇〇万人近い人びとが訪れる一大イベント。秋は一一月に、泉山弁財天神社の大銀杏(樹齢一〇〇〇年、高さ四〇メートル)の色づく町で、「食と器でおもてなし」をテーマにした「秋の有田陶磁器まつり」がおこなわれる。

かつて一七世紀初め、有田の産品が船積みされた港「伊万里」の名で呼ばれた磁器を制作した有田の陶工たちは、それまでの景徳鎮の製品や朝鮮李朝の技法に学びながら、「赤絵」や「濁手」さらに「金襴手」など、独自の様式を確立してきたのだった。有田の三右衛門と呼ばれる柿右衛門、今右衛門、源右衛門窯がいまも伝統を引き継いで活躍している。
有田町は、ドイツの磁器の町マイセンとは一足早く、七九年に姉妹都市となった、景徳鎮市とも八〇年代から親善訪問団、景徳鎮陶器祭り視察、有田窯業大学校生研修(毎年)など、友好関係を積み上げてきた。

そして九五年一〇月、「景徳鎮陶器祭り」に参加した有田町訪中団に対して友好都市提携の提案がなされ、「焱の博覧会」での正式締結となった。
二〇〇四年一〇月、「景徳鎮一〇〇〇年」祭を記念して、景徳鎮市で世界陶磁博覧会が開催された。京都、瀬戸(九六年に友好都市に)とともに有田町も参加要請を受けた。

一八六八年のパリ万博で与えた美の衝撃を、どうやって現代に創出するのか。新世紀を迎えて、先人の先取りの精神を受け継ぎ、新しい有田が誇る陶磁文化を国内外に発信して、名実ともに「国際的な陶磁文化のまち」を築くという有田五〇〇年への挑戦は、いま始まったばかりである。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

友好都市・産業の絆-内陸盆地の鉱産都市

内陸盆地の鉱産都市 

秩父市と臨汾市 

 「尭天舜日」というのは、尭や舜のような賢明な指導者のもとで、太平の世がつづくことにいわれる。聖人の尭が天子の位につき五〇年のあいだ天下を治めた地とされるのが臨汾である。市の南に尭廟があり、東に尭陵がある。伝説時代の事実は、ほかになくここにあるのだから認めることにしよう。ほかにあってもここがふさわしければ認めることにしよう。学者ではなく住民にもっとも近いところで。

市外に出れば限りなくつづく黄土高原の起伏。尭の末裔は、いまでもつましく、高原の窰洞(黄土をくりぬいた住居)で暮らしている。

 臨汾市は、山西省西南部の臨汾盆地の中央に位置し、黄河の支流汾河に臨んでいる。前述した省都の太原(姫路市と友好都市)までは北へ二七〇キロ、人口は約五三万人。
横丁まで花木、果樹が植えられて「花果城」と呼ばれ、しばらく前まではロバが目立つ街だった。その臨汾市に、近年は石炭を運ぶ長距離トラックが目立ち、コークス作りの煙りが漂い、さらに黄砂が舞う。

内陸地域の開発は、鈍いというよりも歪んだ影響を受けているといえる。
石炭や鉄鉱石、石灰岩といった鉱産資源に恵まれ、製鉄やセメント工業が盛んな臨汾市だが、極度の大気汚染に見舞われ、二〇〇四年には中国全土でワースト・ワンになり、最近の米国研究所の調査(〇七年)では世界ワーストテンに挙げられている。

同じ内陸の鉱産都市として秩父市も、かつて武甲山の石灰岩採掘による灰塵が秩父盆地の家々を覆った時期があった。灰塵が産業活動のシンボルとされた時期から、生活環境の保全のために改善すべき事態となり、厳しい選択を経て、最近では電子産業が新たな地場産業となってきている。人口は約六万人。

秩父山地の山々に守られ、独自の産業と文化を培ってきた秩父市は、近世には秩父銘仙や木材が、明治以降はセメント工業で知られた。秩父夜祭や札所三四カ所観音巡り、そして秩父の四季の自然は、訪れる人びとに安らぎを与えつづけている。「助け合い温もりのまちづくり」は、秩父伝来のものの表現である。 

秩父・臨汾両市の友好都市提携は、八四年に秩父郡市の市町村長が太原市を視察した際、山西省側から秩父と態様がよく似た臨汾市を紹介されたのが契機となった。提携の調印式は、八八年一〇月七日、臨汾市でおこなわれた。内田全一市長が署名した協定書に、劉和平市長と新井一夫助役が署名して成立した。 

 いずれもが内陸の都市のために、市民同士の往来は限られるが、その後の両市の友好交流活動は、秩父国際学院(日本語学校)の開校や研修生受け入れ、青年交流団や親善訪問団の受け入れ、「日中友好の翼」での訪問や「国際尭都太鼓大会」へ秩父屋台ばやしの特別出演、周波氏の版画「黄土高原」展、写真展「黄土高原と窰洞」の開催などで友好の絆は深まっている。秩父市の国際学院で学んだ「こどもたち」も四〇歳代になり、現地での活躍が目立つようになった。

地元で秩父山地の農民の暮らしを追いつづけてきた写真家の南良和さんが、友好都市臨汾の黄土高原で暮らす農民を撮影して二〇年余になる。
「秩父には見出せない農業の原点がある」
という。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-最先端技術を駆使する古都

最先端技術を駆使する古都

姫路市―太原市(山西省) 

日本人なら姫路といえば「白鷺城」を思い浮かべるように、中国人なら太原といえば「晋祠」を思い浮かべる。ともに忘れられない都市なのである。

ともに輝かしい歴史をたどり、優れた文化遺産をもつ姫路市と太原市。 
両市の友好提携への動きは、両市の交流を期待する人びとの尽力の成果をかさねて、一九八四年に太原市の友好都市考察団が姫路市を訪れたことからはじまった。

太原側からその折に友好都市提携の申し入れと視察団派遣の招聘を受けた姫路市は、翌八五年に訪中視察団を派遣した。その視察報告を受けて、姫路市からも提携の申し入れをおこない、八七年一月に太原側から国内手続きが完了した旨の親書が届き、姫路側が訪問団を送って協議を重ねた。

かくして八七年五月二〇日、楊崇春市長ら太原代表団を姫路市に迎えて、戸谷松司市長との間で友好都市協定書の調印にこぎつけたのだった。戸谷市長は「志有る者は事ついに成る」という中国のことわざを引いて、
「国際平和のために隣国同士、努力していこう」 
とあいさつ、楊市長は、
「末長い友情を後世のために大切にしていきたい」
と希望を述べた。

太原市は、山西省の省都である。北京から南西に五〇〇キロに位置している。古都として北京、西安、洛陽ほど知られてはいないが、中国史の中では重要な役割を果たしてきた「歴史文化名城」である。二〇〇三年に「開城二五〇〇周年」を迎えた。

唐を開いた李淵はここから出て全土を掌握した。周初に晋国を拓いた唐叔虞(周武王の次子)を祀る「晋祠」で知られる。北宋時代に建立された聖母殿に現存する三三体の侍女像は、どれも表情や服装が美しい塑像の傑作である。また清末の資本家の邸宅「喬家大院」は、大・小院が二六、部屋が三一三室という大規模なもので、八六年から「祁県民族博物館」となっている。中国映画コン・リー主演の『紅夢(大紅灯篭高高掛)』はここを舞台に撮影されたものである。

太原市はいま、採炭と重工業化から生じた大気・水質汚染に対して、日本からの環境整備事業への借款や「CP(クリーン・プロジェクト)モデル都市」としての取り組みによって脱皮を図っている。人口は約二九〇万人。

姫路市は、兵庫県南西部に位置し、瀬戸内海に臨む中核市。「国宝・姫路城」は巧妙な守りの構造を優美な姿につつんだ日本城郭の傑作として、日本初の世界遺産に登録されている。また天台宗の古刹「書写山円教寺」は壮大な大講堂、食堂、常行堂をもつ建造物として知られる。
近年は播磨科学公園都市として最先端技術開発による経済の活性化にも取り組み、国際会議や大会を誘致するなど国際交流都市をめざしている。人口は約四七万人。

交流の実際となると、太原市は内陸都市なのでお互いに難があるが、これまでの両市の交流は、経済・科学技術・環境保護・都市建設などの市視察団のほか、青少年交流を中心におこなわれている。語学研修生は毎年相互に実施、技術研修生の受け入れ、中学・高校生の派遣と受け入れもつづく。書画展、太原雑技団の公演、牡丹の受贈なども両市をつなぐ行事である。

提携記念に「友情が大きく育つ」ことを祈って、一九八七年に市役所敷地に植樹された紅梅は、毎年、鮮やかな花を咲かせている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-東北・盆地・樹氷・物産が絆 

東北・盆地・樹氷・物産が絆 

山形市―吉林市(吉林省) 

 吉林市内には松花江が流れ、冬の河畔の樹挂(樹氷)で知られる。冬も凍らない松花江の水蒸気が河畔の松や柳に接して「夜は霧氷、朝は樹氷、正午は落花」と変化するのは壮観である。毎年一一月下旬から三月まで見られる。

山形市には蔵王の樹氷があり、蔵王の樹氷は、幻想的な冬の風物詩として有名である。
「樹氷」も絆のひとつとなっている。 

山形市は、国際的な蔵王スキー場をもつことから、「銀嶺の王者」トニー・ザイラーやスキー関係者との交流が縁でオーストリアのキッツビューエル市と姉妹都市(一九六三年)になり、その後オーストラリアのスワンヒル市、中国の吉林市、ロシアのウラン・ウデ市、アメリカのボルダー市と姉妹都市になるなど、「心と心を結ぶ架け橋」を合言葉に世界各地の都市と友好の輪を広げてきた。

中国の東北地区にある中心都市、吉林市との交流は一九七九年の「山形市日中友好『市民のつばさ』訪中団」が吉林市を訪れたのがはじまり。その後も山形県や山形市の訪中団が吉林市を訪問し、同じ東北にあること、周辺を山に囲まれた盆地同士であること、さらには前述したように樹氷の景観や物産の類似性などが親近感を深め、友好交流の発展をすすめる絆となった。

山形市が吉林市に友好都市提携の希望を伝えたのは、県日中友好協会の役員訪中団が吉林市を訪れた際に、金沢市長が李守善市長へ親書を手渡した八一年五月のことだった。
そして友好都市締結の調印式は、八三年四月二一日、吉林市の王雲坤市長ら代表団を迎えて市民会館でおこなわれ、終始、温かい拍手の中で議定書調印へと進んだ。山形市からは名産の鋳物工芸品である「友好の鐘」が贈られ、吉林市からは隕石や鹿の角が記念品として寄贈された。

吉林市は、観光都市であるとともに東北地区有数の化学工業都市でもある。「東北三宝」と呼ばれる薬用人参、鹿の角、ミンクの毛皮が特産である。人口は約四二五万人。

山形市は、最上藩の城下町として栄えてきた。「霞ケ城」の築城は一三五七(延文二)年で、二〇〇七年は山形城創建六五〇年に当たった。江戸時代には城下には商人、職人が多く住みつき、さかんに市が開かれた。「市日町」が八つそろっている。とくに紅花商人のまちでもあった。
現在の名産物はサクランボ、茶釜などの鋳物。春の植木市や夏を彩る「花笠おどり」、芋煮会、冬は蔵王のスキー客でにぎわう。人口は約二五万人。

両市の主な交流活動は、市友好代表団の相互派遣、農業・工業技術などの研修生の受け入れ、山形市立商業高校と吉林第二高級中学校(高校)および山形大学教育学部と吉林師範学院の友好校締結。名産品展示会の開催、留学生交流やサッカー親善交流、歌舞団の来日公演、吉林市を訪問しての芋煮会や花笠踊り実演など。二〇〇〇年には「山形・吉林友好会館」を開設した。山形市日中友好協会がおこなってきた中国語講座は、八六年に開始いらい市民の中国への関心を広げてきた。研修生や留学生、東北地区からの帰国者の暮らしなども支援している。

二〇〇三年に市が開設した「友好姉妹都市交流センター」は、情報提供、外国語放送番組の放映、パソコン・ネット可能な交流ラウンジ、民間団体活動室などを設けて、こまかなサービスを提供している。

夏の名物行事「花笠まつり」で踊る外国人衆の数も年々増えて、人気グループになっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-石炭産業から新工業都市に

石炭産業から新工業都市に

いわき市―撫順市(遼寧省) 

わが国の戦国期の混乱を統一した徳川家康とほぼ同じころに、中国東北地区で部族抗争の激しかった女真族を統一したがヌルハチ(努爾哈斉)。その生誕の地であり、満州族清王朝発祥の地でもある撫順は、遼寧省の省都である瀋陽に次ぐ大都市である。

世界屈指の露天掘り炭鉱があり、「石炭の都」とも称されてきた。おもな産業は、石炭、天然ガス、オイルシェール、銅、鉄、マグネシウムなど豊富な地下埋蔵資源を背景にして、石油精製、電力、冶金、機械、電子、紡績といった工業都市に変貌している。撫順市には、人口は約二三〇万人。

同じ東北地方に位置して、石炭に縁のある工業都市同士という共通性から、いわき市の希望をもとに中日友好協会や中国大使館の斡旋によって、両市の友好都市締結は実現にむかったのだった。
訪中したいわき市代表訪中団(団長田畑金光市長)に正式に伝達されたのが一九八一年四月のことで、いわき市は同年八月に友好都市締結先遣団を送って事務事項の協議をおこない、八二年三月の市定例議会において満場一致で議決した。 

友好都市調印式は、八二年四月一五日に撫順市代表団を迎えて、いわき市でおこなわれた。全樹仁市長と田畑金光市長が議定書に署名した。ちなみに撫順市は、同じく石炭を基幹産業としていた夕張市とも友好都市提携をしている。

いわき市は、福島県東南部に位置し、常磐炭田と小名浜港を中心に発展してきた。現在は一五の工業団地を有し、東北第一位の出荷額を誇る中核市に変貌している。六〇キロに及ぶ海岸線の海水浴場や「いわき湯本温泉郷」を中心とした観光事業など、多様な産業が活発に展開されている。人口は約三五万人。

両市の主な交流は、市友好代表団や議会代表団を相互に派遣しているほか、経済、農業、教育、文化代表団も頻繁に行き来している。技術研修生の受け入れではとくに友好病院からの研修生が帰国後に幹部に登用されるなど、成果をみせている。そのほか小・中学生の書写交流訪問団や調理師交流、茶道・舞踊などの文化交流、スポーツ交流訪問団の派遣を地道におこなってきた。

いわき市の日中友好協会は五周年、一〇周年記念として「友好文庫を贈る運動」や、一五周年には「教育機器(パソコン)を贈る運動」を実行した。二〇〇二年の二〇周年には広く市民に呼びかけて、「山村の希望小学校建設に資金協力する運動」を展開し、五〇〇万円の資金支援を得て実現した。友好都市締結の時に、「単なるセレモニーに終わらせることなく、実り多いものに」と市長として誓った田畑さんは、同協会の会長として、二〇年後の〇二年四月、友好のシンボルとなる「撫順―いわき希望小学」の開校式に名誉校長として臨んだ。付麗華校長と並んで、将来の友好人士の育つのを期待してあいさつをし、祝った。 

〇五年の「一七回日中友好海辺の集い」には、縫製会社で働く中国女性一二人が初参加した。また南京城壁保存修復一〇周年式典には市から一一人が参加した。

〇七年の二五周年には、六月二六日に、いわき市で記念式典が開催され、撫順市から劉強市長をはじめとする撫順市友好交流代表団が来日し、市長みずから映像をまじえながら、歴史、産業、観光などについて紹介した。また九月二五日には撫順市で記念式典がおこなわれ、いわき市からは櫛田一男市長を団長とするいわき市友好交流代表団が出席した。八月にはいわき市小中学校書写交流訪問団が撫順市を訪問し、参加者は、中学校での交流や書道家の実技指導を受けた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-石炭産業の遺産を活かす

石炭産業の遺産を活かす

大牟田市―大同市(山西省) 

わが国が繁栄への夢を共有していた明るい時代の記憶とともに、
「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上にでた・・」
ではじまる民謡「炭坑節」は、みんなの胸の中に懐かしく高鳴っているだろう。

エントツからもくもくと出る煙は、産業発展のシンボルだった。明治、大正、昭和とわが国の産業を支えてきた石炭、その象徴ともいうべき三池炭鉱が閉山したのは一九九七年三月のことだった。世紀をまたいだせいか遠い感がするが。

大牟田市は、福岡県南端に位置し、三池炭鉱とともに発展してきた鉱業都市である。石炭採掘は明治期から本格化し、化学コンビナートを形成して、わが国の近代化に貢献してきた。炭鉱閉山の後は、有明海に面した三池港など産業基盤を活かして、多機能型の快適環境都市をめざしている。人口は約一四万人。

大同市は、北京から西へ約三八〇キロ、鉱産資源に恵まれた山西省第二の都市である。とくに石炭は「石炭の海」といわれるほど豊富で、埋蔵量は七一八億トンといわれる。化学工業化が進み、北京市や天津市の電力を支える重要発電基地となっているが、石油化による深刻な影響を抱えている。人口は約三〇五万人。

大同市はまた北魏の都「平城」であった時代の仏教遺跡「雲岡石窟」(世界遺産に登録)が残る歴史文化名城である。とくに「曇曜五窟」の石仏は、新興の北方民族が中原にはいって担うことになる大きな責務を胸中に秘めた実に雄大な造形である。雲岡石窟を開鑿した北魏王朝は、のち五世紀のおわりころに、孝文帝に率いられて平城を出て中原にはいり、洛陽を都とするとともに、漢化した穏やかな風貌の龍門石窟の仏たちを生み出すことになる。

雲岡石窟は、敦煌の莫高窟、龍門石窟とともに中国が誇る三大石刻芸術宝庫とされている。

両市の交流は、七八年に大牟田市の三井三池製作所が大同市の大同市雲岡炭鉱から採炭プラントを受注したことから始まった。これを機会にして、炭鉱技術研修団がやってくるなど関係が深まり、七九年には大牟田市友好代表団が大同市を訪ねている。
友好都市提携は、八一年一〇月一六日、大牟田市でおこなわれた。関漢文市長ら大同市代表団を迎えた調印式で、黒田穣一市長は「石炭を基礎にし、大同市の豊富な埋葬量と大牟田市の採炭技術を活用し合いたい」と挨拶した。
その後、産業構造の激変に対応して公害対策を成し遂げてきた大牟田市は、大型の電力・化学工場が稼動する大同市の大気汚染や廃棄物処理といった公害克服のための技術を提供することとなった。専門家を派遣し、事業所や研究機関で研修員を受け入れるなど、人材育成にも協力している。

これまでの主な交流は、両市代表団の相互訪問、職員派遣、公害対策のほか農業、医療、ホテル管理などの研修生の受け入れ、大同市歌舞団の公演・書道展、物産展、美術展、友好校提携、仏跡巡拝の旅など幅ひろい。
二〇〇一年に迎えた二〇周年には、訪中団の式典参加や大牟田「大蛇山」と大同「龍灯舞」といったイベント交流とともに、雲岡石窟周辺の記念植林をおこなった。これはいまもなお続いている。
二〇〇六年は二五周年にあたった。大牟田市では、一〇月に、書や工芸品をふくむ「大同市写真展」や大同市で採掘された二億八〇〇〇万年前の石炭塊(二〇〇キロ)の展示もおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-薬がもうひとつの絆

薬がもうひとつの絆 

富山市と秦皇島市

 中国の北境に、東西約三五〇〇キロ。延々と横たわる「万里の長城」という巨龍が、東の端で渤海に入る。その「龍頭」に当たるのが秦皇島市である。いまは半島であるがかつては小島だったという。

紀元前二一五年、秦の始皇帝は、東遊の折りにここにきて、海中の神山に長生不死の霊薬を求めた。天下を極めた皇帝として、大地の極まったこの地で、海中に不老不死の霊薬を求めた事跡はあったのだろう。命を受けた徐福は、三千人の童子と百工と伴って海中に浮かぶが、ついに不死の霊薬は得られなかった。
徐福にちなむ伝説は佐賀市、新宮市、富士吉田市、いちき串木野市などにあるが、富山市には聞かない。が、始皇帝の事跡と名は市名となって長く残ることになり、長生不死の霊薬はここで富山の薬と出会うこととなった。 

富山市は、江戸時代いらい薬業や和紙などの産業が奨励され、とくに「越中とやまのくすり」は全国に知られた。薬をあずけて使った分の代金を後に受けとる「先用後利」の家庭配置薬は、新しい薬がいつも使える状態で詰まった薬箱として、全国の家庭に安心感を常備してきたのだった。

富山市と秦皇島市を結んだのは、一九七九年五月に「中日友好の船」の団長として富山市を訪れた廖承志中日友好協会会長であった。富山市長から友好都市としてふさわしい都市の紹介の申し入れを受けて、廖承志会長が選んだのが秦皇島市だった。
知日家だった廖承志会長のことだから、とやまの薬と始皇帝の仙薬の絆まで考えただろうが、港のある産業都市として規模が似ているというのが第一の理由だった。七九年一〇月の市制九〇周年式典には秦皇島市代理として大使館員が参加した。八〇年五月には市長を団長とする「日中友好富山市民の船」の三五九人が秦皇島市を訪問した。

両市の友好都市締結の調印式は、一九八一年五月七日、秦皇島市使節団を迎えて富山市でおこなわれ、改井秀雄市長と許斌市長が議定書に署名した。五月九日には市公会堂で、二三〇〇人の市民が参加した「日中友好富山市民の集い」が開かれている。

秦皇島市は、南に渤海に臨む港湾都市で、大慶油田からの石油や石炭の積み出し港。また東北と華北地区を結ぶ交通の要。北京市、天津市に近く、長城東端の山海関や有名な避暑地、北戴河がある観光都市でもある。北戴河は、毛沢東や鄧小平時代までは、七月に重要な非公式会談がおこなわれて注目されたが、現政権指導者は公開性を損なうとして避けている。港湾施設、投資環境に優れており、欧米、日韓などからの企業進出も盛ん。人口は約二七〇万人。

富山市は、北陸道、飛騨街道や北前船航路などの交通・物流の要衝として栄えた。いまも「共生・交流・創造」のまちづくりを推進する中核市である。四月の全日本チンドンコンクール、八月の富山まつり、一〇月のとやま味覚市、年末のとやまスノーピアードなど、年間を通じた観光にも力を入れている。環日本海交流の活動も。人口約四二万人。

両市の友好交流は、市代表団、経済視察団の相互訪問をはじめ、各分野の考察団の来訪、とくに農業や医学を中心に工業・日本語・商業などの研修生の受け入れ。友好病院、医療技術友好訪問団派遣、医療機器贈呈(一〇周年)、救急車の贈呈もおこなった。トレードフェアでの市紹介、物産展。子供の作品展、中学生の友好訪問。ゲートボール友好訪問、芸能公演、卓球交流など年々、着実に推進されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-鉄と福祉で「金蘭の友」に

鉄と福祉で「金蘭の友」に

大分市―武漢市(湖北省)

知的障害(ダウン症)を持ちながら、楽団の中で育った舟舟(胡一舟)が、管弦楽曲「祝福」の指揮台に立った。中国中南部で最大規模の武漢オーケストラが、二〇〇四年一一月二二日に、大分文化会館での記念公演をおこなったときのことである。

時を同じくして武漢市では、「大分市障害者福祉・友好の翼」の市民約一二〇人が、一一月一九~二三日、市代表団の釘宮磐市長や村山富市元首相らとともに記念式典に参加し、同市の障害者と交流会を開いた。友好の翼一行は楽しみにしていたパンダ「英英」に会い、「健身広場」を見学し、開発区や武漢鉄鋼集団公司の製鉄工場も視察した。

大分市と武漢市が、二〇〇四年一一月に友好都市提携二五周年を祝ったときのことである。

大分と武漢とを固く結んだのは「鉄」だった。
新日鉄大分製鉄所が一九七四年六月から二年間、武漢鉄鋼公司のプラント建設と操業指導にあたった折り、二〇〇人余の技術者が研修に訪れた。一方、武漢へは新日鉄の技術者が派遣されて、鉄を介して交流が始まったのだった。
製鉄支援とともに、不幸な日中戦争の過去の歴史を乗り越えて新たな関係をつくるため、佐藤益美市長や伊東忠雄市議会議長、県日中友好協会の田上光理事長らは、友好都市への努力をつづけた。そして七九年九月七日、劉恵農市長ら代表団を迎えて、大分市役所での友好都市締結の調印式へとこぎつけたのだった。

大分市は、別府湾に面する新産業都市である。
豊後の国府として海路往来で栄え、とくに戦国期には大友宗麟がいちはやく「南蛮文化」を受け入れた。国際化の気質はワールドカップ開催都市のひとつとなるなどに引き継がれている。サッカーの大分トリニータの本拠地。伝統のある別府大分マラソンでも知られる。毎年おこなわれる「大分国際車いすマラソン」に武漢市の選手団を招待し、市民参加のノーマライゼーションの実践として、車いすでの国際交流の経験も積んできた。人口は約四五万人。

武漢市は、長江と漢水との合流点に武昌、漢陽、漢口の三つの城市を形成して「武漢三鎮」と呼ばれてきた。歴史は古く、三国時代に呉の孫権が拠った。武漢の名は明代から。一九一一年一〇月一〇日の武昌起義は、辛亥革命の幕開けとなった。先の大戦では、戦略拠点として日中間で激しい攻防戦のすえ、一九三八年一〇月にひとたび陥落したが、その後、戦線は点と線を守る持久戦となったことで知られる。解放後の四九年五月に武漢市になった。
主要産業は、製鉄、造船、紡績、機械製造などで、近年は国際化のもとで外資系の自動車産業も盛んに。「歴史文化名城」のひとつ。長江中流域の水陸空交通の中枢である。
夏の暑熱は有名で、南京、重慶とともに「三大火炉」と呼ばれる。夏、熱量を使う大都市がヒートアイランドとなるのは、近年に始まったことではない。たびたび長江の水害に見舞われ、大分市はその都度、義援金を送って支援してきた。長江の「三峡ダム」は武漢市の五〇〇キロ上流に世紀の事業として建設されている。人口は約八三〇万人。

二五周年記念式典で、李憲生市長は「大洪水に示された支援を決して忘れない」と感謝を述べた。釘宮市長は「先達の築いた成果の上にさらに交流を」と挨拶、村山顧問は「歴史を鑑とする」大切さを訴えた。

古来、固く麗しい友誼を「金蘭の契り」というが、鉄を契機にし、障害を持つ市民の相互理解へと踏み出した両市の交流は、まごうかたなき「金蘭の友」としてのものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)