友好都市・産業の絆-鉄と福祉で「金蘭の友」に

鉄と福祉で「金蘭の友」に

大分市―武漢市(湖北省)

知的障害(ダウン症)を持ちながら、楽団の中で育った舟舟(胡一舟)が、管弦楽曲「祝福」の指揮台に立った。中国中南部で最大規模の武漢オーケストラが、二〇〇四年一一月二二日に、大分文化会館での記念公演をおこなったときのことである。

時を同じくして武漢市では、「大分市障害者福祉・友好の翼」の市民約一二〇人が、一一月一九~二三日、市代表団の釘宮磐市長や村山富市元首相らとともに記念式典に参加し、同市の障害者と交流会を開いた。友好の翼一行は楽しみにしていたパンダ「英英」に会い、「健身広場」を見学し、開発区や武漢鉄鋼集団公司の製鉄工場も視察した。

大分市と武漢市が、二〇〇四年一一月に友好都市提携二五周年を祝ったときのことである。

大分と武漢とを固く結んだのは「鉄」だった。
新日鉄大分製鉄所が一九七四年六月から二年間、武漢鉄鋼公司のプラント建設と操業指導にあたった折り、二〇〇人余の技術者が研修に訪れた。一方、武漢へは新日鉄の技術者が派遣されて、鉄を介して交流が始まったのだった。
製鉄支援とともに、不幸な日中戦争の過去の歴史を乗り越えて新たな関係をつくるため、佐藤益美市長や伊東忠雄市議会議長、県日中友好協会の田上光理事長らは、友好都市への努力をつづけた。そして七九年九月七日、劉恵農市長ら代表団を迎えて、大分市役所での友好都市締結の調印式へとこぎつけたのだった。

大分市は、別府湾に面する新産業都市である。
豊後の国府として海路往来で栄え、とくに戦国期には大友宗麟がいちはやく「南蛮文化」を受け入れた。国際化の気質はワールドカップ開催都市のひとつとなるなどに引き継がれている。サッカーの大分トリニータの本拠地。伝統のある別府大分マラソンでも知られる。毎年おこなわれる「大分国際車いすマラソン」に武漢市の選手団を招待し、市民参加のノーマライゼーションの実践として、車いすでの国際交流の経験も積んできた。人口は約四五万人。

武漢市は、長江と漢水との合流点に武昌、漢陽、漢口の三つの城市を形成して「武漢三鎮」と呼ばれてきた。歴史は古く、三国時代に呉の孫権が拠った。武漢の名は明代から。一九一一年一〇月一〇日の武昌起義は、辛亥革命の幕開けとなった。先の大戦では、戦略拠点として日中間で激しい攻防戦のすえ、一九三八年一〇月にひとたび陥落したが、その後、戦線は点と線を守る持久戦となったことで知られる。解放後の四九年五月に武漢市になった。
主要産業は、製鉄、造船、紡績、機械製造などで、近年は国際化のもとで外資系の自動車産業も盛んに。「歴史文化名城」のひとつ。長江中流域の水陸空交通の中枢である。
夏の暑熱は有名で、南京、重慶とともに「三大火炉」と呼ばれる。夏、熱量を使う大都市がヒートアイランドとなるのは、近年に始まったことではない。たびたび長江の水害に見舞われ、大分市はその都度、義援金を送って支援してきた。長江の「三峡ダム」は武漢市の五〇〇キロ上流に世紀の事業として建設されている。人口は約八三〇万人。

二五周年記念式典で、李憲生市長は「大洪水に示された支援を決して忘れない」と感謝を述べた。釘宮市長は「先達の築いた成果の上にさらに交流を」と挨拶、村山顧問は「歴史を鑑とする」大切さを訴えた。

古来、固く麗しい友誼を「金蘭の契り」というが、鉄を契機にし、障害を持つ市民の相互理解へと踏み出した両市の交流は、まごうかたなき「金蘭の友」としてのものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)