内陸盆地の鉱産都市
秩父市と臨汾市
「尭天舜日」というのは、尭や舜のような賢明な指導者のもとで、太平の世がつづくことにいわれる。聖人の尭が天子の位につき五〇年のあいだ天下を治めた地とされるのが臨汾である。市の南に尭廟があり、東に尭陵がある。伝説時代の事実は、ほかになくここにあるのだから認めることにしよう。ほかにあってもここがふさわしければ認めることにしよう。学者ではなく住民にもっとも近いところで。
市外に出れば限りなくつづく黄土高原の起伏。尭の末裔は、いまでもつましく、高原の窰洞(黄土をくりぬいた住居)で暮らしている。
臨汾市は、山西省西南部の臨汾盆地の中央に位置し、黄河の支流汾河に臨んでいる。前述した省都の太原(姫路市と友好都市)までは北へ二七〇キロ、人口は約五三万人。
横丁まで花木、果樹が植えられて「花果城」と呼ばれ、しばらく前まではロバが目立つ街だった。その臨汾市に、近年は石炭を運ぶ長距離トラックが目立ち、コークス作りの煙りが漂い、さらに黄砂が舞う。
内陸地域の開発は、鈍いというよりも歪んだ影響を受けているといえる。
石炭や鉄鉱石、石灰岩といった鉱産資源に恵まれ、製鉄やセメント工業が盛んな臨汾市だが、極度の大気汚染に見舞われ、二〇〇四年には中国全土でワースト・ワンになり、最近の米国研究所の調査(〇七年)では世界ワーストテンに挙げられている。
同じ内陸の鉱産都市として秩父市も、かつて武甲山の石灰岩採掘による灰塵が秩父盆地の家々を覆った時期があった。灰塵が産業活動のシンボルとされた時期から、生活環境の保全のために改善すべき事態となり、厳しい選択を経て、最近では電子産業が新たな地場産業となってきている。人口は約六万人。
秩父山地の山々に守られ、独自の産業と文化を培ってきた秩父市は、近世には秩父銘仙や木材が、明治以降はセメント工業で知られた。秩父夜祭や札所三四カ所観音巡り、そして秩父の四季の自然は、訪れる人びとに安らぎを与えつづけている。「助け合い温もりのまちづくり」は、秩父伝来のものの表現である。
秩父・臨汾両市の友好都市提携は、八四年に秩父郡市の市町村長が太原市を視察した際、山西省側から秩父と態様がよく似た臨汾市を紹介されたのが契機となった。提携の調印式は、八八年一〇月七日、臨汾市でおこなわれた。内田全一市長が署名した協定書に、劉和平市長と新井一夫助役が署名して成立した。
いずれもが内陸の都市のために、市民同士の往来は限られるが、その後の両市の友好交流活動は、秩父国際学院(日本語学校)の開校や研修生受け入れ、青年交流団や親善訪問団の受け入れ、「日中友好の翼」での訪問や「国際尭都太鼓大会」へ秩父屋台ばやしの特別出演、周波氏の版画「黄土高原」展、写真展「黄土高原と窰洞」の開催などで友好の絆は深まっている。秩父市の国際学院で学んだ「こどもたち」も四〇歳代になり、現地での活躍が目立つようになった。
地元で秩父山地の農民の暮らしを追いつづけてきた写真家の南良和さんが、友好都市臨汾の黄土高原で暮らす農民を撮影して二〇年余になる。
「秩父には見出せない農業の原点がある」
という。(二〇〇八年九月・堀内正範)