友好都市・歴史が絆-千年交流史に新篇を加える

千年交流史に新篇を加える

奈良市と西安市(陝西省)

西安市と奈良市ほどに長く深い文化交流の絆でむすばれた友好都市は他にないだろう。長安が盛唐から中唐にかけての都であったころ、八世紀には奈良が平城京としてこの国の都であった。玄宗や楊貴妃や李白や杜甫と聖武天皇や大伴家持や山上憶良の時代であった。遣唐使、留学生、留学僧ほか名の残らなかった多くの人びとがそれをつないだ。関わった人びとは去ったが、東大寺、薬師寺、唐招提寺といった建造物や数々の国宝級の文物は、古代の人びとの熱い交流の息吹きを伝えていまも新しい。

西安との友好都市へむけて、奈良市はすでに一九六九年三月には、西安市革命委員会主任(市長)あて親書を送り、のち書簡や要請書を重ねて提携への熱意を示した。七二年一〇月に奈良を訪れた中日備忘録弁事処の肖向前首席代表や七二年一二月には北京の中日友好協会の廖承志会長あてにも早期実現を依頼している。

そして七四年一月末に鍵田忠三郎奈良市長を団長とする奈良市訪中友好代表団が西安を訪れて、二月一日、西安市大講堂に集った千余の各界代表を前にして奈良市と西安市の友好都市宣言式が行われたのだった。

孫長興西安市革命委員会主任(市長)は、
「悠久の歴史を持つ西安と奈良が正式に友好都市関係を締結する」
と、力強く宣言した。代表団を率いて訪れた奈良市の鍵田忠三郎市長は、
「一二五〇年前より厚い友好と深い交流に結ばれ、西安市の皆さんには強い友好の心を持っている」
とあいさつし、熱烈な拍手の中で錦旗を交換した。

西安市は、中国中西部の中心都市である。都になったことのある中国八大古都のひとつで、秦・漢、隋・唐など六王朝一〇政権が建都した。とくに唐代の長安は世界に輝く文化都市であった。明代になって西安と改名し、現在残る城壁はそれ以降のものである。市章には玄奘三蔵にちなむ大雁塔がデザインされている。八七年に秦始皇帝陵が世界遺産に登録され、訪れる観光客は多い。人口は約七四二万人。

奈良市は、七一〇年の平城京建都から七九四年の平安京遷都まで奈良時代の都。民族のふるさと「やまとのまほろば」と呼ばれる。一九八八年の市制九〇年には「なら・シルクロード博」が開かれ、九八年の市制一〇〇年には「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録された。「世界遺産に学び、ともに歩む」という国際文化観光都市へのまちづくりをめざす。人口は約三六万人。

友好都市提携後の両市の交流は、友好旗に「千載友誼續新篇」とあるように、各界で新たな成果を重ねている。市職員の交流はもちろん、「阿倍仲麻呂記念碑」の建立や「シルクロード国際マラソン城壁大会」への参加、「日中友好都市交流奈良会議」(第一回が九四年)、文物展、映画祭、民族芸術団・雑技団公演、書画展とつづく。さらに気功、鍼灸、調理、囲碁など身近な暮らしの分野にも幅広く及んでいる。

安倍仲麻呂らと共に唐に渡り、七三四年に客死したとされる井真成の墓誌が帰国し話題になった。「愛・地球博」のあと「遣唐使と唐の美術」展として東京と奈良の国立博物館で展覧された。

また両市と韓国の慶州を結ぶ「姉妹三都市体育大会」が九月に奈良で開かれたが、日中韓三国三市の友好交流は新たな方向を示すものとして注目されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-湖の恵みを知る開放都市

湖の恵みを知る開放都市 

彦根市と湘潭市

両国を代表する湖といえば、琵琶湖と洞庭湖。

琵琶湖のある滋賀県と洞庭湖をもつ湖南省という「湖の恵み」を知る者同士が友好省県になったのは、一九八三年三月のことだった。
両省県の友好提携の調印式は、琵琶湖の遊覧船「ミシガン」の船上でおこなわれた。
その後の市町村レベルでの友好提携として、「湖東の中核都市」彦根市と「湖南の名鎮」湘潭市とがつづいた。

唐代から一三〇〇年余の歴史を誇る湘潭市から、彦根藩井伊家の城下町として歴史を刻んできた彦根市へ提携の希望が伝えられたのが八六年であった。それから相互交流がはじまった。とくに八七年の「彦根世界古城博覧会」に、湘潭市で発掘された殷代の「青銅豕尊」(豚の形をした酒器。重点保護文物)の出品を得たことで、両市の信頼が深まり、市民の間に関心が広がった。

そして九一年一一月一日、彦根市へ湘潭市の範多富市長ら代表団を迎え、獅山向洋市長との間で、友好都市提携の調印式がおこなわれた。

湘潭市は、湖畔ではないが、洞庭湖へと注ぐ湘江に面した水運の中継地であり、「金湘潭」と呼ばれるほどに商業で栄えた。現在は工業都市化に力を入れている。省都の長沙からは南へ四〇キロ。北京―広州と上海―昆明の交通路が交差する通運の拠点であり、「開放的湘潭」をめざしている。毛沢東主席の生地である韶山には、故居や記念館がある。人口は約二八〇万人。

彦根市は、国宝彦根城を擁する国際観光モデル都市である。江戸の息吹きを町並みや四季の行事に織り込みながら、「異文化が交流し、世界に開かれたまち」をめざしている。外国語の案内板や広報紙の発行、ボランティアの育成を進め、三〇余カ国の人びとが暮らしている。人口は約一〇万人。

主な友好交流活動に、市代表団の相互訪問、国際交流員や研修生の受け入れ、中学生の交流、書画展、湘潭市での「毛沢東生誕一〇〇年記念事業」(九三年)や「斉白石国際文化芸術祭」(〇四年)への参加などがある。
二〇〇一年一一月に、彦根市で開かれた一〇周年記念式典は、新世紀の交流を協議する場となった。文化と経済、そして中学生の相互交流など「友誼長存」のために教育に重点を置くこととなった。

記念式典での湘潭市児童芸術団の歌舞公演は、彦根市民のあたたかな共感で迎えられたが、日本の福笑いに興じ、給食に戸惑い、ゴミ分別システムに驚く団員の感想もまた率直だった。教育を大切にする両市の交流の成果が期待される。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-同年の大災害を克服

同年の大災害を克服

酒田市と唐山市 

一九七六年一〇月二九日の夕、酒田市「中町銀座」の映画館から出た火の手は、折からの西寄りの強風にあおられて繁華街へと燃え広がり、火の波となって住宅地へと押し寄せた。酒田の夜空を焦がして一一時間にわたって燃えつづけた「坂田大火」は、一七〇〇余棟を焼き尽くして新井田川の右岸で止まった。市民は寒風にさらされながら恐怖の夜を過ごしたのだった。

それより三カ月前の七月二八日未明、河北省唐山市付近を震源とする地震は、北京、天津など首都圏の住民をも恐怖の底に引き込んだ。マグニチュード七・五。震源に近い唐山市では煉瓦や石組みの家々が倒壊し、阿鼻叫喚の巷と化した。瓦礫の下敷きになるなどで市民約二四万人(死者一四万八〇〇〇人)が被災するという、世紀最大の惨事となった。「自力更生」による復旧を指示した毛沢東主席が九月九日に亡くなるなど、中国激震の年でもあった。

災害から一四年、酒田市は「燃えない町」を、唐山市は「地震に強い町」をめざして復興を果たしつつあった九〇年七月二六日、唐山市の陳立友市長と酒田市の相馬大作両市長が酒田に会して、友好都市締結の調印がなされた。酒田地区日中友好協会も数次の訪中団を送って友好都市の成立に尽力した。

唐山市は、北京市の東約一八〇キロ、人口は七〇四万人。電力、セメント、鉄鋼といった重工業や陶磁器の生産が盛んである。農産物では栗が有名で、天津から天津甘栗として輸出されている。遵化には「清朝皇帝陵墓群」がある。

酒田市は、人口約一〇万人。日本海に臨み、最上川の河口に開けた港町である。江戸時代には「西の堺、東の酒田」といわれ、廻船問屋の鐙屋や「本間さまには及びもないが」と豪勢さを詠われた本間家の旧本邸がいまも残る。八〇〇〇羽を超える白鳥の飛来は冬の風物詩になっている。

友好交流提携の一〇周年に当たる二〇〇〇年五月には、阿部寿一市長ら代表団が唐山を訪問して、張和市長と会談した。両市は代表団の交互訪問、農業技術、文化・スポーツ・青少年、消防などの交流に加えて、酒田―京唐港を生かした物流の発展も検討し、記念に桜の植樹をおこなった。

大災害の克服に発揮された市民の結束力は、酒田市では防災地域・公園の整備、そして「がんぎ型」を一新した「セットバック方式」の「中通り商店街」などを誕生させた。唐山市では地震予知や耐震建造物の研究、地震に関する国際会議などが行われている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-「龍馬精神」が生きる街

「龍馬精神」が生きる街

高知市と蕪湖市  

地上一三・五メートル、桂浜の龍頭岬に立つ坂本龍馬像は、はるか太平洋のかなたを見据えて立っている。龍馬が背にしているのは四国山地ではなく日本国である。高知には坂本龍馬とともに、伝説中の駿馬のもつ旺盛壮健な「龍馬精神」が息づいている。先見性のある行動によって拓く二一世紀のまちづくり「龍馬都市一〇の理念」にも、「協調と平和の精神で世界とふれあう国際交流を進める」と謳っている。

新世紀の初め、二〇〇一年四月に高知市は、「築城四〇〇年祭」を記念して、「高知サミット」を開催した。海外と国内の姉妹・友好都市の五市長ら代表者が一堂に会して、それぞれが取り組んでいる特徴のあるまちづくりを語り合い、交流を通じてお互いの発展を誓う「高知サミット宣言」を発表した。子どもたちによる「伝統芸能公演」は、民族のもつ表現の豊かさを伝え、明るい未来を思わせた。中国からは蕪湖市が参加した。

高知市と長江下流域の水運都市蕪湖市との友好都市提携の調印式は、高知市の市制一〇〇年を前にした八五年四月一九日に高知市で、趙衡蘧・横山龍雄両市長の間でおこなわれ、四国では最初の日中友好都市提携となった。

蕪湖市は、上海から三〇〇キロほど長江をさかのぼった南岸に位置する安徽省南部の都市である。一万トン級の船が出入りし、四〇余の国と地域と繋がっている。農産・漁獲は豊か。名刹広済寺と中江塔で知られる。人口は約二一五万人。

高知市は、慶長六(一六〇一)年、関が原の戦いに勲功のあった山内一豊が封じられて入国し、築城してから四〇〇年、南国土佐の城下町として栄えてきた。明治二二(一八八九)年に市制に。幕末の坂本龍馬はじめ、明治民権運動の板垣退助、中江兆民、科学者の寺田寅彦、牧野富太郎などを輩出している。夏の「よさこい祭り」は有名である。人口は約三二万人。

提携後の友好交流は教育、環境、港湾、新聞、中小企業、観光、茶道などの分野に及び、とくに書道交流は提携記念交流展以来、隔年に双方で開かれている。九三年には蕪湖市鏡湖畔に「蕪湖・高知友好会館」が完成した。経済技術開発区には、エアコンの日立家用電器や刃物製造の蕪高産業などが進出している。 

 二〇周年に当たる二〇〇五年五月には、蕪湖市から代表団を迎え、記念式典のほか「蕪湖展」や「書道交流展」を開催した。高知市内の「蕪湖園」には「一衣帯水」モニュメントが寄贈された。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-洞庭の水駿河湾に連なる

洞庭の水駿河湾に連なる

沼津市と岳陽市 

「中日友好の船」の湖南省班が、一九七九年五月に沼津市を視察したことが両市の友好提携の契機となった。それと同時に、翌八〇年四月に沼津市出身で岳陽市に住んでいた福地愛子さんが戦後三五年ぶりに一時帰国した。その際に富士山の美しい姿と桜、「平和であることの幸福感」を痛感し、市同士の交流がベースとなって平和が守られると確信して庄司辰雄市長に面会、岳陽市との友好提携を強く訴えたことも見落とすことができない。

「昔聞く洞庭の水、今上る岳陽楼」
の杜甫の詩で知られ、屈原が投身した汨羅江がある名勝古跡のまち岳陽。両市の交流に庄司市長も賛同した。

岳陽市に戻った菊地さんは両市の関係者に手紙を書き、友好都市への井戸掘り役を務めた。その年の末に岳陽市から友好交流の意向と市民団体の来訪を希望する書簡が沼津市に届いた。庄司市長はすぐに対応して八一年五月、市長を団長とする市民有志が岳陽市を訪問し、みずから両市交流の足がかりをつくった。次いで沼津市議会有志が訪問、岳陽工業技術団の来訪、再び庄司市長が代表団を率いて岳陽市へ、沼津市議会の決議へと進んだ。

そして八五年四月五日、沼津市市民文化センターで、市民一五〇〇人余が見守るなかで、友好都市締結の調印式が催され、儲波市長と庄司辰雄市長が協定書にサインした。

沼津市は、秀峰富士を仰ぎ、駿河湾を望む景勝の地である。茶、みかん、養殖漁業のほか、立地条件や地域資源を活かして「キラリと光る」まちづくりをめざす。人口は約二一万人。

岳陽市は、湖南省の東北端にあって、西に洞庭湖に臨み、北に長江に接する水陸路交通の要衝である。三国時代には呉の守りとなった。城西門に当たるのが岳陽楼である。肥沃な土地で、茶(君山銀針)や漁業が盛んな観光都市。人口は約五二五万人。

両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問、各界の考察団や行政・看護・医療・教育などの研修生受け入れ、日本語教師・私費留学生の派遣。友好会館の設立、「龍舟祭」への参加、仏教・書画・スポーツ交流など。二〇周年に当たる二〇〇五年には、岳陽市代表団や愛知万博「岳陽の日」への参加団が沼津市を来訪した。沼津市からは市・市民代表団を送り、新たな発展を誓い合った。

「洞庭の水駿河湾に連なり、君山は遥かに富士山と対す。岳陽沼津は友好を結び、山高水長代々に伝う」(祖雄)

洞庭湖畔と富士山麓の両市の交流は、ゆったりと世々代々、着実に引き継がれていくだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-「天府」の豊かさを基に 

「天府」の豊かさを基に 

甲府市と成都市  

「天府の国」といえば、自然条件が優れ、土地が肥沃で物産が豊かな地方をいうが、そのなかでも四川盆地はだれもが認める「天府の国」である。米、イモ類、菜種、柑橘、繭、茶、豚肉といった豊かな産物に恵まれている。その上で四川料理や薬膳がもてはやされることになる。その中心都市が成都である。

三国時代に天下人たりえなかったものの、優れた武将として名を馳せた劉備玄徳と軍師諸葛孔明を誇りとしている。

わが国ではどこか、ということになれば、山梨県と甲府市ということになるだろう。天然の要害に守られた盆地であること、伝統文化を大切して自立性を保っていること、天下人たりえなかったものの優れた武将としての武田信玄を誇りとしていることなど。地理・地形、歴史・伝統文化での類似性から共感をもって友好関係を築ける対象として、山梨県が四川省を、甲府市が成都市を選び実現をしたことは、自然の成り行きだったといえるだろう。

 甲府・成都両市の友好都市締結は、成都から代表団を迎えて、八四年九月二七日、胡懋洲市長と原忠三両市長が議定書に調印して成立した。山梨県と四川省の友好省県締結は、翌八五年六月一八日に成立している。

成都市は、四川省の省都であり、西南地区の産業、商業の中心地で、現在は外資系企業の進出も多い。それとともに二三〇〇年余の歴史をもつ古都である。北京までは北東二〇四八キロよく知られた三国時代の蜀の都で、二三四年に五丈原で没した諸葛孔明をまつる「武侯祠」は最大の観光名所。劉備の「漢昭烈廟」との君臣合廟だが、地元の人びとは孔明の才徳を慕って「武侯祠」と呼んでいる。ほかに唐の詩人杜甫に因む「少陵草堂」や道教の「青羊宮」が有名。〇六年の最優秀旅行都市に選ばれた。市の中心には〇七年に改修された「天府広場」がある。〇八年五月一二日には大地震に見舞われたが、成都市市内には被害はなかった。人口は約一〇四四万人。  

 甲府市は、歴史は古く、甲斐の国の中心として戦国時代の一五一九(永正一六)年に武田信虎が築城し、信玄はここに拠って天下統一をめざした。甲斐の府中としての甲府の始まりである。甲府駅前の信玄座像は市のシンボル。国際的には水晶研磨加工や彫刻工芸で知られ、ぶどうの産地である。人口は約二〇万人。

両市の友好交流は、農業では、ぶどうとそ菜の技術支援をおこない、九〇年には「日中友誼ぶどう園」が開園している。甲府市制一〇〇周年の八九年にはパンダのふるさと四川省から借り受けて「甲府パンダ展」を開催した。教育では小・中学校の友好校一〇校による作品交換や作品展も回を重ねている。経済交流も盛んで、技術研修生の受け入れや物産展、九六年には甲府商工会議所成都事務所を開設した。

二〇〇四年は二〇周年に当たった。九月二七日に成都市を訪れた宮島雅典市長と葛紅林市長の間で、相互交流をいっそう促進する新たな「交流事業協議書」が交わされた。〇七年七月には甲府商工会議所による「甲府ジュエリーフェアin成都」が開かれた。〇八年五月の大地震のあと、市内各界が義援金を送った。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-ふたつの県・市とともに

ふたつの県・市とともに

和歌山市と済南市  

「一山一水一聖人」

済南市は、この三つを誇りとしている。山は泰山であり、水は黄河であり、そして聖人はいうまでもなく孔子である。これはさすがというほかない。

漢代にはすでに済南と呼ばれ、その中心都市として栄えてきた。済水の南の地だったのでその名があるが、いまの黄河が一八五五年に河道を移動して済水の河流に重なった。新石器時代の「竜山文化」の発現地で、歴史文化名城。市の花は蓮である。地下資源に恵まれており、機械、化学工業などが盛ん。農産物も豊かである。人口は約五七五万人。

ひとつの省・省都がふたつの県・県都と友好提携を結んでいる例は珍しい。山東省と省都の済南市が、和歌山県と和歌山市それに山口県と山口市と提携を結んでいるのがそれ。

山口市の場合は、一九七九年五月に山東省の青島市を出港した「中日友好の船」が最初に寄港したのが山口県下関だったことで、団長だった廖承志中日友好協会会長が山口、下関の双方に友好交流を提案したことが契機となった。下関市―青島市は七九年一〇月に友好都市になった。その後、八二年八月に山東省と山口県、八五年九月に済南市と山口市の提携へと進んだ。

一方の和歌山市の場合は、別のルートによる。
八〇年に発足した和歌山県日中経済交流協会が、友好関係をもつことで経済交流の可能性が大きいところして、山東省と済南市を斡旋したことから、和歌山県と和歌山市は、八一年になって山東省と済南市それに中日友好協会あてに友好都市提携の要望書を提出した。その後、代表団や書簡の交換を重ねて、八三年一月一四日に、和歌山市に済南市代表団を迎えて、宇治田*市長と李元栄市長が友好都市議定書に調印した。翌八四年四月には山東省と和歌山県の提携も成立した。といった経緯がある。 

実務に当たった人びとの労苦が思われる経緯であるが、県、市、市民それぞれに特徴を持つ三省県・三市交流の成果が期待される。

和歌山市は、紀州五五万五千石の城下町である。紀の川と和歌の浦はよく知られた景勝の地。温和な風土と開放性、それに時代を画した人物、徳川吉宗、本居宣長、南方熊楠、松下幸之助らを輩出したことで知られる。関西国際空港にも近く国際的な発信拠点をめざす。人口は約三八万人。

両市の友好交流には、二一次*に及ぶ和歌山市友好訪中団の派遣、済南市友好経済貿易訪問団や民政視察団の来訪がある。歴史文物展や書画展といった文化事業、友好校の書画や手紙の交換、教師の訪問など教育部門も。「全国花いっぱい大会(二〇〇二年・世界大会)」への参加など。

二〇〇四年の二〇周年には、一月に済南市友好都市建設視察団が訪れ、お返しに一〇月には大橋建一市長を団長とする和歌山市友好訪中団が訪問して祝賀した。

〇五年七月には、和歌山県日中友好協会の招きで「山東省友好訪日団」がフエリーで下関へ、山口市で交流のあと和歌山市入り。授業参観や二胡の演奏などで交流を深めた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-未来都市への基盤づくり 

未来都市への基盤づくり   

さいたま市と鄭州市  

大黄河は、青海省に発して渤海にそそぐまで五五〇〇キロの旅をする。そのうち鄭州市の北の桃花峪(海抜九六メートル)から河口までが下流域で、七八〇キロをゆったりと流れている。黄河はこのあたりを支えにして巨龍が首を振るように南に北に河道を変えてきた。先の日中戦争の際に、一九三八年六月、蒋介石軍が堤防を切ったのは旧河筋を利用した濁流で日本軍の進撃を阻止するためだった。その地点が鄭州市北の花園口だった。

鄭州市は、黄河文明発祥の地で「華夏文明の揺籃」といわれる河南省の省都である。黄河の南岸にあって、西に洛陽市、東に開封市という歴史文化地域をつなぐ位置にある。中岳崇山や少林寺にも近い。市内に商代の城壁が残る中国八大古都のひとつである。歴史上の人物とその古跡も多い。まずは黄帝故里、玄奘故里、杜甫故里、少林寺の塔林には高名な日本僧のものもある。現在も中原地域の政治、経済、文化の中心で、科学肥料、機械、食品、薬品などといった工業が盛ん。大陸を横断・縦断する鉄道と高速道路が十字にぶつかる交通路の要衝である。人口は約二六〇万人。

鄭州市と浦和市(当時)との友好都市提携をすすめたのは日中友好協会浦和支部だった。友好協会の関係者が行き来するうちに、埼玉県の県都浦和市と河南省の省都鄭州市との提携を中日友好協会が推薦することになり、両市での調整を経て合意をえて実現した。

八一年一〇月一二日、浦和市へ鄭州市友好代表団を迎えて、徐学龍市長と中川健吉市長が友好都市提携の議定書に調印した。これを機に三〇年間にわたって井戸掘り役をつとめてきた協会浦和支部は官民一体の「浦和市日中友好協会」となり、市長が会長に就任した。浦和市は二〇〇一年五月に大宮市、与野市と合併して、さいたま市となった。友好関係は新市にそのまま受け継がれている。

さいたま市は、古くは中山道・日光街道の宿場町としての歴史をもち、現在は東北・上越新幹線ほかが結節する交通の要衝である。首都圏の北の中核都市として三市が合併して誕生し、〇三年四月には全国一三番目の政令指定都市となった。〇五年にはさらに岩槻市が加わり、大型合併都市としてのこれからが注目されている。人口は約一一八万人。

両市の友好交流の実績としては、自治体、議会、市民による訪問団派遣、教育交流、園芸交流など。とくに目立つのが青少年のスポーツ交流である。Jリーグの浦和レッズと大宮アルディージャを持つさいたま市は、県主催の「国際ジュニアサッカー大会」を成功させてきた。鄭州チームをふくむ姉妹・友好都市チームを通じてのジュニアの国際交流を熱心におこなっている。

さいたま市の国際交流は新たな構想で始まったばかり。一方の鄭州市もいま新都市建設の真っ只中にある。空港は南の新鄭に移ったが、その跡地をふくむ鄭州市鄭東新区の新都市計画(一五年完成)は、黒川紀章氏の設計により始まったばかり。お互いに未来都市への脱皮をはたし、相互互恵の立場で、さいたま―鄭州が友好都市交流の成果を得るにはまだ間がありそうである。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

 

友好都市・風土が絆-工業都市化の実務を支援

工業都市化の実務を支援

明石市と無錫市  

海峡交流都市――明石。
古代から都と大宰府を結ぶ海上交通の要衝として栄えてきた。旅の途中で柿本人麿が詠んだ、
「天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」
も、紫式部が『源氏物語』の「明石の巻」で書いた浜辺の情景も、古代から人と物資が行き交う景勝の地であった明石の特徴と魅力を伝えている。

世界最長の吊り橋(中央支間一九九一メートル)である明石海峡大橋は、明石市ではなく神戸市垂水区と淡路市を結んでいるが、かつては明石と呼ばれていた地域である。また明石市は東経一三五度線上にあって日本標準時を知らせる「子午線のまち」でもある。人口は約二九万人。

日中国交回復が実現(一九七二年九月二九日)した翌年の一九七三年に、「全国自治体首長訪中団」の一員として、衣笠哲市長が参加し、その滞在中に神戸ー天津が初の友好都市(七三年六月)となった。同じ県にある明石市として、衣笠市長はお互いに古代から海上交通の要衝として知られた「寧波市」との提携を中日友好協会側に申し入れて帰国したのだった。  

だが、現地側の事情もあって、唐家璇中日友好協会理事から無錫市を推薦する助言があった。明石市は、七五年に改めて江南の景勝地で古い歴史をもつ無錫市との提携希望を中国側に伝えた。七七年には衣笠市長を団長とする「第一次明石市各界代表友好訪中団」が無錫市を訪れている。その後も市議会代表、教職員、市民などが相次いで訪問し、友好を深めた。 

友好都市提携の調印式は、八一年八月二九日、無錫市で催され、当日の模様はKDDの協力で両会場を結んでおこなわれた。無錫市の馬健市長と明石市の衣笠哲市長の調印のようすや挨拶が双方に同時に伝えられ、両会場を市民の拍手と歓声が包んだのだった。

無錫市は、上海と南京の中間に位置し、大運河が市内を貫通している。南に臨む太湖は淡水で、琵琶湖のほぼ三倍ほど。無錫の歴史は古く周代に始まり、蘇州に移るまでは呉国の都だった。錫山で大量の錫がとれたことから有錫と呼ばれていたが、後漢時代に錫が採れなくなって無錫の名になったといわれがある。南の越国が呉王に送った美女西施と功臣范蟸の故事にちなむ蟸園がある。総合工業都市として発展している。人口は約四三〇万人。

両市の友好交流は、友好代表団の相互訪問、研修生の受け入れ、物産展の開催、友好校提携など。あずまや「明錫亭」(八四年・明石市に)の建設、山水画・書道の交流、月照寺から無錫市の開源寺に梵鐘と鐘楼の贈呈(八五年)もおこなった。「江南の文物展」(一〇周年)、教育、歌舞、武術・太極拳、柔道、料理、梅、生け花交流など暮らしの文化交流もある。

 二〇周年に当たった二〇〇一年に、歩道橋事故に見舞われた明石市。その中でも「江南の文物Ⅱ―南京博物院・無錫市博物館特別展」や「無錫市・明石市児童作品交流展」が催されて、市民の心を明るくした。最近は工業都市化のすすむ無錫市から、環境、都市計画、交通管理といった実務型の研修生を受け入れて支援している。民間の投資・貿易による「春華秋実」(二〇周年記念友好旗)にはまだ遠い道のりである。無錫市は、その後八五年に相模原市とも友好都市となっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-北の大地と開拓者魂

北の大地と開拓者魂

札幌市と瀋陽市  

北の大地――北海道。

一八六九年の北海道開道とともにその中心地としての地歩を刻んできた札幌。北海道には、全国各地からさまざまな暮らしの伝統や文化を持つ開拓者が移住して、進取の気性あふれる開放的な地域を形成してきた。

札幌市は、北方圏の拠点都市として、「世界とむすぶ高い文化のまち」(市民憲章)をめざしている。人口は約一八七万人。

一方、奉天府として清朝の陪都だった瀋陽。一六二五年に後金(のち清)を建てたヌルハチが盛京として都と定め、北京遷都後も陪都とし、奉天府を置いた。いまに壮大な瀋陽故宮が残っている。清末騒乱期の一九〇五年、日露争奪の大激戦地となり、双方で約一六万の戦傷者を出してついに日本側の勝利に終わった。三月一〇日に、日本軍は「奉天入城」を果たしたのだった(のち三月一〇日は「陸軍記念日」になった)。

さらにその後の三一年九月一八日には、北郊「柳条湖」での線路爆破が「満州事変(九・一八事変)」の勃発となり、全土に抗日運動が拡大した。瀋陽市には「九・一八事変陳列館」が設けられている。奉天時代に二度も日本軍の入城を経験しているまちなのである。製鉄の鞍山、石炭の撫順が近く、瀋陽自身も鉄、石炭、銅、鉛、ニッケルなど二〇種類もの地下資源を産出する。六路線が交差する鉄道交通の要衝である。いまは遼寧省の省都であり、多民族が共和して住む東北地区の中心都市である。人口は約七四〇万人。 

平和の時代を築くための友好都市として、札幌市には「往来がしやすく、緯度が似通っている都市」という希望があり、東北地区の瀋陽市を対象とする交渉は、板垣武四市長が、七五年一一月に北海道市長会友好訪中団の団長として瀋陽市を訪れ、好印象を得たのが契機となった。

七九年五月に「中日友好の船」で札幌を訪れた孫平化副団長(中日友好協会秘書長)との話合いで双方の意向が確かめられ、往復書簡や訪問団派遣を重ねて実現に進んだ。八〇年八月に開設したばかりの中国の札幌総領事館は初しごととして取り組み、一〇月には札幌市議会も全議員提出による決議案を全会一致で可決して提携を進めた。 

そして八〇年一一月一八日、両市の友好都市提携の調印式は、宋光市長ら瀋陽市友好代表団を迎えて、札幌市でおこなわれた。板垣武四市長と宋光市長が議定書に調印し、「永遠に輝く日中友好」と「中日友誼万古長青」の文字を染め抜いた友好旗を交換をおこなった。

提携後の友好交流は、寒冷地の水道・道路建設技術協力や市職員の相互派遣をはじめ、幼稚園から大学までの相互交流、障害者、労働組合、デパート、放送、観光、スポーツなど、さまざま分野におよぶ。往来には札幌―瀋陽を週二便の直行便が三時間で結んでいる。

二〇〇五年は二五周年にあたった。一一月には瀋陽市で記念式典が開かれ、「札幌の日」が設けられ、文化紹介や商談など、新たな交流にむけた活動がおこなわれた。
瀋陽市は川崎市とも友好都市提携をしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)