友好都市・風土が絆-東北同士の類似都市

東北同士の類似都市 

仙台市と長春市(吉林省) 

東北を代表する類似都市―といえば仙台市と長春市で異論はないだろう。
日本の東北地方最大の都市仙台市と中国の東北地区中央に位置する重要な歴史都市である長春市。

日中両国の友好都市提携が、比較的に交流の歴史の古く長い九州地方や近畿地域で進むなかで、仙台市は、市の成り立ちがよく似た性格を持つ東北地区の都市との提携を希望として中国側に打診したのだった。
中日友好協会の廖承志会長から長春市との提携について提案があったのが、一九七九年七月のことだった。その後、文書の交換や先遣隊の派遣などを通して合意に達した。

そして長春市代表団を迎えて、八〇年一〇月二七日、馮英奎市長と島野武仙台市長とが議定書に調印し、東北初の友好都市提携が成立した。

長春市は、建都して二〇〇年余になる吉林省の省都である。「一汽」(長春第一自動車工場)のトラック「解放」で知られるが、ほかに機関車、客車、トラクターなどの工場がある。吉林大学など二五の大学、一〇〇余の研究所がある緑の多い文化・芸術都市でもある。満族、朝鮮族、回族、蒙古族、壮族など四六の少数民族が在住する。近代の歴史の渦中にあっては、一九三二年から四五年のあいだ「偽満州国の首都・新京」として戦禍を免れえなかった。

愛新覚羅溥儀が執政した建物は「偽満皇宮」の名で博物館として保存されている。また官庁街は吉林大学などの施設として利用されている。かつての満映は長春映画撮影所として生まれかわり、有名な「白毛女」などを送りだし、長春は「電影城」と称された。二〇〇五年には「長映世紀城」がオープンしている。〇七年にはアジア冬季大会が開かれた。人口は約七一八万人。

仙台市は、人口約一〇二万人を擁する東北最大の都市。一六〇一年に仙台藩の城下町として伊達政宗によって開かれた。緑と文化の街で「杜の都」と呼ばれる。市内を清流広瀬川が流れ、青葉通りのケヤキ並木が街を彩るなど、環境先進都市を誇る。

両市の友好交流は、各界で着実に進められてきた。市代表団の相互訪問、行政各課の研修生の受け入れ。さらに経済視察団、「仙台フェア」「長春展」といった展示会。学術、医療交流。中学校・高校の友好校提携、児童絵画展、少年少女合唱隊、雑技公演。動物交換。放送、観光、サッカー、卓球、ロードレース、茶道、書法、囲碁のスポーツ・文化交流。在住日本人孤児の激励や「長春中日友好会館」(九八年)の開設など。多彩な成果を積み重ねてきている。

二五周年にあたる〇五年、五月一三日には祝業精市長を団長とする長春市代表団が仙台市を訪れ、藤井黎市長と会見した。両市長は新たな交流を誓い、仙台で学んだ魯迅の碑に献花した。仙台時代の魯迅についてはあわら市のところで述べている。

「二五周年記念写真展」の作品には、歴史に学びながら新たな信頼に根ざした四半世紀にわたる両市の交流の成果が、かけがえのない平和友好の証しとして写し出されている。

 東北同士の仙台市と長春市が世紀にわたって蓄積する友好交流の成果は、そのまま日中両国都市の友好交流を代表する「平和の絆」の証しとして、ひとつの標準を示すことになるだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

 

友好都市・風土が絆-都市形態の類似性を活かす

都市形態の類似性を活かす

久留米市と合肥市(安徽省) 

中国の省都(省会)のうちにはわが国との長い関係もあってよく知られたところが多い。長江流域でも南京市(江蘇省)、武漢市(湖北省)、成都市(四川省)はそのうちだが、なぜか安徽省の合肥市は知られる機会がなかったうち。

歴史は古く、秦が合肥県を置いた。三国時代には、曹操配下の張遼が拠り、孫権の大軍を寄せ付けなかった「合肥の戦い」が有名。宋代の清官として京劇にも登場する包拯や近代では日清戦争の講和条約(下関条約)で全権大使をつとめた李鴻章の生地。

化学工業のほか先端技術開発をすすめ、近年はハイテク産業の誘致にも務めている。伝統産業としては、文房四宝(筆・硯・紙・墨)がある。理工系の有名校、中国科学技術大学がある。人口は約四六〇万人。 

将来の交流の発展性を考慮すると久留米市は大物を提携相手としたともいえよう。
久留米市は、すでに七一年に商工会議所主催の「中国物産展」を、七二年には「久留米中国展」を催しており、早くから市民の間には中国の都市との友好交流の機運が高かった。

一九七九年六月に「中日友好の船」が博多港に入港した際に、郭献瑞副団長(北京副市長)が久留米市を訪れた。これを契機にして、市内各界代表からなる日中友好都市促進期成会が発足し、友好都市の候補選定が本格化した。

都市形態が類似していることで選定されたのが合肥市だった。久留米市は直接に書簡を送って希望を伝え、友好都市提携の申し入れをおこなった。これに駐日中国大使館も支援を表明、八〇年四月に久留米市長が招請に応じるかたちで合肥を訪れて協議し、合意をみた。

そして八〇年五月一二日、合肥市からの友好訪問団を迎え、団長の魏安民市長と近見敏之市長が友好都市提携の議定書に署名した。市民約一三〇〇人が見守る式典会場(石橋文化ホール)で友好旗を交換し、友好都市宣言をおこなった。

久留米市は、筑紫平野の中心にあり、自然の恵みを活かした独自の文化や産物を築いてきた拠点都市である。江戸以来の絣、足袋、ゴムなどは地場物産を超えて近代化のなかで産業化された。また近代に画家の青木繁、坂本繁次郎らを輩出したことでも知られる。市町村合併で人口が約三〇万人となり、中核市をめざす。

主な友好交流は、両市の代表団の相互訪問をはじめ、都市建設・農業・教育・環境などの行政交流、技術研修生の受け入れ。孔雀(久留米)と丹頂鶴(合肥)といった動物交流、美術展・歌舞団公演などの文化交流。小学校同士の友好学校、中学生相互派遣、サッカー、卓球など青少年・スポーツ交流。さらには日中友好協会や各種市民団体同士による民間交流など、さまざまな分野での友好達成の努力が、着実に積み重ねられている。 

二〇〇五年は二五周年に当たった。記念式典は〇五年一〇月に合肥市で実施された。式典・植樹のほか、「合肥―久留米友好美術館」での合同美術展、新装なった長江大劇場での市民吹奏楽団と市歌舞団による合同公演がおこなわれた。江藤守國市長と郭万清市長が新協議書を交わし、両市は各分野での交流を深めていくことになった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-環日本海の「面」の交流

環日本海の「面」の交流

新潟市とハルビン市(黒龍江省) 

ハルビン、中国語では哈爾浜。

その名は白鳥(満州語)からとも、平地(モンゴル語)からともいわれる。わが国の近代史では、一九〇九年にハルビン駅頭で、伊藤博文(当時枢密院議長)が安重根によって暗殺されたことで知られる。一九世紀末のロシアによる鉄道敷設で開かれ、ロシア風のまちづくりがすすんだ。いまもロシア風の建物が見られる国際都市。シンボルとして残る聖ソフィア大聖堂は博物館となっている。 

ハルビン市は、中国東北地区の経済・文化の中心であり、黒龍江省の省都である。松花江が市内を流れる。平均気温は三・八度。新潟が「水の都」に対してハルビンは「氷の都」と称される。機械、医薬、ハイテク産業が盛んで、農産物は大豆やジャガイモが特産である。ロシア語や日本語教育で実績のある黒龍江大学は有名。人口は約九四八万人。

新潟市は、信濃川河口に位置する日本海側最大の都市である。新幹線で東京へ二時間。九八年に定期航空路が開設されてハルビンまでも二時間である。古くから米どころの港町として発展してきたが、とくに安政の通商条約(一八五八年)で外国に対して開かれた五港のひとつに指定されたことで海外との交流が進んだ。ロシアのハバロフスク市、ウラジオストク市とも姉妹友好都市関係を結んでおり、とくに環日本海地域での「面」の交流の拠点都市として成果を蓄積してきている。都市と農村が調和した「田園型政令指定都市」をめざす。人口は約八〇万人。

中国との友好都市提携にあたっては、戦前に多くの新潟県人が黒龍江地域に渡ったこと、戦後にも同省の土地改良事業に協力してきた関係などから、黒龍江省の省都であるハルビン市との提携が模索された。そして一九七九年一二月一七日に、新潟市にハルビン市友好代表団を迎え、文敏生市革命委員会主任(市長)と川上喜八郎市長とによって友好都市提携の議定書の調印がおこなわれた。日本海側都市では初、全国では一四番目だった。 

両市の友好交流として、新潟市は市民病院や水道局、環境対策課、国際課などへ研修生を受け入れてきた。いまや新潟市で学んだ医学研修生が医療技術協力の第一線で活躍するまでになっている。八九年の一〇周年記念にはハルビン市内に「ハルビン・新潟友誼園」が建設されたが、その際には市民募金も展開した。ハルビン物産展や九七年以降は毎年「ハルビン経済貿易商談会」に新潟ブースを出展している。小・中学生の相互交流、市民レベルではハルビン市の「氷彫刻・雪像コンテスト」への参加、太極拳交流など多彩である。九八年に両市間の定期航空路が開かれ、新潟・ハルビン・ハバロフスク三都市を結ぶ「三角航空路」が実現している。三市による「環境保護会議」(二〇〇一年から)では、共有する課題の意見交換をつづけている。二〇〇二年には、ハルビン市からライラック(市の花)の苗木の提供を受けて新潟市に「ライラック通り」が完成した。

二五周年の二〇〇四年には、今後の指針となる「覚書」を交わした。中国経済の急速な発展を受けて中国企業の日本進出誘致など新たな経済交流や観光ビザ緩和による中国旅行客の来訪といった観光での交流を強めることとなる。

〇五年一一月に新潟市で開催された見本市・シンポジウム「食と花の世界フォーラム・にいがた2005」へはハルビン市はじめ交流都市が参加した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

友好都市・風土が絆-環境保全と観光立市 

環境保全と観光立市  

熊本市と桂林市(広西壮族自治区) 

山水画のふるさと―桂林。

四方を奇峰奇岩に囲まれて漓江はゆったりと南へ流れる。桂林から九〇キロ下流の陽朔までの漓江は、山と水が織り成す独特の美しい景観を楽しむ中国有数の観光名勝である。

桂林市は、八二年に指定された第一回の「国家歴史文化名城」二四カ所のひとつである。秦始皇帝によって桂林郡が置かれ、明清時代は広西地域の中心 (省会)であった。一九四〇年に市制に。四四年には一時、日本軍に占領されたこともある。広西壮族自治区の東北部に位置し、市の中央を漓江が流れる。郊外二八キロに桂林両江国際空港があり、各都市と結んでいる。桂林動物園ではパンダに出会える。もちろん市の樹も市の花も桂である。人口は約四八〇万人。

熊本市は、九州の中央に位置する城下町である。一六〇七(慶長一二)年に加藤清正が現在地に熊本城(隈本を改めて熊本に)を築き、その後は細川氏が肥後藩主となって、学問好きで剛直な「もっこす気質」を育てた。藩校時習館は一七五四(宝暦四)年の開設。明治期には五高に加納治五郎、小泉八雲、夏目漱石が着任したことで知られる。徳富蘇峰も活躍した。これまで市議会は、「森の都」「地下水保全」「健康」「平和」「環境保全」「スポーツ」「観光立市くまもと」といった都市宣言をおこなって市民活動の指針としている。国際交流会館が中心になって、情報サービスや留学相談、在住外国人と市民の交流の場を提供している。人口は六七万人。

熊本市と桂林市との友好都市提携は、熊本市の市制九〇周年に当たる一九七九年を機に友好都市締結についての機運が市議会、市民に高まり、五月に「中日友好の船・明華号」で来日した廖承志団長(中日友好協会会長)から、桂林市との提携提案がなされて、「長い歴史と風光明媚な景観」をもつ都市同士ということで、実現へとむかった。

さっそく七月には熊本市の先遣団が協議のために桂林へとんだ。そして一〇月一日には、熊本市へ桂林市革命委員会の梁成業主任(市長)を迎えて、熊本市の星子敏雄市長との間で友好都市提携の調印にこぎつけたのだった。

その後の友好交流では、熊本市からの「市民の翼」訪問団がすでに二三〇〇人に及んでいることからも、桂林の観光地としての魅力が知られる。おもな合意事項としては、地球環境保全にむけた取り組み、観光協力、文化交流による相互理解、それに高校生・留学生の相互派遣などがある。

二〇〇四年は提携二五周年に当たった。新たな交流内容を協議するために、八月に幸山政史市長らの代表団が桂林市を訪れて、王躍飛市長と覚書を交わした。九月には熊本市で「桂林週間」を催し、映像、展示、文化体験、民族音楽などによって桂林市の現況を紹介した。

両市の友好交流の成果として、合作映画「チンパオ」(陳宝的故事。中田新一監督)がある。九九年に平和友好条約締結二〇周年を記念して制作され、全国巡回で放映された。大戦さなかの桂林が舞台、一頭の子牛をめぐる熊本出身の軍曹と少年陳宝との物語である。戦場の村で軍曹も牛も陳宝も死ぬが、最終シーンの漓江の水田で働く農民と牛と子どもの笑顔は、平和のシンボルとして生きつづけることとなった。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

 

 

友好都市・風土が絆-中京と南京の史的役割

中京と南京の史的役割

名古屋市と南京市(江蘇省)

中京と南京。

両国のふたつの重要な拠点都市、名古屋市と南京市を友好都市とする提案は、「日中平和友好条約」の批准書交換のために来日中だった鄧小平副首相の歓迎宴でなされた。席上で、中日友好協会廖承志会長から友好条約締結のあと最初の友好都市とする提案として発表されたのだった。七八年一〇月二四日のことである。

おりしも「名古屋市民の翼友好訪中団」(公募市民五五人を含む一三八人)を率いて上海市にいた本山政雄市長には、孫平化中日友好協会秘書長から伝えられた。訪中団から田辺広雄市議会議長らが急遽、南京へと向かった。一一月には名古屋市議会と南京市革命委員会常務委員会の了承をえた。

そして同年一二月二〇日に、日中友好の機運が盛り上がる中に南京市代表団を迎え、一二月二一日に名古屋市役所正庁で提携の調印式をおこなった。関係者三〇〇人余が見守るなかで、儲江南京市革命委員会主任(市長)と本山政雄名古屋市長が両市を代表して調印した。

南京市は、中国七大古都のひとつで、三世紀の呉をはじめ一〇王朝が都を置いた。南京を称したのは明を建てた朱元璋。近代には一九一二年一月、南京を首都と定め、孫文が臨時大総統に就任して「中華民国」が成立した。以後、北伐期には国民党軍により十数万人の愛国志士と市民が犠牲となり、三七年一二月の日本軍による南京陥落では「三十数万人の受難同胞」を出した。「雨花台烈士紀念館」と「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」がそれぞれ設けられて、ともに全国愛国主義教育の拠点となっている。「中山陵」は孫文の死後、二六年に着工し二九年に完成。北京の碧雲寺から遺体を移して六月一日にここに安置した。長江の南岸にある江蘇省の省都。人口は約五六三万人。

名古屋市は、慶長一五(一六一〇)年の徳川家康による名古屋築城と城下町づくりに始まる。以後育まれた「モノづくり」の伝統は、近代になって自動車、陶磁器、バイオリンなどを生み出す基盤となった。一八八九年に市制施行。二〇〇五年の「愛・地球博」ではホストシティーをつとめる。日本のほぼ中央に位置し、東西の大都市圏の間にあって国際交流時代にふさわしい都市をめざしている。人口約二二〇万人。

両市はともに工業都市であり、とくに経済分野の交流は使節団の訪問、技術研修生の受け入れや指導員の派遣、工業産品展示会、商店街の友好提携ほか多岐に及んでいる。動植物交流も多い。八九年の名古屋市制一〇〇年の「世界デザイン博覧会」には南京明朝王公貴族文物展を開催した。名古屋市からは救急車やごみ収集車、観覧車などの寄贈もおこなっている。

二五周年の二〇〇三年には、南京市からは市章にもなっている神獣「辟邪」が、名古屋市からは「金鯱」が記念に贈られた。「南京城壁修復」事業が一〇周年を迎えた〇五年、日中友好協会は九月六日に南京につどい、日中友好運動の原点を再確認し、新たなステップとする記念行事をおこなった。

二〇〇八年は三〇周年にあたる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

 

 

情報-若年有意

昨夜(6日)、橋下大阪市長(維新の会)が古舘氏に若年世代(わたし)に支持を集中するよう訴えていたが、高齢者が大事ではないというわけではないがといいながら、高齢者無視ともとれる発言にア然とする。敬意がなさすぎる。TV・20120106

と同じように、「高齢者のための高齢者の活動」というだけでは若年者を無視したことになり、反発がでるかもしれない。
「三世代同等(平等)」として、①高齢者のために務めながらも、②「自分がその蔭で憩うことがない樹を植える」という次世代への配慮、③さらには物心での直接の支援を子・孫におこなうこと。
次世代の人口の回復につとめ、家計資産(1400兆円という)は個人が抱えこまずに1/3を留保して、1/3(400兆円)をみずからと高齢社会のために、1/3(400兆円)を子・孫のために出費(出資)すること。その経済効果は増税(欧米に学ぶな)をはるかに超えた効果をもたらすだろう。①のための就労は若年者から奪うのではなく、新たに作り出す。高齢者それぞれが保持する知識・技術・健康・資産を活用して、みんなが安心して暮らせる社会づくりに参加しよう。20120117

友好都市・港が絆-国際観光の優れた標識都市

国際観光の優れた標識都市

別府市と煙台市(山東省)  

日本からの最初の遣唐使は、六三一年に山東半島北部の登州に上陸している。いまの煙台市である。明朝になって一三九八年、倭寇防御のために烽火台を築き、煙台と呼ぶようになった。さらに遠くは秦代に、徐福が不老長寿の仙薬を求めてここ(蓬莱)から海を渡ったと伝えられる。どれもあまり知られていない煙台と日本との絆である。

煙台市は、山東省北東部にあって黄海と渤海に面している。古くから芝罘(チーフー)と称された歴史都市でもある。蓬莱というのは、蜃気楼が発生することであらわれる「仙境」で、海中にある仙山や仙薬のありかを映しだしたとものと考えられた。そのことが、ここから徐福が渡海した背景にあるのだろう。

一八六一年の中仏通商条約で開港し、以後、英、米、日、独、伊、露、仏など一七カ国が領事館を開設した。その当時からの建物が市内に多く残されている。ワイン、リンゴ、じゅうたん、水産品が特産。開発区には日本企業も進出して活況を呈している。煙台市には養馬島に温泉があって、海のむこうに仙境蓬莱の日本が見られるかもしれない露天風呂もある。〇八年七月には市内にJASCO煙台店も開店している。全国優秀観光都市のひとつで、人口は約四四七万人。 

 別府市は、大分県東海岸の中央に位置する観光都市。古くから「別府八湯」と呼ばれる温泉群が点在し、江戸時代には貝原益軒の「豊国紀行」にも静かな湯治場として記されている。二九〇〇余の源泉は湧出量とともに全国一を誇る。戦災をまぬかれた観光温泉地として発展し、また学術・文化交流を進める「国際観光温泉文化都市」という役割を果たしている。年間の来客数は、約一一〇〇万人。市の人口は約一二万人である。 

友好都市について、当時の別府市長から市日中友好協会が折衝の要請を受けたのは、一九八三年一二月のことだった。全国本部に取り次いで駐日中国大使館を通じて働きかけ、八四年一月には宋之光大使から観光都市で形態が類似している煙台市が紹介されたのだった。

さっそく脇屋良可市長を団長とする視察団が八四年二月には北京、済南(山東省の省都)を経て煙台市を訪問し、董伝周市長に友好都市提携の希望を伝えた。一〇月には煙台市からも経済考察団が訪れて、観光施設等を視察した。さらに八五年四月には別府市長が再訪して、議定書作成や調印日程など事前協議をおこなって友好交流を深め、提携への準備を整えていった。

友好都市締結の調印式は、大阪から船で別府入りした煙台市代表団を迎えて、八五年七月二六日に催された。董伝周・脇屋長可両市長が議定書に署名した。

別府・煙台両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問、留学生派遣、経済・文化交流、歌舞団公演など。市日中友好協会は、市を支援して一、五、一〇周年には歌舞団の招聘や物産展を開催した。また桜を贈る運動を展開、九五年の一〇周年には桜一千本を植樹し記念碑を建立(天地公園)、〇五年の一五周年にはさらに一千本(西砲台公園)を記念植樹した。〇四年四月には煙台で桜花を見る訪中団を派遣するなど両市交流に努めてきた。煙台産のぶどうで作った「別府貴人香」は白ワイン。日中国交正常化三五周年を記念して北京でおこなわれた「中日友好都市小学生交歓卓球大会」には五八チームが参加した。四つのブロックで優勝があらそわれて、煙台・別府組は優勝した。

〇五年の二〇周年には、煙台市から友好の証しとして「八仙人彫刻像」が贈られた。 (二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-地方都市の経済技術交流

地方都市の経済技術交流

佐世保市と厦門市(福建省) 

福建省と長崎県との交流の歴史は古く長く濃い。江戸初期いらい着実に現在にまで続いている。長崎市と福州市についてはすでに述べたが、省県それぞれの第二の都市である佐世保市と厦門市も友好都市となっている。

鎖国状態にあった江戸時代に、海外にわずかに開かれていた長崎に福建の人びとが唐船に乗って来航して以来、盛んな経済活動を営んできた。日中国交が回復し、友好都市提携がいわれるようになって、一九八〇年にはまず長崎市と福州市が友好都市となり、次いで八二年に福建省と長崎県の友好提携が成立している。 

立地条件の類似性をもつ省第二の厦門市と県第二の佐世保市との交流と友好都市提携は、八一年から双方で実現への努力がなされた。八三年一月には厦門市長から佐世保市との友好都市提携についての国務院承認が伝えられ、これを受けて市の委員会が「厦門市との友好都市締結は適切」との答申をおこなった。同年一〇月二八日、佐世保市に厦門市代表団を迎えて、桟橋熊獅市長と鄒爾均市長(代理李秀記副市長)が議定書に署名し提携が成立した。

佐世保市は、江戸時代までは静かな農漁村だったが、脚光を浴びたのは長崎県の北部に位置する良港として、一八八九年に佐世保鎮守府が開庁したことによる。翌年には構内に造船部を設置(今の佐世保重工業)、一九〇二年には村から一足とびに市制を施行した。

先の大戦中に戦災で市街の大半を焼失したが、戦後いちはやく造船や炭鉱産業で復活した。原潜「エンタープライズ」入港では騒動となった。その後「西海国立公園九十九島」や「ハウステンボス」を有する国際観光都市として展開している。「ハウステンボス」はオランダ語で「森の家」。オランダの町並みを再現したテーマパークである。「ひと、交流創造都市」が市の目標。人口は約二四万人。

厦門市は、福建省南部に位置する観光港湾都市である。九竜江の河口にあり、台湾の対岸に位置する。金門島に近い。明代に城堡が築かれて厦門と称した。

その後、外国船の来航がふえて、貿易拠点となった。一八四二年の南京条約により開港して発展し、ウーロン茶の積出港として知られた。一九〇二年に列強国の共同租界地となり、いまも町並みに異国情緒を残している。厦門島、コロンス島、九竜江北岸沿岸部からなる。経済特区に指定されて急速に発展。人口は約一三六万人。

佐世保・厦門両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、経済貿易交流、技術研修生受け入れ、教育・文化・スポーツ、青少年、音楽・雑技団公演、書画展など。当初は文化交流が主体だったが、地方都市同士の経済交流こそ新たな流れとして、九九年の一五周年を機に発足したのが佐世保厦門経済技術交流研究会である。技術研修生の受け入れ、両市の企業間の交流拡大を目的としている。

地元企業が研修生を受け入れ、技術研修とともに人的交流も担っている。「みんな温かで、困るとすぐ助けてくれる」と評判がいい。帰国した研修生が会社を設立するなどの成果を生んでいる。万里の長城や中華料理を楽しんで、中国を体験し交流した時代は終わり。これから一〇〇年は、商いを通じ、どう中国と関わるかが地方都市の大きなテーマ」と主張する厦門市の光武顕市長は、一歩先を読んで実践に移している。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-新亜欧交流の東の起点

新亜欧交流の東の起点

堺市と連雲港市(江蘇省)  

ピラミッド、秦始皇帝陵とともに「世界三大墳墓」のひとつに数えられるのが仁徳陵古墳である。
仁徳陵を中央にかかえ、大阪湾に面する堺市。そこから同緯度を西にたどって約一五七〇キロ、黄海に面しているのが連雲港市である。

紀元前二一〇年ころ、徐福は、始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めて、童男童女(未婚の若者)や百工(技術者)を連れ、五穀の種子を携えてこの国にやってきた。薬は得られず、各地にさまざまな技術を伝えたとされる徐福の生地が連雲港といわれる。
徐福伝説のある地は二〇カ所にも及ぶが、堺市にはそれにちなむ行事はない。が、弥生時代の集落遺跡や仁徳陵をはじめとする古墳群の存在は、当時の大陸からの人的・物的な影響を強く受けずにはありえないものだろう。仁徳陵と秦始皇帝陵というふたつの巨大陵墓をつなぐ人物徐福の実在は、堺市と連雲港をつなぐ絆を太くした。 

その連雲港を起点として、鉄道はもうひとつの大墳墓「秦始皇帝陵」がある西安市をつないでいる。その先さらに西方のオランダまで、全長約一万九〇〇キロの「ユーラシア・ランド・ブリッジ」(新亜欧大陸橋)が通じている。二〇〇四年には高速道路が貫通して、道ははるか西方の第三の大墳墓、エジプトの「クフ王ピラミッド」へと連なる。歴史の大ロマンにはちがいない。
連雲港市は、亜欧ルートの東端であり、堺市はさらにその東の起点となる。 

日中国交が回復して友好交流が広まるなか、堺市では同緯度にあって中国八大重要港であり工業都市を擁するという類似性から、連雲港市との友好提携への機運が高まった。一九八三年四月に堺市友好訪中代表団が連雲港市を訪問、さらに一〇月に堺市友好訪中視察団が訪れて友好交流、調印について協議をおこなった。
そして一二月三日、連雲港市何仁華市長ら代表団が友好都市提携の式典に臨み、堺市の我堂武夫市長とともに議定書に調印した。 

連雲港市は、「沿岸開放都市」として、めざましい発展を遂げている。北京と上海とを南北につなぐ物流の要衝ともなっている。歴史上の人物、徐福の生地はいま徐福村になっている。孫悟空の誕生にちなむ花果山は観光名所である。人口は約四六五万人。 

堺市は、人口約八〇万人。すでに中世に「自由・自治都市」として「ベニス市のよう」(宣教師ビレラ)と報告されたように、早くから都市経営と海外交易の先端に立ってきた。戦国時代に自由人として死を賭して茶道を完成させた千利休を生み、日露戦争に際して「君死にたまふことなかれ」と詠った与謝野晶子を生んだ堺の街は、平和を願う民の心を潜在させている街である。

友好都市提携の一五周年に当たった九八年には、交流の拠点として連雲港市に「中日友好会館」を建設した。二〇周年の〇三年一〇月には、市長と代表団が相互訪問して両市で記念式典をおこない、太極拳の競演や胡弓と琵琶の競演などで交流を深めた。
八三年九月に提携と同時に発足した堺日中友好協会は、友好訪中団や技術者・経営管理者の派遣、各種研修生の受け入れ、京劇公演、書画展、中国語教育、スポーツ大会など、市の活動の中で重要な役割を果たしてきた。二〇周年には連雲港市を紹介する経済セミナーと徐福伝説の研究を発表する文化セミナーも主催した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-四〇〇年の国際海路を繋ぐ

四〇〇年の国際海路を繋ぐ

長崎市と福州市(福建省) 

長崎は開港のはじめから「世界への窓」としての役割を担い、いくつもの困難な主役を果たしてきた。
世界が大航海の時代に、逆に江戸幕府は門戸を閉ざして外国からの影響を避ける鎖国策をとった。唯一の窓として開かれつづけたのが長崎だった。  

長崎は、一五七〇年、基督教布教の住民への影響を危惧されて平戸を追われたポルトガルの要請に応じて、領主大村純忠が開港したもの。一六三六年に出島が完成した後は、和蘭(オランダ)船と唐(中国)船にのみ来航が許されることとなった。一六八八(元禄元)年には、入港する唐船が一九四隻に達し、金銀、絹織物、陶磁器、漢方薬などの交易が盛んに行われた。翌年には唐人屋敷も開設されている。

居留した唐人の多くは福州出身者だった。その後も福州からの華僑が多く訪れて、いまでも長崎市の華僑はほとんどが福建省の出身者である。
「国際港」長崎は、交易の裏で、医術ほかの学術・文化の窓口として「国際文化都市」の役割を果たしてきた。多くの有為な若者たちが長崎遊学をし、江戸期の文化を豊かにしたばかりか、日本近代化の礎石となった。

福州出身の人びとは、長崎にある崇福寺などゆかりの施設を大切にしてきた。一六二九(寛永六)年に建立の崇福寺は日本に類をみない南中国形式の寺院で、大雄宝殿や第一峰門は国宝に指定されている。いまも旧正月(春節)や中国盆会、「くんち」の龍踊りや「ペーロン(伯龍)競漕」といった行事が長崎名物になるなど、長崎・福州の交流の歴史は長く深く濃く生活とかかわっている。

福州市は、二二〇〇年の歴史をもつ港町で、福建省の中心都市である。閩江の河口に広がる馬尾港は、唐代以来の東方に開く「国際港」である。崇福寺(同名の寺が長崎にある)など禅寺も多い。長崎の興福寺に招請された隠元禅師は、福建の人である。一六五四(承応三)年に六三歳のときに弟子を伴って来朝し、後水尾法皇や徳川家綱の崇敬をえて、のちに宇治に黄檗山万福寺を創建した。人口六八〇万人。

両市の友好都市提携は、一九七九年六月に中日友好の船「明華号」が来航した際に、中日友好協会会長の廖承志団長に要望書を出したことに始まる。翌八〇年四月には本島等市長らが訪中して申し入れをおこない、七月には市議会全員協議会で承認した。一〇月には福州市友好訪問団(団長・游徳馨市長)が来日、一〇月二〇日の市議会会議場での調印式に臨んだ。

以後両市は、長崎・福州直通貨物航路の開設、長崎貿易協会の設立、物産展。水産農林、水道、アマチュア無線、医学などの技術交流やスポーツ、友好校提携、「ながさきジュニア世界見聞録」派遣などの交流を幅広くつづけている。九八年の「福州市建城二二〇〇年」記念のドラゴンボート・レース大会には、長崎市ペーロンチームも参加した。
二〇〇五年は提携二五周年に当たった。長崎市では一〇月二二日~二三日にわたって記念イベント「福州デイ」が開かれた。セレモニー会場となった駅前かもめ広場には福州市の紹介や両市の交流史のパネル展のコーナーも設けられ、蛇踊りも登場した。

長崎市は、一九四五年八月九日の原子爆弾投下という被爆経験をもつ「国際平和文化都市」として、国際的役割を担うこととなった。原爆写真展や世界平和連帯都市市長会議、反核NGO国際会議などを開催しつづけている。「平和公園」にある「乙女の像」は、福州市から贈られたものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)