友好都市・港が絆-三方に開く海を恵みに

三方に開く海を恵みに

下関市と青島市(山東省)  

下関は、古くから開かれた大陸への門戸であった。また水産業での深い関連もあって、早くから官民一体で日中友好促進の活動に取り組んできた。すでに一九七四年と七七年には下関市訪中団を派遣している。

そして七九年五月に「友好の船・明華号」が訪日の折り、最初の寄港地となったのが下関だった。訪れた中日友好協会会長である廖承志団長から、青島市との友好都市提携の正式な呼びかけがあって、締結へと進むことになった。知日家の廖承志団長の意中には、赤間関市(下関市の旧名)と青島市とのあざやかな色同士の配合もあったかもしれない。

両市の友好都市議定書の調印式は、七九年一〇月三日、下関市に青島市友好訪問団を迎えて、市民会館でおこなわれた。劉衆前革命委員会主任(市長)と泉田芳次市長が議定書に署名して交換した。下関市の泉田市長は、
「関門海峡の水は膠州湾からうちよせたもの」
と、国境を越えた両市の近くて密接な絆を強調し、訪れた劉市長に国際親善名誉市民の称号を贈り、両市の友好交流への熱意を示した。その後、八二年八月には山東省と山口県の省県友好提携も成立している。

下関市は、本州と九州の結節点であり、源平の合戦や明治維新といった歴史の転換期の舞台となってきた。一八八九年に初の市制による三一市のひとつ赤間関市として誕生した。九七年には「日清講和条約」(下関条約)の締結地になった。一九〇二年に下関市と改称した。吟詩の人なら知らないもののない伊形霊雨の「赤間関舟中」には「碧海遥かに回る赤間関」とある。フグ、アンコウの水揚げは日本一である。人口は約三〇万人。

青島市は、山東半島の西南に位置する沿海開放都市である。二〇世紀初頭にドイツ統治下にあって形成された街並みがいまに残る。「赤い瓦、紺碧の海、真っ青な空、緑の樹」の美しい町並みは観光客を楽しませている。毎年八月に開かれる青島ビール「国際ビール祭り」(二〇〇三年は一〇〇年記念だった)は青島の夏の最大イベントとなっている。経済技術開発区には内外の進出企業も目立つ。人口約七〇〇万人。 

提携後の友好交流は、市代表団の相互訪問、青年研修団(八一年から)や小・中学生(九〇年から)の派遣、市職員の相互受け入れなど。SARS募金(〇三年)で医療機器を寄贈、国際フォーラム、青島物産展、八九年の下関市市制一〇〇周年記念中国青島市博物館所蔵「明清書画名品展」などもおこなわれている。八〇年に初就航したフェリー「ゆうとぴあ」が週二便(所要時間は下関―青島二八・五時間)就航している。

二〇〇四年一〇月九日~一五日には、青島市で「青島日本週間」が開催された。「投資、ビジネス、生活、観光」をテーマとしたもので、この年の開校しあ青島日本人小学校の生徒によるソーラン踊りは人気を博した。JASCO(佳世客)での「日本商品展示会」は大賑いとなった。つづいて一〇月一八日には、下関・青島両市の「友好都市二五周年記念式典」がおこなわれ、晩餐会では和太鼓・三味線に合わせて江島潔・夏耕両市長をはじめ関係者みんなが加わった「平家踊り」が友好を実感させるセレモニーとなった。お茶・いけばななどの文化交流展や記念植樹のほかに、親善ヨット競技大会も青島江泉湾海域で実施した。

この会場は、〇八年の「北京オリンピック」ではヨット競技の会場になった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-海外に扉を開く自立都市

海外に扉を開く自立都市

福岡市と広州市(広東省)  

「南大門」の称があるほど、広州市は開放的な港湾都市として栄えてきた。福岡市・広州両市ともに首都とは遠く離れた地にありながら、古くから海外への門戸を開いて独自の発展をしてきた大都市である。同じ経緯をもつことから福岡市による友好都市提携への取り組みも早かった。 

すでに一九七二年には福岡市議会が、友好都市の相手として広州市を決定し、「広州交易会」の折りに市長の親書を届けている。それ以後も、往来のあるたびに友好都市提携への交渉がなされた。
そして広州市から楊尚昆市革命委員会主任(市長。後の国家主席)を迎えて、進藤一馬市長との間で友好都市提携の調印式がおこなわれたのは、七九年五月二日、全国で一〇番目、北九州市・大連市の調印の翌日のことだった。

友好交流は多彩である。さっそく広州動物園から二頭のパンダを借り受けて公開(八〇年)し、翌年お礼に子どもたちが喜ぶジェットコースターを贈呈した。
市友好訪問団はもちろん、都市建設、教育、医療衛生代表団の派遣などの行政交流、「アジア太平洋都市サミット」での多都市間交流、「広州旅遊博」への出展、「女性の翼」や弁論大会、少年野球といった民間交流や学校提携など。福岡は海外の七市と広州は一五市と友好関係を持っているが、とくに両市の交流は古き良き朋友として、新たな創造をめざして推進されている。

広州市は、広東省の省都で、華南地区の中心都市である。二八〇〇年を越える歴史をもつ。粤菜は広東料理、粤劇は広東方言の地方劇だが、海外の華僑にも人気がある。近代革命でも重要な役割を果たしている。
一九二一年、孫文はここで非常大統領の就任式をおこなった。その官邸の跡地に、孫文没後の三一年、広州市民と海外華僑が資金を集めて建設したのが「中山記念堂」である。
湾口で香港と澳門に接している。春秋二回の「広州交易会」には一〇万人を超えるバイヤーが訪れる改革開放の先進都市として知られる。上海市、北京市に継ぐ第三位の経済力を誇る。わが国の自動車メーカーもここに集中進出している。人口は約七二〇万人。

福岡市は、北は玄海灘に臨み、博多湾を擁する九州の中枢都市である。「日中交流二千年」が福岡から始まったといわれるのは、西暦五七年に後漢の光武帝劉秀から与えられた倭の奴国王の金印(国宝)が、江戸時代に博多湾で発見されたことが実証しているからである。東アジアの主要都市を結ぶのに最適の位置にある。入国外国人は年間約四〇万人で、七割がアジア地域から。福岡アジアビジネス特区に認定されている。福岡アジア文化賞や福岡国際マラソン大会は有名である。人口は約一三八万人。

 二〇〇四年は友好二五周年に当たった。九月二三日に広州市で、張広寧・山崎広太郎両市長が会見し、経済、物流をさらに強め、観光、スポーツ、青少年などの市民交流をいっそう進める新たな覚書に署名した。

福岡市には「二一世紀新中華街」構想がある。二〇〇〇年に及ぶアジア各地との独自の交流は、倭の奴国の遣いからはじまり、中世の「大唐街」(初の中華街)などの経緯を経て、一九八九年の「アジア太平洋博覧会」(三七カ国・地域、二国際機関が参加)につながり、さらに二一世紀には、アジアのビジネス交流拠点としての「二一世紀新中華街」が求められるというもの。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-環境国際協力に友好の成果

環境国際協力に友好の成果

北九州市と大連市(遼寧省) 
 
産業の発展と引き換えに「灰色の空」と「生物がすめない海」という公害に直面していた六〇年代の日本の都市。北九州地域もそのひとつだった。同じ課題をもつ門司、小倉、若松、八幡、戸畑の五市が対等合併をして一九六三年に北九州市が発足した。九州の最北端に位置する日本有数の工業・港湾都市の誕生である。

北九州市はそれから四五年、市民、企業、大学および行政が一体となって、公害克服に努めてきた。その過程で蓄積したさまざまな技術や経験は、現在おくれて公害問題に遭遇しているアジア地域の諸都市に、環境国際協力として積極的に活かされている。「東アジア(環黄海)都市会議」を提唱し、推進している。

大連市は、遼東半島の南端に位置して、西は渤海に、東は黄海に面している。北には広大な中国東北地域が広がっており、「中国東北の窓口」として重要な役割を果たしてきた。一九世紀末にロシアによって港湾建設がなされ、一九〇五年の日露戦争による日本占領後は、大連と呼ばれて港湾、鉄道、工業の開発・整備が加速されて、都市の形態が整った。そのころの市街や建物が多く利用されている。

四九年の新中国建国後に旅順と金州を合併して旅大市となったが、八一年に再び大連市に。外資系企業も多く、東北地区随一の経済都市となっている。毎年五月の「アカシア祭り」が有名で、同時に開かれる「中国大連輸出商品交易会」とあわせて、世界各地からの訪問客で賑わう。

また大連市は中国有数の工業都市であり、八〇年代の急激な工業化や都市化により、大気汚染や水質汚染、廃棄物処理などの深刻な環境問題に苦慮することとなった。漁業も盛んでとくにホタテやウニなどの養殖がすすんでいる。

都市形態が類似していることから、北九州市が大連市との提携を希望して両市が友好都市となったのは、七九年五月一日だった。北九州市に友好訪問団を迎え、崔宋漢市革命委主任(市長)と谷伍平市長が議定書に調印して成立した。全国で九番目だった。

九三年、北九州市が大連市に提案した「大連市環境モデル地区計画」の開発調査は、地方自治体レベルの協力としてはじめて政府間ODA案件となり、国と自治体が共同して取り組む画期的な事業となった。

中心市街地をモデル地区として、総合的な環境改善対策をおこない、大連市の環境は大幅に改善された。二〇〇一年には国連環境計画(UNEP)から「グローバル500」を受賞し、同年に中国政府から北九州市長に「中国国家友誼賞」が贈られている。北九州市は、国連の同賞を九〇年に受けており、友好都市同士の受賞は世界で初となった。

「北九州市との環境パートナーシップにより青い空をとりもどした大連市」

として国際的に評価された。
提携後の主な交流は、友好港締結、「東アジア(環黄海)都市会議」の開催、「大連ファッション祭」(毎年九月)への参加、北九州博覧会にパビリオン参加、研修生交換、環境技術ビジネス交流、大北亭(三周年に建設)や国際友好記念図書館(一五周年に開設)、クルージング(二〇周年)など。
〇四年五月の二五周年は、両市の市民交流団が相互に訪問して祝った。

「世界の環境首都」をめざしている北九州市は、市民と一体となって環境国際協力に取り組んでいる。途上国からの研修員の受け入れは、約九〇カ国一〇〇〇人に及んでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

友好都市・港が絆-表玄関である自負と実力

表玄関である自負と実力

大阪市と上海市  

「上海が稼ぎ、北京が使う」というようだが、そう一方的なものではないだろう。大都市住民の活力によって、それぞれに発展してゆくのだろう。二〇〇八年の「北京五輪」と一〇年の「上海万博」を機にして、南北のふたつの大都市が競って都市インフラを含めた変容を遂げようとしている。

一九七〇年の「大阪万博」や〇五年の「名古屋博」を上まわる規模の「上海万博」は、一〇年五月一日~一〇月三一日の会期で、七〇〇〇万人の入場者を見込んでいる。テーマは「都市、生活をさらに美しく」(城市、譲生活更美好)で、先に東京が返上した都市博であることがまた示唆的である。

日中国交回復後の七三年、中日友好協会の招きを受けた「京阪神三市長訪中友好代表団」は、六月二二日に北京で李先念副首相、廖承志中日友好協会会長と会見した。その後、京都市長は西安市へ、神戸市長は天津市へ、そして大阪市の大島靖市長は上海市へとそれぞれ向かった。大島市長は、翌七四年に友好都市提携をおこなうという合意をみて帰国した。京阪神三市による日中友好都市提携の幕開けであった。

七四年四月一五日、「大阪日中友好の船」は、団員四二〇人余を乗せて大阪港を出港した。各団体・協会の代表をはじめ、書道家、鍼灸師、医師、棋士、ママさんバレーや児童劇団のメンバーなど各界の市民代表が参加、四月一八日の上海市大会堂での式典に臨んだ。

四月一八日、会場では上海市各界の市民代表が大阪市友好訪中団を熱烈に歓迎、馬天水上海市革命委員会副主任(副市長)と大島靖大阪市長が、両市が正式に友好都市になったという歴史的な宣言をおこなった。集会のあと代表団は、雨のなかを西郊公園での記念植樹に臨んだ。

上海市は、横浜市との友好都市提携のところでも述べたように、一八四三年の南京条約によって開港して以来、飛躍的に発展した。新中国成立の後、ことに改革開放後に長江流域を龍身とする「龍の頭」として、首をもたげるように沿岸地域の経済をリードしながら、その地位を揺るぎないものとした。最近では浦東新区の開発により、国際的な金融、貿易、経済のセンターとしての機能を果たしている。

大阪市は、古代日本の海外への門戸であった難波津のころから水運によって栄えた水の都である。江戸期には全国からの物資の集散地となり、「天下の台所」といわれて、国内最大の経済都市に発展した。歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃(世界無形文化遺産)などの上方文化は、いまに伝統芸能として伝えられている。大戦後は東京に首位を譲ったが、西日本の中枢として「大阪万博」や「花と緑の博覧会」(九〇年)などを開催した。「二一世紀のモデル都市」をめざしている。人口は約二六〇万人。

提携後の友好交流は、各界にわたって展開している。七五年の一周年記念展物産展の開催、七八年には「大阪教育の翼」訪中団の派遣、八〇年には大阪府が上海市と友好提携をおこなった。八一年には上海曲技団がパンダ「偉偉(ウエイウエイ)を伴って来阪、八五年には大阪上海経済交流会議(第一回)を大阪で開催、九五年にはビジネスパートナー都市(商業伙伴城市)として提携した。

三〇周年の〇四年の記念事業も、「中国五千年の名宝・上海博物館展」、フォーラム「都市の相互依存」をはじめ、写真展「上海の風情」、「中国の調べ、日本の調べ」演奏会、小中学生絵手紙交流展、記念植樹(大阪に白玉蘭、上海に桜)など、多彩な分野で開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-近代開港ふたつの東方明珠

近代開港ふたつの東方明珠

横浜市と上海市  

上海の虹橋空港に飛鳥田一雄横浜市長ら市友好代表団が降り立ったのは、一九七三年一一月二八日のことだった。

色とりどりの旗や桜の造花を手に手に、歌い踊る数百人の市民の歓迎を受けた。一一月三〇日、飛鳥田市長は上海市革命委員会の馬天水副主任(副市長)とともに「友好都市宣言」をおこない、上海市大会堂に集まった市民代表の熱烈な拍手のなかで、錦旗を交換した。神戸市―天津市に次いで二番目、上海市にとっては海外初の友好都市となった。

上海が正式に開港したのは、一八四三年。横浜は一八五九年である。
ともに東アジア近代化の門戸として類似した役割をになってすすむことになった。一八七一(明治四)年の日清修交条約締結のあと、欧米諸国の通商事業に合わせて両市の接触も始まった。初の国際航路として横浜―上海が結ばれたのは七五年のこと。それ以来、近代化の役割を共有しながら港湾都市としてともに発展してきた。

新中国になってからの出会いは、一九六四年八月に貨物船「燎原号」が中国船として横浜に入港したときに始まる。以後、両港を窓口として人や物の往来が活発になり、中国との交流をつづけてきた市民団体や地元経済界、横浜華僑総会などを中心に、上海市との友好都市提携への活動が地道にすすめられた。
すでに横浜市は、サンディエゴ市(米)、リヨン市(仏)、ボンベイ市(インド)、オデッサ市(ウクライナ)、バンクーバー市(カナダ)、マニラ市(フィリピン)などと姉妹都市提携を結んでおり、隣国中国の上海市ともという機運が市民のなかに強まった。

横浜市が上海市に友好都市提携を呼びかけたのは、一九七一年六月だった。七二年九月の日中国交正常化より前だったが、卓球、バスケット、サッカー(けがをした劉文斌君の入院と激励)といったスポーツを通じた青少年の交流が、両市の市民の関心と親近感を高めるのに力があった。横浜市には、とびきり元気なまち元町中華街があることで知られる。人口は約三五五万人、中国人は約二万三千人が居住する。

上海市は、一八四三年に南京条約により開港し、英米仏などが租界を開設、外灘には次々に洋風建築が並んだ。一九二一年には共産党第一回全国代表大会が開かれ、三七年の日本軍による占領など苦難な時期を経て、四九年に解放された。とくに改革開放以後の発展はめざましく、二〇一〇年には万国博が開かれる。人口は約一三三四万人。

これまでの両市の友好交流の主なものは、両市友好代表団の相互訪問をはじめ各分野での幅広い交流、横浜工業展覧会や上海工芸品展覧会の開催、友好港提携、横浜上海友好園の開設と朱鎔基上海市長の来浜、金絲猴の寄贈など。二〇周年には両国関係者が五年をかけて制作した『横浜と上海』が発刊された。

二〇〇三年は、友好都市提携三〇周年に当たった。日中間のきびしい政治環境を象徴する上海市へ、横浜市友好訪問代表団が訪れ、一一月三日には中田宏市長と韓正市長との間で五年間の「友好交流事業に係る協定書」に調印、「横浜港セミナー」や「日中観光フォーラム」などを開催した。〇五年が創立三五年の横浜日中友好協会は、七月に日中韓民族舞踊交流会を催し、機関誌「移山」は一〇〇号を迎えた。
横浜は開港一五〇年を迎える二〇〇九年に「世界卓球選手権横浜大会」を開催する。それに先立って「横浜・上海・北京友好都市対抗卓球大会」が開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-友好都市の第一号として

友好都市の第一号として 

神戸市と天津市

神戸市と天津市が、「日中友好都市」の第一号となった。
その記念すべき「友好都市宣言」は、一九七三年六月二四日に、天津市でおこなわれたのだった。

北京にある中日友好協会の招きを受けた「京阪神三市長訪中友好代表団」は、香港・広州をへて北京に到着し、六月二二日に、李先念副首相および廖承志中日友好協会会長と会見した。そのあと六月二三日にはそれぞれに、神戸市の宮崎辰雄市長は天津市へ、大阪市の大島靖市長は上海市へ、そして京都市の船橋求己市長は西安市へと友好訪問に向かった。

神戸市の宮崎辰雄市長一行は、六月二四日、熱烈歓迎をうけて天津市が主催した歓迎集会に出席した。
席上、解学恭天津市革命委員会主任(市長)が挨拶し、
「天津市と神戸市は、きょうから正式に友好都市関係をうち立てた」
と宣言した時、参加した一五〇〇人余の市民代表の拍手は鳴り止まなかったという。

宮崎市長は、前年の七二年一〇月、日中国交正常化の直後に「日中友好青少年水泳訪中団」の団長として、北京で周恩来総理と会見し、天津市との「友好都市」提携という新たな平和の絆の実現に同意を得たのだった。当時、訪中団員として参加をしたために、橋爪四郎、木原美知子選手らが日本水泳連盟から除名されるというきびしい両国関係の環境のもとでのことであった。

天津市は、直轄市のひとつである。人口は約九五七万人。北京への海の玄関として、一八五八年に天津条約により西欧列強の租界地となって開けた。現在は中国北方地域の総合産業都市として発展している。周総理はここで青年期を過ごし、南開中学へと通った。夫人となる鄧頴超女史とはここで出会っている。市内に「周恩来鄧頴超紀念館」がある。

神戸市と天津市が友好都市として結ばれるにあたって、孫文の姿を重ねないわけにはいかないだろう。孫文は一九二四年、死の前年に神戸を訪れて、日本国民にむかって最後の問いかけをし、船で天津に向かったのだった。

神戸市の舞子浜にある「孫中山記念館」には、神戸から天津にむけて出航した「北嶺丸」船上での孫文と宋慶齢の写真が残っている。孫文の表情は、日本への永別と病気の進行による疲労が重なってか、鎮痛である。
このとき、上海から長崎経由で神戸入りした孫文は、二四年一一月二八日、「大アジア問題」と題して講演し、

「西方覇道の鷹犬(手先)となるか、東方王道の干城(守り手)となるか」

について日本国民の慎重な選択を求めたのだった。アジアのリーダーとしての選択は、なお今日的な課題である。

神戸市は、一八六八年の開港以来、外国人が最も住みやすい町といわれて発展してきた。いまでも人口約一五〇万人のうち約四・五万人が外国人である。一万人を超える中国人が居住し、中華街(南京町)、学校、病院、墓地などもそろっている。神戸・天津両市を結ぶフェリー「燕京号」が就航し、ポートアイランドでは二一世紀の日中関連ビジネスの核となる「新たな中国人街」の形成が進んでいる。

市民の交流活動も多彩である。神戸市外国語大学と天津外国語学院の学術交流協定、「中国五〇〇〇年の秘宝展」の開催、神戸・天津友好画家交流会、太極拳カーニバル、神戸王子動物園と天津動物園の動物交流、天津水上公園「日本神戸園」の建造など。中国にとっては世界の一四〇〇友好都市のうちの第一号であり、日中友好の絆は、国際都市神戸市―天津市の成功にひとつの象徴をみることになるだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

・茶王樹・南九十九里から

・茶王樹・南九十九里から  茶王樹は雲南に実在がいわれますが、ここは天をも摩する想像上の大樹です。その樹下で、お茶を喫しながら語ること。
ですから話題はなんでもいいのですが、やはり「高齢期の人生」と「日中交流」にかかわるテーマが中心になるように思います。
高齢社会のほうは「日本丈人の会」で扱っていますので、ここでは日中交流にかんする活動や東洋哲学者(志向)の立場から関心のあるさまざまな事象に触れたいと思います。
堀内正範・堀亜紀良(筆名)

 

新情報-蓮舫さん、高齢者まで仕分けするのですか

蓮舫さん、高齢者まで仕分けするのですか
堀内正範
朝日新聞社社友
高連協オピニオン会員 

◎ 第二〇回高齢社会対策会議 ◎ 

平成二三(二〇一一)年一〇月一四日(金)、朝八時一三分、首相官邸。
八時過ぎに官邸にはいった野田総理が中央の席について、定例閣議に先立って「高齢社会対策会議」(第二〇回)が開かれた。

「政府インターネットテレビ」でそのようすをみることができる。その映像では、金曜の定例閣議なら官房長官からだが、ここは担当大臣の発言から始まった。高齢社会対策担当大臣はだれか。知る機会がないから国民のほとんどが知らないにちがいない。
実は蓮舫議員の兼任なのである。

このところ全閣僚がメンバーであるこの会議は一年に一度、持ち回りですませてきた。『高齢社会白書』の内容となる「高齢化の状況及び高齢社会対策の実施状況」と「次年度高齢社会対策」の承認のためだが、閣議の前とはいえ閣僚がテーブルを囲んで開かれたのは一〇年ぶりに対策の指針である「高齢社会対策大綱」の見直しを諮るための重要な会議だったからである。

国際的高齢先進国であるわが国の「高齢社会対策」のトップが四四歳のマルチタレントであることを知って、いかにこの国の政治が実態から遠いところにあるかに驚かされるだろう。驚きを通りこして、呆れたり失望したり腹を立てたり・・などしているヒマはない。
蓮舫担当大臣のあのタテ板に水の趣旨説明がすべるように流れる。 

一〇年ぶりの「大綱」見直し 

[ おはようございます。ただいまから第二〇回「高齢社会対策会議」を開催いたします。本日は新しい「高齢社会対策大綱」の検討についてお諮りいたします。「高齢社会対策大綱」とは「高齢社会対策基本法」六条にありますように、政府が推進すべき高齢社会対策の指針です。お手元に参考までに配布をいたしました「高齢社会対策大綱」・・政府が推進すべき「高齢社会対策」の中長期的な指針として、平成一三年一二月に閣議決定されたものです。] 
遠く昭和六一(一九八六)年に「長寿社会対策大綱」としてまとめられ、平成七(一九九五)年の「高齢社会対策基本法」の制定のあと、平成八(一九九六)年に「高齢社会対策大綱」となり、世紀をまたいで前回の平成一三(二〇〇一)年の「大綱」の閣議決定。
昭和四二(一九六七)年に生まれて平成一六(二〇〇四)年初当選の蓮舫大臣。内閣特命担当大臣として、行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画そして公務員制度改革の担当である。「高齢社会対策」は「共生社会政策」のもとでの政策課題として担当している。
 タテ板の水はまだ途切れない。 
[ 経済社会情勢の変化等を踏まえて、必要があると認めるときに見直しをおこなうものとされています。来年以降、団塊の世代が六五歳に達し、わが国の高齢化率がさらに伸びることが見込まれています。こうした経済社会情勢の変化を受けまして、政策面では本年六月三〇日に「社会保障・税一体改革成案」が取りまとめられたなどの進展がみられます。これらのことから、平成二三年度内の閣議決定を目途に、新しい大綱の案を作成することにしたいと思います。この点についてまずご了承いただけるでしょうか。]
ここまで一気に。
了承の声。
残念ながら、蓮舫大臣の発言には、前回の平成一三年の「大綱」の閣議決定の後も対策の背後で労苦して活動いる人の姿を想い、力を尽くして見直そうという気持ちの抑揚は感じられない。だから後ろに並んでいる担当官僚にも緊張感は生じない。朝早い会議のせいばかりではないだろう。
「声振林木」という成語がある。歌声が心に響き、あたりの林木をも振るわせるようすをいうが、蓮舫さんなら演技ででもできそうなところ。一〇年ぶりにやってくれるかと期待して検索した高齢者は、このあたりでまず意を削がれるのである。
[ それでは大綱の見直しに当たりまして、会長であります内閣総理大臣からお考えをお願いいたします。] 
蓮舫大臣にうながされて、野田総理が立つ。シャッターの音しきり。

「高齢者の消費の活性化」を視点に加える

[ はい。おはようございます。]
野田総理の発言・・ 。
野田さんは、このあとだれにも解りやすい胴上げ・騎馬戦・肩車の例を引いて、いずれはひとりがひとりの高齢者の面倒をみることになる「肩車型高齢社会」の困難な情景を思いながら説明する。しかもこの三つの例にまんざらでない納得の表情を浮かべて。
見直しに期待を持った高齢者なら、そのステレオタイプな「高齢者は被扶養者」という高齢者観に失望してしまう。自分の高齢者になったときの姿がわからないというこの若い総理に、「高齢社会対策大綱」のつくり直しができるのだろうか。まさにそういう先入観を見直そうという時なのに。
騎馬戦や肩車に乗っているのはだれ? 
世情をよく見てほしい。
いまや子や孫のめんどうをみているのは、高齢世代なのだから。孫たちの学習机や自転車、パソコン・・、子どもの住宅ローン、家族旅行・・。「オヤノコト」といいながら、準備する墓石だって支払いはオヤの方なのである。
そんなことを重ね合わせながら、あとを聞く。
 [ まさに人類史上、前人未到のスピードで高齢化が進んでいると思いますが、悲観的になるのではなく、高齢社会にしっかり向き合って、世界最先端のモデルを作っていくということが、この大綱作りの基本的な考え方になるだろうと思いますので、私のほうからは三点、基本的な視点を提示をさせていただきたいと思います。]
 いいね。高齢社会にしっかり向き合って、世界最先端のモデルを作っていくというあたりには同意できる。
だが、総理に「悲観的になるのではなく」といわれて、元気なシニアは戸惑わざるをえない。なぜ「悲観的」といわねばならないのか。五〇歳代はじめの人の感覚では、高齢者になること、高齢者であることがそれほど「悲観的」なことなのか。戸惑う間もなく、話は三つの基本的な視点に及んでいる。
 [ 一つは、高齢者の居場所と出番をどう用意するか、二つ目は高齢者の孤立をどう防いでいくか、三つ目は現役時代からどう高齢期に備えができるのか、・・以上三つが基本的な視点ですけれども、あえてもう一つ付け加えるならば、「高齢者の消費をどう活性化していくのか」ということも大事な視点ではないかと思います。]
基本的な三つの視点、「居場所と出番」「孤立防止」「現役時代からの準備」は、すでに言われてきた課題である。そこへ付け加えたのが、「高齢者の消費の活性化」。
スピーチでのこの発言の意図はどこにあるのか。
野田さんがいう「消費の活性化」は、世にいわれる黒字一四〇〇兆円の家計資産から赤字一〇〇〇超兆円の負債をかかえる国家財政への兆円の移動、つまり「消費税増税」にかかわってのことと憶測される。ねらいは家計貯蓄の多い高齢者層にある。しかし現役世代が考えているよりも高い生活感性を持つ高齢者層に、うるおいと充足をもたらすような製品(用品)の提供ができるかどうか。高齢者は、途上国製の百均商品(用品)にかこまれて、「やや高だけれども安心して使える国産優良品」の登場を待っているのは確かである。高齢者の暮らしを支えるモノの必要性に言及したことには注目しよう。努力なしの単なる消費税増税では高齢者は納得しないし、消費の活性化も起こらない。
 [ こういう考え方をもとに大綱作りについてのご議論をキックオフしていければと思いますので、よろしくお願いをいたします。]
 希望は失望へそして少しだけ希望へと折り返す。
蓮舫大臣の発言・・ 
[ありがとうございました。] 
これが、「政府インターネットテレビ」の映像と「首相官邸ホームページ、総理の動き」から起こした蓮舫大臣と野田総理の発言の細部である。会議は八時三一分に終わっているから、このあと一五分ほどのやりとりがあったようだが、ここではこれ以上の詳細な内容を必要としない。若く有能な大臣と中庸・凡庸を装う総理の発言と元気な六五歳+の高齢者の感想との間のギャップは、以上のように歴然としている。
そのあいだ終始途切れず、発言が聞きづらいほどに「シャリ、シャリ」とシャッター音がつづいていたが、どれほどの社が写真入り記事にしたかが気になった。
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◎ 六人の有識者で「大綱」を見直し ◎ 

二三年度中に結論を出す性急さ

よく聞くと、この第二〇回「高齢社会対策会議」で、決定者である蓮舫担当大臣は、大綱の見直しを「新しい大綱の案を作成する」とまでいっている。だが注意すべきは「二三年度中」という点で、すでにハーフタイムを過ぎている時期からどれほどの検討をして二三年度中に新しい大綱を作成しようというのか。 
まずは素案の原案を作るために設けられる「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の有識者委員の顔ぶれを見なければならない。
同じ「有識者会議」でも、他の分野と異なって高齢社会が対象なのだから、ここは大学の現役学者ばかりでなく、体現者である高齢者の代表、活動の実践者、シニア・グッズの生産者やサービスの提供者、団塊世代の代表、さらには東北の被災地でいまその課題に直面している人びとといった多方面の現場からの要望の集約が必要であろう。
前回の平成一三年の時の検討会委員は各界からの一三人であった。中間の平成一七年~一九年に「大綱見直し」の参考にする前提で開催された「今後の高齢社会対策の在り方等に関する検討会」(清家篤座長)では専門学者を中心に一〇人のメンバーが検討をおこなっている。その「報告書」は参考にすべきだが、だからといって一〇年ぶりの今回を「軽車で熟路」ですいすいとすませるわけにはいかない。もっと各界からの声を多く聞き、多くの国民に理解をしてもらう機会とせねばならないからである。
ところがどうしたことか委員は六人に減らされている。六人の有識者委員というのは、次の方々である。
 座長 清家篤 慶応大学塾長(1954~)
香山リカ 精神科医 立教大学現代心理学部映像身体学科教授(1960~)
関ふ佐子 横浜国大大学院国際社会科学研究科准教授
園田真理子 明治大学理工学部建築学科教授
弘兼憲史 漫画家(1947~)
森貞述 介護相談・地域づくり連絡会代表(前高浜市長)(1942~)
 前回座長であった清家塾長がいるとはいえ、このメンバーだけで見直しの素案を得ることに納得は得られないだろう。しかもわずか四回の会議で意見をまとめ、内閣府で整理して二三年度中に「高齢社会対策会議」に報告するという「快馬に加鞭」ぶりである。成案はすでに出来ているといわんばかり。
座長は当然のこと清家塾長が担当し、すでに一〇月二一日、一一月二五日と二度おこなわれている。このあと年明けの一月一二日には「素案」についての議論がなされ、二月二日には「報告書」のとりまとめをおこなうという。
 これでは高齢者を仕分けすることに
このプロセスと人選の決定者は、民主党のホシ・仕分けのオニ蓮舫担当大臣である。穏やかな学者の清家さんに「否(ノン)」という強さは求めづらい。しかも原則公開となってはいるが、これまでに新聞・TVでの一般情報で問題にされたようすはない。内閣府のホームページで経緯や資料や議事録を見ることはできるが、ほとんどの国民が知らないままで「見直し検討会」を終えようとしている。
すぐれた法改正ができたとしても、体現する国民が構想や対策の内容を知らず理解できずに、だれが実現してその成果を享受できるのか。
案に相違せず、一〇月二一日の「第一回検討会」の冒頭で、原口剛参事官から「高齢社会対策主要施策の推移」「高齢社会の現状」の説明ということで、さまざまな関連法や現状についての「非常にたくさんのデータ」の説明が「簡単」になされて、委員からは何の質問もなしに通過している。
こういうプロセスそのものを見直して、国民に周知する機会とせねばならないのに。これもやはり責任は担当大臣にある。
蓮舫さん、あなたは高齢者まで仕分けてしまうのですか。高齢者のひとり(一票)として異議あり! 検討未了として有識者の意見の追加聴取を求めます。
有識の人は学者ばかりではなかろう。 上に挙げたような現場の人びとのナマの声が聞きたい。ほかにもその発言に国民が耳を傾けるような人びとを検討会に呼んで意見を聞くこと。それが原則公開の意味である。そういう人びとの発言ならニュースになって多くの国民の知るところとなる。「皇潤」などの広告に出るような高齢ヒーロー・ヒロインの人びとの「出番」ではないのか。
とくに「3・11大震災」以後の現場で、高齢者がどう暮らしているのか。どういう仕組みをつくって動いているのか。何が必要なのか。実際に労苦して活動している人の声を仔細に聞くこと。
このまま進んで清家さんの整理にまかせることで「報告書」は作れるだろうが、それではこれまで労苦してきた先人に恥じ、これから苦労することになる後人にも恥じる結果になりかねない。衆知を集めて議論して広く知られる「新たな大綱」としなければ、増えつづけていまや三〇〇〇万人に達する高齢者に、新たな「高齢社会」の当事者意識は生まれず、参加の機会もつくれない。ここで社会参加の意識を生めないようなら、この国をここまで成し遂げた人びとの高齢期人生を、政治は見捨てることになる。
 蓮舫大臣、あなたは初会合の終わりに顔を出して、広い会議室で五人のメンバー(弘兼委員は二度とも欠席)とテーブルをはさんで坐ったとき、前例のない高齢社会に対する「新しい大綱」を仔細に検討し、成果を得て、責任者として国民に報告できるとほんとうに納得できたのでしょうか。
 前例のない「日本型高齢社会」を世界に先駆けて実現する高齢者。その多種多彩な人生への構想力に理解を持たない担当大臣として、このまま通すなら資格を問われざるをえない。野田総理は任命責任を問われることになる。
このところ「少子化・高齢化」を兼務することが慣例になっていたとしても、この際はそれにふさわしい人物を特任すべきであろう。与謝野馨さんはみずから申し出て「少子化担当大臣」をやったではないか。すぐれた担当大臣の特任、そうしてこそ「正心誠意」のこもった総理の意思表示となるのではないか。

国・自治体のこれ以上の対応の遅れは、「日本高齢社会」形成のチャンスを失うことになり、この国の高齢者の人生を丸ごと不幸にしかねない。

一月一二日開催のふたつの会に注目

この国の高齢者の人生を丸ごと不幸にする方向に向かっているというのは言い過ぎではない。何よりの証しは、一九九九年の「国際高齢者年」に全国的に展開した活動をまとめあげた総務庁高齢社会対策室のような導線の太い中央組織が壊滅状態であり、内閣府に「専任」でかまえる高齢社会対策担当大臣がいないことだ。

野田総理は、千里の道を遠しとはせず、まずはその第一歩を足下の内閣府構成メンバーの立て直しから始めること。高齢社会対策担当大臣、副大臣のもとに、専任の審議官、政策統括官、参事官などがそろった高齢社会対策のための太い導線を敷くこと。その上で一〇年ぶりの「大綱」の見直しを多くの人びとの参加を得て進めても遅くはない。中長期の新しい国づくりの指針として作成するはずのものだからである。そうあってはじめて、国際的にも誇れる「日本高齢社会」達成への道は緒につくのである。

平成一三年のあと、中間の平成一七年~一九年におこなわれた今後のための検討会、そして今回の有識者各委員がそれぞれの立場で提供した意見は貴重であり、その労を無視するわけではないが、もっともっと各界を代表する有識者の声を聞き、広く高齢者の意向を反映した素案が作成されねばならない。

全国の高齢者のみなさん、平成二四年一月一二日、蓮舫担当大臣のもとで内閣府で開かれる「第三回高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」に注目してほしい。
そして同日同時に、近くの憲政記念館会議室で、高連協(高齢社会NGO連絡協議会)が開催する「高齢社会大綱の見直し」に対する「高連協提言」発表会を合わせ注目してほしい。(二〇一一年一二月二八日) 

 参考著書
『丈人のススメ 日本型高齢社会 「平和団塊」
が国難を救う』(武田ランダムハウスジャパン・
二〇一〇年七月刊)

友好都市・産業の絆-世界をめざす二つの瓷都

世界をめざす二つの瓷都

有田町と景徳鎮市 

「世界・焱の博覧会」の会場は、その時、熱気に包まれた。一九九六年八月二八日、新世紀の「国際的な陶磁文化のまち・有田」をめざして、有田町が総力をあげて催した博覧会の会場で、多くの町民・観光客が見守る中で、有田町の川口武彦町長と景徳鎮市を代表して訪れた舒暁琴市長は、両町市の友好都市締結の調印式をおこなった。いっそう盛大になったのは、同時に韓国陶磁器文化振興会との間に友好団体協定が結ばれたからである。

日中韓三国の有名な陶磁器の生産地が交流を深めることによって、「伝統ある東洋陶磁器文化の発展の流れを促進していきたい」と、川口町長が力を込めて挨拶した歴史的な瞬間であった。

四〇〇年前に、朝鮮渡来の陶工(李参平)に学びながら、草創期の有田の陶工たちが炎の中に追求して極めた磁器「伊万里」は、時を経てふたつの著名な陶磁器の生産地を結ぶ絆となったのである。

景徳鎮市といえば、一〇〇〇年余の歴史をもつ陶磁器生産の「瓷都」である。人口は一三二万人。一四世紀の元末から明初に景徳鎮で焼かれた「染付磁器」が、長江を下って海路、ヨーロッパ、朝鮮、日本にもたらされて、その名を国際的なものにした。ドイツのマイセンと盛名を二分する世界的な陶磁器の産地である。

有田町は、人口約一万三〇〇〇人。景徳鎮には比すべくもないこぢんまりした町である。山合いに東西に伝統的な町並みが保存されている。西には「焱の博記念堂」のある「歴史と文化の森公園」が広がり、南にはドレスデンのツヴィンガー宮殿(陶磁コレクションで有名)を模した「有田ポーセリンパーク」がある。豊かな自然の中で、過去と現在の陶磁器の良品にふれながら、新しい「有田文様」を生み出す拠点づくりが進んでいる。春のゴールデンウイークに開かれる「有田陶器市」には町内四キロにわたって約七〇〇軒の店舗が並び、一〇〇万人近い人びとが訪れる一大イベント。秋は一一月に、泉山弁財天神社の大銀杏(樹齢一〇〇〇年、高さ四〇メートル)の色づく町で、「食と器でおもてなし」をテーマにした「秋の有田陶磁器まつり」がおこなわれる。

かつて一七世紀初め、有田の産品が船積みされた港「伊万里」の名で呼ばれた磁器を制作した有田の陶工たちは、それまでの景徳鎮の製品や朝鮮李朝の技法に学びながら、「赤絵」や「濁手」さらに「金襴手」など、独自の様式を確立してきたのだった。有田の三右衛門と呼ばれる柿右衛門、今右衛門、源右衛門窯がいまも伝統を引き継いで活躍している。
有田町は、ドイツの磁器の町マイセンとは一足早く、七九年に姉妹都市となった、景徳鎮市とも八〇年代から親善訪問団、景徳鎮陶器祭り視察、有田窯業大学校生研修(毎年)など、友好関係を積み上げてきた。

そして九五年一〇月、「景徳鎮陶器祭り」に参加した有田町訪中団に対して友好都市提携の提案がなされ、「焱の博覧会」での正式締結となった。
二〇〇四年一〇月、「景徳鎮一〇〇〇年」祭を記念して、景徳鎮市で世界陶磁博覧会が開催された。京都、瀬戸(九六年に友好都市に)とともに有田町も参加要請を受けた。

一八六八年のパリ万博で与えた美の衝撃を、どうやって現代に創出するのか。新世紀を迎えて、先人の先取りの精神を受け継ぎ、新しい有田が誇る陶磁文化を国内外に発信して、名実ともに「国際的な陶磁文化のまち」を築くという有田五〇〇年への挑戦は、いま始まったばかりである。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

友好都市・産業の絆-内陸盆地の鉱産都市

内陸盆地の鉱産都市 

秩父市と臨汾市 

 「尭天舜日」というのは、尭や舜のような賢明な指導者のもとで、太平の世がつづくことにいわれる。聖人の尭が天子の位につき五〇年のあいだ天下を治めた地とされるのが臨汾である。市の南に尭廟があり、東に尭陵がある。伝説時代の事実は、ほかになくここにあるのだから認めることにしよう。ほかにあってもここがふさわしければ認めることにしよう。学者ではなく住民にもっとも近いところで。

市外に出れば限りなくつづく黄土高原の起伏。尭の末裔は、いまでもつましく、高原の窰洞(黄土をくりぬいた住居)で暮らしている。

 臨汾市は、山西省西南部の臨汾盆地の中央に位置し、黄河の支流汾河に臨んでいる。前述した省都の太原(姫路市と友好都市)までは北へ二七〇キロ、人口は約五三万人。
横丁まで花木、果樹が植えられて「花果城」と呼ばれ、しばらく前まではロバが目立つ街だった。その臨汾市に、近年は石炭を運ぶ長距離トラックが目立ち、コークス作りの煙りが漂い、さらに黄砂が舞う。

内陸地域の開発は、鈍いというよりも歪んだ影響を受けているといえる。
石炭や鉄鉱石、石灰岩といった鉱産資源に恵まれ、製鉄やセメント工業が盛んな臨汾市だが、極度の大気汚染に見舞われ、二〇〇四年には中国全土でワースト・ワンになり、最近の米国研究所の調査(〇七年)では世界ワーストテンに挙げられている。

同じ内陸の鉱産都市として秩父市も、かつて武甲山の石灰岩採掘による灰塵が秩父盆地の家々を覆った時期があった。灰塵が産業活動のシンボルとされた時期から、生活環境の保全のために改善すべき事態となり、厳しい選択を経て、最近では電子産業が新たな地場産業となってきている。人口は約六万人。

秩父山地の山々に守られ、独自の産業と文化を培ってきた秩父市は、近世には秩父銘仙や木材が、明治以降はセメント工業で知られた。秩父夜祭や札所三四カ所観音巡り、そして秩父の四季の自然は、訪れる人びとに安らぎを与えつづけている。「助け合い温もりのまちづくり」は、秩父伝来のものの表現である。 

秩父・臨汾両市の友好都市提携は、八四年に秩父郡市の市町村長が太原市を視察した際、山西省側から秩父と態様がよく似た臨汾市を紹介されたのが契機となった。提携の調印式は、八八年一〇月七日、臨汾市でおこなわれた。内田全一市長が署名した協定書に、劉和平市長と新井一夫助役が署名して成立した。 

 いずれもが内陸の都市のために、市民同士の往来は限られるが、その後の両市の友好交流活動は、秩父国際学院(日本語学校)の開校や研修生受け入れ、青年交流団や親善訪問団の受け入れ、「日中友好の翼」での訪問や「国際尭都太鼓大会」へ秩父屋台ばやしの特別出演、周波氏の版画「黄土高原」展、写真展「黄土高原と窰洞」の開催などで友好の絆は深まっている。秩父市の国際学院で学んだ「こどもたち」も四〇歳代になり、現地での活躍が目立つようになった。

地元で秩父山地の農民の暮らしを追いつづけてきた写真家の南良和さんが、友好都市臨汾の黄土高原で暮らす農民を撮影して二〇年余になる。
「秩父には見出せない農業の原点がある」
という。(二〇〇八年九月・堀内正範)