友好都市・産業の絆-最先端技術を駆使する古都

最先端技術を駆使する古都

姫路市―太原市(山西省) 

日本人なら姫路といえば「白鷺城」を思い浮かべるように、中国人なら太原といえば「晋祠」を思い浮かべる。ともに忘れられない都市なのである。

ともに輝かしい歴史をたどり、優れた文化遺産をもつ姫路市と太原市。 
両市の友好提携への動きは、両市の交流を期待する人びとの尽力の成果をかさねて、一九八四年に太原市の友好都市考察団が姫路市を訪れたことからはじまった。

太原側からその折に友好都市提携の申し入れと視察団派遣の招聘を受けた姫路市は、翌八五年に訪中視察団を派遣した。その視察報告を受けて、姫路市からも提携の申し入れをおこない、八七年一月に太原側から国内手続きが完了した旨の親書が届き、姫路側が訪問団を送って協議を重ねた。

かくして八七年五月二〇日、楊崇春市長ら太原代表団を姫路市に迎えて、戸谷松司市長との間で友好都市協定書の調印にこぎつけたのだった。戸谷市長は「志有る者は事ついに成る」という中国のことわざを引いて、
「国際平和のために隣国同士、努力していこう」 
とあいさつ、楊市長は、
「末長い友情を後世のために大切にしていきたい」
と希望を述べた。

太原市は、山西省の省都である。北京から南西に五〇〇キロに位置している。古都として北京、西安、洛陽ほど知られてはいないが、中国史の中では重要な役割を果たしてきた「歴史文化名城」である。二〇〇三年に「開城二五〇〇周年」を迎えた。

唐を開いた李淵はここから出て全土を掌握した。周初に晋国を拓いた唐叔虞(周武王の次子)を祀る「晋祠」で知られる。北宋時代に建立された聖母殿に現存する三三体の侍女像は、どれも表情や服装が美しい塑像の傑作である。また清末の資本家の邸宅「喬家大院」は、大・小院が二六、部屋が三一三室という大規模なもので、八六年から「祁県民族博物館」となっている。中国映画コン・リー主演の『紅夢(大紅灯篭高高掛)』はここを舞台に撮影されたものである。

太原市はいま、採炭と重工業化から生じた大気・水質汚染に対して、日本からの環境整備事業への借款や「CP(クリーン・プロジェクト)モデル都市」としての取り組みによって脱皮を図っている。人口は約二九〇万人。

姫路市は、兵庫県南西部に位置し、瀬戸内海に臨む中核市。「国宝・姫路城」は巧妙な守りの構造を優美な姿につつんだ日本城郭の傑作として、日本初の世界遺産に登録されている。また天台宗の古刹「書写山円教寺」は壮大な大講堂、食堂、常行堂をもつ建造物として知られる。
近年は播磨科学公園都市として最先端技術開発による経済の活性化にも取り組み、国際会議や大会を誘致するなど国際交流都市をめざしている。人口は約四七万人。

交流の実際となると、太原市は内陸都市なのでお互いに難があるが、これまでの両市の交流は、経済・科学技術・環境保護・都市建設などの市視察団のほか、青少年交流を中心におこなわれている。語学研修生は毎年相互に実施、技術研修生の受け入れ、中学・高校生の派遣と受け入れもつづく。書画展、太原雑技団の公演、牡丹の受贈なども両市をつなぐ行事である。

提携記念に「友情が大きく育つ」ことを祈って、一九八七年に市役所敷地に植樹された紅梅は、毎年、鮮やかな花を咲かせている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-東北・盆地・樹氷・物産が絆 

東北・盆地・樹氷・物産が絆 

山形市―吉林市(吉林省) 

 吉林市内には松花江が流れ、冬の河畔の樹挂(樹氷)で知られる。冬も凍らない松花江の水蒸気が河畔の松や柳に接して「夜は霧氷、朝は樹氷、正午は落花」と変化するのは壮観である。毎年一一月下旬から三月まで見られる。

山形市には蔵王の樹氷があり、蔵王の樹氷は、幻想的な冬の風物詩として有名である。
「樹氷」も絆のひとつとなっている。 

山形市は、国際的な蔵王スキー場をもつことから、「銀嶺の王者」トニー・ザイラーやスキー関係者との交流が縁でオーストリアのキッツビューエル市と姉妹都市(一九六三年)になり、その後オーストラリアのスワンヒル市、中国の吉林市、ロシアのウラン・ウデ市、アメリカのボルダー市と姉妹都市になるなど、「心と心を結ぶ架け橋」を合言葉に世界各地の都市と友好の輪を広げてきた。

中国の東北地区にある中心都市、吉林市との交流は一九七九年の「山形市日中友好『市民のつばさ』訪中団」が吉林市を訪れたのがはじまり。その後も山形県や山形市の訪中団が吉林市を訪問し、同じ東北にあること、周辺を山に囲まれた盆地同士であること、さらには前述したように樹氷の景観や物産の類似性などが親近感を深め、友好交流の発展をすすめる絆となった。

山形市が吉林市に友好都市提携の希望を伝えたのは、県日中友好協会の役員訪中団が吉林市を訪れた際に、金沢市長が李守善市長へ親書を手渡した八一年五月のことだった。
そして友好都市締結の調印式は、八三年四月二一日、吉林市の王雲坤市長ら代表団を迎えて市民会館でおこなわれ、終始、温かい拍手の中で議定書調印へと進んだ。山形市からは名産の鋳物工芸品である「友好の鐘」が贈られ、吉林市からは隕石や鹿の角が記念品として寄贈された。

吉林市は、観光都市であるとともに東北地区有数の化学工業都市でもある。「東北三宝」と呼ばれる薬用人参、鹿の角、ミンクの毛皮が特産である。人口は約四二五万人。

山形市は、最上藩の城下町として栄えてきた。「霞ケ城」の築城は一三五七(延文二)年で、二〇〇七年は山形城創建六五〇年に当たった。江戸時代には城下には商人、職人が多く住みつき、さかんに市が開かれた。「市日町」が八つそろっている。とくに紅花商人のまちでもあった。
現在の名産物はサクランボ、茶釜などの鋳物。春の植木市や夏を彩る「花笠おどり」、芋煮会、冬は蔵王のスキー客でにぎわう。人口は約二五万人。

両市の主な交流活動は、市友好代表団の相互派遣、農業・工業技術などの研修生の受け入れ、山形市立商業高校と吉林第二高級中学校(高校)および山形大学教育学部と吉林師範学院の友好校締結。名産品展示会の開催、留学生交流やサッカー親善交流、歌舞団の来日公演、吉林市を訪問しての芋煮会や花笠踊り実演など。二〇〇〇年には「山形・吉林友好会館」を開設した。山形市日中友好協会がおこなってきた中国語講座は、八六年に開始いらい市民の中国への関心を広げてきた。研修生や留学生、東北地区からの帰国者の暮らしなども支援している。

二〇〇三年に市が開設した「友好姉妹都市交流センター」は、情報提供、外国語放送番組の放映、パソコン・ネット可能な交流ラウンジ、民間団体活動室などを設けて、こまかなサービスを提供している。

夏の名物行事「花笠まつり」で踊る外国人衆の数も年々増えて、人気グループになっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-石炭産業から新工業都市に

石炭産業から新工業都市に

いわき市―撫順市(遼寧省) 

わが国の戦国期の混乱を統一した徳川家康とほぼ同じころに、中国東北地区で部族抗争の激しかった女真族を統一したがヌルハチ(努爾哈斉)。その生誕の地であり、満州族清王朝発祥の地でもある撫順は、遼寧省の省都である瀋陽に次ぐ大都市である。

世界屈指の露天掘り炭鉱があり、「石炭の都」とも称されてきた。おもな産業は、石炭、天然ガス、オイルシェール、銅、鉄、マグネシウムなど豊富な地下埋蔵資源を背景にして、石油精製、電力、冶金、機械、電子、紡績といった工業都市に変貌している。撫順市には、人口は約二三〇万人。

同じ東北地方に位置して、石炭に縁のある工業都市同士という共通性から、いわき市の希望をもとに中日友好協会や中国大使館の斡旋によって、両市の友好都市締結は実現にむかったのだった。
訪中したいわき市代表訪中団(団長田畑金光市長)に正式に伝達されたのが一九八一年四月のことで、いわき市は同年八月に友好都市締結先遣団を送って事務事項の協議をおこない、八二年三月の市定例議会において満場一致で議決した。 

友好都市調印式は、八二年四月一五日に撫順市代表団を迎えて、いわき市でおこなわれた。全樹仁市長と田畑金光市長が議定書に署名した。ちなみに撫順市は、同じく石炭を基幹産業としていた夕張市とも友好都市提携をしている。

いわき市は、福島県東南部に位置し、常磐炭田と小名浜港を中心に発展してきた。現在は一五の工業団地を有し、東北第一位の出荷額を誇る中核市に変貌している。六〇キロに及ぶ海岸線の海水浴場や「いわき湯本温泉郷」を中心とした観光事業など、多様な産業が活発に展開されている。人口は約三五万人。

両市の主な交流は、市友好代表団や議会代表団を相互に派遣しているほか、経済、農業、教育、文化代表団も頻繁に行き来している。技術研修生の受け入れではとくに友好病院からの研修生が帰国後に幹部に登用されるなど、成果をみせている。そのほか小・中学生の書写交流訪問団や調理師交流、茶道・舞踊などの文化交流、スポーツ交流訪問団の派遣を地道におこなってきた。

いわき市の日中友好協会は五周年、一〇周年記念として「友好文庫を贈る運動」や、一五周年には「教育機器(パソコン)を贈る運動」を実行した。二〇〇二年の二〇周年には広く市民に呼びかけて、「山村の希望小学校建設に資金協力する運動」を展開し、五〇〇万円の資金支援を得て実現した。友好都市締結の時に、「単なるセレモニーに終わらせることなく、実り多いものに」と市長として誓った田畑さんは、同協会の会長として、二〇年後の〇二年四月、友好のシンボルとなる「撫順―いわき希望小学」の開校式に名誉校長として臨んだ。付麗華校長と並んで、将来の友好人士の育つのを期待してあいさつをし、祝った。 

〇五年の「一七回日中友好海辺の集い」には、縫製会社で働く中国女性一二人が初参加した。また南京城壁保存修復一〇周年式典には市から一一人が参加した。

〇七年の二五周年には、六月二六日に、いわき市で記念式典が開催され、撫順市から劉強市長をはじめとする撫順市友好交流代表団が来日し、市長みずから映像をまじえながら、歴史、産業、観光などについて紹介した。また九月二五日には撫順市で記念式典がおこなわれ、いわき市からは櫛田一男市長を団長とするいわき市友好交流代表団が出席した。八月にはいわき市小中学校書写交流訪問団が撫順市を訪問し、参加者は、中学校での交流や書道家の実技指導を受けた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-石炭産業の遺産を活かす

石炭産業の遺産を活かす

大牟田市―大同市(山西省) 

わが国が繁栄への夢を共有していた明るい時代の記憶とともに、
「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上にでた・・」
ではじまる民謡「炭坑節」は、みんなの胸の中に懐かしく高鳴っているだろう。

エントツからもくもくと出る煙は、産業発展のシンボルだった。明治、大正、昭和とわが国の産業を支えてきた石炭、その象徴ともいうべき三池炭鉱が閉山したのは一九九七年三月のことだった。世紀をまたいだせいか遠い感がするが。

大牟田市は、福岡県南端に位置し、三池炭鉱とともに発展してきた鉱業都市である。石炭採掘は明治期から本格化し、化学コンビナートを形成して、わが国の近代化に貢献してきた。炭鉱閉山の後は、有明海に面した三池港など産業基盤を活かして、多機能型の快適環境都市をめざしている。人口は約一四万人。

大同市は、北京から西へ約三八〇キロ、鉱産資源に恵まれた山西省第二の都市である。とくに石炭は「石炭の海」といわれるほど豊富で、埋蔵量は七一八億トンといわれる。化学工業化が進み、北京市や天津市の電力を支える重要発電基地となっているが、石油化による深刻な影響を抱えている。人口は約三〇五万人。

大同市はまた北魏の都「平城」であった時代の仏教遺跡「雲岡石窟」(世界遺産に登録)が残る歴史文化名城である。とくに「曇曜五窟」の石仏は、新興の北方民族が中原にはいって担うことになる大きな責務を胸中に秘めた実に雄大な造形である。雲岡石窟を開鑿した北魏王朝は、のち五世紀のおわりころに、孝文帝に率いられて平城を出て中原にはいり、洛陽を都とするとともに、漢化した穏やかな風貌の龍門石窟の仏たちを生み出すことになる。

雲岡石窟は、敦煌の莫高窟、龍門石窟とともに中国が誇る三大石刻芸術宝庫とされている。

両市の交流は、七八年に大牟田市の三井三池製作所が大同市の大同市雲岡炭鉱から採炭プラントを受注したことから始まった。これを機会にして、炭鉱技術研修団がやってくるなど関係が深まり、七九年には大牟田市友好代表団が大同市を訪ねている。
友好都市提携は、八一年一〇月一六日、大牟田市でおこなわれた。関漢文市長ら大同市代表団を迎えた調印式で、黒田穣一市長は「石炭を基礎にし、大同市の豊富な埋葬量と大牟田市の採炭技術を活用し合いたい」と挨拶した。
その後、産業構造の激変に対応して公害対策を成し遂げてきた大牟田市は、大型の電力・化学工場が稼動する大同市の大気汚染や廃棄物処理といった公害克服のための技術を提供することとなった。専門家を派遣し、事業所や研究機関で研修員を受け入れるなど、人材育成にも協力している。

これまでの主な交流は、両市代表団の相互訪問、職員派遣、公害対策のほか農業、医療、ホテル管理などの研修生の受け入れ、大同市歌舞団の公演・書道展、物産展、美術展、友好校提携、仏跡巡拝の旅など幅ひろい。
二〇〇一年に迎えた二〇周年には、訪中団の式典参加や大牟田「大蛇山」と大同「龍灯舞」といったイベント交流とともに、雲岡石窟周辺の記念植林をおこなった。これはいまもなお続いている。
二〇〇六年は二五周年にあたった。大牟田市では、一〇月に、書や工芸品をふくむ「大同市写真展」や大同市で採掘された二億八〇〇〇万年前の石炭塊(二〇〇キロ)の展示もおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-薬がもうひとつの絆

薬がもうひとつの絆 

富山市と秦皇島市

 中国の北境に、東西約三五〇〇キロ。延々と横たわる「万里の長城」という巨龍が、東の端で渤海に入る。その「龍頭」に当たるのが秦皇島市である。いまは半島であるがかつては小島だったという。

紀元前二一五年、秦の始皇帝は、東遊の折りにここにきて、海中の神山に長生不死の霊薬を求めた。天下を極めた皇帝として、大地の極まったこの地で、海中に不老不死の霊薬を求めた事跡はあったのだろう。命を受けた徐福は、三千人の童子と百工と伴って海中に浮かぶが、ついに不死の霊薬は得られなかった。
徐福にちなむ伝説は佐賀市、新宮市、富士吉田市、いちき串木野市などにあるが、富山市には聞かない。が、始皇帝の事跡と名は市名となって長く残ることになり、長生不死の霊薬はここで富山の薬と出会うこととなった。 

富山市は、江戸時代いらい薬業や和紙などの産業が奨励され、とくに「越中とやまのくすり」は全国に知られた。薬をあずけて使った分の代金を後に受けとる「先用後利」の家庭配置薬は、新しい薬がいつも使える状態で詰まった薬箱として、全国の家庭に安心感を常備してきたのだった。

富山市と秦皇島市を結んだのは、一九七九年五月に「中日友好の船」の団長として富山市を訪れた廖承志中日友好協会会長であった。富山市長から友好都市としてふさわしい都市の紹介の申し入れを受けて、廖承志会長が選んだのが秦皇島市だった。
知日家だった廖承志会長のことだから、とやまの薬と始皇帝の仙薬の絆まで考えただろうが、港のある産業都市として規模が似ているというのが第一の理由だった。七九年一〇月の市制九〇周年式典には秦皇島市代理として大使館員が参加した。八〇年五月には市長を団長とする「日中友好富山市民の船」の三五九人が秦皇島市を訪問した。

両市の友好都市締結の調印式は、一九八一年五月七日、秦皇島市使節団を迎えて富山市でおこなわれ、改井秀雄市長と許斌市長が議定書に署名した。五月九日には市公会堂で、二三〇〇人の市民が参加した「日中友好富山市民の集い」が開かれている。

秦皇島市は、南に渤海に臨む港湾都市で、大慶油田からの石油や石炭の積み出し港。また東北と華北地区を結ぶ交通の要。北京市、天津市に近く、長城東端の山海関や有名な避暑地、北戴河がある観光都市でもある。北戴河は、毛沢東や鄧小平時代までは、七月に重要な非公式会談がおこなわれて注目されたが、現政権指導者は公開性を損なうとして避けている。港湾施設、投資環境に優れており、欧米、日韓などからの企業進出も盛ん。人口は約二七〇万人。

富山市は、北陸道、飛騨街道や北前船航路などの交通・物流の要衝として栄えた。いまも「共生・交流・創造」のまちづくりを推進する中核市である。四月の全日本チンドンコンクール、八月の富山まつり、一〇月のとやま味覚市、年末のとやまスノーピアードなど、年間を通じた観光にも力を入れている。環日本海交流の活動も。人口約四二万人。

両市の友好交流は、市代表団、経済視察団の相互訪問をはじめ、各分野の考察団の来訪、とくに農業や医学を中心に工業・日本語・商業などの研修生の受け入れ。友好病院、医療技術友好訪問団派遣、医療機器贈呈(一〇周年)、救急車の贈呈もおこなった。トレードフェアでの市紹介、物産展。子供の作品展、中学生の友好訪問。ゲートボール友好訪問、芸能公演、卓球交流など年々、着実に推進されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-鉄と福祉で「金蘭の友」に

鉄と福祉で「金蘭の友」に

大分市―武漢市(湖北省)

知的障害(ダウン症)を持ちながら、楽団の中で育った舟舟(胡一舟)が、管弦楽曲「祝福」の指揮台に立った。中国中南部で最大規模の武漢オーケストラが、二〇〇四年一一月二二日に、大分文化会館での記念公演をおこなったときのことである。

時を同じくして武漢市では、「大分市障害者福祉・友好の翼」の市民約一二〇人が、一一月一九~二三日、市代表団の釘宮磐市長や村山富市元首相らとともに記念式典に参加し、同市の障害者と交流会を開いた。友好の翼一行は楽しみにしていたパンダ「英英」に会い、「健身広場」を見学し、開発区や武漢鉄鋼集団公司の製鉄工場も視察した。

大分市と武漢市が、二〇〇四年一一月に友好都市提携二五周年を祝ったときのことである。

大分と武漢とを固く結んだのは「鉄」だった。
新日鉄大分製鉄所が一九七四年六月から二年間、武漢鉄鋼公司のプラント建設と操業指導にあたった折り、二〇〇人余の技術者が研修に訪れた。一方、武漢へは新日鉄の技術者が派遣されて、鉄を介して交流が始まったのだった。
製鉄支援とともに、不幸な日中戦争の過去の歴史を乗り越えて新たな関係をつくるため、佐藤益美市長や伊東忠雄市議会議長、県日中友好協会の田上光理事長らは、友好都市への努力をつづけた。そして七九年九月七日、劉恵農市長ら代表団を迎えて、大分市役所での友好都市締結の調印式へとこぎつけたのだった。

大分市は、別府湾に面する新産業都市である。
豊後の国府として海路往来で栄え、とくに戦国期には大友宗麟がいちはやく「南蛮文化」を受け入れた。国際化の気質はワールドカップ開催都市のひとつとなるなどに引き継がれている。サッカーの大分トリニータの本拠地。伝統のある別府大分マラソンでも知られる。毎年おこなわれる「大分国際車いすマラソン」に武漢市の選手団を招待し、市民参加のノーマライゼーションの実践として、車いすでの国際交流の経験も積んできた。人口は約四五万人。

武漢市は、長江と漢水との合流点に武昌、漢陽、漢口の三つの城市を形成して「武漢三鎮」と呼ばれてきた。歴史は古く、三国時代に呉の孫権が拠った。武漢の名は明代から。一九一一年一〇月一〇日の武昌起義は、辛亥革命の幕開けとなった。先の大戦では、戦略拠点として日中間で激しい攻防戦のすえ、一九三八年一〇月にひとたび陥落したが、その後、戦線は点と線を守る持久戦となったことで知られる。解放後の四九年五月に武漢市になった。
主要産業は、製鉄、造船、紡績、機械製造などで、近年は国際化のもとで外資系の自動車産業も盛んに。「歴史文化名城」のひとつ。長江中流域の水陸空交通の中枢である。
夏の暑熱は有名で、南京、重慶とともに「三大火炉」と呼ばれる。夏、熱量を使う大都市がヒートアイランドとなるのは、近年に始まったことではない。たびたび長江の水害に見舞われ、大分市はその都度、義援金を送って支援してきた。長江の「三峡ダム」は武漢市の五〇〇キロ上流に世紀の事業として建設されている。人口は約八三〇万人。

二五周年記念式典で、李憲生市長は「大洪水に示された支援を決して忘れない」と感謝を述べた。釘宮市長は「先達の築いた成果の上にさらに交流を」と挨拶、村山顧問は「歴史を鑑とする」大切さを訴えた。

古来、固く麗しい友誼を「金蘭の契り」というが、鉄を契機にし、障害を持つ市民の相互理解へと踏み出した両市の交流は、まごうかたなき「金蘭の友」としてのものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-牡丹は群芳に冠たり

牡丹は群芳に冠たり

須賀川市―洛陽市(河南省) 

「牡丹の花品は群芳に冠たり」

かつて宋代に「花城」と呼ばれた洛陽に住んでいた邵雍は、こう詠って牡丹を讃えている。古来、牡丹は花王とされてきたが、しかもその花王の中でさらにまた王があるという(牡丹吟)。明代の薛鳳翔は『牡丹史』のなかで、神品、名品、霊品、逸品、能品、具品と分けて、それぞれに花の名を添えている。神品のなかの「雪素」「独粋」「嬌容三変」とはどんな妖艶な牡丹だったのか。「魏紫姚黄」というと名花のことを指すのだが、魏さんの紫花、姚さんの黄花というのは、優れたブリーダーの存在を推測させる。人も牡丹も神品は、優れた要請者、鑑賞者によって生まれるのだと邵雍はいいたいのだろう。

いまでも中国では艶麗な牡丹が国花とされる。が、冬は梅、春は牡丹、夏は蓮、秋は菊が、それぞれに季節を代表する国の花として愛でられ、中国各地にそれぞれの名勝がある。

日本では福島県須賀川市の「須賀川牡丹園」が一九三二(昭和七)年に国の名勝に指定されている。四月下旬、東京ドームの三倍ほどの広さをもつ園内では、二九〇種七〇〇〇株の牡丹が、次々に多彩で濃艶な花を開き、花品を競うことで知られる。江戸時代のなかばの一七六六(明和三)年に根を薬用とするために栽培を始めたという歴史を持っている。 
春の訪れを告げる花としては、日本では桜の賑わいの後だけに、洛陽とは違って静かに鑑賞されている。市の花はもちろんボタンである。人口約八万人。

洛陽市は、「中原に鹿を逐う」地にあって何度も興亡を繰り返して「九朝の古都」と呼ばれる。倭の奴国王や女王卑弥呼の遣いが訪れた都で、その後も遣唐使がかならず立ち寄った東都であった。吉備真備が二度おとずれて文物を持ち帰った歴史的交流の絆から、洛陽市と岡山市が友好都市になっていることはすでに述べた。洛陽市と須賀川市は牡丹で結ばれている「花の友好都市」なのである。
唐代から長安とともに牡丹の名城として知られた洛陽は、宋代には前述した魏紫や姚黄などといった新種が作られて評判になった。いま洛陽市では、四月中旬(須賀川よりは少し早い)に「牡丹花会」が催されて、海外からも観光客が訪れる。市内の王城公園や北郊の邙山牡丹園は国際色に彩られる。
市の郊外には、中国最初の官立寺院である白馬寺や三大石窟のひとつ龍門石窟などの仏教古跡や、三国時代の英傑関羽の首塚(関林)といった歴史にちなむ観光名所も多くある。

両国を代表する牡丹の名勝の地が、牡丹を介して結ばれる。これほど華やいだ友好の絆は他にない。

両市の友好都市締結は、一九九三年八月一日に洛陽市で調印された。須賀川市からは高木博市長や日中友好協会の水野正雄理事長(洛陽名誉市民)ら、それに市内の中学生など一六八人が参加しておこなわれた。その後、洛陽市からは劉典立市長を代表とする市友好訪日団をはじめ、牡丹栽培技術研修生、病院看護技術や企業会計実務研修生などが次々に訪れている。

友好都市一〇周年を迎えた記念式典が二〇〇三年一〇月、須賀川市日中友好協会会長でもある相楽新平市長らが参加して洛陽市で行われた。両市で協議した結果、記念事業のひとつとして今後一〇年間、毎年一〇〇株の牡丹を相互に贈り合うことになった。
一〇年後には、両市の牡丹園に、それぞれ一〇〇〇株の牡丹が、日中友好の大輪の花を咲かせることとなる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-紙といえばの産地同士

紙といえばの産地同士

富士市―嘉興市(浙江省)   

「静岡茶とみかん」が名産の静岡県と「龍井茶と温州みかん」で知られる浙江省が、一九八二年四月に友好省県となったことは、自然の産物といったところだろう。富士市と嘉興市の友好都市提携は少し遅れて、嘉興市側からの提案ではじまったのだった。   

八四年九月に静岡を訪れた浙江省の友好代表団から、嘉興市と同じ紙の生産地同士で友好関係を結びたいという希望が出され、「紙といえば富士市」が当然の提携相手として話題となった。富士市の製紙工場の操業は一八九〇(明治二三)年にさかのぼるが、嘉興市にも一九二〇年に創業した民豊製紙工場があったからである。
さっそく八五年一月には、嘉興市の周洪昌市長から「友好提携をしたい」旨の書簡と富士市長一行招待の申し出が届いた。富士市側もすぐに対応して、同年五月には渡辺彦太郎市長を団長とする調査団が訪問した。翌八六年四月には周洪昌市長らが訪日した。
八七年一〇月には民豊製紙工場の生産力アップに関して企業診断の要請がなされ、富士市は八八年三月に中国民豊製紙技術診断チームを派遣している。 

両市は省県交流の進展とあわせて着実に接触を重ねて話し合い、友好都市提携を迎えた。八九年一月一三日、嘉興市から周洪昌市長を団長とする友好訪問団が訪れて、富士市民一千余が見守る中で、周洪昌市長と渡辺彦太郎市長が協定書に調印した。

嘉興市は、上海市と杭州市の間に位置し、杭州湾に面している。市の南端に名勝「南湖」がある。現代中国の誕生にとって重要な役割をはたした湖である。二一年七月、南湖に浮かぶ遊船の上で中国共産党第一回全国代表大会が開かれ、一二人の代表が正式党名や綱領一五条を決定したのだった。湖南省の毛沢東は書記として参加している。いまも湖上にはそれを記念して「紅船」が浮かんでいる。湖中の島には「煙雨楼」があって、有名な杜牧の詩「江南の春」を思わせる。製紙のほかに絹織物が盛ん。水稲、野菜類や、川や運河が交錯して水産物も豊かで、「魚米之郷」と呼ばれている。人口は約三三二万人。  

富士市は、駿河湾を前に秀麗な富士山を背に「雄大な富士山のもと 躍動するまち ふじ」が市のキャッチである。
紙・パルプ、輸送用機械、化学・電気機械などを主とした産業都市から、優位な立地を生かした知識集約型産業への転換を目標としている。人口は約二四万人。

富士市と嘉興両市は、友好都市提携の後、市の各部門、経済、芸術、女性、報道機関ほかの多彩な分野で年々、着実に交流を積み重ねてきた。環境行政での人的交流や意見交換も欠かせない課題である。もちろん民豊製紙の関係者による施設視察・懇談にも対応している。「富士市民友好の翼」による訪問も回を重ねている。とくに将来の国際社会に貢献する人材育成の一環として、「少年親善使節団」派遣や青少年受け入れに力をそそいでいる。五周年、一〇周年には「嘉興市物産展」を開催した。

一五周年に当たる二〇〇四年九月四日には、陳徳栄市長ら友好代表団を迎えて、富士市で記念式典がおこなわれた。嘉興市民俗芸術団による民俗楽曲や古典舞踊は来場者の喝采をあびた。陳徳栄市長と鈴木尚市長は、一五年の交流を糧に、両市の友好と協力の絆をより強いものにし、世界平和への貢献を誓う「飛躍の誓い」(騰躍之語)に調印した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-酒づくりの技を磨くまち

酒づくりの技を磨くまち

西宮市―紹興市(浙江省) 

西宮市と紹興市をつなぐ絆といえば、何を置いても「灘の生一本」と「紹興酒」である。これほど有名な名産物同士を絆とする友好都市は、あまり例がない。
まずは、お互いの旨し「天の美禄」で友好の乾杯となる。それからさまざまな交流の話が進むことになる。

西宮市の各界代表が参加した友好訪中団がはじめて紹興市を訪問したのは一九七九年一〇月だった。
その後、市民の間からも、
「古くからの酒造りのまちで景観の美しい紹興市との親善を深めよう」
という要望が高まった。  

そんな機運を受けて、八木米次市長が八三年一〇月に在日大使館に紹興市との友好都市提携の希望を伝え、市議代表団が八四年四月に紹興市を訪問し、王余良市長を招待した。同年八月には王市長が西宮市を訪れて両市の友好は深まった。

西宮市と紹興市の友好都市提携の調印式がおこなわれたのは、翌年八五年七月二三日のことだった。紹興市の王余良市長ら友好代表団が西宮市を訪れて、八木米次市長とともに提携の調印に臨んだ。 

紹興市は、上海から約二三〇キロ。浙江省に属する「歴史文化名城」であり「優秀観光都市」であり「中国で最も魅力ある都市一〇都市」のひとつにも選ばれている。まちには運河が縦横に走り、水郷風景が広がる。北は杭州湾に臨み、南に会稽山を負い、東には寧波市、西には杭州市に接する。
越王勾践が「臥薪嘗胆」してついに「会稽の恥」をそそいだ故事は有名。また書道家王羲之の「蘭亭集序」に縁りのある蘭亭、名園の沈園、ともに日本に留学し、近代革命に心血をそそいだ魯迅の生家、秋瑾の故居、周恩来の祖居などが残る名士の郷でもある。二〇〇余の重要文化財、史跡三六〇〇カ所があり、「壁のない博物館」ともいわれる。
そして何より「東洋名酒の冠」と称される「紹興酒」の産地である。毎年の秋には「黄酒まつり」が催される。人口は約四三四万人。

西宮市は、南は大阪湾、北に六甲山を負い、東に神戸市など、西に芦屋市。阪神地域の中央部に位置している。商売繁盛の「えべっさん」で親しまれる西宮神社、高校球児あこがれの甲子園球場がある。「全国から訪れる人がいる」ことが街の魅力という西宮在住のギタリスト、クロード・チアリさんは、ニース生まれのパリ育ちである。
そして何より山田錦と宮水でつくる清酒「灘の生一本」の産地である。酒蔵が残り、酒ミュージアムや宮水庭園が整備公開されている。二〇〇五年四月に市制八〇年を迎え、「文教住宅都市」づくりが進む。人口は約四六万人。

これまでの主な交流は、両市代表団の相互訪問、市民や中学生の友好訪中団の派遣、経済貿易訪問団や医学研修生の受け入れ。王羲之顕彰碑や北山緑化公園に「小蘭亭」や「墨華亭」の建設、日中友好桜林(一千本余り)の建設など。阪神淡路大震災の折りには義捐金が贈られた。紹興物産展、テレビ番組の交換、太極拳・空手の交流、書画展など。学文中学と紹興市元培中との友好校活動もある。

二〇〇五年は提携二〇周年に当たった。五月には山田和市長はじめ西宮市民一〇〇余人が紹興市を訪れて記念式典に参加、「西宮市書画展」を開催した。また一〇~一一月にかけては、紹興市から張金如市長らが西宮市を訪れ、両市合同の書画展が開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-大杏と林檎が友好の果実

大杏と林檎が友好の果実

北上市―三門峡市(河南省)  

「仰韶大杏」といえば、三門峡市名産の杏の名である。「仰韶遺跡」といえば、新石器時代(五〇〇〇~七〇〇〇年前)の文化を代表する遺跡の名である。同じ大地の上に、いまも杏のほか棗、山楂、胡桃、葡萄、林檎など、さまざまな種類の果実が豊かに実っている。大河のほとりの肥沃な土地、古代からこのあたりに人と物の交流の拠点のひとつがあったことを推測させる地域である。

黄河は、ひとたび北上したあと、内蒙古高原から一気に南下してくる。このあたりは中流である。山岳地帯から平原へとむかうところで左折して渭水をあわせて東流する。ここで黄河を東流させるために、伝説時代の聖人、禹が三門を穿ったというのが市名の由来という。西周時代には虢国があったが、「唇亡びて歯寒し」の故事を残して虞国とともに滅亡した。いま当時の車馬坑が発掘されており、西周時代の生活や社会の解明に新しい素材を提供している。

そして市の西境が天下の険として知られる「函谷関」である。ここは「鶏鳴狗盗」の故事の鶏鳴のほうの現場である。また老子が都洛陽を捨てて西方に去るにあたって『老子道徳経』を残したことでも知られ、太初宮には長髯の老子が筆をもつ坐像が安置されている。「函谷関」の西は陝西省であり、黄河の北は山西省。三門峡は河と陸を通じる古くからの交通の要衝であった。いま工事中の西安・三門峡・洛陽を結ぶ高速道路が完成すれば、新たな拠点となるだろう。農産物ばかりでなく、採掘しやすい浅い層にある鉱産資源にも恵まれている。三門峡ダムの建設にあわせた工業化が進み、新しい技術の導入にも意欲的であることから、内陸の中核都市への発展が期待されている。人口は二一〇万人。 

早くから日中交流に熱心だった北上市の提携相手として三門峡市を推薦したのは、河南省の対外友好協会会長だった蔡流海氏であった。一九八四年に友好親善訪日団の一員として来日した蔡氏を、北上市日中友好協会が市へ招いたことが契機となった。

北上市は、北上川と和賀川の合流地点に広がる田園都市である。林檎は名産のひとつであり、長芋や里芋の主産地となっている。古くから奥州路の交通の要衝で、いまは「水と緑豊かな文化・技術の交流都市」が目標。北上川流域テクノポリス圏域の中核都市として発展している。

両市の友好都市提携の調印式は、八五年五月二五日に、斎藤五郎市長ほか市民友好訪中団五○人が訪中して、三門峡市でおこなわれた。同年一一月には三門峡市から候国富市長らが北上市を訪れた。
以来、両市の交流は、大杏と林檎の苗木交換を絆としながら交流の輪を広げてきた。民俗芸能の「鬼剣舞」と「獅子舞」の交換公演も行われ、「北上みちのく芸能まつり」にも出演した。また三門峡市の「中日友好植物園」と北上市の「詩歌の森公園」には交流の証しとしてそれぞれに「友好亭」が完成している。北上市民の友好訪問は回を重ねて、一五周年(二〇〇〇年)の一八次友好訪中団「北上市民の翼」には、伊藤彬市長をはじめ市民七五人が参加した。

三門峡市から贈られて、北上の地に移植された大杏の苗木四〇〇本に、実がなるようになった。真っ赤な大粒の実である。北上市ではこの友好の果実を「直売にかけるのか、ジャムやジュースに加工するのか」という課題にも取り組むことになった。
一方、三門峡市では林檎「富士」がたわわに実をつけるようになっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)