友好都市・歴史が絆-同名都市である親しみ

同名都市である親しみ

南陽市と南陽市(河南省) 

山形県南陽市は、一九六七年四月に二町一村が合併して誕生した。命名にあたって、当時の安孫子藤吉県知事が、「北に丘陵、南に沃野で住み良いところ」という土地柄から、「南陽市」を提案した。

中国の内陸中央部の河南省にあって、長命の霊水「南陽の菊水」(この水を飲むと上寿は百二十、中寿は百余といわれる寿命が得られる)が流れる歴史都市である南陽市と地形が類似していることも紹介されたのだった。

その後、「中国南陽市を訪問する会」(二三人)が八四年に初訪問したことから本格的な交流がはじまり、八五年には南陽市日中友好協会が設立された。八七年「市名発祥の地友好訪問・南陽市民のつばさ」(三〇人)が訪問し、技術研修生の受け入れを確認した。

そして八八年一〇月六日に、大竹俊博市長を団長とする友好代表団を送って、李宝興市長との間で日中の同名都市「南陽市―南陽市」の友好都市締結を果たしたのだった。

河南省南陽市は、中国の中央部にあって河南省西南地域の中心都市である。東部、北部、西部は山に囲まれ、南部は湖北省の襄樊市に通じる広大な盆地になっている。襄樊市を流れる漢水に合流する支流の白河に南面することから、「南陽」と名づけられた。 

西暦二五年に後漢王朝を建て、五七年に都の洛陽で倭の奴国からの遣いに面謁した光武帝劉秀の生地である。また三国時代には南陽のすぐ南にある新野の小城で「脾肉復た生ず」を嘆いていた劉備玄徳が、「三顧の礼」を尽くして諸葛孔明を得た(二〇七年)ことを記念する「武侯祠」がある。漢代の画像石刻が集中出土している歴史文化都市で、人口は一市二区一〇県を管轄して約一〇二六万人。面積、人口とも河南省で最大の都市である。

山形県南陽市は、県南部に位置し、北に丘陵、南に沃野が広がる田園都市である。特産はぶどう、さくらんぼ、ラ・フランス、りんご、ワインなど。一八七八(明治一一)年、英国人旅行家イザベラ・バード女史が東北、北海道を旅した際に、「東洋のアルカディア(桃源郷)」と評した置賜盆地に位置している。四季の自然に恵まれた資源を活かしながら、生活環境や社会資本の充実にじっくりと努めていくと荒井幸昭市長も述べている。

開湯九○○年の伝統がある赤湯温泉や宮内熊野大社が有名。心やさしい農民の民話「鶴の恩返し」が伝わる鶴布山珍蔵寺や「夕鶴の里資料館」、国指定史跡の稲荷森古墳など伝統と歴史を引き継ぐ。その一方で、国際的ハングライダー基地「南陽スカイパーク」もある。秋を彩る「南陽の菊まつり」でも知られる。人口は約一万八〇〇〇人。

 両市の主な友好交流は、両市がそれぞれに内陸だけに急速には進みづらいが、市の友好代表団の相互訪問をはじめ、語学・農業・縫製・電子・食品加工・製靴といった生活分野の技術研修生の受け入れ、胸部検診車の寄贈など仔細に地道に行われている。

文化面では、「中国南陽古文化展(恐竜の卵も展示した)」や「日中両南陽市書画交流展」、烙画箸(菜箸・五周年の記念)の全世帯配布もおこなった。スポーツ交流では日中友好協会主催の「日中友好都市交歓卓球大会」(九○年の第一回以来)、「南陽―南陽」チームとして参加している。そのほか市卓球協会が選手を送って、両市対抗卓球大会を催すなど、民間交流の一翼を担っている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-歴史都市の「草の根交流」

歴史都市の「草の根交流」

宇治市と咸陽市(陝西省)  

京都市と西安市が日中両国を代表する歴史古都同士として、一九七四年にはやばや友好都市となり、その後、八三年には京都府と陝西省とが友好省府となった。そのあとを受けるようにして、お互いの第二番目の都市であり、類似した立地条件を持つ、宇治市と咸陽市とが結ばれる契機が次第に熟していった。 

咸陽市は、渭水のほとり、西安からは北西へ二五キロの至近距離にある。周代から秦までは咸陽が中国西北地区の中心であった。とくに東方にあった先進国の六カ国(戦国六雄)を滅ぼして天下統一を成し遂げた始皇帝は、ここに安房宮を造営して巨大都市となったが、項羽によって焼き尽くし破壊されたという。項羽に勝利した劉邦は、咸陽郊外の長安を新たな都としたため、さらに隋・唐代になると長安(西安)へと中心が移ったため、その後の発展はなかった。旧跡も多く、漢武帝の茂陵、唐太祖の昭陵などの漢、唐代の皇帝陵はこの周りに集中している。漢代兵馬俑坑が発掘されている。秦の始皇帝兵馬俑ほど大きくはないが、漢代独自の時代性が対比されるもの。明代の孔子廟跡を利用した咸陽博物館は、市域での優れた発掘品を展示している。市域に国際空港が開設されており、その縁で成田市とも友好都市になっている。人口は約四八〇万人。

宇治市は、宇治川のほとり、水陸路交通の要衝で風光明媚な地であったため、上代には貴族の荘園、別業地となった。
文化遺産の代表格は、世界文化遺産にも登録されている平等院鳳凰堂である。『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台として、また室町時代以来の宇治茶の産地としても知られる。隠元禅師にちなむ満福寺、道元禅師にちなむ興聖寺など、禅宗の名刹がある歴史文化都市である。人口は約二〇万人。

両市の友好都市提携は、八六年七月二四日、宇治市に咸陽市の代表団を迎えて、市文化センターで池本正夫市長と祝新民市長が協定書に調印して成立した。双方が持つ歴史都市としての特徴を活かした交流が期待された。その後、両市長は市民広場の公園の一角で、宇治市の木であるイロハモミジの記念植樹をおこなった。

両市の主な友好交流には、市の友好訪問団の相互訪問や職員交換事業、学校提携。空手、気功、太極拳といった武道競技のほか、青少年の卓球、野球、サッカー、児童絵画展。マイクロバスやピアノの寄贈など。

多くの市民が自主参加し、宇治日中友好協会が進めてきた交流事業に、「咸陽の子どもたちに本を贈る」運動と「友誼小学校」の建設がある。本の贈呈のほうは、九六年から五〇余校に二万冊を届けた。学校の建設のほうは、淳化県に「寨子宇治友誼小学校」を建設し、内陸の貧しい農村の教育施設を支援してきた。贈る会の「会報」には子どもたちの喜びの手紙や写真が紹介されている。 

また二〇〇一年の提携一五周年の記念事業として、「黄土高原植林緑化事業」を開始し、永寿県の林業組合とともに五年間の目標とした一五〇ヘクタールの植林を完了した。この事業もまた募金活動など、宇治市市民の「草の根交流」の成果である。

両市の友好交流は、〇六年に二〇周年を迎えた。「経済格差の中で取り残されている内陸の貧しい農村の実情を見聞するとき、まだまだ宇治市民の手を差しのべてゆかねば」と、宇治日中友好協会会長で宇治御茶師の後裔である上林春松さんはいい、市民に協力を訴えつづけている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-景観を誇る湖と歴史古跡

景観を誇る湖と歴史古跡

大津市と牡丹江市(黒竜江省)  

 この国の新たな時代への胎動期であった六六七年、天智天皇は、大和飛鳥宮から「志賀大津の宮」を造営し遷都している。同じころ、海を隔てた中国東北地区の現在の牡丹江市南の寧安には、唐の長安を手本にして渤海国の都城、上京龍泉府が造営され、その後、七世紀末から一〇世紀にかけて栄えたという。

かつて同じころの都城であり、そして牡丹江市には琵琶湖と形状がよく似ている鏡泊湖がある「水の都」であることも、両市の友好を深める機縁となった。 

両市を結んだのは一九八三年五月のこと、大津市との友好関係を期待しているという牡丹江市の意向を伝える一通の書簡であった。牡丹江市黒龍江商学院の曲更非教授から送られてきたものだった。そこで大津市は、市の大要をまとめた資料を曲氏を介して牡丹江市へと送った。牡丹江市からは提携を結びたい旨の返信が届き、またそのころ訪日したチチハル市の都市建設団からも直接に希望が伝えられた。

琵琶湖をもつ滋賀県としては八三年三月に洞庭湖を有する湖南省と友好省県協定をおこなった後だけに、大津市と湖南省の省都である長沙市との提携も考えられたが、さらに加えて戦前の開拓期の歴史的事情を考慮すれば困難も予想されたのだったが、山田豊三郎市長は積極的に牡丹江市の要請を受け止めて、八四年七月にはみずからが団長となって親善訪問している。

そして同八四年一二月三日には、牡丹江市の訾顕章市長を迎え、山田豊三郎市長との間で友好都市提携の調印をおこなったのだった。 

牡丹江市は、黒竜江省の東南部に位置し、西は省都ハルビン市と東はロシア沿海地域と接している。寧安、海林など四市二県を管轄している。大戦中は日本から多くの木材、食品関係の工場が進出し、入植者も多く、戦後の混乱で多くの犠牲者を出した。地理的優位性があり、鉄道・道路・航路の要所として、東北アジア圏の中堅都市として発展している。対ロシア貿易額では中国でも最大規模である。近年は日本海を通じた国際貿易と観光にも力をいれている。「塞北の江南」と呼ばれる観光都市である。 

牡丹江市内には世界最大の「東北虎林園」もある。江浜公園には日本軍と戦った女性戦士を記念する「八女投江群像」もある。人口は約二七〇万人。

大津市は、琵琶湖の西南端に位置して、京阪神、中京、北陸の三経済圏の要にある。江戸以後は幕府の直轄地として京滋地域の備えとなってきた。政令指定の古都のひとつ。

主な名所としては、比叡山延暦寺根本中堂、近江神宮、園城寺(三井寺)、義仲寺、瀬田の唐橋、石山寺、幻住庵、琵琶湖大橋などの建造物のほか、唐招来の「玉篇」「六祖慧能伝」や奈良・平安時代の典籍の国宝も多い。琵琶湖の水質をはじめ環境の保全については「共生と循環の湖都・大津」を掲げて活動している。人口は約三〇万人。

一九八四年以来の両市の交流は、市の代表団の相互訪問をはじめ、都市計画、ゴミし尿処理、医療、ガス事業などの技術研修生受け入れ。経済貿易団体、医療施設、福祉保健、公園緑化、教育視察団の訪問、小学校提携、留学生交換、青少年スポーツ交流など。 

提携一〇周年の九四年には、牡丹江市では「日本国・大津展」が、大津市では「牡丹江書画展」が開催され、水墨画五〇点が大津市に寄贈された。
二〇周年の〇四年には目片信大津市長ら代表団が牡丹江市を訪問している。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-東北地区の戦傷を超えて

東北地区の戦傷を超えて

宇都宮市とチチハル市(黒竜江省) 

 チチハル(斉斉哈爾)市は、東北地区黒龍江省の省都ハルビン市から北西に約二七〇キロに位置する省第二の都市である。チチハルは「辺境」という意味だが、一六九二年にまちづくりがはじまり、農業、林業、牧畜で着実に発展してきたが、豊富な天然資源を利用した工業都市化もすすんでいる。新中国成立後の一九五四年にハルビンに移るまでは省都であった。丹頂鶴が有名で、保護区となっており、世界のツル一四種のうち半数以上が飼育されている。そのため「鶴城」とも呼ばれている。人口は約五九〇万人。

宇都宮市とチチハル市とのつながりは、一九八〇年五月に第一次宇都宮市民訪中団三〇人のうち六人が未開放地区だったチチハルを訪ねたことが契機となった。八二年五月の第二次市民訪中団九〇人のうち三二人が再び訪問し、八三年一二月にはチチハル市代表団が市長の親書を携えて来訪し、友好都市提携の申し入れをするまで進んだ。八四年七月にはチチハル市陳雲林市長一行が来訪し、両市の友好都市締結に関する合意書を取り交わした。

そして調印式は八四年九月三〇日、チチハル市でおこなわれた。訪れた宇都宮市友好都市締結調印団団長の増山道保市長と陳雲林市長が議定書に署名した。

戦時中の東北地区での歴史を踏まえて、陳市長は「調印までの関係者の方の努力に感謝する」と述べ、増子市長は「皆さんから多くのことを学びたい」と挨拶した。

宇都宮市は、古くから二荒山神社への門前町として栄え、平安時代末期には宇都宮城が築かれた。江戸期には日光街道、奥州街道の要地として参勤交代や参詣客でにぎわった。

一八八四(明治一七)年には県庁が置かれ、九六年には市制が施行されている。先の大戦中は一四師団(東北地区へ出兵)の軍都となり、一九四五(昭和二〇)年の戦災で市街の大半を焼失したが、いちはやく復興を遂げた。昭和の大合併で隣接一町一〇村を合併編入して現在の市域になった。現在は東北自動車道と新幹線の拠点やテクノポリスなど中核市として重要な役割を担う。宇都宮の「餃子」は、全国的に名を馳せたが、一四師団の帰還兵が持ち帰って家庭に定着させたというのが通説になっている。人口は約四五万人。

両市の主な交流は、市職員や市議会代表団の相互訪問をはじめ、酪農、コンピユーター、医学、建築、縫製などの研修生受け入れ、企業研修生の受け入れ、接骨医研修生を派遣、留学生の交換、姉妹校交流など。書画、語学、スポーツも。「チチハル建城三百年記念式典」(九一年)への出席(九一年)や市制百年記念「姉妹友好都市市長サミット」(九六年)への参加、このとき消防梯子車を贈る。そして丹頂鶴の寄贈(九六年)などがある。

二〇周年の二〇〇四年には、七月一五日にチチハル市で、九月二四日に宇都宮市で、それぞれに記念式典をおこなった。水墨画、気功の交流、青少年訪問団の受け入れなどが記念事業。〇五年の「愛知万博」中国館での「チチハルの日」(四月二五日)には激励に駆けつけた。

二〇〇三年八月にチチハル市の工事現場で旧日本軍の遺棄化学兵器が破裂して四〇人余が重軽傷、ひとりが死亡するという事件(八・四事件)が起こり、折りから「侵華日軍」の証拠として報道された。

宇都宮市は、戦禍の歴史を底流として引き受けながら、「平和都市宣言」に沿って友好都市による平和の絆を引き継いでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-幻の都と東海に輝く明州

幻の都と東海に輝く明州

長岡京市と寧波市(浙江省)  

「幻の都」と呼ばれてきたみずからの遠い日の都の記憶をまさぐるように、長岡京市代表団が訪れたのは、杭州市や寧波市など江南の古都だった。その後、中国側からの紹介もあって寧波市との提携へと進むことになった。

長岡京市の市民の間に、中国の都市とくに江南の古都との友好交流を期待する声が一九六〇年代から広まり、七四年二月には「日中友好長岡京市市民会議」が結成されたのだった。
そして八三年四月二一日、長岡京市へ寧波市の代表団をむかえて、五十棲辰男市長と劉徳焜市長が友好都市提携の議定書に調印した。

長岡京市は、上代に王城となった地である。平城京(奈良)と平安京(京都)とをつなぐ長岡京(七八四~七九四年)が桓武天皇によって造営された。

当時の中国は中唐期。七八五年、こちらでは大伴家持が没した年に顔真卿が説諭にいった先で殺害されている。この間に遣唐船はなかったが、遣使をはじめ日本からの渡海者の多くは南路をとって、「明州」をめざした。明州というのは寧波市の古名である。

寧波市は、唐・宋代には江南屈指の対外貿易港であった。鑑真和上も天平勝宝五(七五三)年、明州と呼ばれたからこの地から遣唐使帰国船に乗って船出した。明代から寧波の名になった。市の東郊にある古刹天童寺は、禅宗五刹のひとつである。

渡海してこの地で修行して名をなした日本の僧侶として、臨済宗の栄西禅師や曹洞宗の道元禅師がいる。雪舟もここで画境を開いた。雪舟にゆかりのある益田市とは九一年に、また別所安楽寺の開祖樵谷惟僊禅師との縁で上田市が九五年に、寧波市と友好都市になっている。

市の郊外には竹林が多く、竹刻や麻雀牌などの竹製品の産地でもある。寧波市は麻雀の発祥の地とされている。人口は約五四〇万人。 

長岡京市は、水陸路交通の要衝で、山城盆地の温暖な気候に恵まれ、京銘竹とよばれる竹製品の産地として有名である。戦国時代には細川氏の所領となった。明智光秀の娘玉は、細川忠興の妻となり、洗礼を受けてガラシャ(恵みの意)として生き、夫のためにここで自害した。ガラシャは戦国時代に咲いた一輪の白百合といわれる。ふるさと創生事業として一九九二年に市民主体で始まった「長岡京ガラシャ祭」(市民まつり)は、当時の風俗衣装をつけた玉が細川忠興のもとにお輿入れをする行列を再現したもので、農業祭や商工フェスタを兼ねた楽市楽座ももうけられ、秋季一一月の年中行事として定着している。人口は約七万八〇〇〇人。

その後の両市の交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、医療ほか各分野の技術研修生の受け入れ。市民訪中団としては婦人訪中団が最初だった。中学生、少年友好使節団(八五年、昭和の遣唐使)による交流。文化・スポーツの交歓交流、吟詠・漢詩交流などさまざまである。

友好二〇周年の記念式典は、二〇〇三年四月に金徳水寧波市長らを迎えて長岡京市で催されたが、当時SARS騒ぎの最中であったため寧波市への訪問は延期した。寧波市から贈呈された雲龍石柱を龍勝寺に建立し、春日灯篭を寄贈した。

二〇〇八年は二五周年に当たった。四月一八日に長岡京市代表団(団長小田豊市長)が寧波市を訪れて毛光烈市長と意見を交換し、東銭湖畔に八重桜一五〇本を植樹した。七月一八日には寧波市友好代表団を迎えて記念祝賀会がおこなわれた。寧波市からは石門鼓一対が贈られた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-軍港から開かれた商港へ

軍港から開かれた商港へ

舞鶴市と大連市(遼寧省) 

 舞鶴といえば細川藤孝(幽斎)によって築かれた田辺藩の城下町である。「舞鶴」という美しい名は、城の別名に由来しているという。

明治になって、一九〇一年にロシアの南下という不穏な日本海の波立ちの中で、舞鶴鎮守府(初代長官は東郷平八郎)が開庁し、海軍のまちとなった。それにあわせて東舞鶴の市街地化がおこなわれた。〇三年には舞鶴海軍魚形水雷庫(現赤れんが博物館)が竣工した。三六年、第一回舞鶴みなとまつり開催。四三年に舞鶴市と東舞鶴市が合併。四五年七月二九日、三〇日とアメリカ軍の空襲により海軍工廠、舞鶴港が爆撃を受けた。

そして一九四五年の終戦。以後一三年にわたって大陸からの引揚港としての役割を果たすこととなった。大陸各地かあの引揚者は、六六万五〇〇〇人に及んだ。

無言で、無表情で、疲れきって帰国した人びと。長い桟橋をひきずって歩く軍靴の音。そして帰らぬ子を待ちつづけた「岸壁の母」たち。現代につながる東北アジアの不幸な歴史を知っている桟橋は「引揚桟橋」として九四年に復元され、戦乱によって人民が遭遇した惨禍を未来に語り継いでいる。史実を伝える「引揚記念館」も八八年に開設されている。また一九〇三年に竣工した旧海軍の魚形水雷庫は、「赤れんが博物館」に変わり、その後に次々に建てられた一二棟の「赤れんが倉庫群」は、夏の「赤煉瓦サマー・ジャズ・イン舞鶴」の会場ともなっている。

大連市は、一八九九年、南下したロシアによって不凍結の軍港として築かれた。一九〇四年一二月の「二〇三高地」での「山形改まる」ほどの激戦によって犠牲になった兵士の屍の山が築かれた。そして〇五年年初の旅順陥落。その後は中国東北地域への門戸として、四五年まで日本が施設の整備をおこなった。いまも市内のホテル、銀行、学校、病院、橋ほか、旧時代に日本が建てた建造物が残る。解放後の発展は著しく、経済技術開発区には日本企業も数多く進出している。都市部の人口は約二五〇万人。

戦後にともに軍港から商港への道を歩むことになった舞鶴市と大連市の友好都市提携は、「地理的条件や貿易の経緯からぜひ」という市民の要望が強く、地道な努力がつづけられた。そして八二年五月八日、舞鶴市に大連市友好訪問団を迎えて、崔栄漢市長と町井正登市長が議定書に署名した。

提携後の友好交流は、市友好訪問団をはじめ、港湾管理、海運、教育、福祉、観光、医療などの各界視察団や雑技団の公演、とくに少年交流使節団の派遣は毎年交互に実施されている。舞鶴市民は、「日中友好の船」や「日中友好の翼」で大連市を訪問してきている。

二〇周年の二〇〇二年には、李永金・江守光起両市長が舞鶴自然文化園でアカシア二〇本の植樹をおこなった。李市長は「順調に育って、毎年五月には美しい花を」と交流への期待と重ねて挨拶した。「アカシアの大連」として有名だが、大連市の市花は「月季」(バラ)である。

〇七年は二五周年に当たった。五月八~一〇日、舞鶴市友好団(団長は斎藤彰市長)が訪れて、前年に締結した「市民交流の強化に関する合意書」を基にして、互利互恵の関係による交流を進めることなどを確認した。

〇七年四月には大連市で「日中合同ギター演奏会」が、〇八年一月には舞鶴市で、両市市民グループによる交流音楽会も開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-日中韓交流の回路を開く

日中韓交流の回路を開く

唐津市と揚州市(江蘇省) 

唐(大陸)に渡る津(みなと)という名をもつ唐津市には、長い間かかって先人が培ってきた外向的な気風が市民の間に息づいている。日中友好都市の交流や環黄海圏域の国際交流にスムーズに対応できるのは、そういう「草の根交流」の伝統が生きているからだろう。これまでに揚州市のほか大連旅順口区(交流意向書締結)、韓国の麗水市や西帰浦市(済州島)との交流も市民ぐるみで培われてきたものである。

日中友好都市の提携に際しても、国交正常化以来、中国のいずれかの都市との友好関係をむすぶため、行政の枠を越えて市・市議会・市民による訪中団を結成し、一九七八年からは四次にわたって代表団を派遣して、自主的に候補市探しをおこなった。

その結果、文化遺産と風光美との調和を図りながら生産都市としても発展するというまちづくりに期待して選んだのが揚州市であった。とくに鑑真和上の生誕地であるとともに日本との交流の深いつながりがあり、独自に選んで積極的に締結の交渉をすすめたのだった。

そして国交正常化一〇周年に当たる八二年二月二二日に、瀬戸尚市長ら代表団が揚州市を訪れて、祝志福市長との間で友好都市締結の議定書を交わした。

揚州市は、二四〇〇年前の春秋時代から知られ、隋の煬帝が黄河と長江を結ぶ大運河を造り、ここに離宮を置いたことから水運の拠点として栄えた。京杭運河が長江と交わる地点の北岸に位置している。かつて海路をたどった遣唐使が、南方の海岸にたどり着き、のちに西方の長安市や洛陽市などへむかう途中に必ず滞在した歴史文化都市であった。鑑真和上はここで生まれ、出家し修行し、のち日本を知り、留学僧の要請に応じて渡海したのだった。

文化事業である書画、琴、戯曲、工芸技術、造園、盆景などで揚州は一派をなしている。漆器、玉器、剪紙、刺繍が名産品。古運河、鑑真記念堂がある大明寺、何園など名勝古跡は数多い。人口は約四四〇万人。

唐津市は、佐賀県の西北部に位置し、玄界灘に面した城下町である。日本三大松原のひとつ虹の松原が知られる。天正年間に豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地として名護屋城を築いた。また港から送り出した伝統工芸の茶器「唐津焼」は有名で、九州では陶器を一般に唐津もの(瀬戸ものと同じ)と呼ぶほど。勇壮華麗な一四台の曳山が巡行する「からつくんち」は、国の重要無形文化財である。二〇〇五年一〇月一日に合併して、人口約一三万人の唐津市になった。

主な友好交流は、両市の友好都市訪問団をはじめ、食品加工、水産、調理、医療、農業、縫製技術ほかの分野の研修生の受け入れ。中学生交歓、囲碁交流、児童書画展、日本舞踊と揚州人形劇の交換公演、花火競演、「煙花三月祭」「美食節」への参加、大型バスなどの車両の贈呈、「揚州友好会館」の開設支援などがある。 

唐津市が、国際交流事業で官民一体となって力を入れているのが、日中韓の三都市交流である。九三年から唐津市、揚州市、韓国の麗水市が持ちまわりで「三市長会談」を開催している。職員の相互派遣や共有文化である囲碁の「日中韓囲碁交流大会」などを通じて、たやすくはないが玄界灘の荒波を越えて、唐津の名にふさわしい日中韓交流の成果を着実に実現している。

二〇〇七年は二五周年にあたり、四月には坂井俊之市長らが訪れて揚州市で、一一月には揚州からの友好訪問団をむかえて唐津市で記念式典がおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

友好都市・歴史が絆-友誼万年を願う鐘の音

友誼万年を願う鐘の音

長野市と石家荘市(河北省) 

長野県の「県民の翼訪中団」(団長西沢権一郎県知事)が河北省の省都である石家荘市を訪れたのは、一九七七年のことであった。訪れた一行が驚くほどに実感したのは、まちの立地条件や気候がたいへんよく似ており、果樹(リンゴや梨など)が目立ち、さらには善光寺に対して隆興寺があるなど、類似点の多いことであった。かつて長野県出身の兵士が駐屯していたところ(三七年に日本軍が占領し華北の重要拠点となった)であり、接触するまでは一抹の不安があったが、暖かく迎え入れられたことにも感激した。

その後、まず友好都市として長野市と石家荘市をという希望を中日友好協会(廖承志会長)に伝え、長野市とともに日中友好協会長野支部も仲介役として提携に尽力し、全市あげての活動となった。

石家荘市から賈然市長らを招待して、柳原正之市長との間で友好都市締結の調印式がおこなわれたのは、八一年四月一九日のことで、
「相隣一帯水 友誼万年春」(石家荘市からの友好旗)
の思いをともにしたのだった。

長野県と河北省の県省提携も、八三年一一月に調印され、交流は安定した基盤を持つこととなった。 

石家荘市は、北京から南西へ約二八〇キロ。列車の窓外にどこまでもつづく畑で知れるように、華北平原は小麦、綿花の主要産地で、果樹栽培も盛んである。西に連なる太行山脈のふもとに位置し、河北省の省都として政治、経済、文化の中心となっている。京広線(北京・広州)と石太線(石家荘・太原)が通じ、北京からは高速道路が完成している。人口は約九二四万人。

長野市は、善光寺(国宝)の門前町として古くから親しまれてきた。とくに九八年の冬季オリンピックとパラリンピックの成功は「世界に開かれたまちNAGANO」としての知名度を高める契機となり、その後も国際会議やスポーツ大会など、さまざまな国際交流活動の舞台を提供してきた。人口は約三八万人。

友好都市提携以後の両市の交流は、友好代表団の相互訪問、市民や中学生訪中団の派遣、視察団・各種研修生の受け入れなどの人的交流のほか、レッサーパンダとチンパンジーとの動物交換もおこなわれ、子どもたちの人気者になっている。九八年の「長野オリンピック国際協力募金」には、市内の企業や民間団体などからの募金やTシャツなどの販売収益やテレホンカード販売などで、二億四〇〇〇万円余が集まった。その中から友好都市の石家荘市には小学校三校の建設費が贈られた。

二〇周年の二〇〇一年には、蔵勝業市長と塚田佐市長が相互訪問した。石家荘市からは、記念に戦国時代中山国の装飾武器をかたどった「山形器」が贈られ、長野市からは善光寺の鐘を模した「友好の鐘」を贈った。

〇五年四月一四、一五日には、戦後六〇年の節目を記念する「第一〇回日中友好交流会議」が、長野市で開かれた。両国の各地から参集した人びとは、悠久の平和を願う善光寺の鐘の音と市民の歓迎を受けたのだった。

 〇八年は河北省と長野県の省県提携から二五周年に当たった。五月一九日、石家荘市の河北会堂で、胡春華省長代理と村井知事が会談、大学・短大の交流促進に関する覚書を交わした。〇九年四月から長野県短大卒業生が河北大学に編入できることになる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-「不再戦」と「友好下去」の碑 

「不再戦」と「友好下去」の碑 

岐阜市と杭州市(浙江省) 

「日中不再戦」と岐阜市の松尾吾策市長は揮毫した。
一方、杭州市の王子達市長は「中日両国人民世世代代友好下去」と書き下ろした。 

日中両国の市民が再び戦うことなく、世々代々の友好関係を引き継いでいこうという平和と友好への願いを込めた二つの碑文は、一九六二年一〇月七日に、杭州市において交換された。杭州市側の碑文は、周恩来首相の直接指示によるものといわれる。

翌六三年六月二日、まず岐阜市の岐阜公園に「中日両国人民世世代代友好下去」碑が建立された。そして一二月一五日、杭州市の柳浪聞鶯公園に「日中不再戦」碑が完成した。

日本で中国人殉難者の遺骨送還運動が始まったのは一九五三年だった。四三年四月から四五年五月までに約四万二千人が強制連行され、うち六八〇〇人余が死亡したという。岐阜県内では一六八九人のうち七三人が死亡した。

五六年六月に、七二柱の合同慰霊祭が岐阜東別院で営まれた。折りから来日中だった京劇代表団の孫平化副団長(のち中日友好協会会長)らが霊前に献花した。八月には岐阜県の遺骨送還代表団が訪中して、位牌を天津市の抗日烈士の墓に安置したのだった。

友好と平和を誓い合う碑が建立した後も、岐阜市は七一年に同じ公園内に「中国人受難者之碑」を建て、七二年の日中国交正常化を受けて、七三年には「碑建立一〇周年式」を開催している。

 七八年の日中平和条約締結に先立つ一五年前の「不再戦」の碑の建立、そして平和条約締結後の七九年二月二一日には、岐阜市に杭州市友好代表団を迎えて、両市の友好都市提携の調印式がおこなわれた。条約締結のあとの提携では名古屋市―南京市についでのもので、全国では七番目の友好都市提携となった。

岐阜市は、日本のほぼ中央に位置している。街の真ん中、金華山の頂きには戦国武将の斉藤道三が居城とし、天下統一を夢見た織田信長が拠点とした岐阜城がそびえ立つ。傍らを鵜飼で知られる清流長良川が流れる。自然環境と伝統文化を活かして「個性輝く市民協働都市」をめざしている。人口は約四〇万人。

杭州市は、浙江省の省都で、「上に天堂あり、下に蘇杭あり」と詠われてきた江南屈指の歴史文化名城である。南宋のみやこ。南北を貫く大運河の最南端に当たる。有名な白堤と蘇堤のある西湖は、市内湖として市民に親しまれている。霊隠寺、西冷印社ほか旧跡や博物館も多い。特産はシルク、龍井茶。人口は約六四三万人。

 両市は友好都市提携のあと、小・中学友好校、「少年友好団」の派遣、大学提携、市仏教協会提携、友好病院などの交流事業を進めてきた。アパレル関係の職員交流も続いている。伝統劇のほか中日合同音楽劇「太陽をさがして」「ブンナよ木からおりてこい」の公演もおこなった。西湖マラソンや西湖博覧会には、同じ杭州市と友好都市となっている福井市とともに参加している。「不再戦」の碑には、八二年九月に鈴木善幸首相が訪れている。

二五周年にあたる二〇〇四年には、双方で記念式典がおこなわれた。中日合同音楽劇「尾なし龍」が式典を盛り上げた。〇六年に杭州市で開催された「世界レジャー博覧会」への参加を通じて交流を強化した。杭州市は女子十二楽坊をイメージキャラクターに起用して、市の魅力をアピールしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-世界歴史都市への視座

世界歴史都市への視座

京都市と西安市(陝西省) 

 奈良市―西安市に三カ月遅れて、京都市―西安市の友好提携は一九七四年五月におこなわれた。京都市の船橋求己市長を団長とする京都市友好訪中代表団が西安市を訪れ、五月一〇日、孫長興市革命委員会主任(市長)と船橋求己市長が友好都市結成の宣言式をおこなったのだった。西安市各界市民の熱い歓迎ぶりには、交流の将来への期待が強く込められたものであった。

孫長興市革命委員会主任(市長)は、
「西安と京都はともに悠久の歴史を持つ古都である。すでに一千年余りの友好往来があり、正式に友好都市になったこれからは、西安市民は京都市民と固く手を取り合って、両国の友好善隣を発展させたい」
と述べ、船橋求己市長も、
「二千年の交流の歴史を通じて、日本は中国から多くのものを学んでまいりました。なかでも京都は、唐時代の長安から数えきれぬ影響を受けました。京都と西安は、長い歴史の過程を通じて、日中両国の友好往来の中心地でありました」
と応じて、両市の世々代々の友好を熱望した。

両国を代表する歴史古都である奈良市・京都市と西安市が他に先がけて友好都市の提携をしたことになる。千年を越える往来の中心地同士が、新たな発展をめざして「世々代々」に繋ぐことを宣言する。それは両都市の市民をはるかに越えて、両国国民の熱い願いを代表するものでもあった。

京都市は、「国際文化観光都市の市民」であることを市民憲章にうたい、年間観光客五〇〇〇万人をめざしている。
一九九四年には一七の社寺などからなる「古都京都の文化財」が世界文化遺産に登録された。日本全国の五分の一にあたる国宝二一一点を保有している。京都市と友好・姉妹都市を結んでいる都市には、西安市をはじめパリ、フィレンツェ、ケルン、プラハ、ザグレブ、キエフ、ボストン、グアダラハラといった世界の歴史都市が名を連ねている。人口は約一四六万人。四万人余の外国人が住んでいる。

西安市は、中国屈指の国際文化観光都市でありながら西北地区の産業基地でもあり、歴史的市街地の景観保存には苦慮している。市内の名所としては、一級の展示品を誇る「陝西歴史博物館」(収蔵品三七万点、常時展示約六〇〇〇点)、二三〇〇点余の石碑・石刻が並ぶ「碑林」、玄奘三蔵の訳経にちなむ大雁塔と小雁塔、明代の城壁(一三・七キロ)、そして空海が学んだ「青龍寺」や日中協力による「唐朝芸術博物館」など。市内・郊外の旧跡は記す余地がないほどである。 

「歴史都市としての経験を活かして、新しいものの創造・蓄積・継承を」という京都市のリーダーシップは、八七年に始まった「世界歴史都市会議」(二六都市が参加)にいかんなく発揮されている。九四年の第四回会議を主宰して発展的に改組し、「世界歴史都市連盟」を設立した。事務局は京都市に置かれ、会長は京都市長が務める。七六都市が参加(〇八年六月)。第一二回の二〇一〇年には奈良市でおこなわれる。歴史都市が直面している課題の解決にむけての情報交換や共同研究をおこなうもので、日本は奈良と京都、中国は西安、成都、南京、鄭州が参加している。これまでの会議は西安のほかにフィレンツェ、バルセロナ、クラクフ、モンペリエ、モントリオールなどでも開かれている。

 提携三〇年にあたる二〇〇四年には、西安で「中日韓友好都市書法篆刻交流展」が開かれた。また京都市内の学生による「二一世紀の遣唐使」が訪れて、西北大学での交流や現地企業の就労を体験した。両市は文字通りの「温故知新」を実践する未来志向の歴史都市同士である。(二〇〇八年九月・堀内正範)