四字熟語-虚位以待

虚位以待
きょいいたい

席を空けて必要とする人物を待つことを「位を虚けもって待つ」という。待たれる側からすれば、期待に応えようとする心境が動くいい成語である。

古くは「虚左以待」として使われたのは、車の席が左が上座とされたことからで、異動が喬遷(出世)によるならば喜びもひとしおといった場面である。

いまでもよく企業内ではもちろん知名企業が就職募集をしたり、市人事部が高校卒業生に奉職を呼びかけたりする時にいわれる。百社を超える企業が参加して数千人規模の就職面接会を催すともなれば壮観な「虚位以待」の人材市場が展開されることになる。

市による専門職の幹部や銀行による博士課程の学生の応募を求める場合などが心持よく響くのは、いずれの場合も席に着く相手に対する特別な敬意が示されているからで、オリンピックの種目別代表の座が決定者を待つ間でも同様である。みんなに歓迎されてそんな座につく経験をしてみたいものである。

『欧陽文忠公集「奏議集」』

四字熟語-清平世界

清平世界

せいへいせかい

太平の世のこと。二〇四の国と地域から一万人余の選手が参加して「協調、友情、平和の絆」を訴えたロンドン五輪は、和諧的清平世界における「闘う祭典」である。期間中は戦争・紛争を停止するという「オリンピック停戦」は古代ギリシャ以来の人類の平和への夢。この国で「八・一五」に祈念するのも平和の継続への願いからである。

人民が平和のうちに暮らす姿は「夜不閉戸、路不拾遺」(夜に戸を閉ざさず、路に遺ちたるを拾わず)として表現されている。すでに『礼記「礼運」』に「外に戸を閉じず、これを大同という」と記されており、いつの時代にも治世の目標となってきた。

『三国演義「八七回」』では蜀の民が「両川の民、夜に戸を閉ざさず、路に遺ちたるを拾わず」と太平を欣び楽しみ、世直しに立ちあがった梁山泊の男たちも同様の太平の世(『水滸伝「一回」』)を夢見る。

この国は今「安心して暮らせる」世の中を実感できているだろうか。

羅貫中『平妖伝二四』など

四字熟語-両敗倶傷

両敗倶傷

りょうはいぐしょう

「両敗ともに傷つく」ということ。勝利を求めて争ったものの双方ともに傷ついて敗者となるという事例は数知れない。さわやかな勝敗というのはルールを定めて争うスポーツならではで、ロンドン・オリンピックでも勝者感涙のシーンが見られることだろう。

翻って身近なところでは、国民主導の改革を訴えて勝利した民主党が、代表選のたびに「両敗倶傷」の姿を現出して、国民の期待をなし崩しにしてしまったことがある。「天災人禍」に遭遇して、国民に呼びかけて復興や新展開の活動の場を創出すべきときに、前政権が残した増税法案を通す議論を優先するというのだから「同床異夢」ならまだしも「同室操戈(武器を操る)」という情勢となってともに傷つくことになる。被害者は国民なのである。

こういう状況のときに歴史に学びながら時代を切り開く人物(将相名賢)が必ず登場することを「史不絶書」(史に書すること絶えず)という。それを呼びさます力も国民の側にある。

汪応辰『文定集・一五』など

四字熟語-創業守成

創業守成
そうぎょうしゅせい

「創業」は新たに業を起こすこと、「守成」はそれを守り通すこと。ひとつの事業を成功させ持続させるのは易しいことではない。
唐の太宗李世民からどちらがむずかしいかと問われた時、房玄齢は群雄と力して争うゆえ「創業は難し」といい、魏徴は安逸にして失うゆえ「守成は難し」と答えた。創業期から守成期にかけての課題をみていた太宗は、事業は創業より守成がさらにむずかしいという魏徴のことばに納得したようである。
魏徴は「述懐」に「中原また鹿を逐い、筆を投じて戎軒(戦いの車)を事とす」と詠んで出征している。「人生意気に感ず、功名誰かまた論ぜん」で知られるこの詩は『唐詩選』の冒頭を飾って、むしろ後世の創業者を鼓舞してきた。
「創業百年、敗家一天」も守成のむずかしさをいう。先の大戦後に創業した企業はいま半世紀を過ぎて守成期にある。百年企業として残るには、時代がおもむく安逸への流れにしっかり対処する人材が必要だろう。
『唐書「房玄齢伝」』など

四字熟語-聞一知二

聞一知二
ぶんいちちに

「一を聞いて二を知る」ということ。あるとき孔子が弟子の子貢(端木賜)に「おまえと顔回とはどちらが優れているかね」と問うた。当人である子貢には答えづらい問いである。しかし師が顔回をほめたいのはわかっている。そこで子貢は「回(顔回)や一を聞いて以って十を知る、賜(端木賜)や一を聞いて以って二を知る」と答えた。
自分をおとしめずに他をほめるこの答えは巧みである。聞いた孔子は、「そうだね、わたしもおまえも回にはかなわない」といって喜んだ。「一を聞いて十を知る」(聞一知十)顔回は学才に優れ、「二を知る」子貢は商才に長けていたというから、「一を聞いて二を知る」ほどのほうに生活力があるといえそうである。
粗食に甘んじ陋巷に住んで孔子晩年の講学と著作を助けていた顔回は、師より先に死んで「ああ、天われを喪ぼせり」と嘆かせたが、子貢は師の死(七三歳)を見送ってひとり六年の喪に服し、のちの孔里「曲阜」の成立に寄与した。
『論語「公冶長」』から

四字熟語-狂花病葉

狂花病葉
きょうかびょうよう

狂い咲く花とわくら葉といえば風物として味わいがあり歌にもなるが、実は酒呑みが酔余に示す際立った二様の酔いざまのこと。「狂花」は、酔うにつれてまなじりを上げて大声で悪態を並べて騒ぐ者。一方の「病葉」は、酔うほどに暗鬱な表情になり瞼と口が重くなりついには寝入ってしまう者をいう。
世情不安でアルコール依存度が増せば「狂花病葉」もまた増えることとなる。ふたりで呑んだくれて、それぞれ「狂花」と「病葉」に極まってしまうと周りの者の手に負えない。
宴席を盛り上げるつもりで酒を注いで回った末に、「狂花病葉」を招いては幹事の準備不足。宴席を仕切る者は、みなの酒量と「狂花病葉」の程度にも通じていなければ。古来、酒席「行令飲酒」の場をしきるのが令伯(令官)の役で、さまざまな遊戯や罰酒のしかけ(酒令)を設けて飲酒を楽しんできた。その雅の極みが流水に杯を浮かべて即興の詩歌をつくる「曲水流觴」(觴はさかずき)である。
皇甫松『酔郷日月』など

 

 

四字熟語-冰心玉壺

冰心玉壺
ひょうしんぎょくこ

終生変わることのない友情の証として、氷のような澄明な心を玉製の壷に入れておくことを「冰心玉壺」という。唐の詩人王昌齢が長江沿いのいまの鎮江から都の洛陽へゆく辛漸に、「一片の冰心玉壺に在り」の詩句に託して、都の友人に伝えたことから。「一片冰心」あるいは「冰壺」ともいう。ただし現代の「冰壺」は冬季スポーツで人気のカーリングのこと。

友を思う「冰心」は今も昔も変わりないが、現代の「玉壺」はどうだろう。パソコン(個人電脳)のフォルダ(文件挟)であろうか。フォルダに澄明な心で付き合える友人の名前と送ったE―メール(電子郵件)が保存してあり、さらに一片また一片と増えていくようすに例えられるだろう。

最近はスマートフォン(知能手機)の広告にも「一片冰心在玉壺」をみる。モバイル(移動)玉壺ということになる。忘れたり落としたりしては「良師益友」に申しわけがない。やはり「玉壺」は胸中に収めておいたほうがいいようだ。

王昌齢「芙蓉楼送辛漸詩」より

四字熟語-乱点鴛鴦

乱点鴛鴦
らんてんえんおう

「鴛鴦」はオシドリのこと。鴛がオスで鴦がメスという(雌雄が逆の説も)。つがいで行動するようすはほほえましく、古来、「おしどり(愛し鳥)夫婦」といえば仲のいい夫婦の例えとされている。実際に水辺でみる姿は「相思」を思わせる。

そういう一般人の評価を崩すのが、群れている夜のうちにお互いの相手を取り替えて、昼間は何事もなくむつまじいという実見者の説である。人の世にも夫婦を交換する例があって、その過程が人生模様としておもしろいことから、演劇化した馮夢龍「喬太守乱点鴛鴦譜」(三組の未婚者)が人気になって、「乱点鴛鴦」の話がよく知られた。

ほんものは鳥取県の県鳥であり五〇円切手で親しいが、絶滅危惧種のレッドリストに指定している県もある。「乱点鴛鴦」の実態がどうなのかは、人工繁殖をしたり調査をしている人に聞けばわかるが、せっかく古来から「鴛鴦」が伝えてきた「相思相愛」や「連理之枝」の意味合いを崩すこともないだろう。

馮夢龍『醒世恒言』から

四字熟語-賢妻良母

賢妻良母
けんさいりょうぼ

日本では「良妻賢母」といい、中国では「賢妻良母」という。四字の語順の違いに、近代啓蒙期の女性観や女性の果たした役割の違いがこめられている。

日本の場合は、明治維新のあと西洋留学から帰った啓蒙家が女性教育の指針とした。内助に努めて家を守る「良妻」となり、子女を薫育して「賢母」となるという目標が定着した。初代文部大臣森有礼は「良妻賢母教育」こそ国是とすべきといっている。富国強兵策の陰で大戦時の銃後を担い、戦後の混乱期を支えた。

中国の場合は、日本に留学した康有為や梁啓超が理念に賛同して「賢母良妻」教育として移入したが定着しなかった。男女がともに家を出て働き、ともに子育てをし、平等の社会的役割を果たした中国では、自立意識を持つ「賢妻」であり優しい「良母」であることが伝統的で新しい女性像として志向された。

日本は妻が良で母が賢、中国は妻が賢で母が良というところに「賢良な妻と母」のありようの違いをみる。

馮玉祥『我的生活』など

四字熟語-著述等身

著述等身
ちょじゅつとうしん

著作が作者の身長に等しいほど多産なことを「著述等身」または「著作等身」という。数多くの小説や劇作で知られた作者や生涯を著述にささげた学者への賛辞として用いられている。

竹簡に手書きして「汗牛充棟」といった時代には「等身」では足りなかっただろう。『史記』五二万字の編冊を思えばわかる。古典ドラマで壁面を覆う書棚や書籍を牛車や馬車に積んで運ぶ場面を見かける。「学富五車」というのが分量でいう知識の豊かさであった。

紙の時代になって公文書も竹冊を排し、宋代には蔵書や読書量が多いことで「等身書」(読書等身)がいわれ、その後に「著述等身」が用いられた。印刷時代の「等身書」は四〇〇〇万字というから現代の量産作家でも作品が等身高になることは稀れである。「他人が珈琲を飲んでいる時も書いていた」と記す魯迅が一一〇〇万字というから「著作半身」にも及ばない。

さて、IT革命の後には労作多作の人をどう表現することになるのだろう。

趙翼『瓯北詩鈔』など