聞一知二
ぶんいちちに
「一を聞いて二を知る」ということ。あるとき孔子が弟子の子貢(端木賜)に「おまえと顔回とはどちらが優れているかね」と問うた。当人である子貢には答えづらい問いである。しかし師が顔回をほめたいのはわかっている。そこで子貢は「回(顔回)や一を聞いて以って十を知る、賜(端木賜)や一を聞いて以って二を知る」と答えた。
自分をおとしめずに他をほめるこの答えは巧みである。聞いた孔子は、「そうだね、わたしもおまえも回にはかなわない」といって喜んだ。「一を聞いて十を知る」(聞一知十)顔回は学才に優れ、「二を知る」子貢は商才に長けていたというから、「一を聞いて二を知る」ほどのほうに生活力があるといえそうである。
粗食に甘んじ陋巷に住んで孔子晩年の講学と著作を助けていた顔回は、師より先に死んで「ああ、天われを喪ぼせり」と嘆かせたが、子貢は師の死(七三歳)を見送ってひとり六年の喪に服し、のちの孔里「曲阜」の成立に寄与した。
『論語「公冶長」』から