友好都市・物産の絆-伝統工芸が息づく古都

伝統工芸が息づく古都

金沢市―蘇州市(江蘇省)

中国から金沢市へやってきた留学生や研修生たちは、いくつもの定例行事に参加することができる。
新年会、友好花見、碑前祭、忘年会、さらには交歓会やハイキング、そして何よりうれしいのは、親身になって世話をしてくれる「日本のおかあさん」たちがいることだ。

「いいね金沢」

若者たちは金沢好きになって帰国する。
「碑前祭」は、夏草が茂る旧盆前に、「日中友好記念碑」の前で行われる。先の戦争の末期に、祖国へ帰れずに亡くなった中国人労働者の霊を慰め、友誼を傷つけた過ちの経緯を再び繰り返さないことを碑前で誓う。
一九六九年七月、卯辰山に建てられた碑石には「日本中国友誼団結」と印され、裏面には郭沫若中国科学院院長から贈られた、

「共掃妖気浄八荒」(共に妖気を一掃して世界を浄めよう)

の終句を持つ七言絶句が刻まれている。

蘇州市は、上海から西へ約七〇キロ、太湖に臨む「水の都」である。江南随一の景勝地である一方で、新区・特区への外国企業の進出で変貌を遂げつつある。人口は五八〇万人。
拙政園、留園、獅子林といった古庭園(九つが世界遺産に登録)や張継の詩「楓橋夜泊」に、

「月落ち烏啼いて霜天に満つ・・夜半の鐘声客船に至る」

と詠われた寒山寺といった歴史文物、絹の刺繍や白檀の扇子などの伝統工芸でよく知られる。
「蘇州夜曲」(西条八十詩・服部良一曲)は、李香蘭(山口淑子)主演の映画の挿入歌として一九四○年に発表されて以来、いまでも広く歌われている。

一方、金沢市は加賀友禅や漆器、象嵌、金箔、和傘、桐工芸といった細工物の伝統を継承している古都である。庭園は兼六園が有名である。金沢市はとくに海外の都市との交流をたいせつにしてきている。小さくとも独特の輝きを放つ「金沢世界都市構想」を掲げて、蘇州のほか全州(韓国)、イルクーツク(ロシア)、ナンシー(フランス)など七都市とも友好関係を結んでいる。

金沢市と蘇州市との提携は、一九七〇年代末から提携するなら類似した歴史、伝統、物産をもつ蘇州市と決めて接触がはかられ、八〇年四月、石川県日中友好協会の定期総会が蘇州との友好都市実現を活動の柱としたところから加速した。同年五月には県日中友好協会のシルクロード視察団(徳田与吉郎団長)が、帰路一日を割いて蘇州市を訪問し、
「国家間にはいろいろな対立が生じる。しかし、一部の指導者が緊張を増大させる政策をとったとしても、多くの都市と都市、個人と個人の友好関係の存在は再び戦争になることを許さなくなる」
と両市の交流の重要さを切々と訴えた。

廖承志中日友好協会会長の力添えを得て、大阪府池田市とともに蘇州市との提携が決まり、八一年六月一三日、「百万石まつり」で賑わう金沢市で、来訪した方明蘇州市長と江川昇金沢市長との間で、両市の友好都市締結の調印がなされた。
その後、「蘇州国際シルク祭」への参加や物産文化展の開催、加賀宝生能と蘇昆劇の相互公演、合同美術展、重量挙げまで、交流は各界へと広がっている。そして蘇州大学と金沢・北陸・金沢星稜各大学が三年次編入の制度を導入したことで、双方の大学から卒業証書が授与されることになり、蘇州市からの学生がいっそう増えている。

金沢と蘇州、お互いに無理のない相手同士だから、交流の成果もおのずから蓄積されていくだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・動物の絆-トキが舞う大空の下で

トキが舞う大空の下で

佐渡市と洋県(陝西省) 

トキ(Nipponia Nippon)が日本の空から完全に消えたのは、一九八〇年のことだった。八一年一月に、佐渡に生き残っていた野生のトキすべて(オス一羽、メス四羽)を捕獲して、新穂村のトキ保護センターで飼育することになったからである。以後センターでペアリングが試みられたが成功せず、メスの「キン」には中国陝西省洋県からペアのオスを借り受けたり、オスの「ミドリ」を洋県に送ったりしたが、ついにヒナは得られなかった。

最後の日本トキ「キン」が死んだのは、二〇〇三年一〇月一〇日のことだった。 

それより前の九八年一一月に、日本を訪問した江沢民国家主席から友好の印として贈られたのが、「友友」と「洋洋」のペア。九九年一月に佐渡へやってきた二羽はその春、日本で初めてのヒナを生み、「優優」と名づけられた。「優優」の花嫁として「美美」をプレゼントしてくれたのが二〇〇〇年に来日した朱鎔基首相である。

こうして日中友好と自然環境回復のシンボルとして、日本生まれのトキは順調に増え、〇八年には一二三羽(〇八年ふ化二九羽)が飼育されるまでになっている。
 トキを介して、トキ保護センターがある新穂村と「朱鷺救護飼養繁殖センター」がある洋県との交流が始まったのは、九四年だった。九八年六月二二日に洋県を訪れた平山新潟県知事の立会いの下で、新穂村と洋県の「友好協議書」の調印がおこなわれた。

 陝西省洋県は、西安から南へ約三〇〇キロ。秦嶺山脈を南に越えて、漢中平野に広がる農村地帯にある。絶滅とされていた野生のトキ七羽が八一年に発見されて以来、人工ふ化や保護によって数百羽にまで回復、ねぐらと餌場を行き来する姿が見られるようになった。

佐渡市は、〇四年三月に新穂村をふくむ島内一〇市町村が合併して発足した。面積約八五五平方キロ、人口約七万二〇〇〇人。同年七月二六日の新市誕生を祝う記念式典の折り、高野宏一市長と楊瑞良・代県長が新たな「友好協議書」に調印した。トキの保護・増殖の協力強化や農業技術の交流、小・中学生による交流も新市に継続されることになった。
野生復帰にむけた「順化訓練施設」の建設もすすみ、餌場の湿地やねぐらとなる林がある里山には、順化ケージ、繁殖ケージ、管理棟などを〇四年から三年で建設し、〇八年の試験放鳥をめざす。

二〇〇八年七月現在の国内でのトキ飼育個体数は、〇八年生まれの幼鳥二八羽を入れて一二二羽になっている。これらは、今後、佐渡トキ保護センターと野生復帰ステーションと東京・多摩動物公園に分けて飼育を続けることになる。
二〇〇八年の秋には、檻から自然環境への「試験放鳥」が初めておこなわれる、佐渡トキ保護センターの野生復帰ステーションでの準備は整った。あとは住民、NPO、小・中学生などの支援を受けて、カエル、ドジョウ、小魚といった餌を自力で採り、安全に暮らすことのできる環境ができて、「トキが大空を飛ぶ」ことが可能になる。トキの自然復帰に成功したとき、日中両国をつないで四半世紀をかけたプロジェクトが何であったかが理解されることになる。

国際保護鳥のトキが、日中友好の翼を広げて日本の空を舞う日も近い。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・動物の絆-金絲猴が結んだ古城の町

金絲猴が結んだ古城の町

犬山市と襄樊市(湖北省) 

中国でサルといえば「金絲猴」である。金色の毛並みをし、孫悟空を連想させる面がまえのサルとして人気がある。パンダやトキとともに国家の一級保護動物である。

日中友好のシンボルとして、
「ニホンザルと交換して贈呈を受け、犬山で飼育できないか」
一九八〇年当時、犬山市のモンキーセンター動物園長だった小寺重孝さんもそう考えたひとりである。金絲猴は湖北省の山地に生息している。そこで犬山市はまず湖北省政府と交渉することになった。
松山邦夫犬山市長と小寺重孝園長ら代表団は、八一年六月に湖北省武漢市を訪問し、初めて金絲猴と対面した。そしてサルの交換飼育とともに都市同士の友好も必要とあって、犬山市にふさわしい都市として、湖北省政府から襄樊市の紹介を受けたのだった。こうしてふたつの「古城の町」同士の友好は、金絲猴を介して始まった。

犬山市は、名古屋から北へ二五キロ、木曾川の流れに古城が映える緑豊かな町である。人口は七万余。「犬山城天守閣」は国宝である。城多しといえども国宝は四つしかない。姫路城、彦根城、松本城、そして犬山城である。市内には織田有楽斎にちなむ茶室「如庵」(国宝)もある。
それとともに霊長類研究では世界レベルの京大霊長類研究所があり、七三種六〇〇頭を管理するサル動物園「日本モンキーセンター」でも知られる。犬猿の仲というが、犬山ではイヌにも増してサルはたいせつに飼育されている。

襄樊市は、湖北省の北西部、長江にそそぐ漢水の中流域にあって、右岸側の襄陽と左岸側の樊城とからなる。二八〇〇年の歴史を誇る「歴史文化名城」である。襄陽と樊城といえば、いくつかの三国志の名場面を思い浮かべる人もあるだろう。戦陣に立てずに「脾肉復生」(脾肉復た生ず)を嘆いていた劉備玄徳が、左岸側の新野から漢水を渡って、襄陽郊外の隆中に隠れ棲んでいた諸葛孔明を「三顧草盧」する姿が思い浮かぶ。また樊城に立てこもる魏の曹仁を、蜀の英傑関羽が攻略する場面も捨てがたい。
内陸の中核都市として、産業面では紡績のほか自動車、医薬、建材などの工業が盛んである。鉱物資源も豊かで、農業は野菜、小麦、胡麻などのほか、米、酒、茶といった特産品もある。人口約六七〇万人。 

金絲猴の飼育と研究への犬山市側の要望が進展をみないうちに、両市の関係者による親善・視察訪問があって、友好都市提携の話のほうが先に進んだ。八三年三月一三日、王根長市長ら襄樊市友好代表団を迎えて、犬山市役所で提携の調印式が行われた。
そして八五年三月、「金絲猴の日本初公開は犬山で」という中国側の配慮により、襄樊市が「宝宝」と「珍珍」を貸し出すという形で、「金絲猴初展覧」が実現した。三月~六月の会期中に、犬山市のモンキーセンター特設金絲猴園には、六〇万人がつめかけた。

友好交流のあたっては、襄樊市が内陸都市であるために、沿海都市に比べればお互いの往来はきびしい。が、両市友好代表団の相互訪問、市芸術団や青少年武術団、動物、義歯技工、行政ほかの研修生の来訪などが地道に続いている。

二〇〇三年の締結二〇年には、友好代表団が来訪し、市の花樹であるサクラとサルスベリを植樹した。
遠くない将来、両国の優れた研究者・飼育者のもとで金絲猴が親善大使として日本に常駐するとなれば、どこよりもやはり犬山市が最もふさわしい。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・動物の絆-フタコブラクダも応援

フタコブラクダも応援

秋田市と蘭州市(甘粛省) 

蘭州市は、中国の中央に位置している、というと驚く人もあるだろう。北京から西南へ約一八〇〇キロ、西安から西へ約六〇〇キロ、黄河が蒙古高原へむかって北上を始める地点にある。じつはこのあたりが中国の中央なのである。一度ぜひ地図で確認してみてほしい。
ここで鉄道は東へ隴海線(~連雲港)、北へ包蘭線(~包頭)、西北へ蘭新線(~烏魯木斉)、西へ蘭青線(~西寧)が交差し、各地への分岐点となっている。

古くからシルクロードの中継地としての歴史を刻んできた蘭州市だが、いまは内陸部の工業都市として知られる。資源が豊かで石油化学、冶金、鉄鋼、紡績、皮革加工などが盛ん。石油コンビナートへはひところ、沿海の工業地帯からも多くの人が移住して従事したほど。農業は穀類のほか瓜類が有名で、「瓜果の里」と呼ばれる。牧畜は牛、馬、羊のほかラクダも主産地。甘粛省の省都で、人口は約三四七万人。隋代に総督府が設けられて以来、蘭州と呼ばれるようになり、一四〇〇年の歴史がある。
ご存じ「蘭州拉麺」(牛肉ラーメン)の本場だが、麺と野菜は豊かでもスープは日本ラーメンのほうがというのが通説になっている。しかし、食べての評は郷に入りての味わいのうちにあるだろう。 

秋田市は、二〇〇四年に建都四〇〇年を祝った東北屈指の城下町である。佐竹義宣が完成した久保田城に入ったのが一六〇四(慶長九)年のこと。以来四〇〇年、みちのくの雄藩として独自の伝統と産業を培ってきた。国の重要無形民俗文化財に指定されている「竿灯まつり」は、太鼓と笛の音とともに五穀豊穣への祈りをこめた東北屈指の夏の行事になっている。二〇〇五年一月に河辺町、雄和町と合併して人口は約三四万人に。「緑の健康文化都市」をめざしている。 

一九七八年一〇月二三日に日中平和友好条約が締結されたころから、秋田市民の間に中国の都市との交流促進の機運がたかまった。両市の提携は、八〇年一〇月に訪中した市議会議員団が北京の中日友好協会に秋田市民の要望を伝えたところ、同協会から蘭州市が提案されたことから。
秋田・蘭州両市の友好都市提携の議定書調印は、八二年八月五日、蘭州市からの代表団を迎えて、秋田市でおこなわれた。同時に進んでいた秋田県と甘粛省の省県提携も、この時に合同でなされた。

提携の後、公式訪問はもちろん、秋田市からは「開発協力事業」や「文化研修生」として各分野の専門家を送り込み、蘭州市からは病院、商工、教育、都市開発などの技術研修生を受け入れてきた。文化交流として〇六年に開かれた「太極拳講座」は、五大流派(陳式、楊式、武式、孫式、呉式の五つ)について映像をつかいながら特徴や歴史を紹介し、基本動作を説明するもので、一五〇〇人の市民が体験した。市民が主催する「合同水墨画展」も両市で開かれている。

また秋田市大森山動物園で飼育されているフタコブラクダの「蘭泉」と「田田」は、提携の記念に来園したもの。これまでに一〇頭の子どもを各地の動物園に提供、友好の応援をしてきた。二七歳。人間なら八〇歳という高齢になった。 

両市の持ち味である粘りづよい努力を経て、本来の成果を確認するには世紀の時を要するだろう。交流は始まったばかりである。来日して授業参加をし、ホームステイをし、秋田駅で涙で別れを惜しむ蘭州市と秋田市の小学生たち。成果はなおその先にある。(二〇〇八年九月)

友好都市・人物の絆-日中交流の原点に立って

日中交流の原点に立って

洛陽市と岡山市(河南省) 

中原の古都洛陽市は、日中交流の原点ともいえる都市である。西暦五七年に倭の奴国王の遣いがここで後漢を建てた光武帝劉秀に朝貢した。劉秀が生前に会った最後の外国使節として、『後漢書』に記されている。二三八年には女王卑弥呼の遣いが三国魏の曹叡(曹操の孫)に面謁している。こちらは『三国志・魏書「東夷伝」』にしっかりと書き込まれている。遣い人の名も大使は難升米、副使は都市牛利と記されている。いまは畑地になって洛陽漢魏故城と呼ばれる同じ地に、二〇〇年を隔てて訪れたのだった。どちらも王朝の変換期で、新装なった宮殿や活気のある王都のようすに目をみはったことだろう。

洛陽市と岡山市。このよく似た歴史風土をもつ両市をつなぐ絆は、遣唐使として二度の渡航に成功し、多くの文物や鑑真を伴って無事に帰国した吉備真備である。吉備の豪族下道(しもつみち)真備は、七一七年に、西安で墓碑銘が発見されて話題となった井真成や阿倍仲麻呂らとともに、留学生として渡航したのだった。真備二二歳のときである。一八年後の七三五年に無事に帰国し、唐礼、暦書、武器などをもたらし、唐で得た新知識をもってこの国の諸制度の整備や文化の発展に寄与した。さらに七五一年には副使として再度入唐し、七五三年に鑑真をともなって無事に戻った。強運の人である。
しかし政治的な立場は安泰ではなく、藤原氏の勢力争いに翻弄されて筑前守(太宰府)に左遷されたりもした。正二位右大臣まで務めた。

岡山(吉備)の人びとには、一二五〇年前の唐代に日中文化交流に大きな足跡を残したこの先人への思いは深い。また近くは内山完造(内山書店店主)や岡崎嘉平太(洛陽名誉市民)といった日中友好に傑出した業績を残した人がおり、岡山市民の誇りともなっている。

一九八〇年七月に岡山市訪中団、九月に市議会訪中団が相次いで洛陽市を訪れたが、その際に受けた歴史・文化・風土での親和感が、両市を結ぶ契機となった。友好都市提携の調印式は、八一年四月六日、岡山市に任普恩市長を迎えて、岡山市岡崎平夫市長との間でおこなわれた。

 岡山市と洛陽市の友好関係が二〇〇三年から三年間の凍結期をもつことになったのは、二〇〇三年四月、岡山市と台湾の新竹市との間で交わされた友好交流協定で、林政則市長が「中華民国台湾」と署名したことからだった。これに対して洛陽市が反発し、友好都市提携を凍結した。しかしその間も、岡山市日中友好協会の民間活動だけは閉ざされることなくつづいた。黄河河畔の「洛陽・岡山友誼林」(二万本)や岡山名産の桃を栽培する「日中友好桃園」の活動は、両市の友好継続のたしかな原動力となった。

 二五周年を迎えた二〇〇六年四月一四日、岡山市民訪中団団長の高石茂男岡山市長とともに洛陽市を訪れた岡山市日中友好協会訪中団の片岡和男会長は、洛陽市の連維良市長と固い握手を交わした。友好都市の再開と交流の促進を確かめ合うことができたからである。民間交流の原点を思わせる経緯であった。 

洛陽市は、世界遺産に登録された龍門石窟や中国最古の官立仏寺である白馬寺で日本でもよく知られるが、いま観光の中心は、四月中旬におこなわれる「牡丹まつり」である。両市の友好活動は、二四回を迎えた「牡丹花会」のさなかに再開されたのだった。

 牡丹を絆とした友好都市として洛陽市・須賀川市がある。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-船頭伝兵衛と喜兵衛

船頭伝兵衛と喜兵衛 

気仙沼市と舟山市(浙江省)   

気仙沼の回船「春日丸」は、塩鰹、昆布、葉煙草などを積み、船頭伝兵衛ら一三人が乗り組んで銚子港へとむかった。一七五二(宝暦二)年一二月五日、いまから二五〇年ほど前のことである。 
船は折からの烈風に遭って四カ月ばかり漂流をつづけ、舟山列島の花山(現在の舟山市桃花島。上海の南方約一三〇キロの小島)にたどりついた。伝兵衛たちは舟山の人びとの救護と手厚いもてなしを受け、一年半ほどのち長崎を経て無事に故郷へ戻ってきた。気仙沼の人びとの喜びはいかばかりであったか。

「精神つかれ、人力既に尽きて、船頭伝兵衛をはじめ十三人の者、いかんともすべきようなく、船中に臥して泣き悲しみけるとや」(南部藩古文書)

この事実が『船頭伝兵衛漂流記』によって世に知られることになり、伝兵衛の八代後裔であり、気仙沼で水産業を営む佐藤亮輔氏らが一九九二年に舟山市を訪れることになった。二百四十年前の先人の恩義に謝意を表したことが現地のメディアで伝わり、気仙沼市と舟山市の親密な関係が深まった。
地元の史家西田耕三さんの調べによると、もう一艘、一八四一(天保一二)年一〇月七日に、船頭喜兵衛ら八人を乗せて江戸へむかった「観音丸」も、舟山にたどりつき、同様の救護ともてなしを受けたという。

舟山市は、上海市の南方、杭州湾の東に広がる一千余の島々からなる。水産業の基地としては中国屈指の規模を誇っている。また観音霊場「普陀山」には三〇余の寺廟が点在し、春には雲霧の仙境が、秋には東海の日の出が絶佳とされて、訪客が絶えない観光地でもある。

気仙沼市は、人口六万余。三陸の沖合漁業の拠点から、いまや世界の海へ出漁する遠洋・沖合漁船一三〇余隻を有する全国一の船籍港となっており、「国際水産文化都市」を標榜している。中国やインドネシアなど市在住の外国籍の人びとの支援を目的とする「小さな国際大使館」が設けられ、困りごと相談や日本語指導、交流イベントなどで応援している。

ともに水産業を基盤とする両市の交流は、気仙沼漁協が舟山市の漁業を視察した一九八六年三月に始まる。九二年六月には彭国鎮市長が訪れて魚市場や加工施設を見学、市主催の歓迎会に出席した。九五年には舟山市に「友好記念碑」を建立した。そして九七年一〇月八日、鈴木昇市長が訪中して、王輝忠市長との間で提携の調印が行われたのだった。
その後、代表団の相互訪問や水産加工技術の研修生の受け入れ、小・中学校の作品交換など、行政、産業、教育、文化といった幅広い分野での交流を進めている。友好都市の提携以来、舟山市から毎年六〇人を受け入れていた水産加工技術の研修生は四〇〇人を越え、若い人びとの交流を生んだが、交流と実務の両立がむずかしいことから、市の交流事業としては七期生までで中止された。

舟山の漁民が日々の生活を描いたのが「漁民画」である。気仙沼市が「舟山漁民画館」を開設するにあたって館名を揮毫した平山郁夫日中友好協会会長も、「素朴で暖かさが溢れていて、漂流民を救護してくれたかつての舟山の漁民たちと同じ人間愛が見られる」と評価している。
海に挑んで町の歴史と伝統を築いてきた無名の人びとを絆とする友好都市提携は珍しい。船頭伝兵衛や喜兵衛のような先人が残した絆こそ、地から地へ、人から人へと語り継ぐにふさわしい。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-孔子ゆかりの町づくり

孔子ゆかりの町づくり

足利市と済寧市(山東省) 

「学びて時に之を習う、また説ばしからずや」
というのは、『論語』の冒頭に置かれている有名な章句である。その孔子が教学した場所を記念するのが、曲阜の孔廟内にある「杏壇」で、『論語』はさらに、
「朋有り遠方より来たる、また楽しからずや」
とつづく。孔子が朋友を迎えたであろう故宅の地には、「孔宅故井」が残っている。そこから約三〇〇メートルほど北へゆくと、弟子の顔回が住んだ陋巷故址があって、こちらには「陋巷井」が残っている。

貧しい街で質素に暮らして、生涯その楽しみを改めなかったという顔回は、復聖と呼ばれている。
「一箪の食、一瓢の飲、陋巷にあり」
の現場で、そんな弟子のことを孔子は、「賢なるかな回や」と評して納得している。

ふたつの井戸は二五〇〇年の間、師のやさしい声と弟子の頑固な姿を伝えてきた。

曲阜の中心に座す孔廟の最も奥まった地に建ち、孔子を祀るのが大成殿で、曲阜最大の建造物である。九月二六日の「国際孔子文化祭」には大成殿前の広場で、「八佾の舞」が披露される。孔廟に接して直系子孫が住む「孔府」がある。そして子孫七六代の墓所が「孔林」。これら「三孔」は一九九四年に世界文化遺産に登録されている。
いま、至聖の孔子、復聖の顔回、亜聖の孟子(生地は曲阜の南三〇キロの鄒城)の三聖にちなむ「孔孟之郷」を管轄するのが済寧市である。曲阜市はその管轄下にある市。済寧市の管轄下には、「梁山泊」で知られる梁山県もある。

足利市には、儒学を基礎にした日本最古の総合大学と呼ばれる足利学校がある。「学校」の門内には、江戸時代に建立された「大成殿」(国の史跡)が座し、室町時代の作と伝える孔子座像を安置する。市保存の宋版『礼記正義』『尚書正義』は国宝である。中国で失われていた皇侃の注釈書『論語義疏』は、江戸時代に足利学校の書庫で書写されて出版され、再び中国に里帰りしたという。
足利学校では毎年一一月に、孔子をたたえる祭事「釈奠」を実施している。市はまた「足利学校こだわりのまちづくり」を進めている。足利市の市歌には「至聖の殿堂、稀世の古典」とある。

両市の友好都市提携は、八四年九月二一日に、済寧市でおこなわれた。町田幸久市長を団長とする足利市代表友好訪中団が参加し、済寧市の王渭田市長らが出席して、議定書を朗読、両市長が署名した。
提携後の交流は、曲阜での「国際孔子文化祭」への市民参観、太極拳講師の招請、雑技芸術団の公演、医療研修生や牧場研修生の受け入れ、「孔子孟子の故郷―済寧市文物展」の開催、青少年交流などとつづく。孔子の生地である尼山には「尼山足利希望小学校」を建設した。

先人の事績もある。「楷の木」(とねりばはぜのき)がそれで、曲阜市には弟子の子貢が植えた楷の木がたいせつにされている。足利市には樹齢八〇〇年、樹高二〇メートルを越える楷の木が天然記念物として残されている。
二〇〇四年は友好提携二〇周年に当たった。記念事業として八月に「済寧市民族楽器演奏会」が催され、伝統楽器による「悠久の調べ」が足利学校南庭園に流れた。一一月二三日には済寧市からの代表団を迎えて、記念祝典や牡丹の植樹がおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-「藤野先生」と作家魯迅

「藤野先生」と作家魯迅

あわら市と紹興市(浙江省) 

混乱期にある祖国に思いを馳せて、ひとり懊悩する中国留学生に、熱心に解剖学を教えながらその将来に期待し、希望を与えつづけた藤野厳九郎先生は三二歳だった。のちに作家魯迅となる周樹人は二四歳、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)の学生だった。
半途にして医学を捨てて、文芸に民族の精神的覚醒を求めて仙台を去る周青年に、藤野先生は自らの写真を記念に与え、その裏に「惜別藤野 謹呈周君」と記して贈り、別れを惜しみ激励した。一九〇六年のことである。

それから二〇年後に書かれた「藤野先生」によって、ふたりの知られざる友愛・師弟の絆は、だれもが知る日中友好の絆となった。

福井県の芦原は、藤野厳九郎の生地である。浙江省紹興は魯迅の生地である。ふたりを繋ぎ、芦原町(当時)と紹興市のふたつの市町を結ぶ交流は、芦原町(当時)が一九八〇年の「藤野厳九郎顕彰碑」の除幕式に、魯迅の長男である周海嬰夫妻を招いたことから始まった。翌八一年には北京で開かれた「魯迅生誕一〇〇年」の式典に、斉藤五郎右ェ門町長らが参加、その後に紹興市を訪問して友好市町の提携を申し入れた。友好都市の締結調印式は、八三年五月一八日、芦原町で行われた。 

以後、おもに友好交流としては、人的交流を中心に活動してきた。芦原町からは毎年、各界の友好親善訪中団や少年使節団がたずね、紹興市からは市友好訪問団や経済貿易視察団が来訪している。料理、農業、語学研修生の受け入れ、一五周年には紹興市会稽山レジャー区の中日友好桜林公園に一二四二本の苗木を寄贈した。 
二〇周年の二〇〇三年には、魯迅と藤野厳九郎と魯迅の交流を次世代に伝えていくために副読本「魯迅と藤野厳九郎」を制作、一一月には記念式典とシンポジウムが行われた。

あわら市は日本海に面した田園と温泉の町で人口は三万余。一方、紹興は人口四三○万人の著名な歴史文化名城である。小さな町と大きな都市を等しく結ぶものについて、副読本である「魯迅と藤野厳九郎」を読んだ感想文に、芦原中学の北浦智揮くんは、「二人が違う人生を歩んでいても、連絡を取っていなくても、その友情は、決して崩れなかったことだ」と記す。
その思いは、中学国語で「藤野先生」を学んだ中国の若者たちも等しく持っているものであり、「魯迅の前半生における光」を与えてくれた藤野先生との交流は、「日中友好の一つの証である」と、二〇周年記念シンポジウムに参加した紹興文理学院の陳越教授も講演で述べている。

芦原町は〇四年三月、北隣の金津町と合併して「あわら市」となった。友好都市事業は新市に引き継がれている。あわら市の「藤野厳九郎記念館」には、これまでに中国各地から二五〇〇人を超える人びとが見学に訪れている。魯迅が藤野先生に学んだ仙台の東北大学には、魯迅が使ったという机が記念に残されている。北京の「魯迅博物館」には、「解剖学ノート」(一八〇〇ページ)が大切に保管され、藤野厳九郎の胸像も陳列されている。
そしていま多くの「平成の藤野先生」が、日本各地で留学生や研修生に将来への展望を与えている。二○年後には、いくつもの新たな「藤野先生」が書かれるにちがいない。

紹興市は、魯迅にちなむ「あわら市」と、また産物の絆として酒にちなむ西宮市と友好都市提携をしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-維新・革命の先駆を担う

維新・革命の先駆を担う 

鹿児島市と長沙市(湖南省)  

鹿児島市と長沙市は、ともに国の近代化の震源地となった歴史都市である。時代の転換期に命をかけて奔走した偉大な先駆者とともに、その原動力となった若者たちを提供したことでも類似の経緯を持つ。
薩摩にいて、世界の大勢を見ぬいて、日本近代化の先駆者となった西郷隆盛や大久保利通、そして長沙を拠点として中国の新時代を導いた毛沢東や黄興。時代の先方を見据えて立つふたつの像――鹿児島市立美術館脇の「西郷隆盛像」と長沙市博物館前の「毛沢東像」は、近代アジアを切り開いた偉丈夫像の双璧といえるであろう。

鹿児島市は、かつて平安時代に鑑真和上が上陸した遠い記憶を持つ。遣唐使船以来の交渉があった中国との友好都市締結には、早くから市民の関心が高かった。一九八一年には各界代表団が中国各都市を訪問し友好を深めた。それぞれ国の南方にあって、よく似た開放的な歴史都市である長沙市から八二年三月に提携の希望が伝えられて、先遣視察団を送るなどの準備にはいった。

友好都市締結の調印式は、一九八二年一〇月三〇日、鹿児島市に長沙市代表団を迎えて、熊清泉市長と山之口安秀市長との間でおこなわれた。その後、締結を記念して、長沙駅前公園に「友好和平の像」(八四年)が建てられ、桜島を望む天保山に「共月亭」(八五年)がそれぞれ落成している。

 長沙市は、湖南省の省都である。人口は約六一○万人。市域は湘江の岸辺にひろがる。産業としては陶磁器、刺繍、竹細工など伝統的なものも多い。湖南省博物館には世界を驚かせた発掘、二一〇〇年前の「馬王堆漢墓」からの出土品、漆器、織物、楽器、陶器、刺繍などが展示されている。毛沢東は、ここの第一師範学校に通い、省の図書館に篭って、ここで世界への目を開いた。日本の明治維新、西郷南洲にも関心をもっていた。

鹿児島市は、二〇〇四年一一月に一市五町が合併して、人口六〇万人を擁する新鹿児島市になった。噴煙を上げる桜島も市域にはいった。いうまでもなく島津七七万石で知られて薩摩藩は、近代日本の誕生に貢献した雄藩のひとつだが、西南戦争で西郷南洲を失うとともに多くの犠牲者を出した。こちらも薩摩焼酎や薩摩焼、大島紬、屋久杉工芸などといった伝統的な特産物が豊かな土地柄である。

これまでの友好交流は、交流協議にもとづく毎年の市代表団の相互訪問のほか、市役所の行政、水道、環境、観光、国際交流など各課への研修生、市立病院への医学研修生、農業実習生などの受け入れ、高校生の派遣、動物交換(鹿児島市からはシマウマ、チンパンジー、長沙市からウはンピョウ、レッサーパンダ)、さらに日本語図書の寄贈、中学生のスポーツ交流、など、さまざまである。
五年ごとの交流協議、周年記念式典で記念植樹や記念公演、マイクロバス(鹿長友誼号)の贈呈など、「心触れ合う温かみのある交流」をめざして実績を積み上げてきた。
とくに〇四年七月には、長年にわたる活動を祝って「長沙市・鹿児島市友好交流祝賀会」を長沙市で開催し、赤崎義則市長を団長とする各団体からなる友好代表団(六団体九〇人)が訪れて、新たな発展を誓い合った。

二〇〇七年の提携二五周年にあたり、それまでの交流実績二七〇団体・約四〇〇〇人の交流や協力を評価した上で、長沙市の譚仲池市長は、とくに「研修生たちは帰国後、それぞれの分野の中堅幹部となって活躍しています」というお礼のメッセージを寄せている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-湘南の海に眠る聶耳の夢

湘南の海に眠る聶耳の夢

藤沢市と昆明市(雲南省) 

作曲家聶耳は、一九三五年四月に来日すると、寸暇を惜しんで音楽を聴き、映画や新劇を精力的に見、日本語を学んだ。上海で左翼文芸工作者が大量逮捕されたあと脱出し、いずれは欧州からソビエトへゆく目標を持っての日本滞在だったが、若い心を動かすもの、すべてを吸収した。そして七月、藤沢の友人宅で運命の数日を過ごすことになった。 
江ノ島遊覧、鵠沼海岸の海水浴、静かな町、曲折する小道の散策、親切な人びと・・聶耳はすべてが気に入って愉快に過ごした。
「明日から新しい計画を始める」 
と記した聶耳は、七月一七日昼すぎ、水浴に出た鵠沼海岸の波涛の中に姿を消した。二三歳五カ月の短い生涯だった。

いま歌われている中国国歌の原題は「義勇軍進行曲」である。三五年、劇作家田漢が作詞し、若き聶耳が作曲した。抗日救国に決起した中国青年を描く映画「風雲児女」の主題歌として発表され、「敵人の炮火」を冒して前進する愛国の叫びとして広く愛唱された。四九年一〇月一日、中華人民共和国成立とともに暫定国歌に選定され、八二年には正式に国歌として制定された。

聶耳生誕の地は昆明市である。中国西南地区雲南省の省都で、漢族のほか二五の少数民族が住む。高原で温暖なために「春城」と呼ばれる花と湖と文化の都市。人口約四八〇万人。
藤沢市は、相模湾に面した温暖な海浜都市。都心から五〇キロの静かな住宅地で、学園・観光都市でもある。人口約四〇万人。聶耳が亡くなった鵠沼海岸には、六五年に郭沫若の「聶耳終焉之地」題詞による聶耳(四つの耳)を抽象した記念碑が建てられ、没後五〇周年(八五年)を記念して、八六年には新たに胸像浮彫を配した「聶耳広場」が市民によってつくられた。

両市の友好都市提携は、八〇年五月に湘南各界代表友好訪中団が昆明市を訪問して友好を深めたのが契機となった。締結は八一年一一月五日に、昆明市代表団を迎えて、朱奎市長と葉山崚市長とが調印して成立した。
「中国国歌の作曲者聶耳を仲立ちとして生まれた歴史的な友好関係を発展させる」
 を目標として、さまざまな分野での交流が着実に進んでいる。藤沢市からは経済交流親善考察団、国際交流青年団、市議会代表団、ジュニアオーケストラ、囲碁、卓球などの代表が訪れ、九九年の「昆明花博」には藤沢市民一四〇人、友好都市提携二〇周年の二〇〇一年には二二〇人の市民訪問団を送った。昆明市からは行政、経済、商工業などの使節団、医療、商工業、水道などの分野の研修生のほか、少数民族歌舞団の来日公演なども行われている。

 友好都市提携二五周年にあたる〇六年一一月には、山本捷雄市長を団長とする代表団が昆明市を訪れて、藤沢昆明文化交流展や生け花展示・茶道交流、聶耳墓参などに参加した。
湘南日中友好協会を中心にした活動で、八六年には昆明市に「藤沢昆明友誼館」が落成した。九六年からは日本語教室を開設している。聶耳の姪聶麗華さんも学んだという。また九九年八月には禄勧イ族ミャオ族自治県に「沙魚郎希望小学校」を贈る活動も実を結んだ。落成式では児童代表が可愛い大きな声で、
「二一世紀の新しい跡継ぎとして、よく勉強して、優秀な成績で皆さまに報いたいと思います」
とお礼を述べた。湘南の海に眠る聶耳の夢は、この雲南の子どもたちが引き継いでくれるにちがいない。(二〇〇八年九月・堀内正範)