「藤野先生」と作家魯迅
あわら市と紹興市(浙江省)
混乱期にある祖国に思いを馳せて、ひとり懊悩する中国留学生に、熱心に解剖学を教えながらその将来に期待し、希望を与えつづけた藤野厳九郎先生は三二歳だった。のちに作家魯迅となる周樹人は二四歳、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)の学生だった。
半途にして医学を捨てて、文芸に民族の精神的覚醒を求めて仙台を去る周青年に、藤野先生は自らの写真を記念に与え、その裏に「惜別藤野 謹呈周君」と記して贈り、別れを惜しみ激励した。一九〇六年のことである。
それから二〇年後に書かれた「藤野先生」によって、ふたりの知られざる友愛・師弟の絆は、だれもが知る日中友好の絆となった。
福井県の芦原は、藤野厳九郎の生地である。浙江省紹興は魯迅の生地である。ふたりを繋ぎ、芦原町(当時)と紹興市のふたつの市町を結ぶ交流は、芦原町(当時)が一九八〇年の「藤野厳九郎顕彰碑」の除幕式に、魯迅の長男である周海嬰夫妻を招いたことから始まった。翌八一年には北京で開かれた「魯迅生誕一〇〇年」の式典に、斉藤五郎右ェ門町長らが参加、その後に紹興市を訪問して友好市町の提携を申し入れた。友好都市の締結調印式は、八三年五月一八日、芦原町で行われた。
以後、おもに友好交流としては、人的交流を中心に活動してきた。芦原町からは毎年、各界の友好親善訪中団や少年使節団がたずね、紹興市からは市友好訪問団や経済貿易視察団が来訪している。料理、農業、語学研修生の受け入れ、一五周年には紹興市会稽山レジャー区の中日友好桜林公園に一二四二本の苗木を寄贈した。
二〇周年の二〇〇三年には、魯迅と藤野厳九郎と魯迅の交流を次世代に伝えていくために副読本「魯迅と藤野厳九郎」を制作、一一月には記念式典とシンポジウムが行われた。
あわら市は日本海に面した田園と温泉の町で人口は三万余。一方、紹興は人口四三○万人の著名な歴史文化名城である。小さな町と大きな都市を等しく結ぶものについて、副読本である「魯迅と藤野厳九郎」を読んだ感想文に、芦原中学の北浦智揮くんは、「二人が違う人生を歩んでいても、連絡を取っていなくても、その友情は、決して崩れなかったことだ」と記す。
その思いは、中学国語で「藤野先生」を学んだ中国の若者たちも等しく持っているものであり、「魯迅の前半生における光」を与えてくれた藤野先生との交流は、「日中友好の一つの証である」と、二〇周年記念シンポジウムに参加した紹興文理学院の陳越教授も講演で述べている。
芦原町は〇四年三月、北隣の金津町と合併して「あわら市」となった。友好都市事業は新市に引き継がれている。あわら市の「藤野厳九郎記念館」には、これまでに中国各地から二五〇〇人を超える人びとが見学に訪れている。魯迅が藤野先生に学んだ仙台の東北大学には、魯迅が使ったという机が記念に残されている。北京の「魯迅博物館」には、「解剖学ノート」(一八〇〇ページ)が大切に保管され、藤野厳九郎の胸像も陳列されている。
そしていま多くの「平成の藤野先生」が、日本各地で留学生や研修生に将来への展望を与えている。二○年後には、いくつもの新たな「藤野先生」が書かれるにちがいない。
紹興市は、魯迅にちなむ「あわら市」と、また産物の絆として酒にちなむ西宮市と友好都市提携をしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)