友好都市・人物の絆-日中交流の原点に立って

日中交流の原点に立って

洛陽市と岡山市(河南省) 

中原の古都洛陽市は、日中交流の原点ともいえる都市である。西暦五七年に倭の奴国王の遣いがここで後漢を建てた光武帝劉秀に朝貢した。劉秀が生前に会った最後の外国使節として、『後漢書』に記されている。二三八年には女王卑弥呼の遣いが三国魏の曹叡(曹操の孫)に面謁している。こちらは『三国志・魏書「東夷伝」』にしっかりと書き込まれている。遣い人の名も大使は難升米、副使は都市牛利と記されている。いまは畑地になって洛陽漢魏故城と呼ばれる同じ地に、二〇〇年を隔てて訪れたのだった。どちらも王朝の変換期で、新装なった宮殿や活気のある王都のようすに目をみはったことだろう。

洛陽市と岡山市。このよく似た歴史風土をもつ両市をつなぐ絆は、遣唐使として二度の渡航に成功し、多くの文物や鑑真を伴って無事に帰国した吉備真備である。吉備の豪族下道(しもつみち)真備は、七一七年に、西安で墓碑銘が発見されて話題となった井真成や阿倍仲麻呂らとともに、留学生として渡航したのだった。真備二二歳のときである。一八年後の七三五年に無事に帰国し、唐礼、暦書、武器などをもたらし、唐で得た新知識をもってこの国の諸制度の整備や文化の発展に寄与した。さらに七五一年には副使として再度入唐し、七五三年に鑑真をともなって無事に戻った。強運の人である。
しかし政治的な立場は安泰ではなく、藤原氏の勢力争いに翻弄されて筑前守(太宰府)に左遷されたりもした。正二位右大臣まで務めた。

岡山(吉備)の人びとには、一二五〇年前の唐代に日中文化交流に大きな足跡を残したこの先人への思いは深い。また近くは内山完造(内山書店店主)や岡崎嘉平太(洛陽名誉市民)といった日中友好に傑出した業績を残した人がおり、岡山市民の誇りともなっている。

一九八〇年七月に岡山市訪中団、九月に市議会訪中団が相次いで洛陽市を訪れたが、その際に受けた歴史・文化・風土での親和感が、両市を結ぶ契機となった。友好都市提携の調印式は、八一年四月六日、岡山市に任普恩市長を迎えて、岡山市岡崎平夫市長との間でおこなわれた。

 岡山市と洛陽市の友好関係が二〇〇三年から三年間の凍結期をもつことになったのは、二〇〇三年四月、岡山市と台湾の新竹市との間で交わされた友好交流協定で、林政則市長が「中華民国台湾」と署名したことからだった。これに対して洛陽市が反発し、友好都市提携を凍結した。しかしその間も、岡山市日中友好協会の民間活動だけは閉ざされることなくつづいた。黄河河畔の「洛陽・岡山友誼林」(二万本)や岡山名産の桃を栽培する「日中友好桃園」の活動は、両市の友好継続のたしかな原動力となった。

 二五周年を迎えた二〇〇六年四月一四日、岡山市民訪中団団長の高石茂男岡山市長とともに洛陽市を訪れた岡山市日中友好協会訪中団の片岡和男会長は、洛陽市の連維良市長と固い握手を交わした。友好都市の再開と交流の促進を確かめ合うことができたからである。民間交流の原点を思わせる経緯であった。 

洛陽市は、世界遺産に登録された龍門石窟や中国最古の官立仏寺である白馬寺で日本でもよく知られるが、いま観光の中心は、四月中旬におこなわれる「牡丹まつり」である。両市の友好活動は、二四回を迎えた「牡丹花会」のさなかに再開されたのだった。

 牡丹を絆とした友好都市として洛陽市・須賀川市がある。(二〇〇八年九月・堀内正範)