現代シニア用語事典 #7人民・市民・国民・国際人

#7人民・市民・国民・国際人
#「日本高年化社会」の形成に投じる
*・*この一〇年は高年者不在だった*・* 
「シルバー・デモクラシー
この一〇年をじっくり振り返る余裕は持ちづらいが、ひとつだけ、この一〇年ばかりなぜ「高年化への対応」がないがしろにされてしまったのか、についてだけは触れておかなければいけないと思う。深い自省をこめて。
高年齢者が多くなるだけで「高齢化社会」が成熟するわけではない。高年齢者が多くなる「高齢者社会」と高年齢者が暮らしやすくなる「高齢化社会(本稿では「高年化社会」も)やさらに進んだ「高齢社会」では異なる。本稿が願うレベルの「社会の高年化」を実感できるようにするためには、この一〇年ばかり、みんなでふたつの面での成熟に留意する必要があった。ひとつは一人ひとりの「高年者意識」の成熟であり、もうひとつは社会構造としての「モノと場の高年化」の達成である。当事者である高年者層が努めなかったのだから、どちらも半熟どころか未熟のままなのである。 
 この一〇年ばかりを顧みて、先駆的には高齢者の自立を呼びかけた「シルバー・デモクラシー」(内田満さん)や前述した「老人党」(なだいなださん)といった論考や活動はあったものの、広範な大衆レベルでの高年者がはっきりした「高年者意識」を共有することができず、したがってまた身近な「モノと場の高年化」を推し進めることをしなかった。内田さんは「納税者デモクラシー」(中年)と「年金受給者デモクラシー」(高年)とを区別した上で、予見される世代間の対立を避けるためには「自分がその木陰で憩うことがない樹を植える」(W・リップマンのことば)という「同時代の異なる世代に属する人びとへの配慮」を不可欠のものとし、高齢社会のデモクラシーの成立を、「共生の論理」にもとづく民主政治への構想力に期待していた。 
「社会の被扶養者」
新世紀を迎えて、国際的課題である「高齢化社会」へむかって、その体現者である健丈な高齢者層に参画を呼びかけねばならなかった時に、当時の小泉純一郎首相は「所信表明演説」(二〇〇一・五・七)で何といったか。
あろうことか、将来の「ケア」における負担増だけを取り上げて、「給付は厚く、負担は軽くというわけにはいきません」と言い放つありさま。首相ばかりではなく、それがおおかたの国と為政者の意識であった。その後も国は高年齢者に将来への不安を与える政策ばかりを次々とりつづけてきた。「高齢化社会」にむかう時代だからこそ、
「給付は厚く、負担は軽くだけは、何としても保っていきたい」
と訴えて、国の財政難を説きつつ、国民に「自助と自律」を求めるのが政治リーダーの発言というものだ。本稿は当時もそう記したし、いまもそう主張しつづけている。
これは記したくないが、「心優しい老齢者が善意で死に急いでくれて、日本高齢化社会は思いのほかスムーズに形成できました」なんて海外発信するのでは、来たるべき国際的な「高齢化時代」を構想する時、「先進高齢者国」としてあまりにつらすぎるではないか。善意の老齢者が、「この国の将来の姿はもう見たくない、早く死にたい」とつぶやくような国を、だれが望んだろう。弁解も反論の余地もない。
この国のこの一〇年は、何かがじわりじわりと狂ってきたとしか思えない。
国はひたすらに「高齢者は社会の被扶養者である」と位置づけてきたのであるが、といって「日本高年化社会」のグランド・デザインを模索する動きがなかったわけではない。何より新たな社会構造を要請する主体者としての国民(高年者層)が不在である状況のなかで、霞が関官僚の間での政策ベクトルの総和が、結局は高齢者は「社会の被扶養者」と位置づけるところに引き戻されてきたのである。年々の『高齢社会白書』の記述の変化ににじみでているが、官僚の側は不在であるものへむかっては踏み出せない。それでも高齢者への福祉・医療・介護のしごとは十分にあり、年々の予算規模は増大しつづけてきた。この一〇年は「高年者不在」であり、高年者の主体性のなさが、国の政策の不在を許してきたのである。 
*・*二〇二〇年には四人に一人が高齢者*・* 
「高齢化率」
「高齢者二五%時代」
  これから迎える二〇二〇年。そんなに遠い先のことではない。といって明日どうしていいのかに迷っている人にとっては、どうでもいい先のことであろう。
高年期に達している人、これからさしかかる人びととともに、一〇年ほど先が明るい展望のある未来であることを願って、時代の前方を透かし見てみよう。
国の先進性の指標のひとつとして「高齢化率」(六〇歳以上の人口比率)の国際比較がある。これまで久しく高かったヨーロッパ諸国を追い抜いて、アジアから日本が二〇%に一番乗りをして、国際的な「高齢者二五%(四人に一人)時代」にむかって先駆けをする。
そして二〇二〇年。
ヨーロッパ勢のイタリア、ギリシャ、スイス、フィンランド、スペインなどがトップ・グループを形成して続々と「高齢者二五%(四人に一人)時代」に達するとき、アジアの日本がフロント・ランナーとしてさらにその先をトップで通過する。ヨーロッパ勢のあとを追って、途上国の高齢化も進んで一〇億人を超えるという(世界保健機関=WHO推計)。そして二一世紀のなかばには前記したように、途上国を含めて世界中が「高齢化問題」に直面することになる。 
「二一世紀社会の日本型モデル」
「日本ベビーブーマー」
わが国はトップ・グループを形成している「高齢化先進国」のうちでも、アジアでひとつであり、最速スピードで高齢化が進んでいるといわれる。国際的に「社会的混乱を起こさない手法での問題適応力に優れている」と評価されている日本は、アジアでひとつの先進経済国での高齢化社会として、「二一世紀社会の日本型モデル」として注目されているのである。ということは、二一世紀初めの二〇年ほどは「日本シニア」のありように国際的スポット・ライトが当たっている時期であり、国際ステージでも期待されている時期なのである。
アジア代表として世界のトップへ躍り出る「日本高齢化社会」には何が期待されているのか。
いうまでもなく高年者がそれまでに蓄積した技術や知識や資産を自在に駆使して、いきいきと暮らしている姿であり、それを支える「モノと場」の豊かなありようだろう。
世界一〇億人のシニア世代の前に、日本の高年者による「日本高齢化社会」は、日本型モデルとして立ち現れることになる。そこへ至るプロセスが問題なのである。
これはわが国ばかりでなく、ヨーロッパの先進諸国もまた併走状況のなかで迎えている。ともに二〇世紀前半に遭遇した世界争乱によって多大な犠牲をはらったあと、両親は心から「戦後平和」が長くつづくことを願いながら子どもを生み育てた。日本の戦後生まれの人びともまた同様に六〇歳にさしかかり、高年期を迎えている。
いま六〇歳+の定年期に達してこれから高年期をすごして二〇二〇年には七五歳にたどりつく人びとは一九四五(昭和二〇)年生まれの人びと。そしてそのあとに大戦後の「日本ベビーブーマー」の人びとがつづく。 
「平和団塊の世代」
ご存じのように、一九四五年の敗戦のあと一九四七~四九年に生まれた七〇〇万人の人びとを「団塊世代」と呼んでいる。同じく二○○万人が生まれた一九五○年と、終戦の翌年である一九四六年を加えると、新世紀を迎える時点では一○三七万人(二〇〇〇年一〇月・国勢調査)であった。
この一〇〇〇万人の一人ひとりを、敗戦後のきびしい生活環境の中で生み育てた両親の思いを想って、本稿は「平和世代」と呼んで注目している。「団塊世代」では即物的にすぎて、また「平和世代」では理念的にすぎて、いずれも不満であるかもしれないが。あわせて「平和団塊の世代」と呼ばせていただくのをお許しねがいたい。
先進諸国の同世代の人びととともに、平和裏に安心して後半生をすごせる社会を形成し、長寿をまっとうすることが、惨禍と混乱の中で両親が希い求めた「平和に生きる」ことの証しになるにちがいないからである。世紀を超えた人類の挑戦なのだ。世紀の長さでとらえて、人類の規模でみて、二一世紀に克服せねばならない多重標準の課題といえば「戦争」と「平和」である。二一世紀半ばの「日本国憲法一〇〇周年」のころの国際社会は、「高齢者先進国」の日本の経験を「世界平和の証し」としてスタンディング・オベイションで迎えるだろう。
新世紀を迎えたころには「団塊ジイ、団塊バア」などといわれて「老いるショック」を受けた人びとも、いまはもう驚かない。「日本社会の高年化」の体現者としての自負を持って暮らしている。この「平和団塊世代」の人びとに厚生労働省や大手広告会社が関心を示しつづけているのは、「日本高齢化社会」の形質を左右すると予測しているからである。 
#成熟社会を体現する「昭和丈人層」
*・* 五〇〇〇万人の高年者が際立つとき*・* 
「日本高化社会」
「昭和丈人層」
日ごろ個人的に実感されることではないが、わが国の「高齢化社会」は国際的に、少なくともアジア地域では先行している。シナリオはないものの、その推進役を演じているのは、日々を積極的にすごしている高年者のみなさんである。だが成熟へむかう「日本高齢化社会」がいま形成されているという事情を踏まえて、主役を演じている人びとにスポット・ライトを当てるとすれば、それは「昭和」に生まれて二〇世紀後半の「激動の戦後昭和期」を活動のステージとしてきて、新世紀になってなお新たな目標をもって意欲的に暮らしている高年者。本稿がその潜在能力を信頼している「昭和丈人層」の人びとである。
先にも指摘したが、多様多彩な経験を持っている五〇歳以上の高年者を、餃子ではあるまいし混ぜて包んで一様に「高齢者」なんて表現できるものでは決してない。
そこで新たな五階層の「高年化時代の人生のステージ」を示したが、ここでは、さらに詳しく、後半生の日々をすごしている五〇歳すぎの人びとを五年刻みの幅「五歳階級」でみてみよう。そうすることで決してひとくくりにできない年齢層としての意識・生活感・価値観、時代背景など、特徴の把握が可能になるからだ。個人差はあるものの、ともに刻んできた年輪に特徴をもつ同世代人への理解を広げることができる。 
「高年者(シニア)文化圏」
「高年者(シニア)生活圏」
出会うことで溢れるパワーをあたえてくれる知名の「現代日本文化人」の多くは、激動の「戦後昭和期」を生き抜いてきた経験を共有する人びと、つまり「昭和丈人層」の人びとである。戦争後のモノ不足も貧しさも、そして復興への努力による成果もみんなのものであった。その中でそれぞれに身につけた奥行きのある人柄と能力は、「ゼロの地点」から出発して、切磋琢磨して獲得した個人の貴重な成果なのである。
いうまでもなく、知られることを求めることなく「社会の高年化」を体現して暮らしている人びとが成熟へむかう時代の主役であるが、これほど多くの熟成した力量をもつ人びとが活躍をしているというのに、「高年者(シニア)文化圏」や「高年者(シニア)生活圏」、また暮らしを支える用品・用具、設備・施設などによる「高年化製品経済圏」が、あるべき存在感を示しえていないのはなぜなのだろうか。
答えは即時にこだまのように舞い戻る。「昭和生まれの高年者層が、意識してあるべき存在感を示していないからだ」と。       
*・*湧出する「第三期のステージ」*・* 
「高年者活動」
昭和生まれの高年者層が、あるべき存在感を示していないわけではない。
わが国の「高年者活動」はいままさに湧出期にあって、その中心にいて主導しているのは、まぎれもない昭和生まれのみなさんなのだから。その全容を把握することができないほどだ。長い苦闘の経緯をもつ高齢者ケアとしての「福祉」「医療」「介護」の分野はもちろんのこと、高年者活動は、実にさまざまな領域へと広がっており、うまく分類できてはいないが、動きが際立つ分野だけでもこれほどにある。 
 各種の生涯学習(趣味、生きがい、健康)。
 虐待防止、遺言相談。
 高齢者雇用、起業支援。
 年金、貯蓄・投資、マーケット情報、保険。
 シニア向け新商品開発、介護福祉機器・電化製品、車・乗り物などの製造・販売。
 ショッピング、通販、宅配。
 ファッション、料理、食品、レストラン、居酒屋。
 ケア付き住居、いなか暮らし、住宅改修(バリアフリー)、家具・用具。
 パソコン教室・通信、カルチャー講座・セミナー・シンポジウム、イベント。
 シニア向け新聞・雑誌、テレビ・ラジオ番組。
 短歌・俳句・川柳、ナツメロの会、自分史、楽団、手づくりクラフト。 
 ゲートボール、テニス、ゴルフ、太極拳・ヨガ、碁・将棋、ゲーム。
 環境美化、伝承活動、世代交流。
 国際交流、海外ツアー、旅行、ホステル、国民宿舎。
  ・・などなどである。
組織の名称はといえば、「シニア」が圧倒的に。「老人」や「シルバー」といった先輩格のものも、しっかりと根をはって活動している。
「老人」ということばは、老練、長老、老師など経験を積んだ高齢者をもいうのだが、どうも旗色がわるいのは、長く「老人ホーム」や「敬老会」などが随伴してきたために「高齢弱者」というニュアンスが働いているからだ。「敬老」はいまや「老齢者をねぎらう」ほどの意味合いで用いられている。「敬老」には「敬老尊賢」というすっくと立つことばもあるのだが。
 「老人のつく活動組織」
「老人」については、ここではふたつの活動をみておきたい。
「老人のつく活動組織」で、代表はなんといっても「老人クラブ」である。敗戦後間もない一九五〇(昭和二五)年に発足して以来、自治体と連携しながら地域の高齢者の生きがいと健康づくりに貢献してきた。「全国老人クラブ連合会」(全老連)には、一三万余クラブ、約八五〇万人の会員が参加。「友愛訪問」「伝承活動」「環境美化」「世代交流」といった幅広い活動に乗り出している。
もうひとつは政治活動をおこなう「老人党」で、精神科医のなだいなださんが、〇三年五月に立ち上げたネット上の仮想(バーチャル)政党である。「老人のためだけにではなく、この国を改革するために、老人たちに何が出来るか、を考える党です」と呼びかけたもの。言動者としての老人パワーによってネット上での議論は白熱し注目されたが、行動者としての影響力は未知数である。
本稿が「老人力」や「老人パワー」に関心を持ち、これまでの活動に賛意を表しながらも、新しい「高年化」の活動にあえて「丈人論」を展開しているのは、「老人」はそれはそれでそっとしておいたほうがいいという立場からである。静かにクールダウンしながら過ごす生き方もあっていい。老人みんなでというのは、いささかキツイ話しだからである。といって、みんなが立ち上がらないのはさらに困ったことになるからだ。 
「シルバー」
「アクティブ・シニア」
「シルバー」は、
グリーンやブルーといった「アシッド・カラー」(柑橘類の色)などに対する色彩の比較から生まれた和製語である。
高年者を「シルバーエイジ」としてとらえて、活動的なイメージを付加して、運動・旅行・講座などの研究所や教室が用いている。高年者の能力を活用する「全国シルバー人材センター事業協会」や「シルバーサービス振興会」などは定着している。
ここで確認しておきたいことは、「だれもが」(ユニバーサル)とともに、それよりも優先して「高年者自身のため」を意識した活動であっていいということである。
高年者の活動の湧出期にあたって、さまざまな分野で「アクティブ・シニア」が先行して新しい活動を進めている。そこでカタカナ語の団体・協会が続出している。
「アクティブライフ」は、
活動的な暮らしをめざすことで、高年者主体のボランティア・グループが用いている。「ニッポン・アクティブライフ・クラブ」など。 
「エイジド」
「エージング」
「エイジド」や「エージング」などは、
それぞれに年輪を刻んで到達した営みが意識されて使われている。
「エイジド」は、
ワインやギターやコーヒー豆での利用が優勢だが、経験を積んで熟成した意味で、これも高齢者を支えるボランティア組織やNPOが用いている。
「エージング」は、
老化がすすむことを意識して「アンチエージング」として医療や美容外科などに、「ウエルエージング」や「アクティブ・エージング」として高年期を積極的に受け入れる立場を示している。「日本ウエルエージング協会」は一九五三年から活動をおこなっている。
「エルダー」は、
旅好きのおとなのための「エルダー・ホステル」が世界一〇〇カ国に開設されていて、学習と旅をあわせた高年者対象の活動をしているのが目立つ。「日本エルダー協会」や「エルダーホステル協会」など。 
「エイジレス」
「ユニバーサル」
一方に、高齢を意識しながら人生に年齢は無関係であり、それを超えたものであるという意味での「エイジレス」や「ユニバーサル」などが知られる。
「エイジレス」は、
年齢にとらわれないという意味で「エイジレス・デザイン」「エイジレス商品」「エイジレス・ライフ」などとして広く用いられている。
「ユニバーサル」は、
だれもがという意味合いで、とくに「ユニバーサル・ファッション」が、高年者にも障害者にも快適で喜ばれるファッションとしてバリアフリーが意識されて用いられている。「ユニバーサル・ファッション協会」など。
まだまだあるであろう。ここでやや立ち入ってカタカナ語に触れたのは、高年者活動は、さまざまな方向でそれぞれの立場で熱心に活動している人びとと組織に支えられているからで、どれかひとつとはいかない。それどころか多いことはいいことなのである。 
「高齢化活動団体」
活動の広がりをみるために紹介がカタカナ語に片寄ってしまったが、福祉を核としながら活動している「高齢化活動団体」は枚挙したらきりがないほど。その推進役になっている組織・団体の存在を見落として先にいくことはできない。ここはその場ではないから紹介をかぎるが、 福祉・介護の「さわやか福祉財団」(理事長は堀田力さん)や高齢者研究の「東京都老人総合研究所」、高齢者雇用の「高年齢者雇用開発協会」、高齢女性の「高齢社会をよくする女性の会」(代表は樋口恵子さん)、「ねんりんピック」によって活力ある長寿社会をめざす「長寿社会開発センター」、生涯学習の「生涯学習開発財団」、住宅に関する「高齢者住宅財団」・・などなど、NGO(非政府組織)を中心にして幅広い活動体を形成している。分野は多岐にわたっており、全容の見極めがつかないほどに幅広い。
そして何より心づよいことは、「新現役ネット」「シニア・パワー・ネット」「いきがいの会」など、「高年化社会」の主役を体現しながら活動する組織を支えているのが、先の大戦の惨禍と戦後の混乱を知っている昭和前期生まれの人びとであることである。 
*・*高年化活動への三つの契機*・* 
「高年化活動への三つの契機」
この章の終わりに、高年者が暮らしやすい社会で暮らせるようになるためには、どうすればよいかについて整理しておきたい。
座して待つだけではどうにもならない。本稿は先に、ひとつは個人がもつ「高年者意識」を成熟させること、もうひとつは社会構造の「モノと場の高年化」の達成というふたつの成熟の必要性を指摘した。指摘するとともに参加を要請した。
ふたつの成熟にむかってどこまで参加するかは随意であるが、その活動に身を投じることで、かけがえのない高年期の人生に果断な選択をすることになる。そのために共有するであろう「高年化活動への三つの契機」を抽出して、ここに示しておくことにしたい。
(一)「人生の第三期」をすごす現役としての高年者意識の確立
(二)家庭・職域・地域生活圏といった暮らしの場の高年化対応
(三)風土と伝統に配慮した地域特性を持つまちづくりへの参加(地域の「高年者の生活圏」や地域の「高年者の文化圏」を形成し、発展させる)
 の三つである。 
「高年期現役人生」
丈人モデル型の機能や能力」
(一)は、だれのためでもない。みずからの高年期の人生を滞らせることなく、日また一日を充実したものにする基本である。五〇歳をすぎたころから、「高年者意識」を立てて「人生の第三期」の将来を見据える。その上で自己目標を見定めて達成をめざす。「第二の人生」とか「余生」ではなく、それ自体が「高年期現役人生」として体感されるものにするために丈人意識は有効に働くだろう。いわゆる高年期を生きる「尊厳」は、その上に成り立つ。
(二)は、高齢とともに衰える「老化型の機能や能力」を補助するばかりではなく、高年期を迎えてなお発展、熟達、深化しつづける「丈人モデル型の機能や能力」を支援する「高年化用品」の供給者となり需要者となって、「モノの高年化」のために努めること。また高年者が楽しんで過ごすことができる「場の高年化」をさまざまに進めること。お互いに「人生の第三期」が味わい深くおもしろいと実感しあえるのが、高年化時代の「構造改革」の成果といえるものではないか。
「わたしは高年期を丈人として生きたよのう」と納得して瞑目する。そういう骨太の人生を送る人びとの力によって、高年者同士をつなぐ「高年者(シニア)生活圏」や「高年者(シニア)文化圏」の基礎が着実に形づくられていくことになる。 
「職域の高年化」
「地域の高年化」
(三)は地道な活動の広がりによる広域での成果である。「高年化」時代を迎えて、職域でも地域生活圏でも、企業や団体や自治体は高年化に対応する態勢、つまり「職域の高年化」や「地域の高年化」へむかう成員の活動を支援する立場にあっていいはずなのに、職場のふんいきも社会の風潮もむしろ逆ではないか。そんなよじれた現実の中ででも、「高年化社会」を体現して「人生の第三期の現役にいる」という自覚を持ちつづけることが肝要である。
個人の暮らしにおいて「人生の第三期にいる」という意識をもつということは、職域や地域社会でのありようにおいて、「青少年」「中年」「高年」という三つの世代の存在を常に「多重標準」として意識して対応するということである。
これまで共有してきた生活環境はそれとして、青少年が将来の可能性を求めてのびのびと育つ「青少年期のステージ」、国際化のなかで苦闘している中年世代がさまざまな場面で十分に実力を発揮できる「中年期のステージ」、そして高年者が経験と個性を活かして後半生を自在にすごすことができる「高年期のステージ」という三つの世代のための「三つのステージ化」を実現することになる。
(三)にとって、わが国が幸運といえるのは、戦後の民主主義の根つきを証明してみせた「六○年安保闘争」や「七○年学園紛争」といった噴出期をふくむ草の根の市民・大衆運動に、若い日に参加したり周辺にいて体験し、その後の人生経験をふまえて柔軟な思考と行動を自得した多くのアクティブ・シニアを有していることだ。人材にはこと欠かない。若い日に「社会参加(アンガージュマン)」して大地を揺るがせた熱い心を呼び覚まして動く。
いま高年期に入って、新たな「高年化社会」の形成の場に投じる時、熟成した人びとの活動によって各地に涌くようにして形づくられる地域社会の姿を、心おきなく「成熟にむかう地域社会」と呼んでいいのではないか。二〇二〇年ころには、その総和としての「成熟した日本社会」に出会うことができるだろう。 
#国際評価に耐える日本型モデル
*・*高年期の「尊厳」を守りぬく*・* 
「善く戦う者は怒らず」
「恕と尊厳」
人世のありようを知りつくした東洋の先人は、一個の人間としては人生がかかる、人類にとっては行方がかかる至言として、「善く戦う者は怒らず」といい切った。
怒りによる戦いによって勝利しても、ほんとうの勝利者にはなれず、新たな怒りを呼ぶだけだということは、だれもが体験として知っていることだ。ひとときの鎮静は得られても、紛争の解決にはならない。では紛争の解決策として、ほんとうの成果を得る極意は何か。怒りでなくて何によって戦うのか。「怒」(いかり、憤懣)ではなく「恕」(ゆるし、思いやり、憂慮)だというのが、ここでの実践者としての覚悟である。
漢字というものの不思議な存在感がここにもある。このふたつの字をよく見てほしい。下に心のついたよく似た文字は、人間の「心」のどこか同じところから発するものなのであろう。だから「怒」(「怨」も)と「恕」とは心の中の「多重標準」ということができる。「怒」(いかり)を発しようとするとき、人は「怒」(いかり)ではなく「恕」(ゆるし)として発することができる。漢字をつくり用いてきた先人はそう理解してきたにちがいない。
終章で人生の高年期の「尊厳」(とうとさ)をいおうとして、「怒」(いかり)から始まったのは、そこに一気にいけないからだ。いまや高年者は「憤懣」を抑えきれないところにいるからである。「恕」については、孔子が弟子の子貢から「一言にしてもって終身これを行うべきもの有りや」と問われたとき、「それ恕か。人の欲せざるところを人に施すことなかれ」と答えている。卒寿期にある「明治丈人」の日野原重明さんも「恕」への思いを述べていた。
本稿はここでは「恕」を「憤懣」を鎮める「憂慮によるゆるし」と読むことにしたい。わが心のうちの「憤懣」を「憂慮」に転ずる心の働きを、ここでは「尊厳」と呼びたい。お互いがこの一〇年ばかりを傍観してやりすごしてきた自責の思いを噛みしめ、切迫した深い「憂慮」とともに動く。一人ひとりの「憤懣」をみんなの「憂慮」に変えて、五〇〇〇万人の高年者が高年期を、「恕と尊厳」を守りぬいて暮らすなら、舞台は回るだろう。人生終章の舞台を、みずから「高年化社会」の主役として「昭和丈人」を演じきる。演じるというのは、高年者としての自分を見ている自分の目を意識するということである。 
「友人フォルダ(玉壺)」
「わがシニア文化圏」
「高年化社会」の主役として「昭和丈人」を演じきるといっても特別なことをはじめようというわけではない。晴れた日には日課として一時間ばかり街に出ようというほどのことである。
街に出て、高年者同士ならだれとも快く気候のあいさつを交わし、お互いの健康を案じあい、愉快に今日を語り合い、先輩の姿を思い起こし、親元を離れた子どもたちの無事を願い、わがまちの将来を思う。お店では新しい「高年化用品」の情報を得て、ていねいな手造りの地産品の手触りを楽しむ。ここは現今の若者たちの風気には染まらない。子どものころに見た父母たちがそうしていたように、ひとつ上の境地を共有することでいい。
雨の日には家にいて、「旧雨今雨」の友人たちに想いをめぐらせ、訪れを待つ。やれやれと「マイ・チェア」に収まって、しばし音楽に耳を傾け、書物から先人の叡智を得る。さてそれからウエブ・サイトを開いて新情報をゲットし、ネット仲間とメール歓談を楽しむ。
「一片の氷心玉壺に在り」というのは、かけがえのない友に捧げることばだが、「友人フォルダ(玉壺)」の中に、氷のような澄明な心で終生つきあえる友の名が何人も存在しており、さらに一片また一片と増えていくのは愉快なことである。内にも外にも「高年者同士のための暮らしの場」をさまざまに構成し、コクのある「わがシニア文化圏」をこしらえる。そして高年者の生活を危うくする営為には「憂慮」の息づかいを合わせて対抗する。
いま高年者の生活圏を危うくする火の粉は、超八〇〇兆円まで膨れあがってなお増勢のとまらない財政赤字から飛んでくる。ほかに術なくて、高年者がみずから「粒々辛苦」してつくりあげてきた暮らしの基盤が揺らぐほどに、国は寡黙な高年者にシワヨセを押しつけ出したからだ。高年者は何よりも存在を軽視されていることに対して、怒りを鎮めて「憂慮」の輪を広めなければならない。 
「世界一の長寿国」
「昭和生まれの丈人力」
一国の首相を小論考の狭い行数のなかであげつらうことは避けるべきだから、本稿の立場からの指摘ひとつに止めるが、新世紀を迎えて首相となった小泉純一郎さんは、「自鳴得意」の姿勢を貫きつつ、「構造改革なくして日本の再生と発展もない」といいつづけた。
成し遂げた小泉流の構造改革は「郵政民営化」が象徴的作業となったが、時代の風をとらえたとはいいながら、改革のK点はせいぜいが硬直化した国家機構にかかわる改革までであった。それは内向きなものであって、世論が求めていた外向きの社会改革には及ばず、「高年化社会」の形成に関しては、新世紀になっても手つかずのままだったのである。
改革の主体者である高年者に参加を呼びかけることをせずには「社会の高年化」は決して進まない。だから小泉改革は高年者の期待とは別の方向に動いてきた。「『世界一の長寿国』を喜ぶ」といいながら、次には「高齢者は年金・医療・介護という社会保障の対象」と跳んでしまう。かつて厚生大臣をつとめた小泉さんは旧来の「厚生族」の視点を越えられなかった。静かで目立たない多数派である高年有権者の信頼をつなぎ止めるためには、その存在と動向を正確に把握し、信頼して「参加」を呼びかけなければならない時に、だれの目にも際立つキャリア女性議員と若手議員に国民の目をそらせてしまったのである。
ここで五〇〇〇万人の高年者は「憂慮」の息づかいをそろえよう。てんでんばらばらに怒っていたのでは何も起こらないし、ほんとうの戦いは怒りによって行うものではないのだから。ここは静かに、歴史的役割をわけあって、昭和生まれのみんなが「昭和生まれの丈人力」を惜しみなく発揮して、高年者としての「尊厳」を守りぬいて生きることで、「日本高年化社会」の形成に投じること。それぞれが過ごしやすいステージを紡ぎだすようにして現出し、後人のスタンディング・オベイション(立ち上がっての喝采)に送られて歴史のなかへと去る。それなくして何の人生か。
 *・*未萌の「高年化社会」に賭す*・* 
「家庭内の高年化」
ここであらためて「家庭内の高年化」について整理しておこう。
家庭は「高年化社会」形成のコア(核)であり、ここでの成立がすべての基礎である。さまざまな角度からおこなわれるが、とりたてて特別なことから始める必要はない。
すでに記してきたように、時節の基本を一年一二カ月に重ねて「四季三カ月」として、「地域の四季」の変化に応じた行事を日々ていねいに迎えてすごす。一日の基本にはこれも二四時間に対して三時間ごとに刻んだ「八方時刻」を多重化して採り入れる。明け方から夜までの活動を三時間ごとに分割してムリなく織り込んで暮らしにリズムをつくる。何より家庭内の三世代がそれぞれのプライバシーを納得しあいながら着実に実現する。
「マイ・チェア」から食器まで愛用品を配備して動線で結んで「人生の第三期」を心地よくすごす「わが家の高年期のステージ」を構成する。一生ものの良質な国産の「高年化用品」をところどころに置いて「パパのもの」の存在感を示す。
衣は季節に応じて「和装」を楽しみ、時には「和装街着」で街に繰り出す。高年者同士が街の「四季型中心街」で「丈人登場!」といった元気な姿で談論する。
食は「男子必厨」を志して、長寿のための自家薬膳料理や四季旬菜をものにする。
住は「四季型(通風)住宅」を指向して、四季のめぐりに対応する暮らしをする。できるなら「三世代同等同居住宅」に住んで娘家族を支援し、孫たちの養育にも当たる。知識、経験、健康、資産などを有効に用いながら、自己目標の達成にむかって過ごし、厳選した友人たちとの「シニア文化圏」で交流を楽しみ、ボランティア活動にも積極的に参加する・・などなど。
「職域の高年化」
ここであらためて「職域の高年化」について整理しておこう。
職域では、「企業の高年化」つまり「製品の高年化」と「職場の高年化」を推進する。
来歴に鑑みて、国内の高年需要者層への新しい製品化が見込める企業から「社内ミドル化」と「社内シニア化」を指向する。この「新・終身雇用」のもとで、成員がそれぞれの立場で和気藹々として働ける社風を醸成する。国際競争に直面している「社内ミドル化部門」の中年社員を支援・督励するとともに、生活用品の途上国製品化に違和感をもつ国内の高年者層が納得する「優良高年化製品」を企画し、さらには将来の輸出商品として有望な日本製「高年化製品」の開発も視野にいれて推進する。「高年社員・社友会議」を成立させ、同業他社と競いつつ業界の存在感を明確にする。各社のベテラン社員と終身の愛社意識をもつ引退社友が、高年者としての生活感覚を反映した良質な「高年化用品」を考案し提案する。企業の永続的な発展と重ね合わせて、新入社員が生涯にわたって愛社意識を保てるような「新・終身雇用」や「新・年功序列」の規定を取り入れ、また医療・厚生施設の充実と保持にも努める・・などなど。 
地域生活圏の高年化
地域社会での「地域生活圏の高年化」についてもここで整理しておこう。
高年世代としての経験と構想力を発揮して、地域の「青少年」「中年」用のステージに加えて「高年者」用に特化した「ステージ」の形成に努める。専門領域をもつ人びとが参加した「地域シニア会議」が高年者の課題を話し合うとともに、「三世代会議」をつうじて子どもたちに地域文化・物産を伝承する。とくに子育て期の女性を支援し、さらには内外の姉妹・友好都市からやってきた青年・高年者に「国際交流員」として応対する。
地域の中心街には日課として出向いて、高年者仲間とともに地域の「四季型中心街」の活性化を担う。自治体の「高年(生涯)大学校」や地元大学の「シニア大学院」で、高年期の暮らしのためのスキル・アップを心がける。地域の四季をたいせつにし、地域の「自然環境」や「生活・伝統環境」を守る活動に参加する。伝承として残る手づくり技術を活かした「高年化地域特産品」の創出活動の先駆けをする。そして「高年化用品展示会」や「昭和の日」の行事にも積極的に参加する・・などなど。 
「一〇・一国際高齢者の日」
国際的には「一〇・一国際高齢者の日」に一年の成果を公表し、世界に発信する。
国際的といっても、とくに海外の目を意識する必要はない。日々の活動による「高年化社会」への参加と過程そのものが、ノウハウとして国際標準のひとつになるのだから。
前世紀に体験した国家同士による戦争の惨禍を負の資産として、「平和の絆」として提携した姉妹・友好都市との交流から、手づくり技術を生かしたアイデアを得て、途上国製品のひとつ上のレベルの日用品を考案することで、「国際平和の証しとしての高年化」という次の目標に備える。日本の高年者が獲得した「モノと場の高年化」に関するノウハウは、海外の高年者の関心を引くとともに、優れた日本製「高年化製品」への需要を呼び起こし、国際的な「高年者製品経済圏」の形成に先駆的な役割を果たす。「国際高齢者の日」には、さまざまな分野の成果を公表する。そして「一生に一度はいってみたい日本」を現出する・・などなど。 
「昭和中期丈人層」
「昭和前期丈人層」
史上にまれな「少子・高齢化」時代に遭遇した「昭和生まれの高年者」としての歴史的役割は、なるべく「ケア」を受けないですむ「自立」の姿勢を保持しながら一日でも長く生きることである。「からだ・こころざし・ふるまい」という三つの「いのちの多重標準」をつねに意識して、「ひとりの高年化」を体現しながら「高年化社会」を安定させるのが、「昭和丈人層」の歴史的役割なのだ。
国政の担当者から発せられた「痛みをともなう改革を」ということになれば、実際には弱者の犠牲を前提とせざるをえないし、成果はその上にしか成り立たない。失政のはてのそんな愚直な訴えを聞き、そんなたわけた社会をつくるために高年者は苦闘してきたのではない。
「昭和丈人」のみなさんなら、怒りをこらえて憂慮(恕)の声を発するだろう。
「国民自身の『痛みをともなわない改革』によって、日本高年化社会の形成は着々となされることとなるのだ」と。そして行動派の高年者であるみなさんが、たしかな高年者意識を持って過ごした「第三期の人生」での総和が、「高年化社会」の日本型モデルとして、近い将来には国際的な評価を受け、次世代の資産になる信頼をかちうるにちがいない。
二〇二〇年に、国際的な注目をあびて高年期を迎えているのは、だれだろう。
「敗戦」(一九四五・昭和二〇年)の年から「エキスポ70・大阪万博」(一九七〇・昭和四五年)の年の間に生まれた「昭和中期丈人層」である人びと。「日本らしさ」を活かして成し遂げた成果を、参観のため来日した外国人高年者に示すのは愉快な役割ではないか。そして先駆者として力を尽くした「昭和前期丈人層」であるみなさんの輝かしい体験記とともに、二〇二〇年に、書棚にあってその成果を見定めたいというのが、本稿の実現目標2020である。 
*・*春爛漫の「(仮)シルバー・ウイーク」*・*            
「敬老の日」
「老人の日」
きょうはなんの祝日だったっけ。二○〇三年からは九月一五日であった「敬老の日」は、九月第三月曜日に変更されたからなおのこと、実感に乏しい祝日となった。
「ちょっと待ってください。わたしたちは少ない予算で必死にやっているのですから」
先回りした善良な官僚の悲鳴にも似た反論が聞こえる。社会に尽くしてきた功労者として高齢者をねぎらい、顕彰することは後進の者の当然のつとめ。お年寄りを敬いいたわる日があることは・・。
 べつに「なくても良い」といっているわけではない。ねぎらわれ、いたわられる「高齢弱者」(被扶養者)を設定し、善意を率直に表現できる「敬老の日」があることは、だれもが納得していることである。前年度プラスの予算を確保して、熱心に「敬老行事」をすすめてきたのは、だれがみても良いことである。しかし、官製の敬老には納まらない多数の高年者(予算に関係ない人びと)から「敬老の日」は次第に遠くなってしまったのではないか。年々に「敬老行事」を予算化することでしごとを固定化し、そこから先の発想の広がりと可能性を殺いできた。
現行の爽やかな秋の「敬老の日」は、公的にでなければできない高齢者への施策を中心にした善意の日として、「老人の日」(九月一五日)を合わせ支えながら継続する。それとともに、一○月一日の「国際高齢者の日」は、国際的な行事の日として、「国際高齢者交流会議」といった海外の高年者が参加する行事の開催にあてる。そうすることで高齢化先進国であるわが国の活動が、国内ばかりか国際的にも関心を呼ぶことになる。 
「昭和の日」
「(仮)高年者週間=シルバー・ウイーク」
たとえば春ののどかな一日、「こどもの日」や「母の日」と同じように、高齢者が高齢期の人生をどう切り開いているかを、年々のその日に確認する日、「高年者の日」があっていい。
「いい時代に、いい人たちと出会った」
というのは、脇役の名優笠智衆さんの残したことばだが、そう率直に言って、終生を脇役として地味に生きてきたお互いを賛嘆しあう日があっていい。後人にねぎらわれるのではなく、後進の者を安心させ、激励を与え、将来の目標になるような健丈な高齢者のための、「(仮)高年者の日=シニア・デー」(四月二八日)を設定しようというのは、出版人Mさんの着想である。歴年で祝うには、季節もよく活動するにもよく、記憶するにもよい日がいい。早めに一日を確保しておくことにしよう。
翌四月二九日が〇七年からは「みどりの日」を改めて「昭和の日」にかわった。丸ごと高齢者のための日とはいかないだろうが、「昭和の日」もまた「昭和の人びと」のための日とすれば、高齢者が二日間にわたって主役をつとめることになる。家庭で、屋外で、津々浦々で、高齢者が元気な姿を示しえたら愉快ではないか。
そして五月五日の「こどもの日」までを視野にいれて、世代をつなぐ活動の成果を公表すれば、いきいきとした厚みを増すことになるだろう。さまざまな「J(ジュニア)+S(シニア)会議」や「三世代(JMS)会議」が、五月五日までの間に開かれることになる。
たとえば日本の誇る「国際人シニア」である小沢征爾さんが主宰している「ジュニアのための音楽塾」のような、熟達者と新進の若者が芸術の高いレベルの成果に挑戦するような世代をつなぐ活動は示唆的である。また「憲法記念日」(五月三日)での大江健三郎さんのような作家と子どもたちとの定点対話は、憲法をテーマに、表現力によって深く伝え、想像力によって理解を堅固にすることの大切さを知る出会いとなるだろう。
春の「ゴールデン・ウイーク」に先がけて、高齢者の存在感を示す一週間が「(仮)高年者週間=シルバー・ウイーク」である。「高年齢者週間=シルバー・ウイーク」として、みんなで勝手気ままに高齢期の成果を示すステージを作りあげていくのもいい。
行事はさまざま。各地・各分野で、技能や芸能を磨きあげ、経験を積み、知識を深めてきた人びとを、企業や民間団体が紹介する。代々に引き継がれてきた伝統芸能や技術、話芸、ライフワークを追い続けている研究者の成果を実演・講演する。高齢者スポーツ大会、健丈度・活動能力診断、ウオークラリー、金婚・銀婚・賀寿を祝う会、そして全国や地域の「高年齢者用品展示会」・・などなど。そのために高齢者は健丈であること。 
平均寿命世界一」
「国別健康寿命世界一」
世界保健機構(WHO)が「国別健康寿命」を初めて発表した(二○○○年六月)。「平均寿命」が年齢ごとの死亡率から計算されるのに対して、「健康寿命」は平均してどの年齢まで健康で暮らしていけるかを示すもの。
その計算式によると、一九一調査国のうち日本は「平均寿命」では八○・九歳で「平均寿命世界一」だったが、それより六・四年短いものの七四・五歳(男七一・九歳、女七七・二歳)で「国別健康寿命世界一」だった。ちなみに二位はオーストラリアで七三・二歳、三位はフランスで七三・一歳。インドは五三・二歳で、アフリカ諸国の中には三〇歳台というところも少なくない。長寿世界一の「日本シニア」が、いよいよ注目されることになる。 
 # 平和の証しとしての「日本高年化社会」
*・*何もしない「国際高齢者の日」*・* 
「国際高齢者年」
新世紀に迎える地球規模での「高齢化社会」を予測して、国連が一九九九年を「国際高齢者年」(International Year of Older Persons)と定め、そのテーマを「すべての世代のための社会をめざして」としたのは一九九二年のことだった。
世紀末近くにそんなことがあったことを知っている高年者がどれほどいるだろうか。善意の提唱者が、テーマを「すべての世代のための社会をめざして」としたのは、世代を越えた人びと(エイジレス)の賛同と参加を期待したためであったろう。しかし「すべての」という呼びかけは、それが提唱者の善意の期待からであるとしても、活動の主体者をあいまいにしてしまうことは否めない。実際には活動を強める力とはならないのである。
活動の中心となるのは、世紀の初頭に高年期を迎える人びとであり、最初に迎えることになる先進諸国であり、なかでも大型で最速で進む「日本」が台風の目となる立場にある。そういう明確で強烈なメッセージが、九〇年代から新世紀にかけてのこの国に、警鐘にも似た強い風圧として横なぐりに叩きつけられていれば、いまこの国で高年期を迎えている人びとの「この一〇年」の取り組み方も、その結果も大いに異なっていたと推測されるのである。
そう主張した人びとがいた。が、そうはならなかった。「国連中心」といいながら、「分担金は多く実践活動は少なく」の実態がここにもあったのである。 
「国際高齢者の日」
「高齢者のための国連五原則」
各国とくに先進国から新世紀に迎えることになる「高齢化社会」にむかってスムーズに移行できるよう、国連から次々に取り組みが提案され、九〇年代を通じた国際的テーマとなっていたのである。 
毎年の一〇月一日を、「国際高齢者の日」と、国連が定めたのが九○年であり、運動の展開への願いを込めて、
自立(independence)
参加(participation) 
ケア(care)
自己実現(self-fulfilment) 
尊厳(dignity)
という五つの「高齢者のための国連原則」を採択したのが九一年であり、そして「高齢者に関する宣言」とともに九九年を「国際高齢者年」と決定したのが九二年のことだった。わが国も総務庁を中心に各自治体も参加して全国的な活動を展開した。現在の高連協(高齢社会NGO連携協議会)が結成されたのもこの時である。それに先立つ九五年には「高齢社会対策基本法」も制定されている。だれあろう、毎年一○月一日の「国際高齢者の日」に、他国に先んじて実質を与えるのは、この国の高年者の役割だったのである。 
新世紀ふたつの課題」
「高齢化国際人」
二一世紀初頭の国際的な潮流は、先進諸国が先行して迎える高齢化に対処する「社会のグローバリゼーション」であり、アメリカ一極下で開発途上国が中心になって推進する「経済のグローバリゼーション」は新たな時流であり、アジアで唯一の先進国としてのわが国が取り組む「新世紀ふたつの課題」だったのである。この間、ヨーロッパ諸国はソビエト崩壊後の混乱期にあったからなおのこと、わが国がこの新世紀初頭のふたつの国際的テーマを引き受けて総力をあげて立ち向かうポジションにあったことは確かである。 
とくに高齢化へのわが国の対応がそうならなかったからといって、よその国からとやかく責められることではなかった。しかし、知らなかったからといって許されないのが日本の高年者自身なのである。
一九九九年の「国際高齢者年」をひとつの契機として、新世紀へむかって「日本高年化社会」への構想が提案され、高年化対応の具体的な取り組みが九〇年代から新世紀にかけて次々になされていたなら、高年者意識もまた広く醸成されていたことだろう。自治体によっては先駆的に「高齢者憲章」を定めたところもあったのだったが、全国的な活動にまでは進まなかった。団体でも個人でも国連の高齢者原則の五つすべてでもひとつでも意識して活動することが「高齢化国際人」なのである。
九〇年代を通じて、高齢者みんなが「わたしの高齢期」を意識し、みずからの暮らしを充足させる家庭や地域生活圏の「モノと場」の高年化のために活動し、国産の「高年化用品」や用具、設備や施設を要望し実現させていたならば、企業や組織は「高年化対応のリストラ」にも努めていたことだろう。そして新世紀を迎えてさらに着実に推進されていたなら、わが国のとりわけ高齢者があらゆる局面でシワヨセを受けてこれほどの苦難を強いられることにはならなかったのでる。 
「高齢者憲章」
「高齢化に関する世界会議」
一九九九年、この国の「国際高齢者年」は主役不在のまま過ぎていった。国も自治体も音頭をとったが、肝心の高齢者自身がわがこととして理解しなかったのである。国際的に先頭に立つべきわが国の活動は際立つこともなく、総務庁(当時)を中心に取り組まれ、高齢者関連団体NGO(非政府組織)と連繋しておこなわれ、淡々と過ぎていった。高齢者年NGO連絡協議会による「高齢者憲章」(補注)が、九九年九月に発表されている。 
二〇〇九年は一〇周年に当たった。それすら知っている高年者は少ないだろう。
国際的な活動としては二〇年ぶり二〇〇二年にマドリッドで「第二回高齢化に関する世界会議」(第一回は八二年にウイーンで)が開かれた。「高齢化に関する国際行動計画2002」を採択し、世界の多くの地域で平均余命が伸びたことを人類の大きな成果とし、世界的に前例のない人口転換が生じていること、二〇五〇年までに六〇歳以上の人口が約二〇億人に増加し、人口比率では二一%に倍増する見通しであり、すべての国に対して、「高齢者が潜在力を発揮して生活のあらゆる側面に参加する」ことができるような機会の拡大を要請した。
この一〇年、この国に世界の高年者にむかって誇らしく発信できるような「高齢化社会のグランド・デザイン」などなかったことは、すでに何度も指摘したとおりである。 
*・*「日本高齢社会」は世界平和へのメッセージ*・*       
「平和と非暴力」
「文明間の対話」
二一世紀の国際社会が、なお平和裏に推移するかどうかはわからない。国連は、新世紀が「平和と非暴力」にむかうことを願って、「文明間の対話」を課題とし、二〇〇一年を「文明間の対話年」としたのであった。ところがそれに逆らうように、ニューヨークの「九・一一テロ事件」、そして〇二年三月の「イラク戦争」を引き起こし、報復テロの恐怖が世界を覆うことになってしまっている。アメリカ国民は初めて身近に戦争の恐怖を実感したことになる。
そんな中で、日本は「人道支援」という名目で自衛隊を海外の戦場へ送り出した。アメリカの軍事戦略に沿って、アメリカとともに国際的には孤立化の危険をはらむ道を選び、新たな「有事の時代」へと動き出した。そのことは、為政者がどういいつくろってもまぎれようもない事実であり、「憂慮」すべき事態なのである。それでも一兵も失うことなく、現地の人びとに受け入れられて作業を遂行できたのは、「平和憲法」をもつ国からの「自衛隊」だったからであり、イラクはもちろん国際的にもそう評価されていることの実証例となったのである。
世界をまきこんだ未曾有の戦乱期を経て得た平和期がつづいて半世紀あまり。その間の日本の「平和」が、アメリカの軍事力の傘ととくに沖縄の人びとの重い負担に頼ってきたこともまたまぎれようもない経緯であるが、国民の一貫した強い意志を置いてほかにない、そしてその向こうには、戦場となったアジアの国々とそこに暮らしている人びとの戦乱と戦後の経緯があったことを忘れてはならない。いまグローバル化という時流に乗って、アジアの人びとが日本のような平和のもとでの豊かな暮らしを夢みて過ごしてきていま実現している姿を、先の戦乱の犠牲者を思いながら戦後の復興に身を挺して尽力してくれたわが国の先人の姿に重ねて、アジアの将来のために心からの謝意をささげるべき時なのである。 
「ものづくりに優れた国民」
「和を愛する国民」

一九四五年に敗戦国となって以後の日本が、半世紀をかけて努めて獲得した国際的な評判はふたつある。まずは平和裏に、みんなが等しく享受できる良質の製品を、ユーザーの利便性を思いつつ力を合わせてつくることで経済復興を成し遂げた「品質の優れた製品をつくる産業国」であり、「ものづくりに優れた国民」としてである。そしてもうひとつは、戦禍への道をふたたびたどらないために、被害者であり加害者であった双方の立場を包摂して国際社会に「恒久平和」を宣した「日本国憲法」をもつ「和を愛する国民」であることである。かつて欧米列強国と覇権を競ってアジアの隣国に被害をもたらした加害者となったことを反省し、一方で原爆による唯一の被爆被害者として近代兵器の脅威を経験して、「戦争放棄」をきちっと守りつづけてきた「平和に徹する国」であり、それを守りつづけるとともに敗戦の焦土から立ち上がって粒々辛苦して働き、平和裏にみんなが等しく享受しあえる繁栄を築いてきた「戦後日本人」のたゆまぬ営為によるものであった。したがって、そのプロセスは「人類標準=ヒューマン・スタンダード」となりうるものである。日本に対するふたつの国際評価、「品質のいい日本製品」と「平和を愛好する品格のある日本人」像は、半世紀の積み上げによって作られた貴重なものである。 

「日本国憲法」
「日本高齢社会」
平和な時代が長くつづくことを、先人は、「戴白の老も干戈を見ず」(髪の白くなった老人さえ戦争を知らない)といって、長い平和の時期をすごすことができた幸運を伝えている。と同時にそれはまた、戦乱の不幸が途絶えたことがなく、人間同士の対立の解決がいかに多く武力によってなされてきたかを思わせる。人類にとっての最重要課題である多重標準は「戦争」と「平和」なのだ。先の大戦から半世紀余り、この国の戦争を知っている人びとの髪は、大方は白くなった。そして日本は「有事に動く」という意味では「干戈を見ず」に過ごしてきた。二〇世紀の「戦争の惨禍」を先人が引き受けてくれたことで得た貴重な平和の期間。
その平和期を実感しながら「戴白の老」となった高齢者が、自分たちの手でつくりあげた生活環境で憩い、往時を顧みて衣食住にもほぼ満ち足りている姿がある。「世界一の長寿国」であり、長寿者が敬愛されている姿こそ、なにより世界に誇っていい「平和の証し」なのである。理念としての「日本国憲法」(とくに九条)を掲げつづけるとともに、現実の「日本高齢社会」の形成が、ふたつながら新世紀初頭の国際社会でなすべき日本の貢献なのである。 
「世界平和へのメッセージ」
「平和憲法施行一〇〇年記念」
「恒久平和」を掲げた日本国憲法は、「原子爆弾」という人類をも破滅させる可能性をもつ武器が登場した先の大戦で亡くなった人びとへの「哀悼のモニュメント」(歴史的記念碑)であり、とくにその九条は先人の心火によって燃えつづけている遺言の灯ともいうべきものである。半世紀を越え、新世紀を迎えたいま、その経緯を確認し、党派性を排して「衆議」して引き継ぐべき貴重な文化遺産である。したがって「そのまま残すべきもの」である。
国際紛争は絶えることなくつづき、世界の軍事技術は仮想敵国を想定しながら自己増殖をつづける。それは朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争で、その恐るべき一端をみせつけた。局地戦はいまも絶え間なくつづいている。そんな悪夢を押し止めるのが、大戦後に平和を託されて生まれたベビーブーマーである「平和団塊の世代」の人びとを中心にして体現する「日本高齢社会」なのである。それがそのまま「世界平和へのメッセージ」となることに希望がある。
先の大戦によって被害者となり加害者となるに至った戦争の惨禍への経緯を繰り返さないために掲げた「日本国憲法」を改変する能力も立場もないことを、想像力の深度も構想力の精度も足りない現代の若手政治家に知らさねばなるまい。日本がどういうプロセスを踏んできたかの論議を尽くすにはいい機会だが、自分が納得できるレベルの認識で改憲を実行しようとすれば、必ず過ちをおかすことになる。
憲法は今ある人びとのためのものではあるが、今ある人びとのものではない。
「自主憲法」と称して根幹を傷つけるとすれば、先人にも後人に対しても、これほど恥ずべき行為はない。いま確認すべきことは、憲法の条文の文言の改変をおこなうことではなく、条文の裏に燃えつづけている「先人の心火」を感得し、その地点から戦争の惨禍を想起する想像力を培うことである。若手政治家が謙虚になすべきことは、平和を希求する憲法の趣意を「国際世論」とするためになお努めて、四〇年ののちに「平和憲法施行一〇〇年記念」を国際平和のもとで祝えるように保ちつづけることである。  国会での議論がどのようになろうとも、最後に国民投票での決定権をもつ国民として、冷静にしかし先人の心意を確かめながら見守りつづけることにしよう。
国際的に先行してたどる「日本高年化社会」形成への歩みを、「世界平和へのメーセージ」として対置すること。天年(天寿)を全うする一人ひとりの高年者の日また一日の生命の灯を、戦争への兆しがあるかぎりひたすらに、歴史を貫いて流れる「不戦不争の叡智」に託して「戦争放棄・恒久平和」の明かりとして灯しつづけること。「日本国憲法」が放つ不戦不争の明かりが途絶えたとき、わが国はまた半世紀を積んで得た国際的評価を閉ざし、歴史的な輝きを失うことになる。耳をすまして過ぎこし百年の声を聞き、目を見開いて来たるべき百年を見透かせば、おのずと明瞭なことである。 
*・*・「寿終正寝」(天寿)を全うする*・* 
「不戦の武力」
「能戦の文化力」
国民が穏やかに生き、天年(天寿)を全うできる「寿終正寝」を願わない国などない。
国際的に「高年化社会」の姿を競うことが、二一世紀が「平和の世紀」であることの証しとなる。だから世界の高年者がわが国に期待するものは、紛争地に支援に向かう部隊よりは「恒久平和」を掲げた憲法の下での「日本高年化社会」の実現であり、その形成へいたるプロセスである。古来わが国は「君子の国」として、「譲るを好みて争わず」と伝えられてきた。とはいえ「自衛の力」は独立国であるかぎり、可能な範囲で他に劣らない質を自ら保持して常備しないわけにはいかない。常日ごろ訓練によって養った、他のいかなる国にも依存しない自衛のための「不戦の武力」と、常日ごろ鍛えあげて相手をねじ伏せるほどの外交のための「能戦の文化力」と、それを支える「経済力(民力)」とは、常に整え備えるべき三位一体の「国民力」なのだから。
個人としては、歴史にまれな平和の時代に、「日本高年化社会」を構成するひとりとして加わり、みずからが充足して長く生き天年(天寿)を全うすることが、そのまま国際的な信頼を引き継ぐ「平和へのメッセージ」となることを確信することである。そして生涯の最後までお互いを支えあうことが主体者としての「現代丈人の証し」ともなる。
$$[補注]
*「高齢者憲章」
わが国はこの半世紀の間にめざましく発展し、国際的にも経済大国といわれるまでになりました。国民の生活水準や保健医療も向上し、いまや人生八○年、世界一の長寿国となっています。
しかしその一方で人口の少子高齢化が急速に進んでおり、二一世紀の初頭には四人に一人が六五歳の超高齢社会になると予測されています。私たちの身のまわりでは、これまでにない多くの問題が表面化しています。とくに、高齢者を「社会の被扶養者」と位置づけている制度や慣習が多く、現在の高齢者の意識や生活行動にそぐわない社会のありようが、問題を生んでいるといえます。介護を必要とする高齢者も少なくないのは事実ですが、一般には高齢者のほとんどは健康で、就労やボランティアの社会参加、若い世代との交流など、生きがいのある生活を望んでいます。
こうしたわが国の状況の中で、高齢者問題にたずさわる関係団体(NGO)は、国際高齢者年にあたり、「高齢者年NGO連絡協議会」(高連協)を結成し、「すべての世代でつくろう ふれあい社会」をスローガンに活動を展開しています。高連協は、国連が提示している「自立、参加、ケア、自己実現、尊厳」の高齢者のための五原則に、高齢者自身の「社会的役割」を加えたキーワードをもって、すべての世代が平和で生きがいある生活を追求できる社会、年齢による差別のないエイジレス社会の創造をめざしています。
そこで私たち高連協は、この運動の基本的指針を「高齢者憲章」としてまとめ、ここに提唱します。
[高齢者憲章 提言]
一 尊厳 個人の尊厳は他の世代の人々と同様に高齢者についても重んじられる。
二 社会参加 高齢者が生き生きと暮らすことは、すべての世代の人々が安心して暮らせる社会をつくるために不可欠である。そのためには、高齢者の能力を活用する事業や職種を社会全体で開発するなど、高齢者が意欲を持って社会参加できる機会を広げることが望まれる。
三 社会貢献 すべての世代にとって住みよい社会をつくるために、高齢者は若い世代と交流しつつ、その経験を生かして社会福祉、環境整備、コミュニティづくり、文化の伝承、国際交流などの社会貢献活動に参加する。
四 健康づくり 高齢者は、地域社会において充実感を持って生きることができるよう、自らの身体的機能の維持に努める。そのために、保健センターや健康づくりネットワークなど、地域における支援の仕組みを整備することが望まれる。
五 まちづくり 身体的能力や生活能力がいかに異なっていようとも、安心して暮らせる社会にするために、バリアのない住宅やまちをつくることを公共事業の重要なテーマとすることが望まれる。また、すべての人々は、心のバリアを取り払い、地域社会において助け合って生きるよう努める。
六 社会保障制度 年金、医療保険、介護保険などの社会保障の制度は、国民の生涯にかかわる制度として確立され、これによりすべての世代が安心して暮らせる社会にすることが必要である。これらの制度は相互扶助の精神に立ち、負担の公平と効率的な運用の確保に努め、社会全体の活力を失わせないよう総合的に構築されなければならない。これらの制度によりサービスを受けるものは、可能で適切な範囲において、その費用の一部を負担するとともに、その自己決定権は最大限に尊重されなければならない。
七 生涯学習 高齢者の多様な生き方を支援するため、生涯にわたり学習できる仕組みの整備が望まれる。また、高齢者の経験や知恵が子供や若者の教育に活用される仕組みも、つくらなければならない。
高齢者を含むすべての世代の男女は、共同参画して以上の提言の達成に努める。
         一九九九年九月一五日    高齢者年NGO連絡協議会
 

現代シニア用語事典 #8高齢期(三世代同等型)をこう生きる

#8 高齢期(三世代同等型)をこう生きる
#「長寿社会」はみんなでつくる
*・*「五つのステージ」をどう生きるか*・*  
高年期人生のステージ
「人生のステージ」というと、ふつうには「幼年期」「少年期」「青年期」「壮年期」「老年期」という五つの階層にわけて説明されてきた。この「五つのステージ」は、自分の経験として、あるいは子どもの成育の姿や父母の生き方をつうじて、だれもが納得できる分け方として認めている。ところが史上まれな「少子・高齢化」という状況にあって、「高齢社会」の実情をつぶさに考察しようとすると、上の「五つのステージ」ではうまく把握できない。なぜといって五つのうち三つまでが二〇歳代の「青少年期」に当てられていて高年層に窮屈だからである。
「高齢社会」の把握には、高年層に配慮し高年者が納得する別途の「高年期人生のステージ」が要り用なのだ。それが自身の「高年期の人生」への意識変革をもたらし、みずからが暮らしやすい新たなステージを創出する契機となる。
本稿がここでいう新たなステージは、いまあるしくみや高齢者意識をそのままにして対処しようする「高齢化社会」とは区別して、「高年化社会」と呼んでいる。みずからが「青少年期」「中年期」を過ごしおえて「高年期」にあること、いま「青少年期」「中年期」にある人びとに対して「高年期」にあること。五〇歳以上で五〇〇〇万人(六〇歳以上で三九〇〇万人)の人びとが主体者として新たに形成する社会だからで、みずからが暮らしやすい「モノと場の高年化」を成し遂げ、「新しいしくみ」を創り出し、さまざまな分野の成熟した活動が展開される新たなステージだからである。と同時に、次の世代に将来の資産をつくっているという配慮をつたえて、みんなが参画しているという意識の共有が必要である。
東アジアの先進国であるわが国には、国際的なフロントランナーとしてアジア地域での独自の社会モデルが期待されており、「日本高齢社会」は、自まえの経済・文化・伝統の条件のもとで、独自のプロセスを案出しながら達成に向かわねばならない。 
「高年期三期の新ステージ」
わが国の高年齢化の実情をよく観察した上で、体現者である高年者のみなさんに納得されることを期待して、本稿が採用した「高年化時代の新ステージ」は、#1の「高齢時代のライフサイクル」「賀寿期五歳層のステージ」を参考にしていただきたい。
 三つのステージは、二五年を区切りとする「青少年期」「中年期」「高年期」であり、「高年期」を「パラレルゾーン」「高年期」「長命期」の三つのステージに分けることで、当面するわが国の実情に見合った高年期人生のステージが形成されることになる。
同じ「五つのステージ」でありながら、前項とは逆に高年層を三区分に厚く分類しているのに気づかれるにちがいない。これでどうやら「日本高年化社会」を考察する本稿の立場からは納得がいく。
自己形成期にあたる「青少年期(二五年)」と社会参加期にあたる「中年期(二五年)」の人びとは、改めて「高年三期」の存在感の厚みに気づくであろう。「高年期」にある人びとは、いま自分が人生のどんな時期にあるかに思い当たるだろう。 
「超高年期は第五ステージ」
先ごろ「後期高齢者」(七五歳以上)の医療費支払いが話題になって、七五歳で階層を刻むことの意味が問われたが、七五歳で截然として人生が変わるわけはない。それでも人生のステージとしての一階層上の高年齢期に達することが誇らしく愉快であるなら、とやかくいわれることはないだろう。七五歳に達したら、最良の医療を無料で提供し、健丈で長寿である人生を支援しますという施策であるなら誰も異議をとなえることはないのである。国の財政のしわよせを高年者に押し付けようとする意図が透けてみえるような施策は、国際的にも関心を持たれている「日本高齢社会」構築のプロセスにあってはならないことだ。高年齢者はそろって憂慮の声をあげねばならない。
本稿の高年時代の新ステージの特徴は、敬愛すべき「長命期」(八五歳から)を設けていることにある。「高年期」と「長命期」との刻みがなぜ八五歳なのかという刻みの整合性について異議をとなえる人があるかもしれない。ここでは「平均寿命」(女性)が八六・〇五歳であるという現実に留意しておいてほしい。まずは素直にご自分の人生と重ねあわせてみていただきたい。
 前項の表の第三期である「高年期」を重ねて納得していただいた方には、「青少年期」「中年期」のふたつのステージを過ごし終えて、高年期になったいま属している職域や地域でのご自分のありようを見据えていただきたい。現状では中心になって関わることのできる現場は少ないのではないか。これからの行く先長い「高年期の人生」を過ごすことになる「家庭」「職域」「地域」という三つのステージでの自分のありように思いをいたすとき、「第三期」の現役としてさまざまな不足・不満・不安に気づくはずである。 
*・*国際化対応の第一・第二ステージ*・*  
「青少年期第一ステージ」
「即戦力正社員」
「青少年期(〇歳~二四歳)は第一ステージ」で、青少年の暮らしのためには、育児・保育施設、学校、その他の教育施設、遊園地ほか、さまざまな「青少年のためのステージ」が用意され、次世代を育成するための「少子化特任大臣」が内閣府に置かれている。
人生の第一ステージである「青少年期」をみてみよう。
 近ごろは結婚後一〇カ月目の「ハネムーンベビー」よりも、結婚前の「できちゃったベビー」が多いという世の中だから、生まれて以後の養育についても不確定な要素をもちながら推移することになるだろう。といっても子どもたちはみな、たいせつに養育され、学んで自己形成をして、選んで社会参加をすることに変わりがない。複雑な時代ゆえに、現状ではさまざまな選択のための猶予期間(モラトリアム)」の「バトンゾーン(二五歳~二九歳)」を置いて、一般的にはおよそ三〇歳前までが「青少年期」として許容されている。
 しかし、本稿の「第一ステージ」の区分では、二四歳までにしっかりとした自己意識を確立し国際的な知識を身につけて、職業選択を終えて、若い柔軟な能力を企業や組織内で発揮するチャンスを活かしている青少年を想定している。国際化した企業が必要とする人材だからである。中国、インドほかのアジアの途上国の若いリーダーたちと伍して、その先頭に立つような同世代の人材が要請されており、それが企業が求める「即戦力正社員」なのである。すべての青少年が即戦力である必要はない。当面は三分の一ほどで対応することになる。
高年者としては、この孫世代の人びとにどう対処するか。みずからの来し方を省みて知られるように、自己形成期の「人生の第一期」にあって、遠い「第三期の人生」での自己実現へとつながる「こころざし」(初志)を定めることは、放っておいてできることではない。「人生の第三期」にいる高年者(祖父母)として「高年期のステージ」で存在感のある生き方を示すことによって、遠い先に遭遇する「第三期の人生」に安心感と可能性を与えることになる。
ということは、隠退して何もしないおじいちゃん、優しいばかりのおばあちゃんではなく、「高年期のステージ」の形成に参画しながら、なお未来を見据えて過ごしている先人であることを示すこと。ジュニアたちはそういう姿に接することで、高年者(祖父母)に敬愛の思いを持ち、時には記憶違いを助けたりモノ忘れにもつきあいながら、何気ないふるまいやことばづかいの中に、人生の知恵やきらめきを見出して引き継ぐことになる。高年者を敬愛する立場をわきまえて育つ青少年の存在は、「日本高齢社会」の基盤であることはいうまでもない。 
「中年期第二ステージ」
「キャリア・アップ」
「中年期(三〇歳~五四歳)は第二ステージ」である。急速な国際化に直面している中年世代の人びとのためには、多くの企業、自治体、団体などが総力をあげてその活動を支えるための場を用意している。それが国際化時代の対外的な国力として認識され評価されるからである。いま高年期にある人びとが中年期に粒粒辛苦して創り出してきたステージでもある。
急速な国際化に直面して、中年世代の人びとは内外のさまざまな不確実要素を引き受けながら労働参加をし、次世代を生み育て、地域での要請に応じて社会参加もし、ヒマを上手につくって趣味や娯楽にも興じ、「キャリア・アップ」にも心がけ、加えて高年期にいる父母の介護をするという「八面六臂」の活躍をして、超多忙な日々を送っている。とくに女性は変動期にある日本社会の基盤を支える「キャリア・ウーマン」として、口八丁手八丁となかなかに力量が要るのである。 
他項でも述べたが、この国にとっての何度かの外圧のひとつである「グローバル化」によって、「政治のアメリカ化、経済の途上国化、社会のIT化など若年化・女性化」との対応を迫られることになった。現実政治ではひとり勝ちしたアメリカの意思・指示に従って軍隊を中東に送らざるをえず、経済的にはアジアの先進国として途上諸国からのさまざまな要請に即応せざるをえず、とくに中年世代は「暮らしを途上国化する」ことによって対応することになった。
わが国は先の大戦のあと、いま高年世代となっている人びとの努力によって、アジアの他の国に先駆けて「一国先進化」に成功した。ひとときではあったが、だれもが等しく中産階級の豊かさを享受する生活ができ、将来もできると予想した。先進国入りをしたと思っていた高年者にとって、「暮らしの途上国化」には不服とするところが多々あるのである。「バブルの崩壊」のあと日本の企業や社会ははげしい構造変化を余儀なくされたうえ、「グローバル化」の進展とともに活発になった開発途上諸国の経済活動によって、日本企業も社会も早急な途上国対応を迫られた。途上国産の生活用品を受容し、家庭内の「暮らしを途上国化する」ことで対応してきたのである。
高年世代としては、わが国の若年・中年世代が海外の同世代と伍して能力を発揮できるよう、業種によっては職場や権限をすみやかにシフトして環境を整え、活動を督励することになった。これが「企業のリストラ」(構造改革)の外向きにみた実質なのである。内向きにみて高年社員の被害者としての発言が目立つけれども、ここでは高年社員も企業現場の実態は実態として直視せねばならないのである。 
*・*第三ステージは時めき人生*・* 
「高年期第三ステージ」
「パラレル・ライフ」
「高年期(六〇歳~八四歳)が第三ステージ」である。その初期の五〇歳代後半は「パラレル・ライフ」で過ごして、高年期真っ盛りの六〇歳代は「時めき人生」というところ。
「高年初期」に当たる五〇歳代というのは、どういう時期か。現状では企業内の「窓際族」が常態化してしまって、残念ながら能力発揮の場所を見出せないままに六〇歳を迎えてしまう人も多い。
この貴重な時期に手痛い停滞期間をつくらないように、五九歳までの期間を、すでに始まっている長い高年期人生での課題(自己実現)の模索と移行のための期間として、「パラレル・ライフ」(ふたつの人生)」を提唱している。五〇歳代はその後のわが人生にむかっての能力蓄積の助走期間として、けっこう多忙なのである。
穏和なプロセスで高年期をすごす見地から、五〇歳代にふたつの生き方を模索するというのは、ひとつはこれまでの「労働参加・社会参加」の延長での生き方、もうひとつはこれから始まる「高年期の人生」での自己目標をさぐる生き方をあわせて実現することである。
「パラレル・ライフ(ふたつの人生)のフィフティーズ(五〇歳代)」とでもいうべき多忙な期間なのだ。 
「職場の高年化」
高年期職場異動」
高年社員として職場ではどうするか。高年者としての生活感覚を活かした「製品の高年化」を成功させて「職場の高年化」を試みる。あるいは「職場の高年化」を成功させて「製品の高年化」を試みる。キャリアを活かして別な職域への「高年期職場異動」も考慮する。
地域ではどうするか。青少年や中年世代とともに生活圏の「三世代ステージ化」(別項)に努める。それらを通じて確かめた高年期の自己目標への準備をする。大学など教育機関の「高年カリキュラム」を受講したり、自治体の「地域生涯大学校」に学ぶことでキャリア・アップすることになるだろう。
こうした高年期の人生への準備期間として多忙な五〇歳代のはずなのに、現状の五〇歳代は「ポストレス」で活動の閑散期となっている。あまりにも惜しいではないか。
五〇歳代になって、企業の製品若年化・女性化によって職場で能力を活かす場がなくなりながらも、「自社製品の高年化」や「職場の高年化」が課題と心得て、次の目標を模索して過ごしている高年社員に、穏和なプロセスでの「社会の高年化」への移行の実感があるはずなのだ。  
「団塊シニア」
思い起こせば、「団塊の世代」(一九四七年~四九年生まれ)と呼ばれる人びとは、「中流・核家族」(一九六七年)や「昭和元禄」(六八年)や「エコノミック・アニマル」(六九年)などが騒がれた時期に成人となり、「大阪万博」(七〇年)を満喫し、「脱サラ・ゴミ戦争」(七一年)と「列島改造」(七二年)にとまどいながら競争と選択の渦中で「労働参加」し、さめた目で 「企業戦士」のしんがりをつとめてきた。だから五〇歳代をすごし終えるに当たって、「高年期」の自己目標を見出して納得して実現をめざすという方向転換にも柔軟に適応していくことができているだろう。
会社人間として「窓際族」に黙々と耐えているだけでは何も生じない。「パラレル・ライフ(ふたつの人生)」に折り合いをつけた暮らしが、穏和なプロセスでの「高年化社会」形成への参加なのだと自得するべきなのである。企業も高年社員の能力保持を支援すべき時を迎えている。市場開拓が期待される熟年むけ製品やサービスは高年社員によって実現されるからである。
これまで見落としてきたこの国の「地域」がもつ良さを探しながら、「パラレル・ライフ(ふたつの人生)」を過ごして高年期人生に道筋をつけること。一人ひとりがなお現役として活動をつづけ、穏和で安定した高年期への移行を成功させることに時代の要請があるのである。いまやおおかたの「団塊の世代」の人びとは、「団塊ミドル」から「団塊シニアへ」の移行を終えようとしている。 
「六〇歳代時めき人生」
「生涯現役」
 まだ世情では六〇歳代を定年・還暦後の「第二の人生」とか「余生」としているが、本稿では新たな暮らしの場を形成して経験や知識を活かした「第三期の現役生活」として認識している。蓄積してきた知識、経験、資産などを滞らせることなく活用し、「六〇歳代(シクスティーズ)時めき人生」として過ごすには、引きこもってなんかいられない。
「高年期の人生」を謳歌し「社会の高年化」を体現する。ことあるごとに「もう歳だから」とつぶやいてみずから力を削ぎ、老け急ぐのは何としたことか。五〇歳代の高年社員と力をあわせて「製品の高年化」や「職場の高年化」といった「企業内の高年化」にも参加する。高年期真っ盛りの時を迎えて、「秀(ほ)にして実らず」などということのないように、花が実となる時期にあって力を出さずに終わってなんかいられない。
 一〇年を超える不況の下でこわばってしまった巷の表層を割って入れば、同じ高年期にある人びとの多くは、「高年期のステージ」について語る同世代の人の熱い思いに必ず応じてくれるはずだ。なぜといって、あの大戦後の復興期の混乱と貧困をともにしのいで苦労してきた者同士なのだから。生き急いで「老成」にむかうことなく、みずからの持つ力を惜しみなく限りなく発揮して、目前に居座る手つかずの障害を乗り越えて、「高年期のステージ」の形成に努める昭和生まれの高年者を、ここでは敬愛の心を込めて「昭和丈人」と呼ぶ。ボルテージ(情熱の位相)を高めていえば、これから成熟期を迎える職域や地域生活圏のさまざまな場面で、「昭和丈人層」である高年者が「丈人力」を発揮することで形成していくのが「日本高齢社会」であるというのが、本稿の一〇年にわたる洞察によるゆるぎない結論なのである。自己目標の達成をめざす高年者の暮らしぶりは、その穏かな表情も、奥行きのある発言も、配慮の行き届いた行動も、青少年や中年者から羨ましがられるほどに魅力をそなえたものになるだろう。
七〇歳の「古希」を迎えても引き続いて職域・地域での役割を要請される立場にある人も多いだろう。「自己目標」がそのまま職域・地域にかかわるものであるなら、「生涯現役」としての道を歩むことになる。すでにこういう「七〇歳代(セブンティーズ)は生涯現役」コースをたどっている先達を周囲に見かける。 
*・*第四ステージからは意のまま人生*・* 
「高年後期は第四ステージ」
「晨星のような長命期」
おおよそのところ職域・地域での成果を後人に託しながら「自己実現の集大成」を果たすべく「高年後期(七五歳~)は意のまま人生」といった第四ステージを過ごす人びとも多い。このあたりからが人生の楽しみは定めに捉われることなく自ずからしてなるもの、つまりこれまで論じてきた「五つのステージ」とは多重の標準である「無為自化の人生」でもあるからだ。この老子のことばの意味合いはこの年齢までたどってきた人にとって、はじめて人生の達意のことばとして感得されるものだ。
「高年後期(七五歳~)」の階層の人生にかかわることなら、聖路加国際病院名誉院長で、みずからは百寿期に到達された「明治丈人」の日野原重明さん(一九一一・明治四四年~)の独壇場である。日野原さんは、六○歳からが「午後」の人生、とくに七五歳からの「高年後期」を創造的に意欲的に暮らし、自立した生き方を選択し、すぐれた文化を次代に引き継ぐ役を果たせる人びとを「新老人(ニュー・エルダー・シチズン)」と呼ぶことを提唱してきた。予防医学によって健康を管理し、リスク(危険因子)を避けながら積極的に生きる「新老人運動」の輪を広げている。「新老人」の活動エネルギーは、本稿がいう「丈人力」と重なる意味合いの表現と理解している。
そしてさらに誇るべきは「超高年(スーパー・シニア)期」ともいうべき「長命期」(本稿では八五歳~)を過ごしておられる人びと。明け方の空にいつまでも輝きつづける「晨星のような長命期」を迎えてこの階層となった「大正丈人」である方々は、一九四五(昭和二〇)年の敗戦には二〇歳から三三歳で遭遇し、奇跡ともいわれた戦後復興と成長の中核を担ってきた。熱い志を胸に秘めて、その道一筋に過ごしてきて、いまもなお多くの人びとが活躍しておられる。この「人生の第五ステージ」期にある先達の叡智に学ばなければ、国際的に注目される「日本高齢社会」の頂上(サミット)は成立しない。みずから主体者の列に加わって、未踏の「日本社会の高年化」の課題にともに臨みつづけてくれるだろう。 
「高年期三階層のステージ」
「尊厳とともに生きる」
「パラレル・ライフ期」(五五歳~)、「高年期」(六〇歳~)「長命期」(八五歳~)という「高年期三階層のステージ」を過ごしている高年者層の人びとが、家庭内・職域・地域で共有して形成する社会構造が「高齢社会」であり、この国独自の経緯をたどりながら存在感を示すのが総体としての「日本社会の高年化」の姿である。現状の世界標準である途上国主導である「若年・中年社会」が国際的に安定するように支援しながら、世紀中葉へむかっての国際的課題である「国際社会の高年化」を見据えて、先進諸国の高年者の人びととともにひとつ上の世界標準を成し遂げるために、「日本型モデル」を創出する。二〇世紀の奇跡といわれた「昭和時代」を担った人びとが、二一世紀初頭の奇跡といわれる「日本高齢社会」を、歴史的存在としての「昭和丈人層」として担う。すばらしい人生ではないか。
特別に変わったことをするわけではない。家庭内で、職域で、地域生活圏で、多種多様な経歴をもつ同世代の人びととの出会いを通じて、「人生の成熟」を実感しながら暮らすこと。愉快に日また一日を送れればそれでいい。
さまざまな分野で、それぞれの地域圏で、有名無名の水玉模様を形成して「高年期」を過ごして、若年層から敬愛を受けがら過ごすこと。「高年期三階層のステージ」をリンクして、だれもが高年者であること、さらに高年者になることに安心しつつ「尊厳とともに生きる」ことが実感できる社会をめざす。
「日本高年化社会」は、こうして全国の津々浦々に暮らす高年者の人びとのたゆまぬ営為によって成立し、世界平和へのメッセージとして国際的な評価を得ることになるだろう。それは「一生に一度行ってみたい国、日本」の成立を示す証しとなる。それは二〇世紀中葉の戦禍によって犠牲になった人びとのかなわなかった願いでもあった長寿の実現である。そこにいたるプロセスは二一世紀の「人類標準=ヒューマン・スタンダード」ともなりうるものである。
 

現代シニア用語事典 #9おわりに

#9おわりに
*・*「昭和丈人」のひとりとして*・*                            
「二〇〇〇年遡行の旅」
洛陽(ルオヤン)。
いまも現代都市として輝いている洛陽市には申し訳ないが、わたしが関心を寄せつづけたのは、歴史の底に輝く華夏文明の揺籃の地であり、周公旦が「土中」と呼んだ洛邑であり、何より二〇〇〇年ほど前の後漢時代に倭の奴国王の遣い(五七年)が、そして三国時代の魏に女王卑弥呼の遣い(二三八、二四三年)がはるばると朝貢に訪れた都、「日中交流の原点」ともいうべき古都としての洛陽であった。 
「二〇〇〇年遡行の旅」は、若い日からの志として、心の奥のあちこちに移動させながら持ちこたえてきた。「初志」というよりは夢の領域に近かったから、実際に果たすとなると何か特別の力が、それも内側からというより外から呼び覚ましてくれるような衝撃的な力が必要だった。
そんな衝撃的な力が何度もやってきた。契機はこれといって明確ではなかったが、何かの力に押されるようにして、中国中原の古都洛陽へ出奔した。一九九四年の秋、五五歳で、通い慣れた東京築地の新聞社を自主退社して、遠い日の夢であった「二〇〇〇年遡行の旅」を果たすことになったのである。 
「日中交流の原点」
「洛陽漢魏故城」
日本からの遣使がおとずれた故地「日中交流の原点」である洛陽を訪ねて、この国と大陸との関わりの原点に立つことで、大陸とこの国の将来を見はるかす糧を得るという漠とした目標を課しての出奔であった。
王朝が変わるごとに隆盛と繁華と衰微とを何度となく繰り返して、「九朝の王都」となったといわれる洛陽の、いまは「洛陽漢魏故城」と呼ばれている同じ地に、二〇〇年ほどを隔ててこの国からの遣い人が訪れたことはあまり知られていない。
朝貢を受けてくれたのは、漢王朝を再興した晩年の光武帝劉秀であり、三国時代の魏では曹操の孫の曹叡であった。蜀の諸葛孔明は四年前に五丈原の陣中で寿終の時を迎えていたが、司馬懿仲達は遼東の公孫淵を討ってなお健在であった。いずれも王朝の初期にあたり、首都は破壊後の建設途上にあってにぎわっていたころのことである。
くだって唐代になり、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という劉希夷の有名な詩が東都洛陽の花の季節に詠われたが、「歳々年々人同じからず」の中には、遣唐使として命がけで海を渡った阿倍仲麻呂や吉備真備や井真成らの姿も見られたことだろう。この詩の花はもちろん桜ではなく、洛陽の東郊に咲き誇った桃李の花であった。花の下で今を時めく「紅顔の美少年」に対して白頭の老が昔日の憶いを述べたものだが、いま洛陽郊外の花といえば、花もまた同じからずで、北郊の丘に春を誇るのは大輪の牡丹である。
あたたかく迎えいれてくれた洛陽外国語学院の外籍専家として滞在中の四月中旬、「花城」といわれるほどに街中が牡丹の花に埋もれる「牡丹花会」のころに、ふと「丈人」ということばと出会ったのだった。その時は力の篭もることばだというほどの印象で、異郷にいるわたしを力づけてくれたことばは、「樹大招風」や「単刀赴会」や「非常之人」のほうであった。 
「漢字文化圏」
「東アジアの大都市東京」
漢字の力は限りなく、測りがたい。四〇〇〇年余を使いこまれてひとつひとつ輝いている。 わが国の先人が移入して扱いはじめて約二〇〇〇年。時代の変遷とともに多重な意味合い(音訓の多様さ)を付与して使いこんできた。「漢字文化圏」に生まれ育った者として、東アジアの歴史と文化の揺籃の地に、高年になって降り立ったのだった。
といって五〇年余を過ごしてきた東京を、時空のむこうに忘れ去ったわけではなかった。
いまは城壁のほか何も残らない「洛陽漢魏故城」の畑中の道を歩きながら、倭国からの遣い人の姿を思い、邪馬台国からの難升米や都市牛利(どう読むのかわからない)を偲び、二〇〇〇年を遡行して中原の王城跡から漠として東方をみたとき、「東京」は奈良や京都に対応する東都であるとともに、北に「北京」(ベイジン)があり、南に「南京」(ナンジン)があり、西に「西安」(シーアン)があるように、東に当然あっていい「東アジアの大都市東京」(ドンジン)として多重化して意識されたのであった。かつて青年の日に、奈良や飛鳥の地をたずねて畑中の道を歩きながら東京をみたとき、日本の歴史が漠として納得されたのと似ていた。 
「天命を革めて立つ」
「侵略者の蛮行」
それとともに、この中原の地に繰り返されたいくつもの王朝のようすが思われた。ひとつの王朝(長くて約三〇〇年)が衰亡期を迎えるたびに、穏やかに「禅譲」する場合もあり、前王朝のすべてを破壊し夷平しつくして「天命を革めて立つ」こともあり、あるいは武威をもって北方から踏み込んだ異民族が漢化することによって蘇ることもあった。後者の例には鮮卑拓跋族(北魏)や蒙古族(元)や満族(清)があり、それと重なって、二〇世紀前半の日本の軍事行動が「侵略者の蛮行」の繰り返しとして理解されたのだった。
だから両国の長い関係の中でまことに不幸なことだが、近代騒乱期に中国に踏み込んだ日本軍によって引き起こされた「盧溝橋事件」(一九三七年七月)と「南京事件」(同年一二月・中国では南京大賭殺)とは、新たな政権(中華人民共和国)からは、侵略者の蛮行として末長く非難されつづけざるをえない事件となっている。同じ時期に、さまざまな分野でなされていた穏和で文化的な日中交流の経緯を覆ってしまった蛮行は、蛮行として率直に謝罪をしつづけながらも、侵略の非難はむしろ先行してアジア諸国を席捲した「欧州列強」の営為に対してこそ向けられるべきものであり、日中韓国が力をあわせて明らかにする事業が、東アジア史の課題として残されているのである。 
「敵人の砲火」
「国際的ルール違反」
新世紀の東アジア安定の要である日中国民がお互いに信頼し合うためには、中国国歌にうたい込まれている「敵人の砲火」がだれによるものかを忘れ去ることができるほどに、冷静に親密に対応しつづけねばならないのに・・、と洛水の河畔をそんなことを考えながら歩いた。
何よりも「盧溝橋事件」や「南京事件」を繰り返し思い起こさせるのが、A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝である。すべての戦争犠牲者の冥福と平和を祈るという理由での参拝は、国際ルールとしては成り立たない。盤上で争うすべての駒を生かそうとする「日本将棋」のルールを人道的として自認することで、敵対した駒を盤上からきびしく抹殺する「中国象棋」や「チェス」のルールを無視することになる。「誤解にもとづく」などといってすむことではない。子どもすら納得させえない「国際的ルール違反」なのである。
同じ場所(中原や中国)に勃興しては衰亡することで重ねられてきた歴史(正史)が、王朝の断代史であることの厳しさは、A級戦犯を断罪できない日本の国民性からは、良くも悪くも理解がむずかしい。
「二〇〇〇年遡行の旅」へとわたしを押し出した力が何であったのかは世紀を越えたいまも定かでない。が、華夏文化の発祥の地であり、この国との関わりの原点ともいうべき「洛邑土中」の地に立たなければ得られなかったもの、それは「東アジア」の来し方をさかのぼることで、将来にむけて平和裏にこの国がなすべき漠とした役割であった。「平和憲法」の堅持そして世紀末に還暦とともに「国際高齢者年」を迎えたことで、この国に綺羅星のように輝く「現代丈人」である人びととともになすべき事業「日本型高齢社会」形成への確とした信念であった。十年をかけて推移を観察しつつ本稿をまとめた力もまたそこに起因する。 
*・*津々浦々の「丈人」である人とともに*・* 
「日本列島総不況」
「綺羅星のごとき人びと」
中原の古都洛陽での暮らしから戻ったのが一九九八年の秋で、折り返してまた出かけようと思っていたところが、さして長くはないタイム・トンネルを抜け出てみた、幹とも頼むこの国のようすがどうもおかしい。「日本列島総不況」がいわれたころで、幹がやわになってしまっては、海外に張った小枝に葉を茂らせ花を咲かせようにもむずかしくなる。春まで持ちこすことにして、とこうするうちに厳冬期をすごして九九年春の訪れ。四月には寒い春にこごえるように桜が咲いて、侃侃諤諤の都知事選挙が争われたのだった。
そのころしきりに、さまざまな場で出会った先輩が思い出された。洛陽で東の空にみた「あの「綺羅星のごとき人びと」は、いま何をしているだろう」と思ったのである。 
「国際高齢者年」
「年たけてまた越ゆべし」
有名であるよりも無名であることにこだわり、個人の利よりも共同作業をする人びととの益を願う人びと。いろいろな分野で業績を残して後輩に後をゆだねて、なお余力をもったまま引退していく先輩を送るたびに感じたことは、この優れた人びとを失って、自分たちでこれからの難局を抜けられると思ったら、後進としてはあまりにも不遜ではないかということだった。
疾風怒濤のような「昭和時代」を生き抜いてきて、新世紀を迎えてなお健丈にすごす高年者のみなさんには、歴史の舞台から去りゆく前になすべきことがあるのではないか。
一九九九年はすでに記したように「国際高齢者年」であった。その年から「還暦期」にはいったわたしは、この優れた人びとによって国際的に誇れる「日本高齢社会」の形成が可能に思われた。それは、駆け抜けてきた半世紀の「昭和時代」に心なくも失ってしまった良き風物を再生し創生すること、後人の資産となるような「地域の四季」が息づく特徴のあるまちづくり、「わが土中の地」に立って生きて実感できる地域生活圏の姿として。 
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや」
とつぶやきながらも、みなさんは人生の第三期の「丈人力」を奮い起こしてこの山を越えてくれるにちがいない、という楽観的な信頼があったからである。それは未踏の領域へ踏み出すようなものに思われた。そんな活動に「昭和丈人」のひとりとして参加するというのが、わたしの高年期での目標となった。 
「日本型高齢社会」
「日本丈人の会」
一九九九年の「国際高齢者年」から十年。経緯をみていると趨勢はなお逆方向に動いている。本稿は世紀をまたいで長い模索の時を過ごすことになったが、なお「滄海の一粟」の思いがする。本稿の趣意が同時多発であることを願いながら、ここに「高年期」人生論であり「高年化」社会論として、一石を投ずることになった。一々には触れないが、その間、土壌をやわらげてくれた先人の著作や、いくつもの水脈の在りかを伝えてくれた同僚の報道記事やアドバイスや、何より先駆して行動をおこしてくれている各界のみなさんの「現代丈人」としての営為に勇気づけられてきた。
新世紀に入って、民意を問う総選挙が二〇〇三年一一月九日に、〇五年九月一一日に、〇九年八月三〇日におこなわれたが、どの政党の政策にも明確な「高齢社会」への構想も契機も見出すことができない。
だから高年者層が何かを要望して参加した国政選挙とは思えない。趨勢はさらに逆方向に動こうとしている。世代交代を叫んで呼集される新人議員や女性議員に多くを期待するわけにはいかないし、二世議員を中心にした若手リーダーの視野は狭く、ことばは貧しい。
みずからが動かなければ高年者は危うい。これが最良でありすべてといえるわけもないが、十年の観察期間をへてえた本稿を契機としたい。そして「津々浦々の現代丈人」であるみなさんとともに、見定めえない二〇二〇年ころの「日本型高齢社会」の姿を見据えながら、ここに「日本丈人の会」のもとにひとつの旗幟を掲げて立つこととした。
どこまでいっても完結することのない課題を負った本稿だが、みなさんとはどこかの「丈人の会」でお会いすることになるだろう。 
「おわりにの終わりに」
ここまで飛び跳びにでも読んでくれた人には「おわりに」だが、初めにここを読んだ人には「はじめに」となる。が、どちらからでもよいのは、これが哲学書(ものを考える参考書)だからである。「どう生きる」「こう生きる」という見出しからそれに気づいた人もいるだろう。どうしたら自分で、家庭で、職場で、地域で、「満足」と納得する暮らしができるか、を考えて実行する糧となればいい。ここでページを閉じる前に、いくつかの項目を拾い読んでほしいと思うのである。
 

新情報--高齢社会対策大綱の見直し 1

高齢社会対策大綱の見直し 1
堀内正範
朝日新聞社社友
高連協オピニオン会員 

◎ 第二〇回高齢社会対策会議  

平成二三(二〇一一)年一〇月一四日(金)、首相官邸。
蓮舫担当大臣の趣旨説明。 
[本日は新しい「高齢社会対策大綱」の検討についてお諮りいたします。「高齢社会対策大綱」とは「高齢社会対策基本法」六条にありますように、政府が推進すべき高齢社会対策の指針です。政府が推進すべき「高齢社会対策」の中長期的な指針として、平成一三年一二月に閣議決定されたものです。] 

遠く昭和六一(一九八六)年に「長寿社会対策大綱」としてまとめられ、平成七(一九九五)年の「高齢社会対策基本法」の制定のあと、平成八(一九九六)年に「高齢社会対策大綱」となり、世紀をまたいで前回の平成一三(二〇〇一)年の「大綱」の閣議決定。
[ 経済社会情勢の変化等を踏まえて、必要があると認めるときに見直しをおこなうものとされています。来年以降、団塊の世代が六五歳に達し、わが国の高齢化率がさらに伸びることが見込まれています。こうした経済社会情勢の変化を受けまして、政策面では本年六月三〇日に「社会保障・税一体改革成案」が取りまとめられたなどの進展がみられます。これらのことから、平成二三年度内の閣議決定を目途に、新しい大綱の案を作成することにしたいと思います。この点についてまずご了承いただけるでしょうか。]
了承の声。
[ それでは大綱の見直しに当たりまして、会長であります内閣総理大臣からお考えをお願いいたします。] 

「高齢者の消費の活性化」を視点に加える

[ はい。おはようございます。]
野田総理の発言・・ 。
 [ まさに人類史上、前人未到のスピードで高齢化が進んでいると思いますが、悲観的になるのではなく、高齢社会にしっかり向き合って、世界最先端のモデルを作っていくということが、この大綱作りの基本的な考え方になるだろうと思いますので、私のほうからは三点、基本的な視点を提示をさせていただきたいと思います。 一つは、高齢者の居場所と出番をどう用意するか、二つ目は高齢者の孤立をどう防いでいくか、三つ目は現役時代からどう高齢期に備えができるのか、以上三つが基本的な視点ですけれども、あえてもう一つ付け加えるならば、「高齢者の消費をどう活性化していくのか」ということも大事な視点ではないかと思います。・・ こういう考え方をもとに大綱作りについてのご議論をキックオフしていければと思いますので、よろしくお願いをいたします。]
(注:高齢社会対策担当大臣は2012年1月13日の内閣改造で岡田副総理に。)
 ◎ 六人の有識者で「大綱」を見直し  

素案の原案を作るために設けられる「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の有識者委員の顔ぶれ。
前回の平成一三年の時の検討会委員(清家篤座長)は各界からの一三人であった。中間の平成一七年~一九年に「大綱見直し」の参考にする前提で開催された「今後の高齢社会対策の在り方等に関する検討会」(清家篤座長)では専門学者を中心に一〇人のメンバーが検討をおこなっている。ここは大学の現役学者ばかりでなく、体現者である高齢者の代表、活動の実践者、シニア・グッズの生産者やサービスの提供者、団塊世代の代表、さらには東北の被災地でいまその課題に直面している人びとといった多方面の現場からの要望の集約が必要であろう。各界からの声を多く聞き、多くの国民に理解をしてもらう機会とせねばならないからである。
ところがどうしたことか委員は六人に減らされている。六人の有識者委員というのは、次の方々である。

 座長 清家篤 慶応大学塾長(1954~)
香山リカ 精神科医 立教大学現代心理学部映像身体学科教授(1960~)
関ふ佐子 横浜国大大学院国際社会科学研究科准教授
園田真理子 明治大学理工学部建築学科教授
弘兼憲史 漫画家(1947~)
森貞述 介護相談・地域づくり連絡会代表(前高浜市長)(1942~)
 前回座長であった清家塾長がいるとはいえ、このメンバーだけで見直しの素案を得ることに納得は得られないだろう。しかもわずか四回の会議で意見をまとめ、内閣府で整理して二三年度中に「高齢社会対策会議」に報告するという「快馬に加鞭」ぶりである。成案はすでに出来ているといわんばかり。
座長は当然のこと清家塾長が担当し、すでに一〇月二一日、一一月二五日と二度おこなわれている。このあと年明けの一月一二日には「素案」についての議論がなされ、二月二日には「報告書」のとりまとめをおこなうという。
すぐれた法改正ができたとしても、体現する国民が構想や対策の内容を知らず理解できずに、だれが実現してその成果を享受できるのか。
案に相違せず、一〇月二一日の「第一回検討会」の冒頭で、原口剛参事官から「高齢社会対策主要施策の推移」「高齢社会の現状」の説明ということで、さまざまな関連法や現状についての「非常にたくさんのデータ」の説明が「簡単」になされて、委員からは何の質問もなしに通過している。
こういうプロセスそのものを見直して、国民に周知する機会とせねばならないのに。これもやはり責任は担当大臣にある。
このまま進んで清家さんの整理にまかせることで「報告書」は作れるだろうが、衆知を集めて議論して広く知られる「新たな大綱」としなければ、増えつづけていまや三〇〇〇万人に達する高齢者に、新たな「高齢社会」の当事者意識は生まれず、参加の機会もつくれない。ここで社会参加の意識を生めないようなら、この国をここまで成し遂げた人びとの高齢期人生を、政治は見捨てることになる。
国・自治体のこれ以上の対応の遅れは、「日本高齢社会」形成のチャンスを失うことになり、この国の高齢者の人生を丸ごと不幸にしかねない。

一月一二日開催のふたつの会に注目

野田総理は、千里の道を遠しとはせず、まずはその第一歩を足下の内閣府構成メンバーの立て直しから始めること。高齢社会対策担当大臣、副大臣のもとに、専任の審議官、政策統括官、参事官などがそろった高齢社会対策のための太い導線を敷くこと。その上で一〇年ぶりの「大綱」の見直しを多くの人びとの参加を得て進めても遅くはない。中長期の新しい国づくりの指針として作成するはずのものだからである。そうあってはじめて、国際的にも誇れる「日本高齢社会」達成への道は緒につくのである。
平成一三年のあと、中間の平成一七年~一九年におこなわれた今後のための検討会、そして今回の有識者各委員がそれぞれの立場で提供した意見は貴重であり、その労を無視するわけではないが、もっともっと各界を代表する有識者の声を聞き、広く高齢者の意向を反映した素案が作成されねばならない。
全国の高齢者のみなさん、平成二四年一月一二日、蓮舫担当大臣のもとで内閣府で開かれる「第三回高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の報告書素案に注目してほしい。
そして同日同時に、近くの憲政記念館会議室で、高連協(高齢社会NGO連絡協議会)が開催する「高齢社会大綱の見直し」に対する「高連協提言」発表会を合わせ注目してほしい。(二〇一一年一二月二八日) 

◎参考著書
『丈人のススメ 日本型高齢社会 「平和団塊」
が国難を救う』(武田ランダムハウスジャパン・
二〇一〇年七月刊)

 

 

 

 

 

友好都市・歴史が絆-六〇年余戦禍を語り継ぐ

六〇年余戦禍を語り継ぐ

広島市と重慶市 

一九四五年八月六日午前八時一五分、広島市細工町の上空五八〇メートルで、人類史初の原子爆弾が炸裂、熱線、爆風、放射線は一瞬にして多くの市民を殺傷し、街を廃墟とした。傷ついた市民は肉親の姿を求めてさまよった。この一発で約三五万人が被爆し、四五年末までに約一四万人が死亡したといわれる。この未曾有の惨状を現出したのは、米軍B29エノラ・ゲイ号による無差別爆撃であった。

中国の臨時首都であった重慶市の中央放送局は、八月一〇日午後六時、「日本無条件投降」の重大ニュースを放送した。日本軍による空爆の恐れがなくなった重慶の街は沸騰し、市民は歓喜の声をあげて屋外へ繰り出し、街にあるかぎりの爆竹を鳴らして戦争終結を祝ったのだった。 

しかし、米国大使の仲介で八月二八日に延安から重慶に着いた毛沢東・周恩来と、蒋介石との溝は埋まらず、さらに四年にわたる国共内戦がつづくことになる。

大戦後、平和を希求する人々の要請が、両市を引き寄せていったといえよう。八〇年には広島市議訪中団が重慶市を訪れた。八四年には重慶市で「現在の広島」写真展と「原爆ポスター」展を開催する。そして八五年八月に広島市で開かれた「第一回世界平和連帯都市市長会議」(現平和市長会議)には、重慶市の肖秧市長が出席した。八六年五月には、荒木武市長ら広島市代表団が重慶を訪れた。

そして八六年一〇月二三日、重慶市代表団を迎え、荒木市長と肖市長が友好都市提携の協定書に調印した。他にも増して大きな戦禍を蒙った両市提携の意味は、
「この提携はアジア、世界の平和に貢献することを確信する」
という荒木市長のあいさつに込められて、両市を越えて両国の国民の間に伝わった。肖市長も、

「両市、両国の人々の幸福、平和のために、協定書の精神を守っていきたい」

 と述べた。友好交流都市提携を記念して、広島市からは「平和の鐘」が、重慶市からは彫塑像が贈られることになった。また広島市からキリン二頭、フラミンゴ一六羽が、重慶市からレッサーパンダ三匹が、動物大使として交換された。記念植樹には、白モクレンが市役所の緑地帯に植えられた。

両市の友好交流は、平和市長会議への重慶市代表の参加、平和の絵コンクールへの重慶児童の応募など「平和」を軸に多分野に及び、近年は酸性雨研究や環境保全、市立病院の交流、さらには自動車関連など経済交流にも取り組んでいる。

重慶市は直轄市のひとつ。長江上流で最大の商工業都市である。南宋の趙淳が王になり、その後に皇帝についたことから、二重の喜びを意味する「重慶」と呼ばれるようになった。人口は約三一〇〇万人。上流の三峡ダム建設で新たな時代を迎えようとしている。  

広島市は、人口約一一五万人。一五八九(天正一七)年、毛利輝元が海陸路交通の要衝の地に築城し、広島と命名した。近代の日清戦争(一八九四年)には大本営が置かれ、また高等教育機関が設けられて、軍都、学都として知られた。

被爆から六〇年、核兵器廃絶への道は進まない。原爆犠牲者を追悼し、「核兵器廃絶」と恒久平和を願って八月六日に開催される平和記念式典では、二〇〇五年、「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切る「希望」を掲げて新たな道へと踏み出した。二〇〇六年は二〇周年に当たった。広島友好訪問団(団長秋葉忠利市長)が一〇月二三~二七日まで重慶市を訪問して王鴻挙市長と協議、世界恒久平和への貢献と友好都市関係の強化に関する覚書を交わした。あと「広島園」近くの公園内に「常緑と永遠の友情を表わす」松の木を植樹した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-小学校交流から友好区へ

小学校交流から友好区へ

東京都北区と北京市宣武区
北京市城内は四つの地区に分かれている。北側半分は政治の中心となる区域で、故宮をはさんで西城区と東城区。それに対して南側半分は庶民が暮らす区域で、西に宣武区と東に崇文区がある。

北京オリンピックのマラソンで天安門前のスタート地点から少し東に走って南に折れて天壇公園を通過してもどってきたが、あのあたりが崇文区である。もどって今度は西長安街を西に走って右折して北京動物園を通過したが、あのあたりが西城区である。北京大学や清華大学は西北郊外で、ゴール地点の「鳥の巣」は北の郊外ということになる。

だからここに取り上げる北京市第一実験小学校のある宣武区は走らなかったし、競技会場もなかったから、五輪の影響が最も少なかった地区ということになる。穏やかな北京が戻ってくれば、和平門の南、骨董のまちとして有名な瑠璃廠文化街のあるところだから、文化的な賑わいが戻ってくるだろう。瑠璃廠のすぐ北に、北京第一実験小学はある。

一九一二年に北京高等師範学校附属小学校として創設され、九〇年余の歴史を持つ。北京第一実験小学となったのは解放後の五五年。周恩来夫人で全国政協主席だった鄧頴超さんが初の女性教員として務めていたことでも知られ、「鄧頴超教師奨励金」が設けられている。「全面育人」の先進学校であり、「北京第一実験小学教育叢書」を出版している。余暇活動では紅十字活動にも力を入れている。

王子小学校のある東京都北区は、その名のとおり東京都の北部に位置して、荒川を隔てて埼玉県と接している。飛鳥山は江戸時代に享保の改革で桜を植えて行楽地としたことから、江戸庶民が訪れる景勝地となった。一九一一年には王子電車(今も残る都電荒川線の前身)が開通し、二三年の関東大震災のあとに都市化が進んだ。 

王子小学校は一八七四(明治七)年に荒川学校として開校し、八四年に王子小学校に改称。戦後の四七年に北区立王子小学校となり、二〇〇四年には創立一三〇年を迎えた。青少年赤十字(JCR)活動は四〇年を越えてつづき、奉仕・国際理解の伝統は親子二代に受け継がれている。また国語教育のための「ことば・きこえの教室」で知られる。

 一九八五年七月に、由緒のある両小学校校の交流が正式に決まり、関係者の往来や絵画や書の交換が始まった。それをきっかけに荒川区議会の調査団や区民の友好交流が進み、九三年四月二二日、宣武区友好代表団を迎えて、北本正雄・劉敬民両区長の間で友好交流と協力関係の合意書の調印が交わされたのだった。

それ以後、両区の間では文化、スポーツ、青少年、環境、女性など、大都市が共有する課題について交流は幅広い分野でおこなわれている。

学校交流をはじめ、両区の市民交流に関わってきた丸山典義さんの活動を忘れるわけにいかない。九四年八月には小学生の野球チーム「王子ドルフィンズ」を率いて親善交流試合を成功させ、それ以来、子どもたちの出会いの場も作った。また不動産のしごとがら多くの留学生の面倒もみた。「青少年の間にまかれた友好の種」は将来かならず実となることを丸山さんは確信している。

二〇〇四年には、協定締結一〇周年を記念して区長を代表とする友好代表団を相互に派遣して、次世代を担う子どもたちを中心にした交流を推進することを確認した。二〇〇五年九月には「北京第一実験小学校管楽団」(四四人)が交流に訪れた。紅葉中学校吹奏楽部との交流演奏会などをおこなった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-同名都市である親しみ

同名都市である親しみ

南陽市と南陽市(河南省) 

山形県南陽市は、一九六七年四月に二町一村が合併して誕生した。命名にあたって、当時の安孫子藤吉県知事が、「北に丘陵、南に沃野で住み良いところ」という土地柄から、「南陽市」を提案した。

中国の内陸中央部の河南省にあって、長命の霊水「南陽の菊水」(この水を飲むと上寿は百二十、中寿は百余といわれる寿命が得られる)が流れる歴史都市である南陽市と地形が類似していることも紹介されたのだった。

その後、「中国南陽市を訪問する会」(二三人)が八四年に初訪問したことから本格的な交流がはじまり、八五年には南陽市日中友好協会が設立された。八七年「市名発祥の地友好訪問・南陽市民のつばさ」(三〇人)が訪問し、技術研修生の受け入れを確認した。

そして八八年一〇月六日に、大竹俊博市長を団長とする友好代表団を送って、李宝興市長との間で日中の同名都市「南陽市―南陽市」の友好都市締結を果たしたのだった。

河南省南陽市は、中国の中央部にあって河南省西南地域の中心都市である。東部、北部、西部は山に囲まれ、南部は湖北省の襄樊市に通じる広大な盆地になっている。襄樊市を流れる漢水に合流する支流の白河に南面することから、「南陽」と名づけられた。 

西暦二五年に後漢王朝を建て、五七年に都の洛陽で倭の奴国からの遣いに面謁した光武帝劉秀の生地である。また三国時代には南陽のすぐ南にある新野の小城で「脾肉復た生ず」を嘆いていた劉備玄徳が、「三顧の礼」を尽くして諸葛孔明を得た(二〇七年)ことを記念する「武侯祠」がある。漢代の画像石刻が集中出土している歴史文化都市で、人口は一市二区一〇県を管轄して約一〇二六万人。面積、人口とも河南省で最大の都市である。

山形県南陽市は、県南部に位置し、北に丘陵、南に沃野が広がる田園都市である。特産はぶどう、さくらんぼ、ラ・フランス、りんご、ワインなど。一八七八(明治一一)年、英国人旅行家イザベラ・バード女史が東北、北海道を旅した際に、「東洋のアルカディア(桃源郷)」と評した置賜盆地に位置している。四季の自然に恵まれた資源を活かしながら、生活環境や社会資本の充実にじっくりと努めていくと荒井幸昭市長も述べている。

開湯九○○年の伝統がある赤湯温泉や宮内熊野大社が有名。心やさしい農民の民話「鶴の恩返し」が伝わる鶴布山珍蔵寺や「夕鶴の里資料館」、国指定史跡の稲荷森古墳など伝統と歴史を引き継ぐ。その一方で、国際的ハングライダー基地「南陽スカイパーク」もある。秋を彩る「南陽の菊まつり」でも知られる。人口は約一万八〇〇〇人。

 両市の主な友好交流は、両市がそれぞれに内陸だけに急速には進みづらいが、市の友好代表団の相互訪問をはじめ、語学・農業・縫製・電子・食品加工・製靴といった生活分野の技術研修生の受け入れ、胸部検診車の寄贈など仔細に地道に行われている。

文化面では、「中国南陽古文化展(恐竜の卵も展示した)」や「日中両南陽市書画交流展」、烙画箸(菜箸・五周年の記念)の全世帯配布もおこなった。スポーツ交流では日中友好協会主催の「日中友好都市交歓卓球大会」(九○年の第一回以来)、「南陽―南陽」チームとして参加している。そのほか市卓球協会が選手を送って、両市対抗卓球大会を催すなど、民間交流の一翼を担っている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-歴史都市の「草の根交流」

歴史都市の「草の根交流」

宇治市と咸陽市(陝西省)  

京都市と西安市が日中両国を代表する歴史古都同士として、一九七四年にはやばや友好都市となり、その後、八三年には京都府と陝西省とが友好省府となった。そのあとを受けるようにして、お互いの第二番目の都市であり、類似した立地条件を持つ、宇治市と咸陽市とが結ばれる契機が次第に熟していった。 

咸陽市は、渭水のほとり、西安からは北西へ二五キロの至近距離にある。周代から秦までは咸陽が中国西北地区の中心であった。とくに東方にあった先進国の六カ国(戦国六雄)を滅ぼして天下統一を成し遂げた始皇帝は、ここに安房宮を造営して巨大都市となったが、項羽によって焼き尽くし破壊されたという。項羽に勝利した劉邦は、咸陽郊外の長安を新たな都としたため、さらに隋・唐代になると長安(西安)へと中心が移ったため、その後の発展はなかった。旧跡も多く、漢武帝の茂陵、唐太祖の昭陵などの漢、唐代の皇帝陵はこの周りに集中している。漢代兵馬俑坑が発掘されている。秦の始皇帝兵馬俑ほど大きくはないが、漢代独自の時代性が対比されるもの。明代の孔子廟跡を利用した咸陽博物館は、市域での優れた発掘品を展示している。市域に国際空港が開設されており、その縁で成田市とも友好都市になっている。人口は約四八〇万人。

宇治市は、宇治川のほとり、水陸路交通の要衝で風光明媚な地であったため、上代には貴族の荘園、別業地となった。
文化遺産の代表格は、世界文化遺産にも登録されている平等院鳳凰堂である。『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台として、また室町時代以来の宇治茶の産地としても知られる。隠元禅師にちなむ満福寺、道元禅師にちなむ興聖寺など、禅宗の名刹がある歴史文化都市である。人口は約二〇万人。

両市の友好都市提携は、八六年七月二四日、宇治市に咸陽市の代表団を迎えて、市文化センターで池本正夫市長と祝新民市長が協定書に調印して成立した。双方が持つ歴史都市としての特徴を活かした交流が期待された。その後、両市長は市民広場の公園の一角で、宇治市の木であるイロハモミジの記念植樹をおこなった。

両市の主な友好交流には、市の友好訪問団の相互訪問や職員交換事業、学校提携。空手、気功、太極拳といった武道競技のほか、青少年の卓球、野球、サッカー、児童絵画展。マイクロバスやピアノの寄贈など。

多くの市民が自主参加し、宇治日中友好協会が進めてきた交流事業に、「咸陽の子どもたちに本を贈る」運動と「友誼小学校」の建設がある。本の贈呈のほうは、九六年から五〇余校に二万冊を届けた。学校の建設のほうは、淳化県に「寨子宇治友誼小学校」を建設し、内陸の貧しい農村の教育施設を支援してきた。贈る会の「会報」には子どもたちの喜びの手紙や写真が紹介されている。 

また二〇〇一年の提携一五周年の記念事業として、「黄土高原植林緑化事業」を開始し、永寿県の林業組合とともに五年間の目標とした一五〇ヘクタールの植林を完了した。この事業もまた募金活動など、宇治市市民の「草の根交流」の成果である。

両市の友好交流は、〇六年に二〇周年を迎えた。「経済格差の中で取り残されている内陸の貧しい農村の実情を見聞するとき、まだまだ宇治市民の手を差しのべてゆかねば」と、宇治日中友好協会会長で宇治御茶師の後裔である上林春松さんはいい、市民に協力を訴えつづけている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-景観を誇る湖と歴史古跡

景観を誇る湖と歴史古跡

大津市と牡丹江市(黒竜江省)  

 この国の新たな時代への胎動期であった六六七年、天智天皇は、大和飛鳥宮から「志賀大津の宮」を造営し遷都している。同じころ、海を隔てた中国東北地区の現在の牡丹江市南の寧安には、唐の長安を手本にして渤海国の都城、上京龍泉府が造営され、その後、七世紀末から一〇世紀にかけて栄えたという。

かつて同じころの都城であり、そして牡丹江市には琵琶湖と形状がよく似ている鏡泊湖がある「水の都」であることも、両市の友好を深める機縁となった。 

両市を結んだのは一九八三年五月のこと、大津市との友好関係を期待しているという牡丹江市の意向を伝える一通の書簡であった。牡丹江市黒龍江商学院の曲更非教授から送られてきたものだった。そこで大津市は、市の大要をまとめた資料を曲氏を介して牡丹江市へと送った。牡丹江市からは提携を結びたい旨の返信が届き、またそのころ訪日したチチハル市の都市建設団からも直接に希望が伝えられた。

琵琶湖をもつ滋賀県としては八三年三月に洞庭湖を有する湖南省と友好省県協定をおこなった後だけに、大津市と湖南省の省都である長沙市との提携も考えられたが、さらに加えて戦前の開拓期の歴史的事情を考慮すれば困難も予想されたのだったが、山田豊三郎市長は積極的に牡丹江市の要請を受け止めて、八四年七月にはみずからが団長となって親善訪問している。

そして同八四年一二月三日には、牡丹江市の訾顕章市長を迎え、山田豊三郎市長との間で友好都市提携の調印をおこなったのだった。 

牡丹江市は、黒竜江省の東南部に位置し、西は省都ハルビン市と東はロシア沿海地域と接している。寧安、海林など四市二県を管轄している。大戦中は日本から多くの木材、食品関係の工場が進出し、入植者も多く、戦後の混乱で多くの犠牲者を出した。地理的優位性があり、鉄道・道路・航路の要所として、東北アジア圏の中堅都市として発展している。対ロシア貿易額では中国でも最大規模である。近年は日本海を通じた国際貿易と観光にも力をいれている。「塞北の江南」と呼ばれる観光都市である。 

牡丹江市内には世界最大の「東北虎林園」もある。江浜公園には日本軍と戦った女性戦士を記念する「八女投江群像」もある。人口は約二七〇万人。

大津市は、琵琶湖の西南端に位置して、京阪神、中京、北陸の三経済圏の要にある。江戸以後は幕府の直轄地として京滋地域の備えとなってきた。政令指定の古都のひとつ。

主な名所としては、比叡山延暦寺根本中堂、近江神宮、園城寺(三井寺)、義仲寺、瀬田の唐橋、石山寺、幻住庵、琵琶湖大橋などの建造物のほか、唐招来の「玉篇」「六祖慧能伝」や奈良・平安時代の典籍の国宝も多い。琵琶湖の水質をはじめ環境の保全については「共生と循環の湖都・大津」を掲げて活動している。人口は約三〇万人。

一九八四年以来の両市の交流は、市の代表団の相互訪問をはじめ、都市計画、ゴミし尿処理、医療、ガス事業などの技術研修生受け入れ。経済貿易団体、医療施設、福祉保健、公園緑化、教育視察団の訪問、小学校提携、留学生交換、青少年スポーツ交流など。 

提携一〇周年の九四年には、牡丹江市では「日本国・大津展」が、大津市では「牡丹江書画展」が開催され、水墨画五〇点が大津市に寄贈された。
二〇周年の〇四年には目片信大津市長ら代表団が牡丹江市を訪問している。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-東北地区の戦傷を超えて

東北地区の戦傷を超えて

宇都宮市とチチハル市(黒竜江省) 

 チチハル(斉斉哈爾)市は、東北地区黒龍江省の省都ハルビン市から北西に約二七〇キロに位置する省第二の都市である。チチハルは「辺境」という意味だが、一六九二年にまちづくりがはじまり、農業、林業、牧畜で着実に発展してきたが、豊富な天然資源を利用した工業都市化もすすんでいる。新中国成立後の一九五四年にハルビンに移るまでは省都であった。丹頂鶴が有名で、保護区となっており、世界のツル一四種のうち半数以上が飼育されている。そのため「鶴城」とも呼ばれている。人口は約五九〇万人。

宇都宮市とチチハル市とのつながりは、一九八〇年五月に第一次宇都宮市民訪中団三〇人のうち六人が未開放地区だったチチハルを訪ねたことが契機となった。八二年五月の第二次市民訪中団九〇人のうち三二人が再び訪問し、八三年一二月にはチチハル市代表団が市長の親書を携えて来訪し、友好都市提携の申し入れをするまで進んだ。八四年七月にはチチハル市陳雲林市長一行が来訪し、両市の友好都市締結に関する合意書を取り交わした。

そして調印式は八四年九月三〇日、チチハル市でおこなわれた。訪れた宇都宮市友好都市締結調印団団長の増山道保市長と陳雲林市長が議定書に署名した。

戦時中の東北地区での歴史を踏まえて、陳市長は「調印までの関係者の方の努力に感謝する」と述べ、増子市長は「皆さんから多くのことを学びたい」と挨拶した。

宇都宮市は、古くから二荒山神社への門前町として栄え、平安時代末期には宇都宮城が築かれた。江戸期には日光街道、奥州街道の要地として参勤交代や参詣客でにぎわった。

一八八四(明治一七)年には県庁が置かれ、九六年には市制が施行されている。先の大戦中は一四師団(東北地区へ出兵)の軍都となり、一九四五(昭和二〇)年の戦災で市街の大半を焼失したが、いちはやく復興を遂げた。昭和の大合併で隣接一町一〇村を合併編入して現在の市域になった。現在は東北自動車道と新幹線の拠点やテクノポリスなど中核市として重要な役割を担う。宇都宮の「餃子」は、全国的に名を馳せたが、一四師団の帰還兵が持ち帰って家庭に定着させたというのが通説になっている。人口は約四五万人。

両市の主な交流は、市職員や市議会代表団の相互訪問をはじめ、酪農、コンピユーター、医学、建築、縫製などの研修生受け入れ、企業研修生の受け入れ、接骨医研修生を派遣、留学生の交換、姉妹校交流など。書画、語学、スポーツも。「チチハル建城三百年記念式典」(九一年)への出席(九一年)や市制百年記念「姉妹友好都市市長サミット」(九六年)への参加、このとき消防梯子車を贈る。そして丹頂鶴の寄贈(九六年)などがある。

二〇周年の二〇〇四年には、七月一五日にチチハル市で、九月二四日に宇都宮市で、それぞれに記念式典をおこなった。水墨画、気功の交流、青少年訪問団の受け入れなどが記念事業。〇五年の「愛知万博」中国館での「チチハルの日」(四月二五日)には激励に駆けつけた。

二〇〇三年八月にチチハル市の工事現場で旧日本軍の遺棄化学兵器が破裂して四〇人余が重軽傷、ひとりが死亡するという事件(八・四事件)が起こり、折りから「侵華日軍」の証拠として報道された。

宇都宮市は、戦禍の歴史を底流として引き受けながら、「平和都市宣言」に沿って友好都市による平和の絆を引き継いでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範)