現代シニア用語事典 #9おわりに

#9おわりに
*・*「昭和丈人」のひとりとして*・*                            
「二〇〇〇年遡行の旅」
洛陽(ルオヤン)。
いまも現代都市として輝いている洛陽市には申し訳ないが、わたしが関心を寄せつづけたのは、歴史の底に輝く華夏文明の揺籃の地であり、周公旦が「土中」と呼んだ洛邑であり、何より二〇〇〇年ほど前の後漢時代に倭の奴国王の遣い(五七年)が、そして三国時代の魏に女王卑弥呼の遣い(二三八、二四三年)がはるばると朝貢に訪れた都、「日中交流の原点」ともいうべき古都としての洛陽であった。 
「二〇〇〇年遡行の旅」は、若い日からの志として、心の奥のあちこちに移動させながら持ちこたえてきた。「初志」というよりは夢の領域に近かったから、実際に果たすとなると何か特別の力が、それも内側からというより外から呼び覚ましてくれるような衝撃的な力が必要だった。
そんな衝撃的な力が何度もやってきた。契機はこれといって明確ではなかったが、何かの力に押されるようにして、中国中原の古都洛陽へ出奔した。一九九四年の秋、五五歳で、通い慣れた東京築地の新聞社を自主退社して、遠い日の夢であった「二〇〇〇年遡行の旅」を果たすことになったのである。 
「日中交流の原点」
「洛陽漢魏故城」
日本からの遣使がおとずれた故地「日中交流の原点」である洛陽を訪ねて、この国と大陸との関わりの原点に立つことで、大陸とこの国の将来を見はるかす糧を得るという漠とした目標を課しての出奔であった。
王朝が変わるごとに隆盛と繁華と衰微とを何度となく繰り返して、「九朝の王都」となったといわれる洛陽の、いまは「洛陽漢魏故城」と呼ばれている同じ地に、二〇〇年ほどを隔ててこの国からの遣い人が訪れたことはあまり知られていない。
朝貢を受けてくれたのは、漢王朝を再興した晩年の光武帝劉秀であり、三国時代の魏では曹操の孫の曹叡であった。蜀の諸葛孔明は四年前に五丈原の陣中で寿終の時を迎えていたが、司馬懿仲達は遼東の公孫淵を討ってなお健在であった。いずれも王朝の初期にあたり、首都は破壊後の建設途上にあってにぎわっていたころのことである。
くだって唐代になり、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という劉希夷の有名な詩が東都洛陽の花の季節に詠われたが、「歳々年々人同じからず」の中には、遣唐使として命がけで海を渡った阿倍仲麻呂や吉備真備や井真成らの姿も見られたことだろう。この詩の花はもちろん桜ではなく、洛陽の東郊に咲き誇った桃李の花であった。花の下で今を時めく「紅顔の美少年」に対して白頭の老が昔日の憶いを述べたものだが、いま洛陽郊外の花といえば、花もまた同じからずで、北郊の丘に春を誇るのは大輪の牡丹である。
あたたかく迎えいれてくれた洛陽外国語学院の外籍専家として滞在中の四月中旬、「花城」といわれるほどに街中が牡丹の花に埋もれる「牡丹花会」のころに、ふと「丈人」ということばと出会ったのだった。その時は力の篭もることばだというほどの印象で、異郷にいるわたしを力づけてくれたことばは、「樹大招風」や「単刀赴会」や「非常之人」のほうであった。 
「漢字文化圏」
「東アジアの大都市東京」
漢字の力は限りなく、測りがたい。四〇〇〇年余を使いこまれてひとつひとつ輝いている。 わが国の先人が移入して扱いはじめて約二〇〇〇年。時代の変遷とともに多重な意味合い(音訓の多様さ)を付与して使いこんできた。「漢字文化圏」に生まれ育った者として、東アジアの歴史と文化の揺籃の地に、高年になって降り立ったのだった。
といって五〇年余を過ごしてきた東京を、時空のむこうに忘れ去ったわけではなかった。
いまは城壁のほか何も残らない「洛陽漢魏故城」の畑中の道を歩きながら、倭国からの遣い人の姿を思い、邪馬台国からの難升米や都市牛利(どう読むのかわからない)を偲び、二〇〇〇年を遡行して中原の王城跡から漠として東方をみたとき、「東京」は奈良や京都に対応する東都であるとともに、北に「北京」(ベイジン)があり、南に「南京」(ナンジン)があり、西に「西安」(シーアン)があるように、東に当然あっていい「東アジアの大都市東京」(ドンジン)として多重化して意識されたのであった。かつて青年の日に、奈良や飛鳥の地をたずねて畑中の道を歩きながら東京をみたとき、日本の歴史が漠として納得されたのと似ていた。 
「天命を革めて立つ」
「侵略者の蛮行」
それとともに、この中原の地に繰り返されたいくつもの王朝のようすが思われた。ひとつの王朝(長くて約三〇〇年)が衰亡期を迎えるたびに、穏やかに「禅譲」する場合もあり、前王朝のすべてを破壊し夷平しつくして「天命を革めて立つ」こともあり、あるいは武威をもって北方から踏み込んだ異民族が漢化することによって蘇ることもあった。後者の例には鮮卑拓跋族(北魏)や蒙古族(元)や満族(清)があり、それと重なって、二〇世紀前半の日本の軍事行動が「侵略者の蛮行」の繰り返しとして理解されたのだった。
だから両国の長い関係の中でまことに不幸なことだが、近代騒乱期に中国に踏み込んだ日本軍によって引き起こされた「盧溝橋事件」(一九三七年七月)と「南京事件」(同年一二月・中国では南京大賭殺)とは、新たな政権(中華人民共和国)からは、侵略者の蛮行として末長く非難されつづけざるをえない事件となっている。同じ時期に、さまざまな分野でなされていた穏和で文化的な日中交流の経緯を覆ってしまった蛮行は、蛮行として率直に謝罪をしつづけながらも、侵略の非難はむしろ先行してアジア諸国を席捲した「欧州列強」の営為に対してこそ向けられるべきものであり、日中韓国が力をあわせて明らかにする事業が、東アジア史の課題として残されているのである。 
「敵人の砲火」
「国際的ルール違反」
新世紀の東アジア安定の要である日中国民がお互いに信頼し合うためには、中国国歌にうたい込まれている「敵人の砲火」がだれによるものかを忘れ去ることができるほどに、冷静に親密に対応しつづけねばならないのに・・、と洛水の河畔をそんなことを考えながら歩いた。
何よりも「盧溝橋事件」や「南京事件」を繰り返し思い起こさせるのが、A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝である。すべての戦争犠牲者の冥福と平和を祈るという理由での参拝は、国際ルールとしては成り立たない。盤上で争うすべての駒を生かそうとする「日本将棋」のルールを人道的として自認することで、敵対した駒を盤上からきびしく抹殺する「中国象棋」や「チェス」のルールを無視することになる。「誤解にもとづく」などといってすむことではない。子どもすら納得させえない「国際的ルール違反」なのである。
同じ場所(中原や中国)に勃興しては衰亡することで重ねられてきた歴史(正史)が、王朝の断代史であることの厳しさは、A級戦犯を断罪できない日本の国民性からは、良くも悪くも理解がむずかしい。
「二〇〇〇年遡行の旅」へとわたしを押し出した力が何であったのかは世紀を越えたいまも定かでない。が、華夏文化の発祥の地であり、この国との関わりの原点ともいうべき「洛邑土中」の地に立たなければ得られなかったもの、それは「東アジア」の来し方をさかのぼることで、将来にむけて平和裏にこの国がなすべき漠とした役割であった。「平和憲法」の堅持そして世紀末に還暦とともに「国際高齢者年」を迎えたことで、この国に綺羅星のように輝く「現代丈人」である人びととともになすべき事業「日本型高齢社会」形成への確とした信念であった。十年をかけて推移を観察しつつ本稿をまとめた力もまたそこに起因する。 
*・*津々浦々の「丈人」である人とともに*・* 
「日本列島総不況」
「綺羅星のごとき人びと」
中原の古都洛陽での暮らしから戻ったのが一九九八年の秋で、折り返してまた出かけようと思っていたところが、さして長くはないタイム・トンネルを抜け出てみた、幹とも頼むこの国のようすがどうもおかしい。「日本列島総不況」がいわれたころで、幹がやわになってしまっては、海外に張った小枝に葉を茂らせ花を咲かせようにもむずかしくなる。春まで持ちこすことにして、とこうするうちに厳冬期をすごして九九年春の訪れ。四月には寒い春にこごえるように桜が咲いて、侃侃諤諤の都知事選挙が争われたのだった。
そのころしきりに、さまざまな場で出会った先輩が思い出された。洛陽で東の空にみた「あの「綺羅星のごとき人びと」は、いま何をしているだろう」と思ったのである。 
「国際高齢者年」
「年たけてまた越ゆべし」
有名であるよりも無名であることにこだわり、個人の利よりも共同作業をする人びととの益を願う人びと。いろいろな分野で業績を残して後輩に後をゆだねて、なお余力をもったまま引退していく先輩を送るたびに感じたことは、この優れた人びとを失って、自分たちでこれからの難局を抜けられると思ったら、後進としてはあまりにも不遜ではないかということだった。
疾風怒濤のような「昭和時代」を生き抜いてきて、新世紀を迎えてなお健丈にすごす高年者のみなさんには、歴史の舞台から去りゆく前になすべきことがあるのではないか。
一九九九年はすでに記したように「国際高齢者年」であった。その年から「還暦期」にはいったわたしは、この優れた人びとによって国際的に誇れる「日本高齢社会」の形成が可能に思われた。それは、駆け抜けてきた半世紀の「昭和時代」に心なくも失ってしまった良き風物を再生し創生すること、後人の資産となるような「地域の四季」が息づく特徴のあるまちづくり、「わが土中の地」に立って生きて実感できる地域生活圏の姿として。 
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや」
とつぶやきながらも、みなさんは人生の第三期の「丈人力」を奮い起こしてこの山を越えてくれるにちがいない、という楽観的な信頼があったからである。それは未踏の領域へ踏み出すようなものに思われた。そんな活動に「昭和丈人」のひとりとして参加するというのが、わたしの高年期での目標となった。 
「日本型高齢社会」
「日本丈人の会」
一九九九年の「国際高齢者年」から十年。経緯をみていると趨勢はなお逆方向に動いている。本稿は世紀をまたいで長い模索の時を過ごすことになったが、なお「滄海の一粟」の思いがする。本稿の趣意が同時多発であることを願いながら、ここに「高年期」人生論であり「高年化」社会論として、一石を投ずることになった。一々には触れないが、その間、土壌をやわらげてくれた先人の著作や、いくつもの水脈の在りかを伝えてくれた同僚の報道記事やアドバイスや、何より先駆して行動をおこしてくれている各界のみなさんの「現代丈人」としての営為に勇気づけられてきた。
新世紀に入って、民意を問う総選挙が二〇〇三年一一月九日に、〇五年九月一一日に、〇九年八月三〇日におこなわれたが、どの政党の政策にも明確な「高齢社会」への構想も契機も見出すことができない。
だから高年者層が何かを要望して参加した国政選挙とは思えない。趨勢はさらに逆方向に動こうとしている。世代交代を叫んで呼集される新人議員や女性議員に多くを期待するわけにはいかないし、二世議員を中心にした若手リーダーの視野は狭く、ことばは貧しい。
みずからが動かなければ高年者は危うい。これが最良でありすべてといえるわけもないが、十年の観察期間をへてえた本稿を契機としたい。そして「津々浦々の現代丈人」であるみなさんとともに、見定めえない二〇二〇年ころの「日本型高齢社会」の姿を見据えながら、ここに「日本丈人の会」のもとにひとつの旗幟を掲げて立つこととした。
どこまでいっても完結することのない課題を負った本稿だが、みなさんとはどこかの「丈人の会」でお会いすることになるだろう。 
「おわりにの終わりに」
ここまで飛び跳びにでも読んでくれた人には「おわりに」だが、初めにここを読んだ人には「はじめに」となる。が、どちらからでもよいのは、これが哲学書(ものを考える参考書)だからである。「どう生きる」「こう生きる」という見出しからそれに気づいた人もいるだろう。どうしたら自分で、家庭で、職場で、地域で、「満足」と納得する暮らしができるか、を考えて実行する糧となればいい。ここでページを閉じる前に、いくつかの項目を拾い読んでほしいと思うのである。