友好都市・人物の絆-孔子ゆかりの町づくり

孔子ゆかりの町づくり

足利市と済寧市(山東省) 

「学びて時に之を習う、また説ばしからずや」
というのは、『論語』の冒頭に置かれている有名な章句である。その孔子が教学した場所を記念するのが、曲阜の孔廟内にある「杏壇」で、『論語』はさらに、
「朋有り遠方より来たる、また楽しからずや」
とつづく。孔子が朋友を迎えたであろう故宅の地には、「孔宅故井」が残っている。そこから約三〇〇メートルほど北へゆくと、弟子の顔回が住んだ陋巷故址があって、こちらには「陋巷井」が残っている。

貧しい街で質素に暮らして、生涯その楽しみを改めなかったという顔回は、復聖と呼ばれている。
「一箪の食、一瓢の飲、陋巷にあり」
の現場で、そんな弟子のことを孔子は、「賢なるかな回や」と評して納得している。

ふたつの井戸は二五〇〇年の間、師のやさしい声と弟子の頑固な姿を伝えてきた。

曲阜の中心に座す孔廟の最も奥まった地に建ち、孔子を祀るのが大成殿で、曲阜最大の建造物である。九月二六日の「国際孔子文化祭」には大成殿前の広場で、「八佾の舞」が披露される。孔廟に接して直系子孫が住む「孔府」がある。そして子孫七六代の墓所が「孔林」。これら「三孔」は一九九四年に世界文化遺産に登録されている。
いま、至聖の孔子、復聖の顔回、亜聖の孟子(生地は曲阜の南三〇キロの鄒城)の三聖にちなむ「孔孟之郷」を管轄するのが済寧市である。曲阜市はその管轄下にある市。済寧市の管轄下には、「梁山泊」で知られる梁山県もある。

足利市には、儒学を基礎にした日本最古の総合大学と呼ばれる足利学校がある。「学校」の門内には、江戸時代に建立された「大成殿」(国の史跡)が座し、室町時代の作と伝える孔子座像を安置する。市保存の宋版『礼記正義』『尚書正義』は国宝である。中国で失われていた皇侃の注釈書『論語義疏』は、江戸時代に足利学校の書庫で書写されて出版され、再び中国に里帰りしたという。
足利学校では毎年一一月に、孔子をたたえる祭事「釈奠」を実施している。市はまた「足利学校こだわりのまちづくり」を進めている。足利市の市歌には「至聖の殿堂、稀世の古典」とある。

両市の友好都市提携は、八四年九月二一日に、済寧市でおこなわれた。町田幸久市長を団長とする足利市代表友好訪中団が参加し、済寧市の王渭田市長らが出席して、議定書を朗読、両市長が署名した。
提携後の交流は、曲阜での「国際孔子文化祭」への市民参観、太極拳講師の招請、雑技芸術団の公演、医療研修生や牧場研修生の受け入れ、「孔子孟子の故郷―済寧市文物展」の開催、青少年交流などとつづく。孔子の生地である尼山には「尼山足利希望小学校」を建設した。

先人の事績もある。「楷の木」(とねりばはぜのき)がそれで、曲阜市には弟子の子貢が植えた楷の木がたいせつにされている。足利市には樹齢八〇〇年、樹高二〇メートルを越える楷の木が天然記念物として残されている。
二〇〇四年は友好提携二〇周年に当たった。記念事業として八月に「済寧市民族楽器演奏会」が催され、伝統楽器による「悠久の調べ」が足利学校南庭園に流れた。一一月二三日には済寧市からの代表団を迎えて、記念祝典や牡丹の植樹がおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-「藤野先生」と作家魯迅

「藤野先生」と作家魯迅

あわら市と紹興市(浙江省) 

混乱期にある祖国に思いを馳せて、ひとり懊悩する中国留学生に、熱心に解剖学を教えながらその将来に期待し、希望を与えつづけた藤野厳九郎先生は三二歳だった。のちに作家魯迅となる周樹人は二四歳、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)の学生だった。
半途にして医学を捨てて、文芸に民族の精神的覚醒を求めて仙台を去る周青年に、藤野先生は自らの写真を記念に与え、その裏に「惜別藤野 謹呈周君」と記して贈り、別れを惜しみ激励した。一九〇六年のことである。

それから二〇年後に書かれた「藤野先生」によって、ふたりの知られざる友愛・師弟の絆は、だれもが知る日中友好の絆となった。

福井県の芦原は、藤野厳九郎の生地である。浙江省紹興は魯迅の生地である。ふたりを繋ぎ、芦原町(当時)と紹興市のふたつの市町を結ぶ交流は、芦原町(当時)が一九八〇年の「藤野厳九郎顕彰碑」の除幕式に、魯迅の長男である周海嬰夫妻を招いたことから始まった。翌八一年には北京で開かれた「魯迅生誕一〇〇年」の式典に、斉藤五郎右ェ門町長らが参加、その後に紹興市を訪問して友好市町の提携を申し入れた。友好都市の締結調印式は、八三年五月一八日、芦原町で行われた。 

以後、おもに友好交流としては、人的交流を中心に活動してきた。芦原町からは毎年、各界の友好親善訪中団や少年使節団がたずね、紹興市からは市友好訪問団や経済貿易視察団が来訪している。料理、農業、語学研修生の受け入れ、一五周年には紹興市会稽山レジャー区の中日友好桜林公園に一二四二本の苗木を寄贈した。 
二〇周年の二〇〇三年には、魯迅と藤野厳九郎と魯迅の交流を次世代に伝えていくために副読本「魯迅と藤野厳九郎」を制作、一一月には記念式典とシンポジウムが行われた。

あわら市は日本海に面した田園と温泉の町で人口は三万余。一方、紹興は人口四三○万人の著名な歴史文化名城である。小さな町と大きな都市を等しく結ぶものについて、副読本である「魯迅と藤野厳九郎」を読んだ感想文に、芦原中学の北浦智揮くんは、「二人が違う人生を歩んでいても、連絡を取っていなくても、その友情は、決して崩れなかったことだ」と記す。
その思いは、中学国語で「藤野先生」を学んだ中国の若者たちも等しく持っているものであり、「魯迅の前半生における光」を与えてくれた藤野先生との交流は、「日中友好の一つの証である」と、二〇周年記念シンポジウムに参加した紹興文理学院の陳越教授も講演で述べている。

芦原町は〇四年三月、北隣の金津町と合併して「あわら市」となった。友好都市事業は新市に引き継がれている。あわら市の「藤野厳九郎記念館」には、これまでに中国各地から二五〇〇人を超える人びとが見学に訪れている。魯迅が藤野先生に学んだ仙台の東北大学には、魯迅が使ったという机が記念に残されている。北京の「魯迅博物館」には、「解剖学ノート」(一八〇〇ページ)が大切に保管され、藤野厳九郎の胸像も陳列されている。
そしていま多くの「平成の藤野先生」が、日本各地で留学生や研修生に将来への展望を与えている。二○年後には、いくつもの新たな「藤野先生」が書かれるにちがいない。

紹興市は、魯迅にちなむ「あわら市」と、また産物の絆として酒にちなむ西宮市と友好都市提携をしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-維新・革命の先駆を担う

維新・革命の先駆を担う 

鹿児島市と長沙市(湖南省)  

鹿児島市と長沙市は、ともに国の近代化の震源地となった歴史都市である。時代の転換期に命をかけて奔走した偉大な先駆者とともに、その原動力となった若者たちを提供したことでも類似の経緯を持つ。
薩摩にいて、世界の大勢を見ぬいて、日本近代化の先駆者となった西郷隆盛や大久保利通、そして長沙を拠点として中国の新時代を導いた毛沢東や黄興。時代の先方を見据えて立つふたつの像――鹿児島市立美術館脇の「西郷隆盛像」と長沙市博物館前の「毛沢東像」は、近代アジアを切り開いた偉丈夫像の双璧といえるであろう。

鹿児島市は、かつて平安時代に鑑真和上が上陸した遠い記憶を持つ。遣唐使船以来の交渉があった中国との友好都市締結には、早くから市民の関心が高かった。一九八一年には各界代表団が中国各都市を訪問し友好を深めた。それぞれ国の南方にあって、よく似た開放的な歴史都市である長沙市から八二年三月に提携の希望が伝えられて、先遣視察団を送るなどの準備にはいった。

友好都市締結の調印式は、一九八二年一〇月三〇日、鹿児島市に長沙市代表団を迎えて、熊清泉市長と山之口安秀市長との間でおこなわれた。その後、締結を記念して、長沙駅前公園に「友好和平の像」(八四年)が建てられ、桜島を望む天保山に「共月亭」(八五年)がそれぞれ落成している。

 長沙市は、湖南省の省都である。人口は約六一○万人。市域は湘江の岸辺にひろがる。産業としては陶磁器、刺繍、竹細工など伝統的なものも多い。湖南省博物館には世界を驚かせた発掘、二一〇〇年前の「馬王堆漢墓」からの出土品、漆器、織物、楽器、陶器、刺繍などが展示されている。毛沢東は、ここの第一師範学校に通い、省の図書館に篭って、ここで世界への目を開いた。日本の明治維新、西郷南洲にも関心をもっていた。

鹿児島市は、二〇〇四年一一月に一市五町が合併して、人口六〇万人を擁する新鹿児島市になった。噴煙を上げる桜島も市域にはいった。いうまでもなく島津七七万石で知られて薩摩藩は、近代日本の誕生に貢献した雄藩のひとつだが、西南戦争で西郷南洲を失うとともに多くの犠牲者を出した。こちらも薩摩焼酎や薩摩焼、大島紬、屋久杉工芸などといった伝統的な特産物が豊かな土地柄である。

これまでの友好交流は、交流協議にもとづく毎年の市代表団の相互訪問のほか、市役所の行政、水道、環境、観光、国際交流など各課への研修生、市立病院への医学研修生、農業実習生などの受け入れ、高校生の派遣、動物交換(鹿児島市からはシマウマ、チンパンジー、長沙市からウはンピョウ、レッサーパンダ)、さらに日本語図書の寄贈、中学生のスポーツ交流、など、さまざまである。
五年ごとの交流協議、周年記念式典で記念植樹や記念公演、マイクロバス(鹿長友誼号)の贈呈など、「心触れ合う温かみのある交流」をめざして実績を積み上げてきた。
とくに〇四年七月には、長年にわたる活動を祝って「長沙市・鹿児島市友好交流祝賀会」を長沙市で開催し、赤崎義則市長を団長とする各団体からなる友好代表団(六団体九〇人)が訪れて、新たな発展を誓い合った。

二〇〇七年の提携二五周年にあたり、それまでの交流実績二七〇団体・約四〇〇〇人の交流や協力を評価した上で、長沙市の譚仲池市長は、とくに「研修生たちは帰国後、それぞれの分野の中堅幹部となって活躍しています」というお礼のメッセージを寄せている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-湘南の海に眠る聶耳の夢

湘南の海に眠る聶耳の夢

藤沢市と昆明市(雲南省) 

作曲家聶耳は、一九三五年四月に来日すると、寸暇を惜しんで音楽を聴き、映画や新劇を精力的に見、日本語を学んだ。上海で左翼文芸工作者が大量逮捕されたあと脱出し、いずれは欧州からソビエトへゆく目標を持っての日本滞在だったが、若い心を動かすもの、すべてを吸収した。そして七月、藤沢の友人宅で運命の数日を過ごすことになった。 
江ノ島遊覧、鵠沼海岸の海水浴、静かな町、曲折する小道の散策、親切な人びと・・聶耳はすべてが気に入って愉快に過ごした。
「明日から新しい計画を始める」 
と記した聶耳は、七月一七日昼すぎ、水浴に出た鵠沼海岸の波涛の中に姿を消した。二三歳五カ月の短い生涯だった。

いま歌われている中国国歌の原題は「義勇軍進行曲」である。三五年、劇作家田漢が作詞し、若き聶耳が作曲した。抗日救国に決起した中国青年を描く映画「風雲児女」の主題歌として発表され、「敵人の炮火」を冒して前進する愛国の叫びとして広く愛唱された。四九年一〇月一日、中華人民共和国成立とともに暫定国歌に選定され、八二年には正式に国歌として制定された。

聶耳生誕の地は昆明市である。中国西南地区雲南省の省都で、漢族のほか二五の少数民族が住む。高原で温暖なために「春城」と呼ばれる花と湖と文化の都市。人口約四八〇万人。
藤沢市は、相模湾に面した温暖な海浜都市。都心から五〇キロの静かな住宅地で、学園・観光都市でもある。人口約四〇万人。聶耳が亡くなった鵠沼海岸には、六五年に郭沫若の「聶耳終焉之地」題詞による聶耳(四つの耳)を抽象した記念碑が建てられ、没後五〇周年(八五年)を記念して、八六年には新たに胸像浮彫を配した「聶耳広場」が市民によってつくられた。

両市の友好都市提携は、八〇年五月に湘南各界代表友好訪中団が昆明市を訪問して友好を深めたのが契機となった。締結は八一年一一月五日に、昆明市代表団を迎えて、朱奎市長と葉山崚市長とが調印して成立した。
「中国国歌の作曲者聶耳を仲立ちとして生まれた歴史的な友好関係を発展させる」
 を目標として、さまざまな分野での交流が着実に進んでいる。藤沢市からは経済交流親善考察団、国際交流青年団、市議会代表団、ジュニアオーケストラ、囲碁、卓球などの代表が訪れ、九九年の「昆明花博」には藤沢市民一四〇人、友好都市提携二〇周年の二〇〇一年には二二〇人の市民訪問団を送った。昆明市からは行政、経済、商工業などの使節団、医療、商工業、水道などの分野の研修生のほか、少数民族歌舞団の来日公演なども行われている。

 友好都市提携二五周年にあたる〇六年一一月には、山本捷雄市長を団長とする代表団が昆明市を訪れて、藤沢昆明文化交流展や生け花展示・茶道交流、聶耳墓参などに参加した。
湘南日中友好協会を中心にした活動で、八六年には昆明市に「藤沢昆明友誼館」が落成した。九六年からは日本語教室を開設している。聶耳の姪聶麗華さんも学んだという。また九九年八月には禄勧イ族ミャオ族自治県に「沙魚郎希望小学校」を贈る活動も実を結んだ。落成式では児童代表が可愛い大きな声で、
「二一世紀の新しい跡継ぎとして、よく勉強して、優秀な成績で皆さまに報いたいと思います」
とお礼を述べた。湘南の海に眠る聶耳の夢は、この雲南の子どもたちが引き継いでくれるにちがいない。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・人物の絆-風雲流離のひと郭沫若

風雲流離のひと郭沫若

市川市と楽山市(四川省)

激動の革命期を乗り切った一九五五年、郭沫若(中国学術文化使節団団長)は、かつて亡命して一○年をすごした市川市須和田に残る旧居を訪れた。近隣の人びとの変わらない情愛に触れ、ありし日の姿を懐かしみ、身を死地に処する覚悟で去った日を、
「ひそかに思うに我は帰るを得で あるいはこの地に葬らるる身とならむか」(長詩「別須和田」)
と万感の思いをこめて想起する。

郭沫若は、一九一四年に日本に留学した。一五年から第六高等学校医科(岡山市)にまなび、その間に安娜(佐藤富子)と同棲した。二三年には九州帝国大学医学部(現在の九州大学医学部)を卒業して帰国したが、難聴が理由で医学を捨てて、文学の改革や政治活動の道をたどることとなった。
そして二八年に国民党政権に追われて家族とともに日本へ亡命する。上海時代の知人村松梢風に紹介されて仮寓の地となったのが、東京と川ひとつ隔てた市川だった。憲兵や刑事が常に監視の目を光らせる中での滞在であった。

異郷の地の「斗室」(小さな室)に篭ってまとめあげた『中国古代社会の研究』など三部作は、唯物弁証法による方法論と堅実な分析が中国古代史を読み解く実践的手法を示すこととなり、上海で出版されると知識層の支持を得た。
しかし時代はなおも暗転する。
三七年七月七日に華北で事変(盧溝橋事件)が勃発したのである。国家と民族が危機に瀕している、一身を顧みていられようか?
七月二五日の早暁、郭沫若は心を鬼にした。妻の安娜、和夫、博そして末っ子の志鴻まで五人の子に置き手紙をしたためて、市川の家を出た――。

郭沫若のふるさと楽山市と亡命の地であった市川市を繋いだのは、長男の郭和夫氏だった。七九年六月に市川市を訪れた際に、友好都市提携の希望を聞き、帰国したのち、郭沫若の生誕の地である楽山市を推薦した。
八〇年四月には、市川市議会議員訪中団が楽山市を訪れて、市川市長の親書を手渡し、提携の意向を伝えた。両市の友好都市提携の調印は、八一年一〇月二一日に、楽山市友好代表団を市川市に迎えて、薛万才市長と高橋国雄市長によって行われた。

楽山市は、四川省中央部にあって、長江水系の三つの河が合流する地点にあり、成都や重慶を結ぶ交通の要衝として栄えた。「峨眉山と楽山大仏」はよく知られた世界遺産である。峨眉山は仏教聖地で万仏頂は標高三〇〇〇メートル余。途中に明代以後建立の寺院が残る。楽山大仏は八〇三年に完成した磨崖仏で、像高五九メートル余は残存する磨崖石仏では最大である。楽山市の人口は約三五〇万人。沙湾という、大渡河に臨み峨眉山を望む町が、郭沫若のふるさとである。

主な友好交流としては、川劇・民族歌舞団の公演、レッサーパンダの贈呈、梨栽培や都市建設技術研修生の受け入れ、「中日友誼学校」(沙湾区)の建設、毎年交互に行われる高校生の親善使節などがある。
市川市は、万葉集の真間の手児奈で知られる。近年は都心に近く東郊の風光明媚な地として文人に愛されて、北原白秋、幸田露伴、永井荷風なども暮らした。人口は四五万。

二〇〇一年の二〇周年には「郭沫若写真展」を開催、〇四年の市制七〇周年を記念して、市川市は「別須和田」詩碑(郭沫若の自筆・六七年に建立)と旧居を移築した「郭沫若公園」を開設した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

四字熟語-声振林木 

せいしんりんぼく

「声は林木を振るわす」というのは、歌声があたりに響くと同時に聴く者の心を振るわせるようすをいう。現代の「声振林木」といえば、暮歳の夜の街の並木の梢を飾る電飾を振るわす聖歌が、行く年を元気づけ、来る年に期待する光景といったところだろうか。

秦の声楽家であった薛譚は、歌を秦青に学んだ。まだ師の技能を窮めなかったのにすでに学び尽くしたと思い、辞し去ることを申し出た。秦青はことばで止めず、街外れまで送って、手拍子をうち悲しみの心をこめて別れの歌を歌った。
声は林木を振るわせ、響きは行く雲をとどめたという。類まれな絶唱である。薛譚はあやまちを知り、謝して留まることを求め、その後は終身去ることを口にしなかったという。

人の心を深く打つ歌の力を伝えることばである。歌は子守唄から屋外のライブまでいつでもどこでも人生に力を与えてくれる。欧米で人気の由紀さおりさんのスキャットも林木を振るわせる美しい音色である。 

『列子・湯問』から

四字熟語-各有千秋

かくゆうせんしゅう

「千秋」は千年のこと。「各(おのおの)に千秋有り」というのは、ひとつひとつの物事あるいはひとりひとりの人生にはそれぞれ久遠の流伝があると理解すること。なにごとも探っていくと遠い淵源にたどりつく。

漢の李陵の「与蘇武三首」には、それぞれ天の一隅にあってもはや友人として再び遇えない「三載(三年)は千秋となる」と、重い「千秋」が詠われている。李白や杜甫の「千古絶唱」というべき詩などは時代が明解で、「名流各有千秋あり」ということになる。無名であるわたしたちの人生も、それぞれ千年の来歴をたどりながら現在がある。
三国時代の英傑、曹操・劉備・孫権の違いを「各有千秋」というなどは語感として素直に理解できる。

 しかし現代漢語としては「各有千秋」の意味は軽い。存在価値の違いあるいは特徴や特色ほどの意味合いで軽く広く使われている。こそどろの手法の違いや中年女性の短髪の特徴、車の外観の特色なども「各有千秋」なのである。

趙翼「瓯北誌鈔・絶句」など

四字熟語-胸有成竹

きょうゆうせいちく

竹は竹かんむりの字が多いことからも、さまざまな用途をもった植物として親しまれてきたことがわかる。まず筆がそうだし、竿、箒、箸、箱、籠、笛、笠、節や筋もそうである。また竹はそのたたずまいを愛されて、詩画としても数多くの名品が残されている。

北宋時代の四川に文与可という竹の画に秀でた人がいた。ことのほか窓外の竹を愛でて、春秋、朝夕、晴雨といった自然の変化の中での竹を仔細に観察して描いた。同時代の文学者晁補之は「胸中に成竹あり」と称賛している。描く前に画が胸中に完成しているのだから上手なはずである。

ことをなす前にすでに胸中にしっかりした結果が見えている(成算がある)例として用いられる。
折りしもTPPへの加入問題に対する野田首相の態度について、「人民網」は「賭博かそれとも胸有成竹?」の見出しを付けた。賭博ということはないだろうが、といって国民を納得させる「成竹」が胸中に描けているのかどうか。 

晁補之『鶏肋集・八』から

四字熟語-邯鄲学歩

かんたんがくほ

いま若者は都ぶりをどこで学ぶのだろう。原宿か青山あたりだろうか。

ひとりの若者が都ぶりの歩き方を学ぼうとして、北国燕のいなかから趙の都邯鄲にやってきた。「邯鄲に歩を学ぶ」である。しばらく努めてはみたもののサマにならない。あきらめて故郷へ帰ろうとしたが、元の歩き方を忘れてしまって歩けない。そこで這って帰るしかなかった‥。

あこがれて都会へ出たものの挫折して故郷に帰る。しかし故郷でも受け入れられなくなる例もある。
古くから中原の古都であった邯鄲市にちなむ成語は一五〇〇余もあって「成語典故の郷」と称している。市内に「趙台」や「成語典故苑」を設けて彫像や碑文に託して展覧している。よく知られるものに「刎頸之交」「完璧帰趙」「奇貨可居」「背水一戦」「黄粱一睡(邯鄲之夢)」それにこの「邯鄲学歩」も。いまも明代の遺構を伝える石づくりの「学歩橋」が沁河に架かっている。蘭陵王入陣曲は日本から邯鄲に「秘曲帰趙」した。

『荘子「秋水篇」』など

 

 

四字熟語-江郎才尽 

こうろうさいじん

誰がそうだとはいいづらいが、テレビやマスコミに出づっぱりでいる人の中に「才人」ではなく「才尽」といってよい人を見かける。みずから顧みれば、ことばに冴えがなくなり行動に切れ味がないのだから本人が気づかないわけはない。

南朝の宋、斉、梁の三代に仕えた江淹は、若いころには精彩のある擬古詩を発表してもてはやされたが、高官にのぼるにつれて文思に冴えを失い、晩年になると文才を使い尽くしたかのようになり、「江郎才尽」といわれるようになった。
「才尽」といわれようとも三代に仕えた能力は並みでない。保身のために演じたのだとする見方もあるが、「才尽」の歴史的シンボルとされたのだから、実際それに近かったのだろう。

政権が目まぐるしく代わる時代、保身のために何度も面だけを革める「才尽」型の人物にこと欠かない。一方に芸能、工芸の分野には無形文化財保持者(人間国宝)に指定され、生涯輝きを失うことなく向上する姿を示す才人もいる。 

『梁書「江淹伝」』から

『日本と中国』連載「四字熟語ものがたり」より
堀内正範 ジャーナリスト