湘南の海に眠る聶耳の夢
藤沢市と昆明市(雲南省)
作曲家聶耳は、一九三五年四月に来日すると、寸暇を惜しんで音楽を聴き、映画や新劇を精力的に見、日本語を学んだ。上海で左翼文芸工作者が大量逮捕されたあと脱出し、いずれは欧州からソビエトへゆく目標を持っての日本滞在だったが、若い心を動かすもの、すべてを吸収した。そして七月、藤沢の友人宅で運命の数日を過ごすことになった。
江ノ島遊覧、鵠沼海岸の海水浴、静かな町、曲折する小道の散策、親切な人びと・・聶耳はすべてが気に入って愉快に過ごした。
「明日から新しい計画を始める」
と記した聶耳は、七月一七日昼すぎ、水浴に出た鵠沼海岸の波涛の中に姿を消した。二三歳五カ月の短い生涯だった。
いま歌われている中国国歌の原題は「義勇軍進行曲」である。三五年、劇作家田漢が作詞し、若き聶耳が作曲した。抗日救国に決起した中国青年を描く映画「風雲児女」の主題歌として発表され、「敵人の炮火」を冒して前進する愛国の叫びとして広く愛唱された。四九年一〇月一日、中華人民共和国成立とともに暫定国歌に選定され、八二年には正式に国歌として制定された。
聶耳生誕の地は昆明市である。中国西南地区雲南省の省都で、漢族のほか二五の少数民族が住む。高原で温暖なために「春城」と呼ばれる花と湖と文化の都市。人口約四八〇万人。
藤沢市は、相模湾に面した温暖な海浜都市。都心から五〇キロの静かな住宅地で、学園・観光都市でもある。人口約四〇万人。聶耳が亡くなった鵠沼海岸には、六五年に郭沫若の「聶耳終焉之地」題詞による聶耳(四つの耳)を抽象した記念碑が建てられ、没後五〇周年(八五年)を記念して、八六年には新たに胸像浮彫を配した「聶耳広場」が市民によってつくられた。
両市の友好都市提携は、八〇年五月に湘南各界代表友好訪中団が昆明市を訪問して友好を深めたのが契機となった。締結は八一年一一月五日に、昆明市代表団を迎えて、朱奎市長と葉山崚市長とが調印して成立した。
「中国国歌の作曲者聶耳を仲立ちとして生まれた歴史的な友好関係を発展させる」
を目標として、さまざまな分野での交流が着実に進んでいる。藤沢市からは経済交流親善考察団、国際交流青年団、市議会代表団、ジュニアオーケストラ、囲碁、卓球などの代表が訪れ、九九年の「昆明花博」には藤沢市民一四〇人、友好都市提携二〇周年の二〇〇一年には二二〇人の市民訪問団を送った。昆明市からは行政、経済、商工業などの使節団、医療、商工業、水道などの分野の研修生のほか、少数民族歌舞団の来日公演なども行われている。
友好都市提携二五周年にあたる〇六年一一月には、山本捷雄市長を団長とする代表団が昆明市を訪れて、藤沢昆明文化交流展や生け花展示・茶道交流、聶耳墓参などに参加した。
湘南日中友好協会を中心にした活動で、八六年には昆明市に「藤沢昆明友誼館」が落成した。九六年からは日本語教室を開設している。聶耳の姪聶麗華さんも学んだという。また九九年八月には禄勧イ族ミャオ族自治県に「沙魚郎希望小学校」を贈る活動も実を結んだ。落成式では児童代表が可愛い大きな声で、
「二一世紀の新しい跡継ぎとして、よく勉強して、優秀な成績で皆さまに報いたいと思います」
とお礼を述べた。湘南の海に眠る聶耳の夢は、この雲南の子どもたちが引き継いでくれるにちがいない。(二〇〇八年九月・堀内正範)