四字熟語-松柏之茂

松柏之茂

しょうはくのも

他の植物が葉を落として新年を待つのに、松と柏は寒中にも葉を緑に繁らせて長寿であることから、「松柏の茂」は衰微せずに不変であることに例えられる。

この柏は日本のカシワではなく和名コノテガシワ(児の手柏)のことで常緑樹。カシワは落葉するので一見すれば違いがわかるのに、なぜか先人は柏の字にカシワを当ててきた。わが国に老樹は多くないが、東京・国分寺市の祥應寺で樹齢六〇〇年を超える大樹をみることができる。

実は南京の老樹「六朝松」が柏であるなど、中国でも松と柏をわけずに用いてきた例は多い。旅先で「古老柏」に出会う。中岳嵩山の嵩陽書院内には漢の武帝によって将軍に封じられた「将軍柏」がいまも傾きながら雄姿をみせているし、山西省太原市の晋祠や高平市には三千年柏もある。

先人は松柏に託して長寿を願ってきた。「松柏の茂」は堅固で厳しさに耐える品格を評することばとして、二千年傾くことなく故事成語の林に立っている。 

『詩経「小雅・天保」』など

四字熟語資料 動物に関する四字熟語

うさぎ

狡兎三窟 こうとさんくつ

ずるがしこい兎は三つの隠れ場所を持っているというのが「狡兎三窟」(*1)である。ずるがしこいといわれようと、強者の多い原野で、とくに武器になるような器官をもたない弱者である兎が難を逃がれて生きていく道は、危機察知能力とすばしっこいことと三つの隠れ場所を持っていることにある。そのうちのひとつは子育てのためのようだが。戦国時代斉の孟嘗君の食客のひとり馮諼(ふうけん)は、「狡兎三窟ありてわずかにその死を免るるのみ」といい、君が高枕をして臥すためには、あと二窟をつくりなされと説いて、他の二策を用意するよう勧めた。「二兎を追うもの」は六窟を相手にするのだから、一兎をも得られない結果になってもいたしかたがないだろう。

*1『戦国策「斉策」』から。

「狐兎之悲」「兎走烏飛」「守株待兎」「兎死狗烹」

 ねずみ・ねこ

猫鼠同眠 びょうそどうみん 

猫と鼠がいっしょに眠る「猫鼠同眠」(*1)というのはありえない情景だから、このことばはネコに問題があることを示唆していることに注意しよう。たとえば不正を働いた部下を見つけたら、通常なら罰しなければならないはずの上司や管理者が、何もしないで見過ごしたり、いっしょになって不正に荷担するなどがそれ。犯人を捕えなければならない警察官が犯人を捕らえられないこともまたその類ということになる。各代王朝の後退期には「猫鼠同眠」といった情景はいくらでもみられた事象だったことが想定される。一方に、鼠を見て捕らえないのは猫の「仁」であり、鼠が食を奪うのに譲ってやるのは猫の「義」であるとする猫擁護派の意見もある。

*1『金瓶梅「七六回」』など。

「看猫画虎」「目光如鼠」「鼠雀之輩」

 いぬ

桀犬吠尭 けつけんぼうぎょう  桀犬尭に吠ゆ 

禹が開いた夏王朝を滅亡させてしまったのが桀王。次の湯が開いた商・殷を滅ぼしてしまったのが紂王。ふたり揃えて「桀紂」といえば、暴虐非道の君主の例とされる。一方で尭と舜と禹は、人民とともに仁政を尽くした聖君主の例とされる。だから「桀犬尭に吠ゆ」(桀犬吠尭。*1)というのは、桀のような暴君の飼い犬が、尭のような聖人に向かって、時代を飛び越えて吠えかかるということになる。悪玉の大盗の跖の犬が、「跖狗尭に吠ゆ」(跖狗吠尭。*2)というのもある。犬は飼い主の善し悪しにかかわらず、ひたすらに主人のために吠えかかるということなら、「尭犬桀に吠ゆ」もあっていいのだが、こちらではあたりまえすぎて用いる場がない。

*1『晋書「康帝紀」』など。 *2『戦国策「斉策」』から。

「鷹犬塞途」「犬馬之労」「喪家之狗」

にわとり

鶴立鶏群 かくりつけいぐん

鶏の群れの中に、背が高く首が長く真っ白い鶴が混じって「鶴立鶏群」(*1)であれば目立つには違いない。が、鶴は鶏群に混じるより飛び去ってしまうだろうから、実見してのことではあるまい。風姿や才能が他に抜きんでて際立つことにいう。「竹林七賢」のひとり嵆康のむすこの嵆紹が、はじめて都の洛陽に入ったのをみた人が、これも竹林七賢のひとり王戎に「昂昂然として野鶴の鶏群に在るがごとし」(*2)といったことからといわれる。「君はあれの父を知らないからね」と王戎は答えているが、鶏群には居らず独立不羈だった嵆康の姿を対置しているように思える。「鶏群之鶴」(*3)ともいう。

*1耶律楚材『湛然居士文集「和景賢十首」』など。

*2『晋書「忠義伝・嵆紹」』から。 *3梁紹壬『論交十六首「其七」』など。

「鶏鳴狗盗」「牝鶏無晨」

 うし

対牛弾琴 たいぎゅうだんきん

 牛に向かって琴を弾ずるのが「対牛弾琴」(*1)で、やってみたものの結局は徒労無効の営為だったということになる。公明儀は、牛に正調の音楽を弾いて聞かせたところ、牛が伏して食べているようすはもとのままだった。牛が聞かなかったのではなく、正調の音楽が牛の耳に合わなかったからだという(*2)。人間の尺度で説法をされたり音楽を聞かされて、まるで分からないといわれるのは牛や馬にとっては迷惑なことだ。牛が聞いて喜ぶような音楽をつくってやってみなければわかるまいというのが、このことばの原意である。熊は踊るようだが、牛耳にやさしい演奏を聞けば腰を振るに違いないのである。

*1普済『五灯会元「惟簡禅師」』など。*2牟融『理惑論』から

 「牛刀割鶏」「汗牛充棟」「鶏口牛後」

 うま

老馬識途 ろうばしきと 

馬は往きの路をよく覚えていて、主人が疲れたり泥酔したりして馬上や馬車で寝込んでしまっても、路を間違えずにもどってくる。だから酒酔い運転の心配もない。「老馬識途」(*1)である。春秋時代に、斉の桓公の軍が春に遠征をし、冬に帰国するということになった。帰国の途上で行軍の道に迷った時、管仲が「老馬の智は用いるべきなり」(馬は道をよく知っていて迷わない。まかせましょう。老馬之智。*2)といって老馬を放ち、その後に従って国に戻ることができた。老馬にしてしかり、高年社員や引退社友が持っている知識や経験は、困ったときには大いに用いるがいい。わが社の「老馬之智」は、求めて学び継いでいくべきものであろう。

*1文康『児女英雄伝「一三回」』など。

*2『韓非子「説林上」』から。

「走馬看花」「龍馬精神」「伯楽相馬」

さかな

太公釣魚 たいこうちょうぎょ

周初に文王に求められ、子の武王を補佐して殷の紂王を倒した功臣である太公望(呂尚)は、かつて渭水の北で釣りをしながら賢君(文王)の招請を待っていたという。終日糸を垂らして一匹も釣れなかったのは、餌もつけず水面から三尺も離れて糸を垂れていたからだが、呂尚はいう、「魚は求めて針にとびついてくるものだ」(*1)と後世の話には尾ひれがつく。「太公望」と呼ばれるのは「わが太公(父)、子を望むこと久し」(*2)という人物であったことから。「太公望」は、釣り人の代名詞になっているからよく使われるが、自称「太公望」なら、釣果はともかく、語りかけてくる人には穏やかに接するくらいは心得ておこう。

*1『武王伐紂平話「中巻」』から。 *2『史記「斉太公世家」』から。

「沈魚落雁」「縁木求魚」「水清無魚」

 はえ

蝿頭微利 ようとうびり

蝿の頭ほどのちっぽけな利益ということ。日本で少量をいう「雀の涙」は中国では使わない。また狭小な土地に対して「猫の額」というのも聞かない。少量を代表するのは「蝿頭蝸角」(*1)である。つまり蝿の頭と蝸牛の角は身近に見られて小さくて気になるものだからであろう。いずれも猫の額よりは微小なことになる。だから「蝿利蝸名」(*2)ということになると、ともにささやかな利益と名声を得ること。宋の蘇軾は「蝸角虚名、蝿頭微利」(*3)といって名声も利得もまとめて突き放している。会話では「蝿頭小利」ともいう。狭小な土地については「弾丸之地」(*4)や「弾丸黒子の地」がある。

*1 趙師侠『水調歌頭「和石林韵」』など。 *2盧炳「念奴嬌」など。*3 蘇軾「満庭芳」から。 *4『戦国策「趙三」』など。

「蠅声蛙噪」「蠅糞点玉」

 りゅう・とら

葉公好龍 しょうこうこうりゅう  葉公龍を好む 

春秋時代の楚の葉公(しょうこうと読む。地名)沈子高は、龍を愛好することで知られ、その屋内は龍の画や彫りもので満たされていた。それを聞いて本物の龍が天から下りてきて堂内を窺ったところ、葉公はキモをつぶし魂を失って逃げ去ったという(*1)。表向きは愛好しているようにみえて、実際には名ばかりの愛好家であったという話。楚の葉公は、孔子の弟子の子路に師の人となりを問い(*2)、孔子と問答をしているが、龍くらい歓迎しそうな鷹揚な楚の重臣である。政治について孔子に問い、「近き者は説(よろこ)び、遠き者は来たる」(*3)という答えを引き出している。

*1劉向『新序「雑事五」』から *2『論語「述而」』 *3『論語「子路第一三」』から

「龍争虎闘」「龍潭虎穴」「画龍点睛」「虎視眈眈」「龍頭蛇尾」

 

四字熟語-声振林木 

せいしんりんぼく

「声は林木を振るわす」というのは、歌声があたりに響くと同時に聴く者の心を振るわせるようすをいう。現代の「声振林木」といえば、暮歳の夜の街の並木の梢を飾る電飾を振るわす聖歌が、行く年を元気づけ、来る年に期待する光景といったところだろうか。

秦の声楽家であった薛譚は、歌を秦青に学んだ。まだ師の技能を窮めなかったのにすでに学び尽くしたと思い、辞し去ることを申し出た。秦青はことばで止めず、街外れまで送って、手拍子をうち悲しみの心をこめて別れの歌を歌った。
声は林木を振るわせ、響きは行く雲をとどめたという。類まれな絶唱である。薛譚はあやまちを知り、謝して留まることを求め、その後は終身去ることを口にしなかったという。

人の心を深く打つ歌の力を伝えることばである。歌は子守唄から屋外のライブまでいつでもどこでも人生に力を与えてくれる。欧米で人気の由紀さおりさんのスキャットも林木を振るわせる美しい音色である。 

『列子・湯問』から

四字熟語-各有千秋

かくゆうせんしゅう

「千秋」は千年のこと。「各(おのおの)に千秋有り」というのは、ひとつひとつの物事あるいはひとりひとりの人生にはそれぞれ久遠の流伝があると理解すること。なにごとも探っていくと遠い淵源にたどりつく。

漢の李陵の「与蘇武三首」には、それぞれ天の一隅にあってもはや友人として再び遇えない「三載(三年)は千秋となる」と、重い「千秋」が詠われている。李白や杜甫の「千古絶唱」というべき詩などは時代が明解で、「名流各有千秋あり」ということになる。無名であるわたしたちの人生も、それぞれ千年の来歴をたどりながら現在がある。
三国時代の英傑、曹操・劉備・孫権の違いを「各有千秋」というなどは語感として素直に理解できる。

 しかし現代漢語としては「各有千秋」の意味は軽い。存在価値の違いあるいは特徴や特色ほどの意味合いで軽く広く使われている。こそどろの手法の違いや中年女性の短髪の特徴、車の外観の特色なども「各有千秋」なのである。

趙翼「瓯北誌鈔・絶句」など

四字熟語-胸有成竹

きょうゆうせいちく

竹は竹かんむりの字が多いことからも、さまざまな用途をもった植物として親しまれてきたことがわかる。まず筆がそうだし、竿、箒、箸、箱、籠、笛、笠、節や筋もそうである。また竹はそのたたずまいを愛されて、詩画としても数多くの名品が残されている。

北宋時代の四川に文与可という竹の画に秀でた人がいた。ことのほか窓外の竹を愛でて、春秋、朝夕、晴雨といった自然の変化の中での竹を仔細に観察して描いた。同時代の文学者晁補之は「胸中に成竹あり」と称賛している。描く前に画が胸中に完成しているのだから上手なはずである。

ことをなす前にすでに胸中にしっかりした結果が見えている(成算がある)例として用いられる。
折りしもTPPへの加入問題に対する野田首相の態度について、「人民網」は「賭博かそれとも胸有成竹?」の見出しを付けた。賭博ということはないだろうが、といって国民を納得させる「成竹」が胸中に描けているのかどうか。 

晁補之『鶏肋集・八』から

四字熟語-邯鄲学歩

かんたんがくほ

いま若者は都ぶりをどこで学ぶのだろう。原宿か青山あたりだろうか。

ひとりの若者が都ぶりの歩き方を学ぼうとして、北国燕のいなかから趙の都邯鄲にやってきた。「邯鄲に歩を学ぶ」である。しばらく努めてはみたもののサマにならない。あきらめて故郷へ帰ろうとしたが、元の歩き方を忘れてしまって歩けない。そこで這って帰るしかなかった‥。

あこがれて都会へ出たものの挫折して故郷に帰る。しかし故郷でも受け入れられなくなる例もある。
古くから中原の古都であった邯鄲市にちなむ成語は一五〇〇余もあって「成語典故の郷」と称している。市内に「趙台」や「成語典故苑」を設けて彫像や碑文に託して展覧している。よく知られるものに「刎頸之交」「完璧帰趙」「奇貨可居」「背水一戦」「黄粱一睡(邯鄲之夢)」それにこの「邯鄲学歩」も。いまも明代の遺構を伝える石づくりの「学歩橋」が沁河に架かっている。蘭陵王入陣曲は日本から邯鄲に「秘曲帰趙」した。

『荘子「秋水篇」』など

 

 

四字熟語-江郎才尽 

こうろうさいじん

誰がそうだとはいいづらいが、テレビやマスコミに出づっぱりでいる人の中に「才人」ではなく「才尽」といってよい人を見かける。みずから顧みれば、ことばに冴えがなくなり行動に切れ味がないのだから本人が気づかないわけはない。

南朝の宋、斉、梁の三代に仕えた江淹は、若いころには精彩のある擬古詩を発表してもてはやされたが、高官にのぼるにつれて文思に冴えを失い、晩年になると文才を使い尽くしたかのようになり、「江郎才尽」といわれるようになった。
「才尽」といわれようとも三代に仕えた能力は並みでない。保身のために演じたのだとする見方もあるが、「才尽」の歴史的シンボルとされたのだから、実際それに近かったのだろう。

政権が目まぐるしく代わる時代、保身のために何度も面だけを革める「才尽」型の人物にこと欠かない。一方に芸能、工芸の分野には無形文化財保持者(人間国宝)に指定され、生涯輝きを失うことなく向上する姿を示す才人もいる。 

『梁書「江淹伝」』から

『日本と中国』連載「四字熟語ものがたり」より
堀内正範 ジャーナリスト

 

 

四字熟語-十指連心

じっしれんしん

 十本の指のすべてが心臓に連なっていることを「十指連心」という。十指がみなつながっており、一指が痛めば全身が痛むことを「十指連心の痛み」という。だれもが体験的に知っているこの感覚は、肉親や同志のつながりを強く意識して、それぞれが持つ能力を出し合って協力することに例えられる。

「十指には長短あれど、痛みはみな相い似たもの」というのも、それぞれの立場はちがっても、関係が親密である成員ひとりひとりが、同一の目標にむかって困難を乗り越えようと呼びかける場面で用いられる。家族、親族(宗族)を中心にした組織が水玉模様のように重なり広がっている中国社会では、どこにも頼るべき知り人がいない「挙目無親」(目を挙げれども親無し)といった状況だけは避けて暮らすことになる。

十指では「十指繊繊」を添えておきたい。こちらは女性の繊細な十指が、筝の弦を爪弾いているようすをいう。音色も優美だが弦の上の指の動きも美しい。 

(湯顕祖『南柯記』など)

『日本と中国』「四字熟語ものがたり」2011・10・25号
堀内正範 ジャーナリスト

四字熟語-天下為公

てんかいこう

世界各地で「辛亥革命一〇〇年」を記念する行事が行われている。立場によって評価は多様だが、中国史に二〇〇〇年余も続いた封建制(一家族が代々権力を引き継ぐ)を打破した民主革命であったことに異議はない。あとは優れた将相名賢をどう選び出して「天下を公と為す」かにある。

 「大道の行われるや、天下を公と為し、賢を選び能を与し・・故に外戸をして閉じず、是を大同と謂う」
外戸を閉じないですむ大同の社会は、政治を志す者の目標とされる。門戸を閉ざすことのない世の中なら長くはなかったが経験してきたような気がする。
この「天下為公」を孫文はよく揮毫した。有名なのは南京・中山陵正門の雄渾な筆遣いのもの。この原筆は台湾の故宮博物院に所蔵されていて、その博物院正面にも掲げられている。

日本では神戸・孫文記念館にある直筆の碑が有名。麻生太郎元首相は「為公会」を結成して公のための政治を唱えたが、政権は短命に終わってしまった。 

『礼記「礼運」』から

『日本と中国』「四字熟語ものがたり」2011・10・15号
堀内正範 ジャーナリスト

四字熟語-正心誠意

せいしんせいい 

「政治に求められるのは、いつの世も『正心誠意』の四文字があるのみです」といって、野田佳彦首相は所信表明演説で勝海舟が政治家の秘訣とした四字熟語を引用した(『氷川清話』から)。が、海舟は同時に「何事でもすべて知行合一でなければいけないよ」とも言っている。それを知る自民党議員からすかさず国会運営の強引さを「言行不一致だ」とせめたてられ、会期を修正して誠意を示した。

海舟の談話や記事を集めて『氷川清話』を発行しベストセラーとした吉本襄が陽明学の普及者であったことからも、出典は明徳を明らかにし天下を平らかにする本末を説く八条目「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」(『大学』から)のうち「正心誠意」からと知られる。「修身斉家」や「格物致知」もここからきている。

閑話だが、南宋の著名な詩人楊万里は誠斎を号とし「正心誠意」を旨とした。とすれば海江田さんはライバルに同名の万里座右の銘を先に使われたことになる。

 王陽明『伝習録』など

『日本と中国』「四字熟語ものがたり」2011・10・5号
堀内正範 ジャーナリスト