現代シニア用語事典 #5新スグレモノと企業内高年化

 #5新スグレモノと企業内高年化
#日本型企業の基本樹形を作り直す
*・*九割が「中流」と感じる社会が消えた*・* 
「維新期の天保人」
「大戦後の大正人」
「新世紀の昭和丈人」
どこで論じてもいいのだが、企業に関するこのあたりで触れておきたいことがある。
歴史上のできごとは、学者にとっては蓋然だが、主体者にとっては必然である。学者は結果を机上でこうなったと記録し、主体者は現場でこうやったと述懐する。学者は将来を演壇でこうなると語り、主体者は現場でこうすると決断する。学者は主観性を排除し、主体者は客観性を懐疑する。
どちらもおよそ正しく、どちらも幾分かの過ちを冒す。
空から舞い降りて鷲づかみにしたような歴史の経緯であるが、近代にわが国が遭遇した外圧を契機とする三つの改革期の主体者は、一九世紀の明治初期は主に「維新期の天保人」が担い、二〇世紀中葉の戦禍からの復興は主に「大戦後の大正人」が担った。そして二一世紀初頭の経済グローバル化のもとでの「日本高年化社会」は昭和生まれの高年者、つまり「新世紀の昭和丈人」層が主体者となって担うと本稿は断ずる。
「維新期の天保人」の活躍ぶりは別の機会に残しておくとして。
一九四五年の夏、敗戦の焦土に立ちつくした「大正人」は、二○~三三歳だった。「大戦後大正人」の活躍の姿を記憶している人は多いだろう。南方の島々や北方の大陸の戦場から帰らなかった友を思い、遺族の悲嘆と苦しい生活を傍らに見ながら、友のぶんまでも働きずめに働いた勤勉で実直な人びとも、いま鎮まろうとしている。元ちとせが「ワダツミの木」で、うすい透明な風のような声で、「星もない暗闇でさまよう二人がうたう歌、波よもし、聞こえるなら、少し今声をひそめて」と、歌うのを聞いたとき、重ねて南方の『きけ わだつみのこえ』を思い、いまはもう声にこそ出さないものの、合わせて北方の「異国の丘」がつい胸の中に溢れてしまった人びと。記憶のなかの敗戦後のせつない青春期の暮らしと重ねて、
「きょうも暮れゆく異国の丘に、友よつらかろせつなかろ」
と、「鎮魂歌」としての「異国の丘」を口ずさみながら、ひとりで、ふたり三人のしごとを仕遂げようとしてきた人びと。それは生き残った者同士の無言の契約でもあった。それを成し遂げた人的パワーが、総体として二○世紀後半の奇跡といわれた日本経済の復興を支え、いまある資産を蓄積してきたのである。
若き「大正人」を中核に据えて、国土の再建、経済の復興は始まったのだった。
だれもがスイトンとサツマイモ(甘みも色も太さもいろいろ)で飢えをしのぎ、「タケノコ生活」(タケノコの皮をはぐように衣類を売って生活した)に耐えつづけ、身にまつわりついていた「封建的」なものいっさいを削ぎ落とし、「世界平和」と「社会平等」と「男女同権」をみずから実践する人びとに主導されて、国民大衆は貧しさも豊かさもともに等しく分け合う風潮をはぐくんできた。
「加工貿易立国」
「MADE IN JAPAN」
物質的にはしゃにむに近代化(多くは戦勝国アメリカ化)をすすめざるをえなかった日本は、外国から素材を買い良質な製品を作って売る「加工貿易立国」として第二の開国を行い、国土の再建をめざしてきた。鉄のカーテンのむこうの「社会主義」にも強い関心をはらいながら。
「日本は、社会主義的・平等主義的・自由経済の国だ」と外国人に向かって紹介したのは、「大正人」のひとり、ソニーの盛田昭夫さん(当時はソニー会長、経団連副会長)だった。盛田さんは、外国人に日本の「国のかたち」を問われると、自信をもってそう説明していたという。日本経済の頂上期に、盛田さんが書いた『MADE IN JAPAN』は、そのあたりのことをこう記している。
「国内のマーケット・シェアをかけた激しい競争を通し、海外での競争力を養うのだ。エレクトロニクス、自動車、カメラ、家庭用電気製品、半導体、精密機械などが、その代表的なものである」
日本製品の多くは高級品ではなかった。「良質な中級品」、つまり一般の人びとがもっとも必要とする良質なものを作ることに活路を見いだしてきたのだった。良質というのは、「使いやすく、丈夫で、長持ちする」という意味でいわれた。前記の商品は国内でよく売れれば、それは外国とくにアメリカで評判がよく、「MADE IN JAPAN」のトランジスタラジオ、カメラ、テレビ、小型車など良質な中級品は、実用品として認められてきたのである。それがまた日本人みずからの生活を平均的に充足し、中産化することにもなった。良質な技術者が「良質の中級品」をつくり提供することがわが国の立国の基盤であることは「銘心刻骨」しておかなければならないことである。  
「中流と感じる社会」
社会主義的・平等主義的・自由経済の国
一億人を超える国の国民の九割までが「中流と感じる社会」の実現は類がないだろう。ソニー会長であった盛田昭夫さんが国際的基準の中で誇らしげに主張したように、「社会主義的・平等主義的・自由経済の国」として、世界の開発途上国から目標とされるスバラシイ先進国として立ち現れたのである。高年者は、その経緯と成果をリアルタイムで体感してきた経験をもっているのである。
いまも「シニア海外ボランティア」の高年者が開発途上国の現場で、また日本企業の現地駐在の高年社員が現地の人びとから、心からの信頼をかち得ているのは、生産者としてユーザーが満足する品質(モノ)にこだわる背後に息づく品格(ヒト)が、おのずから伝わるからだ。
「みんなが中流」という意識に亀裂をもたらすことになる日本経済の「萎縮」(デフレーション)がはじまったとされる九〇年代初めのころを、体感的に思い起こしてみよう。
「サンパク(三八九)以後」
「内在する萎縮」
晴れやかだった記憶として思い起こせば、東京株式市場の「大納会」で「東証一部の株価」が三万八九一五円というピーク値を記録したのは一九八九年一二月二九日のことだった。「三八九=サンパク=三白」というのは正月三ガ日に降る祝い雪をいうが、九〇年正月の東京の空高く株価が舞って「サンパク(三八九)以後」(三八九一五)はひたすら右片下がり。
それに先立つ一九八九年一月七日に、一○○日を超える闘病をつづけた「昭和天皇」が八七歳の高齢で亡くなったのだった。六月二四日には、「東京キッド」や「私は街の子」以来、戦後の日本を体現していた歌手の美空ひばりさんが、最後に「川の流れのように」を歌って五二歳で亡くなっている。
「やれやれ、これで戦後が終わったのだ」とつぶやいた人びと。「昭和」が終焉し、「平成」とともに始まった日本経済の下降。「明治・大正生まれ」や年長の「昭和生まれ」の人びとのなかには、みずからの戦後を顧みての終息感と、その後の「経済の萎縮」とを体感として重ねて理解した人が大勢いたのだった。
世紀をまたいだせいか、ずいぶん遠い記憶のように思える。戦乱で亡くなった人びとへの鎮魂の思いは胸中から消えずとも、自分の肩にかかる荷だけは静かに降ろし、長かった緊張を解いたのだった。将来に新しい目標も見当たらなかったし。
「われにかえった」一人ひとりに「内在する萎縮」は、ゆっくりとした静かな変容であり、外から気づかれることはなかった。しかし戦争を知り貧しさを知るというきびしい経歴をもつ自分たちの後を、戦争も知らず貧しさも知らない若い連中が引き継ぐことなどできないだろうという自負と憂慮をない交ぜにした感慨は、仲間同士の会話のうちに繰り返された。
 「日本経済の萎縮」
それがすべてではないにしても、企業現場からの自分たちの隠退(労働力の消滅)が、総体として「日本経済の萎縮」をもたらす要因となるだろうとは予測しえても、まさかこれほど早くに高年者となった自分たちの医療費の負担増や年金の減額や、あろうことか若年層から不公平との反発まで浴びようとは、思いもよらなかったことであろう。与因と結果との間で、人間がどれほどの力を出しうるか、出したかは経済指標では計れない。したがって歴史や社会や人間存在への想像力が働かない経済学者には実態はわからない。
ここでは戦争の惨禍を知っている人びとの企業現場からの引退による人的パワーの萎縮が、高度成長を支えた「終身雇用」慣行によるインセンティブ(誘因)をも萎縮させつづけたことに注意しておかねばならない。八〇年代には「日本型マネジメントは世界一」(ジャパン・アズ・ナンバー・ワン)とみていた海外投資家に、二〇年後には日本企業の利益率が低いのは「終身雇用のせい」といわれるようになる。原因は終身雇用のせいではなく、企業内の人的パワーが衰えたせいなのだ。いまでも七八%の日本の労働者は終身雇用制を支持しているのだから。
「成熟した日本社会」
成長期にある中国などアジアの途上国の成長を支える人的パワーは、進出企業の技術指導にあたる高年社員、かつて「ワーカホリック」(仕事中毒)といわれながら働いた「企業戦士」をも驚かせる。ひるがえって本国の本社での士気の鎮静化が何の影響も残さずに終わるとは思えない。過去と現在を知る者の立場で、「実体経済の萎縮」に体感として納得がいくからである。
歴史は「もしも」によって歴史になる。もしも、新世紀にはいったところで、わが国の高年者の能力や士気が停滞することなく、新世紀の潮流である「高年化社会」を展望し、それを支える「モノと場の創出」へと流動し、「企業の高年化」を成し遂げ、「成熟した日本社会」の形成へと展開していたならば、つまり「終身雇用制」が「高年化社会」形成へのインセンティブとして働いていたならば、社会主義圏の崩壊やアジア経済圏の変動の中にあっても、みんなが「中流と感じる社会」をこれほど急転直下に見失うことはなかっただろう。
 *・*新・日本型マネジメントの展開*・* 
「終身の雇用」
「年功の序列」
「終身雇用制と呼ばれてきましたが、実際には六〇歳定年制が一般的だったですね」といわれれば、その通りである。
たしかに「終身の雇用」といっても雇用は終身ではなかったものの、長期(無期)であり、社員としての意識の中に「同じ釜のメシを食う」仲間として、先輩から後輩へとわが社流儀を伝えながら支えあう信頼と平等の絆の表現として引き継がれ、定年後も終身のつきあいを建て前とする「愛社意識」として保たれてきた穏和な伝統なのである。入社したての新しい能力を秘めた若手社員は先輩社員を敬愛し、中堅社員は会社や製品を育ててくれた引退社友を敬愛する。それが率直に表わされることが「終身の雇用」の安心感となり、「年功の序列」の長期モチベーションとなり、「和の絆」の信頼感となり、最良の製品を提供することになる日本型企業の基本樹形である。
と、社内でいおうものなら、「同じ釜のメシ?」「終身雇用?」「年功序列?」「和の絆?」「愛社意識?」、まるで「時代知らずのオオバカ!」といわんばかり。八〇年代までは世界の関心を呼んだ日本型企業が九〇年代以降に国際競争力で耐えられなくなり成長力を失う一方で、「温情主義」を排して合理化を進めた企業が業界トップとなり、弱体化した企業がアメリカ企業の傘下に組み込まれて生き残る。そして「華の元禄」にもまがう繁栄を謳歌した日本型大手企業は、業績悪化から立ち直れない状況が長く続いた。
その間に、業績を回復できない理由は、それまで日本型企業の特徴であり優越性といわれた「終身雇用」や「年功序列」や「企業別組合」がその元凶だと指摘され、納得させられてしまった今、日本型企業の優越性を声高にいって通じる状況にはない。
 「日本型マネジメント」
「終身雇用慣行重視」が、一九九三年に減少に転じ、「どちらともいえない」が増え、九六年には「慣行にこだわらず」が大企業でも多くなり、その趨勢は止まらない。本稿は、沈黙してしまった企業人にかわって、あえて火中の栗を拾うことにしたい。
「ものづくり」が主体の企業にとって、成員同士が信頼しあい生産技術を共有し、将来にわたって安心して働けるということ、つまり「終身雇用」や「年功序列」といった日本型企業の基本樹形をつくっている「日本型マネジメント」のどこがいけないというのか。
業績がいいトヨタやキャノンだから支えられたのではなく、いずれの企業もが根・幹として守ることのできるはずの慣行なのである。「終身雇用は高コスト」と短絡して評するのは、本質が見えない自己保身の社員の身勝手な判断なのだ。いまある企業は、いまの社員のためではあっても、いまある社員のものではない。先人が敗戦の焼け野原の下に温存されていた根っこから、「生き残る」ために敗戦後の状況に必死で適応させ、試行錯誤を繰り返しながら樹形を整え、枝葉を茂らせてきたものである。苦難の中で模索し、選択してきたのが、「終身の雇用」であり「年功の序列」と呼ばれる企業慣行であった。
それも経緯が穏やかであったわけではない。企業の存続をゆるがすような社内争議を、「インタナショナル」を歌って社屋を包囲する労働者側と経営者側との間で何度も繰り返したすえに形成されてきたものである。だからそれを知らない若い社員が思うほどに、国際的にもやわな企業樹形ではない。先人が苦闘のすえに育てあげてきた基本樹形である現有システム「日本型マネジメント」を、まるごと伐採してしまう愚挙だけは避けなければならない。
といって固定的に捉えることではなく、ここ一〇年余り、「グローバル化・途上国化」に若年層を中心に対応しながら耐えてきて、いま顕在化して迎えている「高年化」の進捗にも対応して「新・企業樹形」の構築に取り組まなければならないのである。それが先人がたどってきた苦難から、新たな「日本型マネジメント」を作り直すプロセスなのではないか。 
「アメリカ型マネジメント」
「成果主義」
五〇年来の慣行である「終身の雇用」と「年功の序列」という穏和な仕組みを、「グローバル化」のもとでの「高年化社会」の形成を契機として企業現場で変容させること。それが可能な企業形態につくり直すことへの挑戦であり、そこから生まれる新たな生産活動の態様とそれに見合う社会改革である。「社会の高年化」に対応する「企業の高年化」であり、担うのは高年者自身の他にいない。
先の大戦後期にも似た現下の外圧(グローバル化)によって日本社会が急速に変貌している。「日本型企業」の経営がきびしい時に、その内側からの保護対策のためにこそアメリカ型の企業経営に学んだ人びとの見識や分析や予測能力が求められているのである。
だが、実情は外圧の柱である「アメリカ型マネジメント」の「成果主義」を企業再生のマスターキーとする方向へと傾いている日本企業の経営者にむかって、発想の核を海外に持つ若手学者やベンチャー企業家からは、なめらかな外国語で「日本型システム」全否定の矢が放たれているのだ。いまや業界を覆う主流の考え方になっているから、日本型の企業風土について語ることすら企業現場ではままならない。本稿がいま時代の強い風圧に抗して、「昭和丈人層」の代表でもある経営トップに「経営の多重標準」を訴えかける理由は、なんとか日本型企業の基本樹形を活かして、「グローバル化」のもとでの「高年化社会」を支える企業改革の先駆けとなってほしいからだ。
それなのに即座に、「そんな小春日和の縁側談義に付き合ってはいられない。引退シニアとやってくれ」という声が跳ね返る。小春日和どころかハリケーンやトルネードに鍛えられた「アメリカ型マネジメント」の旋風が吹き荒れている時に、日本型企業の樹形がどうのこうのなんていっていられない、というのである。
どうやら本稿は、帰りたくとも帰れないイバラの道に踏み込むところにきてしまったようである。現場での企業内改革を呼びかけた「昭和丈人層」のみなさんへの手前もある。先に進むより仕方がない。降るほどに罵声や嘲笑を浴びても退くことはしない。
「日本型企業風土」
「新・日本型マネジメント」
まずは相手を知ることだろう。ここで着目すべきことは、アメリカが若年・中年社会であり、高年化を迎えている他の先進諸国とは企業風土が違うということだ。大統領候補討論でも「高年化」問題は白熱していないし、変化のきざしはない。
若年・中年社会であるアメリカと違って、「経済のグローバル化」とともに「社会の高年化」を迎えている日本社会の変容に、どう企業システムを対応させていくかに苦慮しなければならない時に、「日本型企業」の全否定にむかう意見が先行するのは困ったことだが仕方がない。
「新商品開発の遅さ、人事異動の不活性、非採算性など、みな日本企業のもつ特殊性です」といってのけ、労働にインセンティブを期待する「個人主義」、社内競争による「成果主義」といった手法を導入する。
したがって給与も能力優先の「職務給」にシフトして、終身・年功型給与の基本である「年齢給」や「勤続給」を縮小まではともかく、廃止するという本稿の立場からすれば、幹に傷をつけるような愚かな変革にも着手してしまう。わが国の企業風土では、個人に還元するアメリカ型の成果主義はインセンティブとしてさしたる効果を生まないだろう。
日本企業の経営者が、「終身雇用」と「年功序列」が景気変動への対応や雇用調整でのデメリットとしてではなく、つまり先進国で加速する「社会の高年化」を支える「モノの高年化」を指向して、良質の「高年化製品」開発のためのリストラ(高年技術者の社内温存)を成功させ、わが国固有のインセンティブとして捉えること、それがグローバルな視点での日本企業の役割だというところに、思考の根っこが届かない。
そのためには、外国からはうらやましがられていいほどに好都合な「終身の雇用」と「年功の序列」という在来の企業風土と仕組みがあり、世界レベルの経験も知識も気力もある「昭和丈人層」という良質の高年社員・社友がいるという優越性に気づこうとしない。日本社会の高年化を礎のところで支えていくのは「日本型企業風土」に根ざした「日本型企業」である。いま輝いているグローバル化企業というのは、外圧に対応する緊急処置としての業態であり、やがて多くは「新・日本型マネジメント」の基本樹形に回帰する「宿り木業態」なのである。
 *・*「窓際パラレル・キャリア族」の模索*・*
「経営者不信」
「モラル・ハザード」
将来構想に秀でているというよりも、目前の業績悪化に歯止めをかけられる人物として推されて座についた経営トップは、まず何を手がけたか。
社内では一円を争うような細かな経費節約をなりふりかまわず徹底した。社業として歴史があっても赤字事業ならやめて「ダウンサイジング」(適正規模まで縮小化)をし、目前で利益が見込める製品にシフトして売り上げ増を督促した。そして人件費圧力に対しては、アルバイトや派遣社員で対応し、返す刀でともに企業の発展を支えた仲間の「人的リストラ」(おもに高年社員が対象)をやってのけた。
どこからも拍手は沸かない。
「グローバル化」時代に生き残るためには、まずは速やかに、そうするより他に手立てはないと信じて強行した。部局単位の採算性を採り入れ、IT化・女性アルバイト化をはかり、遅速はあっても製品の「若年化・女性化」を推し進めた。市場は多様化したが、企業サイドでは困難が増しただけ。その背後で「企業戦士」であった高年社員の作業意欲は確実に萎え、リタイアした先輩には想像ができないほどに「経営者不信」と「モラル・ハザード」(社員倫理の崩壊)を社内に広げることになった。これが一般的で、そうでないところはむしろ特別といっていいほどなのである。
「会社への忠誠心」
「年間労働時間」
若年層を集めて五〇歳代はゼロという企業が元気なのは当たり前。一方で、五〇歳代が三〇%以上という多くの企業では、勤続年数一〇年~二〇年という中堅社員の間で、先が見えなくなった「会社への忠誠心」が急速に衰えて、英米仏独に比べても低いという状況に陥っている。
かつては日本がトップだった「年間労働時間」(ILO調べ)もむかし語りのこと。すでに世紀末の二〇〇〇年にはトップが韓国、アメリカが三位で、日本は六位となり、「アメリカ人が働きバチだった日本人を上回ったんだってね」といわれたのだったが、いまやニュースですらなく納得される状況を迎えている。残業を含めて「時短」のために長いあいだ闘ってきた労働者側の権利獲得へのエネルギーは、内側からしぼんでいく。
「忠誠心はいらない、能力優先と成果主義でいく」として、とまどう暇もなく経営者側がとった「グローバル化」対応の対策は、製品と人員配置の「若年化・女性化・IT化」だったから、若手社員や女性の活力・能力発揮つまりインセンティブとなり、業種によっては効果をあげていることは確かである。しかし、転換(ゆりもどし)が選択されざるをえない局面が近づいているのもまた確かである。このまま推移していけば、企業が組織体として生き残れなくなることに経営トップが気づいているからだ。それは「少子・高齢化」対応への「高年社員」の潜在的な能力発揮へのインセンティブとなるべきものとしてである。
 「パラレル・キャリア指向」
「日本高年化社会」を構築するプロセスは、先進他国から学んで後追いするのではなく、みずからの内的条件によって自力で創出すべきものである。ここは「日本での解決がモデルとなる」という推測を残してくれたアメリカ丈人の故P・F・ドラッカー教授の洞察を脇にして考察したい。教授によれば、マネジメントされる存在だった働く者(知的労働者)が、みずからをマネジメントすることによって現出する新しい社会、日本でのその解決が他の国のモデルとなるという。「終身雇用制によって実現してきた社会的な安定、コミュニティ、調和を維持しつつ、かつ、知識労働者に必要な移動の自由を実現すること」と洞察していた教授は結果を見ずに〇五年に亡くなったが、その示唆は生きつづけている。
日本の知識労働者の模索は、その方向に着実に動いている。それは「本格的に踏み切る前からの助走」の時期、つまり五〇歳代の人びとが心躍る人生を見出すための「パラレル・キャリア指向」として確認することができる。「パラレル・キャリア指向」を重ねる五〇歳代の高年社員の先方に現れるものは何か。これが日本型企業の将来を左右することになる社会構造の「高年化」に見合う社内の「ミドル化」と「シニア化」という多重標準による企業改革なのである。
「社内ミドル化部門」
「社内シニア化部門」
「途上国のリーダー」として若年・中年社員が働きやすいように、これまでのリストラ体制をいっそう推し進めた「社内ミドル化部門」と、高年者がみずからの生活を豊かにする自社製品を考案する「社内シニア化部門」という多重化への模索と変容。後者の中心になるのが、足踏みして待機していた熟練高年社員である。かくして「社会の高年化」に対応する「企業の高年化」によって、日本型企業の「新・企業樹形」への変容がはじまる。将来の新入社員が安心してふたつづきの職場を選べる「新・終身雇用」の導入でもある。OJT(仕事を通じての業務能力の習得)にも心構えからして違ったものになるだろう。
日本型企業は、グローバル化対応の「ミドル化」を優先して推進したが、同時進行で社会の高年化対応の「シニア化」を、従業員のパラレル・キャリア指向として許容し支援することをしなかった。将来の高年化社会を見据えて、その体現者となるはずの経験も知識も意欲もある高年社員を、「窓際社員」として温存してきたという言い訳は許されない。将来を見抜けずに、温存することなく排除してきたのではなかったか。
ここ一〇年ばかりの潮流は、この項でも繰り返すが、アメリカ一極下で開発途上国の若年・中年層を巻き込んだ「経済のグローバル化」であったから、わが国の企業は前面にIT青年や若い女性層を起用して対応し、とくに若手の非正規社員を起用することで急場をしのいできた。その背後で高年者の「窓際化」が進んだことは実見してのとおりである。底流して目前に迫ってくる「高年化社会」の形成に立ち会うことになる高年者自身が、機を察知して職域での「パラレル・キャリア」指向を強め、逆風にあがらって新たな「職域の高年化」構築に乗り出すしごとは、高年期の人生に意欲的な個人に任されてきたのである。
「社会の高年化」の進展と重ね合わせて、高年社員が中心になって実現するのが「企業の高年化」であり「製品の高年化」である。そうして初めて、「高年化社会」を支える企業としての手応えを確かなものにできるからである。この先進国共有の課題を解決するマスターキーは、メーカー主導で成功しているアメリカ型企業家にあるのではなく、ユーザーでありメーカーである日本型企業の高年社員が持っているはずである。
 #「攻めのリストラ」による企業再生
*・*わが社が誇る「高年化製品」*・* 
「わが社製品の高年化」
「窓際パラレル・キャリア族」
Bさんは「団塊シニア」のひとり。赤字事業部門の廃止に抵抗した部署の責任者として「左遷」を受け入れて事務系の閑職にいる。四○歳代の後輩からは「純正窓際族」として敬意を受けつつ気の毒がられているのを知っている。「あと数年だから」と定年(六〇歳から六二歳に)を待つ「定年待望族」としていたくないと考えているし、何かをやれる時がくると思っている。ところが胸の奥にさまざまなしごとの記憶とともに居座っていたはずの「愛社意識」を押しのけて、「モラル・ハザード」の波がとめどなくやってくるのを感じている。
胸の内のそれが許せない。かつての同僚の無視する視線や若手社員のひとことやアルバイト女性の音高な靴音や起こるささいないらだちが職場に溜まる。胸の奥にわだかまる「萎え」への誘惑は自分で断たなければならない。職場での集中力が落ち、しごとへの意欲もまた萎えていく不安を感じる。これまでなかった自宅と職場での感覚のズレが「モラル・ハザード」として意識される。
会社人間としての緊張が薄れるにつれて、新しいしごとをはじめる「起業」はどこにいてもチャンスがあるのだとBさんは気づいた。ヤンキースだけがチームではない。要は自分が何ができるかである。そこで自社所有の地図原版を生かして自分と同年輩の人びとの暮らしに役立つような「高年者向け地図」という「わが社製品の高年化」の企画を試みる。社内の逆流の中で提案しても「ゴミバコ騒がせ」にしかならないから企画案として出すつもりはないがおもしろい。とりあえずは勤め人として保持してきたモラルをなだめすかし、職場での気力の萎えに歯止めをかける。「窓際パラレル・キャリア族」としての意識は前向きに働いている。
「穏和にすすむ社内改革」
「再逆転の思考」
社内の時流からははずれた位置(窓際)にいながら、高年期をリタイアではない「もうひとつの心躍る人生」として過ごすためにどうしたらいいのか。職域に留まるのか異業種に移ってキャリアを活かすかの模索がつづく。折りしも会社は兼業緩和の措置を打ち出している。「窓際パラレル・キャリア族」として高年社員は「人生の第三期」の活動の場となるふたつの道に通じる踊り場にいて足踏みをしている。前項のBさんも「自分からは動けない。待つよりしかたがない」とはいうが働く意欲は萎えてはいない。
経験と知識をキャリアとして大切にしてきた高年社員が、自分になにができるかを確認して、ひとたび「わが社」から出て高年期の「わが人生」を考える。可能であれば、リスクを冒しても社外に活躍の場を求める覚悟で準備することが、「高年化社会」が必要とする新たな「モノづくり」の能力と意欲を蓄積していることになる。窓際族といわれながら、真摯にふたつの人生を考える。高年社員の内面の葛藤と模索が、「穏和にすすむ社内改革」である。
年功序列が有効にはたらいていた日本企業に横なぐりの颶風が吹きつのった。若手社員の優遇、派遣社員、アルバイトの採用という逆転の思考によって「生き残り」をはかったが、日本型企業の生き残りのためには「企業の高年化」という高年社員優遇への「再逆転の思考」を働かせなければならない。その動静を見逃がしていて企業の再生も活性化もありえない。再生への契機は、将来構想に秀でた経営トップの決断をを待たねばならない。
 *・*社内ミドル化と社内シニア化*・*
「グローバル化企業」
「熟練技術者の引退」
Yさんのような優れた技術力を持ったまま退職した人なら、みずからを顧みればおわかりいただけることだが、自分が「高年化社会」の基礎となる「企業の高年化」や「製品の高年化」を果たせずに引退しておいて、他の業界からの「高年化製品」を待っても得られるわけがない。業界でもっとも製品企画や製造技術や販売戦略に精通していた高年社員として、「わが社の高年化製品」の開発を果たすチャンスを逸してきたのだから。退職したYさんも急に責められても返答に窮するだろうが。
企業側が生き残りをかけて「グローバル化企業」(「若年化」「女性化」「IT化」など)に変容し、派遣社員、アルバイトを導入して対応してきた。そのためにこれまで幹とも頼んできた高年社員を疎外しているような時期に、一方で「高年化社会」にみあう「製品の高年化」や「企業の高年化」をまともに考えることなどできるわけがない。
しかし企業現場で、高年社員の立場で「製品の高年化」を考えることはできる。その成功が「企業内の高年化」をもたらすことになる。Yさんも「わが社製品の高年化」に応ずるシステムを整えるどころか、愛する企業の変容と生き残りにつとめる後人に期待して席をゆずり、蓄積してきた技術と経験をみずから惜しいとは思いながら退職したのだった。グローバル化をすすめる企業側も後輩に惜しまれながら去る「熟練技術者の引退」を当然としてきたのである。  
「コア・コンピタンス」
「泉眼型中小企業」 
なお進行する国際化(若年化・女性化・IT化)に対応して変容するグローバル化企業が、同時に進行している国内の「高年化」にも対応して、つまり多重の課題としての「企業の高年化」までなしとげて、国内の高年者の暮らしのコア(核)となるような「高年化製品」の開発に乗りだせるだろうか。これまでも新製品化と同業他社との競合に成功し、社業の守成と創成にも苦闘してきた歴史をもち、時代の要請に応じて小回りがきく企業、とくに独自の開発力によって自社のブランド商品を展開してきた「コア・コンピタンス」(製品開発の核になる独自の能力)をもつ中小企業に期待がかかる。大地からこんこんと湧き出す泉のような独自の発想力・製作力をもつ企業、つまり「泉眼型中小企業」と推察される。
小回りがきいてコア・コンピタンスをもつ国内型企業といっても、横並びの経営に慣らされてきた業界で、「グローバル化」に生き残りを賭ける風潮のなかで高年化対応の事業に乗り出す「再逆転の発想と決断」が可能かどうか。「次期のトップ」になるべく育てられた後継者では覚束ない。自ら律して中心に立ち、時代の趨勢に抗して社運をかけるような「一擲乾坤」型の覚悟が決められる「二世の星」も、多くはないがいるはずだ。
自社のブランド製品に関わってきた高年社員を結集した「社内シニア化」部門を立ち上げ、「日本型企業」の根っこから生まれた愛社意識を結集して企業再構築をおこなう。現有部門とともにそれぞれの新製品開発システムを整ええた企業が先導していくことになる。
これは国が中小企業に呼びかけている「七〇歳まで働ける企業の推進」だけでは足りない。高年者として造る者と使う者が息づいている職場とならないからだ。本稿の視野には収まらないだけで、すでに「わが社が誇る高年化製品」の事業に踏み出した泉眼型中小企業が各地にあって当然の先駆的改革なのである。 
「新・終身の雇用」
「新・年功の序列」
社内の「ミドル化部門と「シニア化部門」の立ち上げは、日本的企業風土での「新・終身の雇用」と「新・年功の序列」の導入といえよう。
世の趨勢はなお逆である。国の政策も消極的である。ますは企業に高齢者を確保することを求めた。ゴムひもを引き伸ばすようにして六〇歳から〇六年には六二歳へそして二〇一三年までに六五歳へと雇用年齢を延長(高年齢者雇用安定法)して公的年金の取得年齢である六五歳までをつなぐという政策の整合性をめざした。民間による高齢者福祉支援の要請である。企業は雇用確保措置を義務づけられ、毎年、実施状況を国に報告することとなった(改正高年齢者雇用安定法)。しかしそれで肝心の高年社員の力が引き出せるのか。
定年の引き上げ、継続雇用の導入による雇用確保は、どれも高年齢雇用者にとって有利にみえる。しかし実態をみればわかるように希望者全員を継続雇用する(できる)企業は約半分にとどまっているし、給与減もはなはだしい。何のためにという内発性に乏しい義務づけだからである。本稿が希求してやまない「企業の多重標準」をもつ業態である「新・日本型マネジメント」とは遠い、責任不在の施策だからである。
対応は職種や企業の経歴によってまちまちであろうが、おおよその手立てとしては、現有の事業はそのままにして、経営・労働側の双方の検討によるミドル世代とシニア世代それぞれの成員の中からメンバーを選りすぐり、みずからが主宰する「社内ミドル化会議」と「社内シニア化会議」という二重焦点をもつ企業現場を立ち上げる。これが「少子・高齢化」時代に対応する社内改革の第一歩であり、製品開発の両輪になる機構となる。それはまた新たな愛社意識の醸成による穏和な「新・終身雇用」と「新・年功序列」の導入となる。 
*・*「新・日本型企業」への期待*・* 
「指示待ち若手社員」
「起業家」(アントレプレナー) 
企業内での「社内ミドル化部門」と「社内シニア化部門」の立ち上げが、すべての企業で可能なわけではない。旧来型の素材として入社し、先輩に育てられて社業を知り、「指示待ち若手社員」を多くかかえた大企業は、むしろ動きづらいのではないか。先行するのは、大企業の傘下には収まらず、昭和時代に主力商品を中心に会社の幹を太くし、関連商品で枝葉を茂らせてきた内需型の、本稿が「泉眼型中小企業」と呼んで期待している伝統産業のうちからであろう。会社の成長の経緯を知る高年社員がなお内外に健在でいるような企業からと推測される。
そういう企業での「社内ミドル化部門」と「社内シニア化部門」の立ち上げをみてみよう。
若手・中堅社員は、先輩がこしらえてきた会社が根であり幹であることを敬意をもって理解している。そこから滋養をえて新しい枝を伸ばし実をならそうと努める「ミドル化部門」だと位置づけていることだ。「グローバル化」に対応する若手社員は、みずからの生活者意識を働かせた「起業家」(アントレプレナー)を意識して参加する。これがいま「成果主義」に学ぶことである。国際化に勝ち抜く新製品の企画、製品化による成果主義はどしどし採用される。しかしながらその成果は、先輩から後輩へのわが社流儀の受け渡しの絆である「愛社の意識」や「年功の序列」をつき崩すことには向かわない。企業の成長は枝葉だけが伸びるのではなく、根も幹も年ごとに太くせねばならないからだ。
若手社員主体のオープンな議論やスピーディーな決断を可能にするために、「ミドル化部門」としての機構改革や人事の異動をおこなって最良の布陣を構成する。その一方で、高年社員による「シニア化部門」では、国内指向の「高年化製品」の検討がすすめられる。これが「企業内の多重標準」として機能する。 
「攻めのリストラ」
「社内シニア化会議」
ここから「高年化社会」に対応する企業リストラの本題である「社内シニア化部門」の立ち上げを論ずることにしよう。人生の熟成をどこまでも追い求める「丈人モデル」型の高年世代が中核となった「社内シニア化部門」が、製品のリニューアルや新たな「高年化製品」の考案・開発に従事する。これまでの主要事業だが現状では赤字回復が見込めないという理由で廃止してしまった製品でも、「高年化製品」として優れた特徴をもつものなら蘇らせることもある。

供給者であるとともに需要者である強い生活意欲をもった高年社員が「攻めのリストラ」に力を発揮することになる。「シニア化部門」のスタッフとして、人生の踊り場で模索をしていた別項のBさんのような人も表舞台に登場する。管理者としてのキャリアではなく、経験と企画力と想像力の豊かな成員を動員して「社内シニア化部門」を構成し、生活者として発想した「わが社の高年化製品」を開発するために、それにふさわしい総合力を発揮することになる。

「社内シニア化会議」は、現有製品のひとつ上のレベルのリニューアル製品や高年者の暮らしを支えるコア(核)となるような新たな「高年化製品」を企画し製作をすすめる。かつて企業の業績を支えたスグレモノ製品を送り出した引退社友もまた要請に応じて参画する。いずれは厚生施設の運営費用や企業年金分などは「社内シニア化部門」がゆうゆうと稼ぎだすのが、将来性のある日本型企業である。
わが社の製品がわが社の高年者の暮らしを豊かにする。それが発想の原点になる。「丈人モデル」型の豊かな人生を望んでいる高年者層の存在は確信していい。高年社員の総力をあげて当たる心意気が成功の源泉である。「丈人モデル」型人生を願う多くのわが国の高年者の豊かな後半生のために、「信頼を得る優れた専用品を送り出そう」と決めて、新ブランド商品をめざした企画にはいる。
「社内シニア化部門」は、さらに将来の国際的な高年化時代の到来にも目をむけて、品質のよい「日本高年化製品」として海外の高年者が競って求めるような次世代の輸出製品の準備をする。心躍る情景ではないか。「社内ミドル化」と「社内シニア化」という多重標準による「攻めのリストラ」は、日本型企業ならではの企業改革なのである。 
「新・企業樹形」
「日本型企業の多重標準」 
大樹となればまた強い風にもさらされるが、その間にも見えないところで根がしっかりと太くなっていることに思いをめぐらそう。「樹大招風」というが、明治維新期と昭和大戦後と今回の新世紀初頭の三回の外圧を乗り越えて根をはった「樹大招風の日本型企業」は、二一世紀の中葉にむかって大きく枝を広げて育っていくだろう。
若手社員を中心に急速なグローバル化に対応してきた職場に、足踏みをして待機してきた実力派の高年社員の動きが戻ってくる。「社内ミドル化部門」を推進しながら、もうひとつの根幹部門としての「社内シニア化部門」が構成される。この多重化の機構改革が、グローバル化時代の最中でのわが国の「高年化社会」に見合う企業改革となる。前者は若手・中堅社員を中心にして製品の国際化に対応し、後者は高年社員を中心に引退社友をまじえて、わが国の高年化の進展に対応した国内需要に備える。社内体制を固めるに当たっては、成員を五〇歳から定年までの社員ですませるか、引退社友を加えるか、さらには異業種から社友を迎えるか、などは職種や社内事情によって異なるだろう。両部門では当然のこと、異なった労働形態や給与体系が検討される。このあたりの対応の仕方が、日本型企業の「新・企業樹形」を作ることになる。
この日本に固有の有利な特徴である終身型雇用制を生かした「日本型企業の多重標準」、つまり「社内ミドル化」と「社内シニア化」という二部門を両立させる改革の成功なくしては、わが国の企業ばかりか、社会もそして家庭も、固有のよさを保ちながら国際的「高年化時代」に適応することができないのである。   
*・*「SWIT会議」に新・家族主義の芽*・* 
「SWIT会議」
「モノづくりの志」
スウェット(sweat 汗をかくきつい仕事)ではない、「スウィット」(swit)である。シニア(Senior)社員、女性(Women)社員、IT(Information Tecknorogy)社員による新製品開発のための合同会議が「SWIT(スウィット)会議」である。
「すでに、うちにありますよ」という企業があれば、汗をかいても激励にいきましょう。
現有の主要製品のラインを確保して国際化に対応しながら、新企画の製品を開発するための拠点、それが「IT製品開発」部門と「女性製品開発」部門であり、さらに「高年化製品開発」部門の三部門を構成する。暮らしを多彩にする三者が加わって、それぞれに競って新製品開発での成果を期する布陣をかまえることになる。その上でさらに三部門による新製品開発会議が、シニア(S)と女性(W)とIT社員代表による「SWIT(スウィット)会議」である。
ここにひとつの「新・日本型マネジメント」の生き生きした現場が登場する。
新製品開発の場で、それぞれ生活者として異なった立場からの多角的な検討を、とことん加えるという社内協議の体制ができた「日本型企業」が、家庭向けの最強の商品開発力を発揮する。協議の結果として、個人の成果にインセンティブを置くアメリカ型の改革に動いた企業に圧倒的に勝利する新製品を登場させることになるだろう。
生産者側のマーケット・リサーチと利己的判断に基づいて製品化するという現在の「グローバル・スタンダード」(国際標準)を超えて、わが社の利とともに、それにも増して消費者の益を思う「モノづくりの志」が製品として明確に表現される日本製品。その生産活動が「ヒューマン・スタンダード」(人類標準あるいは全人標準)に最も近くにあるということを、「SWIT会議」を通じた製品が示すことになる。
「和の絆」(愛社意識)
「一品多種の新製品」
会議を通じた製品によって、温和な環境と伝統文化に培われた、モノを丁寧に扱い、ヒトを優しく思う品性としての「和の絆」(愛社意識)を組み込んだ日本型企業の国際的先導性が明らかにされるだろう。五〇~五九歳で六五%、六〇~六四歳で五〇%というインターネット利用率(〇四年末)からも明らかなように、デジタルデバイドの解消が課題となるが、会議でのIT社員との論議が有効に働くことになる。業種にもよるが、若年・女性・高年に受け入れられる「一品多種の新製品」の成果を実感できるまでには容易でないが、生活者としての三者の熱い議論の結実として、ユーザーのための最良の製品が生まれてこないわけがない。
比較的に適応性のある先行業種としては、世代間でライフ・スタイルが異なるとされる分野である、アパレル、化粧品、音響機器、住宅・家具、食品・料理、流通・広告、情報メディア・出版、スポーツ・レジャー、観光・・などが考えられる。 
「ウエアラブル」
「ホーム・ネット家電」
たとえば「ウエアラブル」(着られるもの)なども、ITを内蔵した「IT+女性」によるファッション性が先行しているが、それとともにIT補助機能を内蔵する高年者向けウエアラブルに市場性があり、「SWIT会議」でのテーマである。
さらにたとえば、家電企業が「家族化」をテーマとし、家庭内ネットワークを形成する「ホーム・ネット家電」という融合概念をもつ新製品開発を進めるに際して、想像力ゆたかな社員を集めて「SWIT会議」を立ち上げて、「IT+女性+高年者」のアイデアを取り込む家族的会議で製品の検討に入ることになれば、これまでゲームやコンテンツ(映画や音楽などのソフト)事業を中心に若者をターゲットにしてきた企業ばかりか、市場をも刺激することになる。 
「新・家族主義」
家族ひとりひとりの衣装の趣向、多様化する調味や栄養のバランス、表現の多重化・・それぞれの立場からの「多重標準」のありようを認めたうえで、ひとつひとつ製品化される。嗜好や指向の違いが際立ちながらも家庭内用品として安定して利用されるには、家族の成員での納得が前提となる。コーディネートされた住空間がおのずから形づくられる。
 新製品開発の場で、さまざまな視点と知識と経験をない交ぜにして展開する「SWIT会議」から最良の家庭用品が生まれる。シニア(S)+女性(W)+IT青年(IT)による会議は、日本企業の「新・家族主義」への可能性を蔵している。未知の領域に挑む「IT製品」と、日本社会を質的に多彩に変える「女性向け製品」と、経験を裏打ちにした完成度の高い「高年化製品」を開発する部門の社員が合議する場は、穏和な職場環境を醸成する核として機能する。開発された新製品は、外国企業から畏れられる存在になるだろう。個人の成果に片寄らず、日本型企業ならではの企画・製造・販売の検討を経た製品だからである。
企業現場への「新・家族主義」の導入、これが終身雇用を基本としてもつ日本型企業で来歴を活かした社内改革である。現有の活動を支える若年・中年パワーと合わせて、「IT青年」「女性」「高年」という多重標準のパワーが製品開発の現場で凝集して発揮される。そうしてはじめて「成熟した日本社会」の形成に立ち向かう「日本型企業」内でのヒューマン・スタンダード(全人標準)の表現としての姿が見えてくる。

現代シニア用語事典 #6日本再生と地域の四季

 #6日本再生と地域の四季
#地域特性と季節感を取り込む
*・*「百季人生」を豊かにすごす拠点*・* 
「双暦」
ここで採り上げる「時の移ろいに関する多重標準」は、国際標準(グローバル・スタンダード)とされる「太陽暦」(西暦・公暦・グレゴリオ暦)と地域標準である「太陰暦」(農暦・旧暦・天保暦)であるが、どちらかの良し悪しを論ずることではなく、双方の良さをどう採り入れたら高年期の暮らしを快適にできるかを考えること、つまりふたつの暦「双暦」に慣れるといった柔軟さと謙虚さをもって対応しようということである。
国際標準とされる「陽暦」と地域の農作業のめぐりに根ざした「陰暦」との関係については、わが国では一三〇年ほど前の明治五年一二月三日(陰暦)を明治六(一八七三)年一月一日(陽暦)とすることで「西暦」が始まった。その後、農作業や祭事との繋がりが濃かった陰暦を「旧暦」としてなし崩しに遠ざけてきた。大戦後は暮らしの洋風化とともにいっそう進んだが、それでもせいぜい一四〇年ほどのことである。ケタ違いに長い年月を刻んできた旧暦。地域の季節感を取り込んだ暮らしの知恵を体感することなしに終わる人生が、どれほど殺風景なものかは知れば驚くほどのことなのだ。ここだけをおおげさに取り上げてほしくないのだが、意識としては「鎖国型」の対応が必要であろう。
伝統的な「ひな祭り」「七夕」「夏祭り」「お月見」などは年中行事として定着しているし、また新しい「バレンタインデー」「母の日」「クリスマス」といった行事も、だれもがどこでも楽しめる祭事・歳事・催事として親しい。といって煩雑なほどに旧暦を再生する必要はないが。高年期になって地域の季節行事のよさに気づいて関心をもって参加する人びとはけっこう多く、静かにそういう趣旨の活動をしている会も知られる。 
「二五年一〇〇季」
地域の季節行事をおざなりに扱ってきたこれまでの自分の暮らしを顧みて、これからの人生を豊かにする契機を与えてくれるのが「地域の四季」に根ざしたものなのだと知ること。そう意識することで、住んでいる地域でしか得られない四季折り折りの風物の変化が感じられるようになる。つまり「地域の四季」が、高年期を過ごす者に等しく与えられている自然からの恵みなのだということに思いが及ぶ。まずはそれでいい。「地域の四季」のめぐりに衣・食・住の知恵を活かすことで、高年期の暮らしが生き生きと変容するものになる。
そこで「一二カ月一年」とともに「三カ月一季」を時節のめぐりの基本とし、暮らしの場としては都会指向から「身近な地域」へと指向すること。時の移ろいの感覚というものは相対的なものだから、ひとつずつの季節をていねいに迎えて過ごすことにより、一年は四倍の長さで充実して感じられるようになる。高年期は「二五年一〇〇季」にもなるのである。
あと二五年と意識することと、あと一〇〇季と意識すること、これが「時の移ろいに関する多重標準」である。六〇歳からはじめて八五歳までの二五年を「高年期一〇〇季」として一年を四分した「三カ月一季」を時節の基準として迎えてすごす。地域の四季(一〇〇季)を楽しんで暮らす。出遅れた人や新たな展開をまじえて、七五歳からはまた新たな「高年後期一〇〇季」を始めてもよい。そんな「百季人生」をこれまでの生活に重ね合わせることで、高年期は「四倍の豊かな時節の変化」とともに過ごすことができる。たとえば六一歳の春季、夏季、秋季、冬季・新年、六二歳の春季・・というふうに。
「地域の四季」の変化に素直に向かいあい、「一〇〇季」のうちの一つひとつをていねいに迎えてすごす。そう考えただけでも心弾むではないか。
一年を一二カ月として平板に流されていた日々に、四季を基準として「地域の変化」とともにすごす日々とを、「双暦による多重標準」と意識して巧みに折り合わせて暮らすのが、高年期の人生を豊かにするのにふさわしい処世法といえるだろう。 
「四季カレンダー」
Dさんは六〇歳直前の定年待望族のひとり。早期退社はしないが、このまま定年まできちっとしごとをこなしてすごすつもりでいる。その先の計画はまだ固まってはいない。
それでもいま心躍るのは、季節の催事との出会いや、旬の料理づくりや、俳句仲間との「四季吟行」の小旅行やである。「一年」ではなく「一季」を基本にして暮らしている高年者のDさんを「四季丈人」と呼んでもいいのだが、ややせわしいので、ここでは「百季丈人」と呼ぶことにしよう。
古風な民家づくりの居間には、重厚なサクラの机にそろいの「マイ・チェア」もある。「百季丈人」のDさんは、「チェア」に座って眺められるほどよい壁面に、実用を兼ねてビジュアルのしゃれた「四季カレンダー」(四季ごとの三カ月のもの)を掛けている。年に四枚、四季それぞれ三カ月の日付が視野の中に呼び出されていることに意味があるのだという。
サインペンの赤マルは、催事や「吟行日」である。よく見ると月と月の間を貼っている。例年入手しているカレンダーの月ごとの一二枚を三枚ずつ切り貼りして、四季ごとの三カ月(三~五月、六~八月、九~一一月、一二~次年二月)の四枚にしたてたもの。新年・冬は一月が、春は四月が、夏は七月が、秋は一〇月がそれぞれ中央に据えられて、早仲晩の順になっていて、そこ季節行事が記されているから、「地域の四季」はカレンダー上に鮮明に表現されている。
年末恒例の東京銀座・伊東屋の「カレンダー展」などをみても、「四季カレンダー」と称するものはあるが、実際にこういう四季ごとの三カ月九〇日間のものは見かけない。あるのだろうが、目立つほどにはない。カレンダー会社が競って制作する「季節しごと」の成果を待っているというのが、Dさんのあわてずさわがずの願望である。  
「季節小物」
Dさんは「マイ・チェア」に座って眺められるほどよい位置に「四季」を取り込むしかけをいくつも配している。年四回のモノの配置の「季節替え」(大掃除)をおこなうのを、負担にするどころか楽しみにしている。新しい季節を待って迎えて送る楽しみである。花鉢、紋のれん、玉すだれ、星座図、扇絵、雛人形、鯉のぼりや風鈴や蚊やり豚や丸火鉢といった「季節小物」の置物や飾り物を入れ替えたり移動したりする。季節の移りに応じて、住にかんする春もの、夏もの、秋もの、冬ものを目立たせるとともに、衣・食それぞれの変化をも楽しんでいる。
Dさんはボタニカルアートの手習いをしている。いずれは「四季色紙」を自作するつもりという。年に四作では寡作にすぎるが、それでも季節ごとに花々の盛期を熟視して楽しみ、ほどほどの出来の自作でわが家の居間を飾れるならば、「百季人生」の味もまた深まる。
「茶道や華道も、そろそろ男性回帰の時期ではないですか」と、Dさんは文化勃興期の変容は男性が主導するが、完成期以降は形式美として女性が支えるという持論を述べる。和装もまたしかりで、これまで主として女性の儀式用の盛装として技術も意匠も素材も女性によって支えられ保存されてきたが、「季節感と地方性を享受する高年男性の登場によってよみがえる時期にある」とわが身に引き寄せて熱心に語る。いささかささやかともいえるDさんの人生目標ではあるが「地域の四季」を、個性的に享受する心根が形の上に息づいている。 
「床の間春秋」 
「そうそう、どこのお宅にも四季を取り込むために先人が残してくれた仕掛けがあるのに活かされていませんよね」とDさんがいう仕掛けというのは、「床の間」のことである。軸が年中かけっぱなしの一幅だけでは、せっかくの「床」が動かずにさびしい。というより無いに等しい。気づいてみれば、Dさんとこの床の間も長いあいだ、入居時のお祝いに頂いた中国画家の「牡丹」のままだった。花の軸なら「梅」「牡丹か桜」「蓮か蘭」「菊」の四幅の「四季花軸」がほしいところ。春は「桜」にして新年に華やかな「牡丹」とすれば五点である。まずは春秋一幅ずつそろえれば「床の間春秋」が楽しめる。有名画家のものは高価だし贅沢だから、習作期の画家や素人画家の力作に魅力がある。
密室でぶんぶんクーラーを回してすごす無季節、無機質な「常春」指向を修整して、「地域の四季」を家庭内に取り込むこと。遠からず自作の「四季色紙」が居間を飾り、切り貼りのないしゃれたデザインの「四季カレンダー」が季節を伝えるだろう。さまざまに季節小物を配して、繊細に個性的に「百季人生」の季また一季を迎えて享受して過ごす。
 もうひとつ、Dさんお気に入りの「エイジド用品」を忘れて名ならない。チクタク振り子が行き来する古時計。百寿期の「おおきなのっぽの古時計」とまではいかないが、形と数字の表現に古風の味がある小振りな柱時計である。傍らにデジタル時計も置いていて、「二もとの梅に遅速を愛す哉、です」などと、蕪村の句を挟みながら、時計の遅速をもまた楽しんでいる。 
*・*一年より「四季」を折節の基本に*・* 
「祭事・歳事、催事」
前項では、時節の基本を一年ではなく「一季」に置いて、「地域の季節」の移りゆきとともに暮らす「百季人生」を紹介した。「地域の四季」に関わる歳事のうちには、地域の暮らしにリズムをつける催事として、門前(社前)市があちこちで復活している。
だれもが参加して楽しめる「祭事・歳事、催事」を追ってみる。
年初の「初日の出」や「初詣で」ではじまり、「初荷」「初午」など初ものがつづいて「節分」。春を迎えて「ひな祭り」「お花見」「端午の節句」や「新茶つみ」。季節が動いて「しょうぶ湯」「七夕」「お盆」に「夏祭り」、全国各地の「花火大会」、「薪能」。そして「お月見」(中秋の名月・十三夜)や「七五三」と季節は移って、暮歳の「酉の市」「大晦日」・・。
そして、季節の移ろいの節目を次々に追うのは、
 立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨 立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
 立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降 立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒
 という「二四節気」。すべてとはいかないが、多くが実感をともなって知られている。
それに八十八夜、入梅、二百十日や、さらには開花日、初鳴日、初見日といった「雑節・生物季節」など。この国の先人は、それらを合わせて新しい季節の訪れを心待ちして迎えては愉しみ、名残りを惜しんで送っては楽しんできた。 
「自作五句」
日本の民衆文芸として親しまれている俳句を支えるのが「季語」。そこには時の移ろいとともに動く季節の突っ先をとらえる感性のエキスが詰まっている。そこで「百季丈人」であるDさんに、俳句仲間ならだれでも知っているという近代秀句を選んでもらった。
 まさをなる空よりしだれざくらかな     富安風生
 万緑の中や吾子の歯生え初むる    中村草田男
 をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏
 湯豆腐やいのちの果てのうすあかり  久保田万太郎
 など、折り折りの味わいが巧みに捉えられていていいものだ、とDさんの評。
 稀にみる短詩だけに文字づかいにきびしく、仕上がりの句境には天地雲泥の差がある。巧拙は風にまかせて、新年・春・夏・秋・冬の五句くらいは、なんとか「自作五句」として選定して心にとどめておきたいところ。特に気に入ったひとつは、ひそかに「辞世の句」として内定したりして。 
「八方時刻」
一日を二四時間に刻んで過ごしてきた国際標準に重ねて、高年期に入ったみなさんに本稿が推奨するのは、三時間ずつ八つの刻みを意識して一日の予定を織り込んでいく「八方時刻」を取り込むこと。ゆったりとした暮らしの日々に鮮明な記憶を残してくれることになる。
  〇~三時       更(ふけ)  
      三~ 六時        明け方 
      六~九時         朝方
      九~一二時     午前・昼前    
      一二~一五時   午後・昼過ぎ  
      一五~一八時 夕方  
      一八~二一時   晩方   
      二一~二四時   夜
「更」は五更まであって三更からが日替わりだが、夜更けや深更として日替わりの感覚としてはじめに据える。「明け方」と「朝方」は異論があるまい。正午をはさんで「午前・昼前」と「午後・昼過ぎ」そして「夕方」を迎える。そのあと「夜」までの間を、気象庁は天気予報で「宵のうち」(午後六時~九時)と呼んでいたが、人によって捉え方が違うからという理由で、〇七年四月から「夜のはじめごろ」に変更した。本稿では朝昼晩として実績をもつ「晩方」を据えた。使いならすことで「八方時刻」(八分時刻)を実感してほしい。
「八方美人」ほど目立ちはしないが、「八方丈人」には着実な生活感がある。
某月某日、朝方に朝刊を読んでから学校へ出かける孫の翼くんにひとこと。昼まえにはO先生に手紙を書き、昼すぎには町なかの郵便局と図書館へ。夕方に近所の八百屋へ総菜を買いにいってから夕刊を読み、晩方に晩飯をすませてからTさんに電話とFさんにファックス。そして夜にEさんへEメール、BSテレビのニュースと読書。でも夜更かしはしない。
こんなふうな時の過ぎゆきとともに三時間ごとの活動を刻んで過ごす「八方人生」には、日また一日を着実に刻んでいるという充足が感じられる。 
*・*「四季型(通風)住宅」への回帰*・* 
「四季型(通風)住宅」
住宅についてはすでに「三世代同等同居型住宅」というやや大型で耐久性に優れた住まいを取り上げた。ここでの「四季型(通風)住宅」もだれでもとはいかないだろうが、住宅に対する考え方としてはだれもが納得しておいてほしいところである。全室冷暖房という「常春型(エアコン)住宅」が快適さのすべてではないということである。
古来、わが国の風土に適応した住宅は、「地方性」を活かした素材や様式をもち、「季節感」を巧みに取り込みながら、一年を通じて過ごしやすい工夫をこらしたものだった。古都の町屋や各地の古民家として、わずかだが今に残されている。そういう古い日本住宅を活用した旅荘やレストランなどで「風土の良さ」を実感したことがあるにちがいない。最新の無季節で多産型のプレハブ住宅に住んでいるうちに忘れてしまった住まいの味わいや安らぎを、現代に引き継いで活かす「モダン変容」が、現代の匠たちによってなされていることに注目しよう。
「常春型(エアコン)住宅」を取り入れながら、住宅全体としては繊細でリズムのある「四季型(通風)住宅」にするのが、「住宅に関する多重標準」である。すべてを通風に回帰することではなく、一部を冷暖房付きで一部を通風型にして、電力を倹約しながら季節の変化を享受する暮らし方を可能にしている。機密性が保たれ、常温が得られる住宅構造(すきま風のこない家はうれしかった)によって、冷暖房施設は急速に普及して「3C時代」を謳歌してきたが、その快適さをひたすら支えてきたのが電力だった。夏ごとに「クールビズ・ファッション」をはやしたてて何かが変わるなどというのは環境ファッション程度での議論で、天然の樹木や水や風への基本的認識がないばかりか、本格的取り組みを見失う過ちを隠すことになる。
 「外向的街並み」
内向きに閉じた常温型住宅から、「地域の四季」つまり外界と向きあうたたずまいを持った住宅への回帰。これがこの国の「住まいの良さ」の本流なのだ。高年者層の人びとの「季節感」と「地方性」への関心と配慮が、庭など街と住宅の中間領域にも安定感を与えて外向的な住宅街を実現する。
「季節感」や「地方性」を具体的に取り込むことによって住み心地は変わる。新築や改築にあたって、個別に現場で工務店側の熟年技術者と細部の検討がなされれば、その成果は共有されて、時をへて地域の特徴を巧みに表現した「四季型(通風)住宅」を中心にした家並み、街並みが形成されてゆく。高年の人びとが「地域の四季」を意識することによって、電力消費も少しずつ平常な姿を取り戻す。
内向きに閉じた「常春型(エアコン)住宅」の暮らし方を修整して、外向きに開放的に「季節感」と「地方性」を構造として取り込んだ「四季型(通風)住宅」が主流になる。地域のみなさんが工夫をこらして街空間の形成にも参加する「わが家」が増えることによって、三世代がそれぞれに内でも外でも暮らしやすい家、家並み、街並みが姿を現わすことになる。これまでの季節感をシャットアウトし、地方性を失った家並み・街並みに代わって、「地方の四季」を謳歌する地域特有の「外向的街並み」の展開が新幹線の車窓から楽しめるまでには、世紀のプロジェクトとなるだろう。 
*・*地方色を生かした「高年化用品」*・* 
「季節和装」
長着、羽織、帯、野袴、足袋、履物。履物は草履、下駄、雪駄。襦袢に褌。かずかずの和装小物類、そして財布や名刺入れまで。各地の産地がそれぞれに、和装の復興に努力をつづけている。伝来の意匠や素材を生かした「季節和装」が、高年者の衣の趣向として街に見られるようになるだろう。戦前の写真をみると、和洋ほぼ半々の街着である。それも趣味人の凝った風姿としてではなく、ふつうの人のふだん着として。それはこの上なく自由で闊達な雰囲気を地方の街にもたらしていた。
とくに男性の「和装街着」は、急テンポですすんだ容赦ない近代化の過程で、欧風のスーツとシューズを取り込むとともに街頭から追われてしまい、暮らしの場での「モダン変容」の機を得ずに日常性を失っていった。が、「裃」や「晴れ着」として儀式衣装に閉じこめられながら、意匠も素材も高度な製作技術も生産地のみなさんの努力によってなんとか保たれている。消滅に瀕しているそれらを引き継いで後代に残すためにも、「和装街着」の復活が急がれる。 
「和装街着」
「地方の四季」を特徴づける「モノと場の高年化」の契機はさまざまにある。まずは身近な「衣」の部門から。衣は「地方の四季」をもっとも率直に表現できる分野。地域に残されている意匠や素材は、どんな些細なものでも「四季の衣装」に素早く取り込んで生かすことができる。つまり伝来の形や素材を大切にしようとする地元高年者の衣装への趣向が仔細に発揮されているうちに、「和装街着」という地域高年者ファッションが登場する。
「和装街着」をリードするのは、洒々落々の風情を楽しむ「百季丈人」のみなさんである。合わせ、単衣、薄もの、単衣、合わせへと移りゆく季節の変容を、地元の意匠と素材とで繊細にとらえた「地域和装」は、着けても楽しかろう。こだわりなく着用して街をゆく和装姿が僧衣と作務衣だけでは心もとない。和装の形は保っているものの、いかにも窮屈そうな女性の晴れ着や男性の裃姿ではなく、カミシモを解いた和装への回帰が、本稿の希求している衣の情景である。 
「南方(農耕)系衣装」
「洋装(欧装)」の「北方(狩猟)系衣装」は冬の寒気をしのぐにはいいのだが、この国の夏日にだれもがシャツとシューズというのでは、画一的で暑苦しい。もっと気楽に夏の気分がかよう「南方(農耕)系衣装」の意匠と素材を採り入れた衣装がいい。南方の国から訪れる人びとの民族衣装は、「洋装(欧装)」でなく、着る側からいって「和装」に属するが、明るくて開放的である。迎える側も「和装」で応対するのが自然のように思える。ここにも「衣装の多重標準」を巧みに率直に活かす暮らし方がある。
歯に衣を着せずにいわせてもらえば、「クールビズ・ファッション」でこと足れりとせず、優れたわが国の衣装デザイナーがヨーロッパの衣装のために日本的な素材と意匠と才能を提供してきたが、今度はわが国に似合う衣装のために、世界のトップ・デザイナーが伝来の和装を知って、「和装街着のモダン変容」を競う場としての「トーキョー・コレクション」を開催する。そうして初めて、ヨーロッパ中心の硬直した「洋装(欧装)」指向から脱した、本来のおおらかな国際性が開けてくる。はっきりと「衣装の多重標準」を意識した舞台を現出する。黒人モデルが「洋装(欧装)」を超脱したネイティブの衣装を着けていきいきと登場することのほうに、だれしも豊かな国際性を感じるだろう。トーキョーならそういう流れをつくれるはずだ。 
「四季型衣装サイクル」
身近な問題だが、春先と秋口に出くわす不順な天候や昼夜による温度差(一〇度を超える)の時期に、地域の高年者が体調を崩さずにすむ「高年者向け重ね着」の工夫を、「衣の季節表現」として取り込んでゆく。各地に特有の春先と秋口の不順な時期を、重ね着によって乗り切る「高年者向け衣装」をつくり出す。そうすることで、夏もの、春・秋もの、冬ものの四季三分類による「四季型衣装サイクル」が完成するからである。
衣装づくりに熟練したみなさんが自分のために「折り折り思考」を働かせることでいい。
二〇世紀を風靡したのが「洋風(欧風)」ファッション。それに重ねて、新たな世紀での「和風」の復活。各地に四季折り折りの素材と意匠の「和装街着」が定着し、競われて話題に。隣家のジージが「春の街着ベスト・ドレッサー」なんてあっていい情景である。海外の姉妹・友好都市から素材や意匠を移入して個性的な街着をつくり出せば、欧風とは違ったファッションで街がはなやぐ。街着は和洋折衷という「衣装の多重標準」を活かせる分野である。 
*・*地元の素材で味わう旬菜*・*  
「旬菜料理店」
「食」の部門。
「鎌倉は活きて出でけんはつがつお」なんて旬の句を口ずさみながら、水気を切った旬のカツオの一切れに、香ばしいショウガ・ミソを載せてほおばると、江戸前の旬の句の風趣を偲ぶことができる。季節なしの冷凍食材への恩恵はそれとして、季節の恵みと先人の食の嗜好を伝えるのが、四季折り折りの旬の食材を生かした「季節折り詰め料理」。そんな料理は、外に求めるよりは、みずから「男子必厨丈人」として包丁をとって調理に立つよりない。「わたしの旬菜」が四季の食のシーンを賑わすことになれば、高年期の人生はいよいよ楽しいものとなる。
「旬菜」といえば、当日入荷した食材によって「メニューなし」で供する「旬菜料理店」。熟練の板前が丹念に調理する場で、丹精してつくった農作者や獲物を追う漁師の素材に対するこだわりを、菜卓(カウンター)をはさんで語り合うのは、伝承してきた日本の食文化の最良のシーンである。
食は「医食同源」の立場から素材と調理法の蓄積が進んでいる分野である。といっても昨今のTV料理番組のように、レシピで効能をあれこれこだわって、「耳視目食」に陥ることはない。季節を限った旬の食材をさがして「自前薬膳」にしたてあげればいいことだ。地域のレストランで、季節メニューに「地場薬膳」を発見したら逃がさない。
  けっこういけるコンビニ味覚に慣らされてきたが、高年期ともなれば、時節とともに現れる新鮮な食材を求めて調理した自作料理「わたしの旬菜」の創出を試みる。さらには「男子必厨」丈人として、旬の素材を吟味して「自前薬膳」を考案する。時に朋友を招いて、できたての旬菜を前に「しずかに新酒の数盞を嘗め、酔って旧詩の一篇を吟じる」のもいい。季節の恵みによる贅をつくした食のシーンである。 
「口楽文化人」
食べて語って歌うというのは、口が求める三つの楽しみであり、「口楽文化」ともいうべきもの。カラオケ店に「高年者専用ルーム」(「カラオケSSルーム」。VIPではない)があって、「口楽丈人」が出動して、「歌う、語る、食べる」(うるる三楽)ということになれば、ここは三味一体の「シニア文化圏」となる。「年少と春風を争わず」に、高年者が好みの曲を選ぶことができ、映像にも工夫をこらし、高年者好みの食ダネを揃えて供するホールを持つカラオケ店なら、これは与楽効果が満点の町の文化施設である。レストラン系カラオケ店の多重「うるる」構想に期待しよう。若者を狙った新曲争いに走ったり、やすく提供するために曲想と関係のない映像の繰り返しでは、「途上国化」というより、すでに衰弱化のうち。カラオケ店は、三世代がそれぞれに、またみんなしてこよなく愛し育てる街の文化娯楽施設なのである。
世界の料理を食べて歌が歌える「国際カラオケ」で外国からの客人をもてなすことができれば、技術立国日本の「口楽文化」の拠点としてどれほどの効果があるか測りしれない。国際的「口楽文化」を日本「口楽文化人」の「うるる」嗜好が先取りするのは愉快な情景である。 
*・*街並みを整える庭づくり*・*  
「一〇〇季の庭」
「住」の部門。
「地域の四季」の変化をじょうずに取り込んだ住居での暮らしが、高年期の日々の充足とどれほど深く関わっているかについては、すでに述べた。季節とともにまわるわが家の「四季のステージ」を演出するには、大道具・小道具がいる。そこでまずは先人が工夫してこしらえた伝来の園芸用具、新しい工具や設備など、庭いじりの業の要所を習うことになる。
若手の「百季丈人」(高年前期)であるDさんは、隣に住むベテラン「百季丈人(高年後期)」のGさんに習いながら、花期や実入りに配慮した植栽を手がけている。植物が繊細に表現してくれる「一〇〇季の庭」にひとつずつ迎えた「地域の四季」を実感しながら過ごしている。
街並みにかかわる庭木のうち、高木は周囲と合わせて土地にあったものにし、狭いながらもわが庭やベランダを通じて折り折りの「地域の四季」の変化を享受しながら、街並みの構成に参加していることもまた実感している。こんな街なら紛れ込んだ旅人も安心して時を過ごし、思い出を得て立ち去ることだろう。穏やかに風土・伝統が息づく街だからである。 
「わが庭の公開」
「地域の季節の花」が観光名所になっているところは数知れない。多くは観光協会などが管理にあたっている。梅や桜の名所は全国的に分布している。その一方で、寺院や個人の持つ庭園が「季節の花」のころに入場料をとって公開されて、「地域の季節」を楽しむ人びとに支持されている。牡丹、薔薇、紫陽花、菖蒲、藤、桃、菊などの「わが庭の公開」が話題になる。もちろん果樹の場合には摘果による収入が見込まれる。 
# 地域生活圏の高年化
*・*ふるさとの大地を踏み鳴らせ*・* 
「ふるさとの現風景」
将来を期待されて「ふるさと」を離れて、ひとり大都市に出て大学で学び、そのまま職業について都会暮らしをしてきた人びと。そのまま「都市浮遊型(Q字型)の人生」に終わらずに、高年期には「ふるさと」にもどって過ごそうと考えている人びと。「ふるさと帰巣型(U字型)の人生」を思う人びとには、こころの支えとして「山は青き、水は清き故郷」が原風景としてあって、静かに唱歌「ふるさと」を歌えば、山や川、うさぎやこぶなは変わることなく眼の裏に浮かぶ。「いかにいます父母・・」、となると父母はすでになく、「ふるさと」も記憶の中の風景としてよりほかになくなっていることを知るが、それでも溢れ出るなつかしさの度合いには変わりがない。だれもが住みやすくなることを望んできたのに、わが村や町の「ふるさとの現風景」は求めていたものと違う姿になっている。先の大戦ののち半世紀あまり、得たものよりも失ったものが多いことにも気づいている。
得たものといえば――舗装された真っ直ぐな道路。メカニックな騒音。コンビニ、スーパー、駐車場。コンクリート造りの新校舎と新庁舎。郊外のゴルフ場・・まだある。途上国製のさまざまなカタカナ表記の家庭用品。そしてマイカーとプレハブづくりのマイホーム。
失ったものといえば――安心して歩ける小路。緑ゆたかな雑木の里山や鎮守の森。ヒバリやカエルの声。野外で遊ぶ子どもたちの歓声やお年寄りの笑顔。秋祭りの活気。わら屋根の篤農家やよろずや商店・・まだまだある。もしかして明日への期待や将来への展望も。 
「歴史・伝統環境」
春になるときまって蠢動していた小さい生きものが次々に失せていく気配。失ってしまった自然環境のなにほどかでも回復しようという活動が、各地域で沸くようにして試みられている。とくにホタルは「水は清き故郷」のシンボルとして全国各地で蘇った。全国ホタル研究大会(ホタル・サミット)が開かれている。
夜空に舞うホタルの光は、過去に出合って失った何かなつかしいものを想い起こさせる力を持っている。「ホタルの飛翔」は終わりではなく次の何かへのリード・ライトなのだろう。「ふるさとの変貌」を見つづけてきて、何を蘇らせたらよいかの具体的イメージを探っている人びとに、新たな発見をうながす契機となっている。
人間中心の利用がすぎて再生力に崩れを生じた「自然環境」の回復がいわれ、消費の現場を無視して生産活動を優先したあげくに壊された「生活環境」の保全がいわれる。「ふるさと再生のまちづくり」ということになれば、「自然環境」や「生活環境」ばかりでなく、先人から引き継いだ「歴史・伝統環境」といった住民の暮らしにかかわる風土を含めて、それらが重なり合う現場で何をどうしたらいいかは、経緯に詳しい高年者の人びとが再生を協議するところからはじまる。 
いきいきシニア」
特例債付きの合併協議がひと段落した二〇〇五年六月中旬、どれほどの地域がどれほど元気であるかを知るためにおこなわれた調査(内閣府「地域再生に関する特別世論調査」)の結果では、暗に相違せず「地域に元気がない」ことがわかった。
自分が住む地域に「元気がない」と感じる人が四四%、「元気がある」と感じる人の三八%を上回っている。「元気がない」と答えた人は、その理由として「子供や若者の減少」(五九%)、「中心街のにぎわいの薄れ」(五一%)、「地域産業の衰退」(三九%)などをあげている。そして活動の中心となるのが国(一八%)でなく、住民(四八%)と地方自治体(三八%)であることもはっきりしている。
実感とそう違わない結果だが、ではだれがどうするかが問題だ。「子供や若者の減少」の根っこには「少子化」が、「中心街のにぎわいの薄れ」には商品流通の変化が、そして「地域産業の衰退」には「地産地消」の問題がそれぞれに指摘されており、国としては「合併による地方分権」をすすめ、「少子化特任大臣」を置き、「中心市街地活性化」や「地場産業育成」もみんなやっている、活動の中心はもはや国でなく、「住民と地方自治体のみなさんです」という国の悲鳴が聞こえる。「住民と自治体が主導」であることもわかっている。もはや人ごとのように国を批判していても始まらない。住民と自治体が何とかしなければならないときなのである。
全国には元気がいい「いきいきシニア」だっているのである。長期にわたる国主導の政策のなかで、やむなく生涯現役で対応してきたのが、農林・水産業の人びとだった。「地域おこし」の成功例(模範事例)を取り上げて表彰する「いきいきシニア活動表彰」(農林水産省)をみていると、農業・林業・漁業にたずさわる高年者のみなさんがきびしい環境のなかでいかにして生産組合や協議会をつくり、アイデアを出し合って特産物を作り出し、よろこびを作り出し、暮らしの安定に努めているかがよくわかる。  
「地域土中の地」
「少子化」対策にしても、子どもたちのためにイモの苗付け、茶畑づくり、七草とり、すだれづくり、トンビ凧・・そして少なくなってしまった安全な居場所をこしらえるといった事業も、地域の高年者のアイデアと参加なしにはすすまない。地域が湧き立つのを願わないものはいない。それを担うのは若者ではなく健丈な高年者なのである。
「ふるさと再生まちづくり」のきっかけをどこに見つけ出し、どこから元気をもらうのか。
唐突に聞こえるかもしれないが、それは「地域土中の地」からである。村や町にはかならず「土中」と呼ぶことができる場所がある。「土中」といってもモグラやミミズが住む土中ではない。地域の「歴史・伝統環境」を支える重心になっている場所のことで、社寺であったり役場や小学校や老舗や旧家であったり、城跡や大樹が残る岡の上や先人がたどり着いたとされる海辺や河口であったりする。身辺に三つや四つは必ずある。
人生をはるかに越えて残りつづけるものへの畏敬の念をもって、どこかそういう「地域の土中の地」に立ってみる。頭の中で結論を出さないで外へ出て、まずは実際に立ってみる。すでに鎮まった先人に語りかけ、今ある姿を見つめ、行く末を考える。他に支援を求めようとすることなく、みずからが「土中」の地に立って、地域再生に立ち向かう元気を沸き立たせることだ。そして地域の高年者として記憶のなかに残されている「懐かしく元気だった生活圏」を再生して後人に引き継ぐ事業に投じること。力が足りなければみずからを奮い立たせるしかない。
ふるさとの大地を烈しく踏み鳴らせ! 先人が頼もしい力を与えてくれるだろう。 
*・*合併後の課題は「広域化+地域化」*・* 
「平成の大合併」
先の大戦のあとしばらくして「昭和の大合併」と呼ばれる市町村合併があり、それ以来、四○年余りを経て、「平成の大合併」が生活圏の広域化が進んだことと「地方分権化」を主な理由としておこなわれた。住民の側も、自家用車を利用して三キロ~五キロ圏のスーパー・大型店舗への買い物や文化施設や病院などへの遠出は日常的になっていることから、合併の必要性は生活圏広域化の流れの中で納得できた地域も多かった。
ここで前世紀の末に近く、全国の自治体が競いあった事業があったことを思い出しておきたい。「ふるさと創生」事業である。一律一億円でアイデアを競いあった。そのときは小さな自治体を減らすことではなく、それぞれが特徴を探しあてて「小さくとも輝く自治体」を目指したのだった。「一億円ふるさと創生」をきっかけにして地域ごとに生活圏意識の醸成に動いた。
新世紀初めの全国規模での「平成の市町村合併」ではどうか。総務省は「地方分権」をかかげながら「人口が一定規模に満たない自治体は解消する」として、自治体の数を減らす(一〇〇〇が目標)ことをめざした。「ふるさと創生=地域化」と「平成の大合併=広域化」とに示される国のふたつの意図のよじれに地域住民はとまどわざるをえない。 
合併を数の上だけでみれば、三二三二市町村(二〇〇二年末)を三分の一の「一千自治体に」を目標にして全国展開し、一八二〇市町村(二〇〇六年三月末)を成し遂げたのだから、総務省としてはひとまず面子を保ちえたのだろう。国の合併指針は、「規模の適正化」とともに「合併市町村の円滑な運営の確保及び均衡ある発展」(合併特例法・新法)であった。
新自治体は、合併後の「生活圏の広域化+地域化」という多重標準による新たな生活圏の創出を模索することになった。 
「生活圏の広域化」 
国(県)からの要請であった広域化としての生活圏(平成の合併圏)の形成は、クルマの利用やIT化をとりいれた規模のメリットを納得できる住民の広域化意識を醸成しながら進められる。その一方で、これまでの暮らしの場であった生活圏(昭和の合併圏)は、「地域の特徴の再生(創生)」といったまちづくり事業として、「自然環境」「生活環境」「歴史・伝統環境」それぞれの見直しに立った住民活動として展開される。だから「生活圏の広域化+地域化」という多重標準の視点が必要で、どちらか一方に片寄ってもみんなが暮らしやすい地域とはならないだろう。
住民の側からの対応としては、新自治体の新たな構想のもとでの暮らしの場(クルマ利用の行動圏)をつくる一方で、旧自治体の範囲(歩行圏の小学校区と自転車圏の中学校区)での地域の暮らしを守ること、つまり「生活圏の広域化と地域化」とに同時に対応するという多重標準の意識と視野をもった暮らし方を選択することになる。合併評価の基準は、住民がこの双方の生活圏をうまく利用してうまく暮らすことができているかどうかにかかってくるのである。新自治体の中心部だけが賑わって、関係した周辺の地域が特徴や暮らしやすさを失って萎えてしまうのでは成功例とはいえない。 
「個性ある地域の発展」
別の項でも論じるが、「均衡ある国土の発展」から「個性ある地域の発展」へという政府の「骨太の方針」の理解においては、「Aに替えてBを」という単純・一元的なものではなく、「Aに重ねてBを」あるいは「AとともにBを」という多重・多元的な変化としての理解が必要なのである。「合併特例法」(新法)では、市町村合併の推進により、「規模の適正化」と「合併市町村の円滑な運営の確保及び均衡ある発展」をいうが、「地域の個性」(特徴)を残して活かしながらの「均衡ある発展」であることを、それぞれの関係自治体の現場でみんながしっかり把握しておかないと、地域の特徴を失って均衡ばかりが先立つことになる。
合併を機に、産業(モノ)と文化(ヒト)での「歴史・伝統」の再生を通じて、各地域がみずからの特性を再確認して暮らしに活かすような「まちづくり」の実施によって地域住民の活力を呼び覚ますこと、住民の地域を思う意識を醸成しないでは地方分権の受け皿としての「個性ある地域」は成立しない。 
「民主主義の抜苗助長」
合併を成し遂げた新しい自治体のうち、住民の関心が沸かず、具体的な動きが「ふるさと創生」のときほどにも生じなかったところ、つまり「元気がない」ところでは、中心部だけに合併のメリットが集中するという結果がみえはじめているのではないか。
「民主主義の抜苗助長」になりはしないか。大戦後に得た主権在民の種から芽が出て苗となって育ってきていたのに、早く苗を伸ばそうとして引っ張って(助長して)苗を枯らしてしまう愚かな農民(まともな農民はそんなへまなことをするはずはない)の姿に重なるのだ。
足並みこそ違うものの、住民がゆっくりと育ててきた「地域民主主義」の根付き具合を個別に考慮することなく、国(県)は「地方分権」による自治の強化・効果をいいながら逆に自治能力を奪うことになる「一律の平準化」を強行したともいえる。実際に「新市民」の反応がにぶいところは苗が枯れてしまった可能性が濃い。住民が自主的に動かないことによって、次第に「抜苗助長」であったことが明かされ、いくつもの「小さな自治権」が奪われ、住民自治から国家管理へ、つまり「民から国へ」と振り子がもどっていく。 
それを知りながら国があえて「抜苗助長」という愚かな農民役を務めたのはなぜなのか。
「一律に強行しなければ、きびしい財政事情を自治体職員も地域住民も分かってくれないからだ」という、財政事情の逼迫がその理由であろう。
地元住民が納得し呼応して実現に参加する事業でないかぎり、財政赤字を好転させる地元効果は生まれない。住民が呼応し地域が動かないかぎり、「地方分権」どころか、「三位一体の財源配分」の場で国による地域行政支配だけを強めることになる、つまりは国家管理をしやすくするための虚構となる。 
「地域社会の高年化」
各地の合併協議会で「高齢化」問題はどう扱われていたのか。合併の必要性のひとつが「少子・高齢化」への対応だったはず。あとは「財政の悪化」「日常生活圏の拡大」「地方分権の推進」「住民要望の多様化」である。このあたりの課題はどこもそう変わらない。
「少子・高齢化」への対応では、六五歳以上の人口割合が増えて医療費・福祉対策費が増大する一方で生産年齢人口が減少し税収が減少し財政が逼迫する、だから「現在と同じ水準では行政サービスが受けられなくなる」と指摘する。将来像では、「シルバー人材センターの充実、生涯学習の振興、NPOの活用」などをあげる。どこも新たな展望をふくむ解決策を示していない。
そして「市民参画の推進」には「男女共同参画」はあるが、「高年者の参画」への期待はどこにも見えないのだ。これでは「少子・高齢化社会」の将来像は描けない。
合併が成立したところもだが、現状のままでは自主財源を取り崩して対応するしかない。小さな自治体ほど厳しさを増す。このままいけばどこも数年しかもたず、めぐりめぐって財政赤字の潜在的担保となっている高年者の資産がねらわれるのは目にみえている。それに気づいた高年者が動き出す。「高年者住民の参画」はいまなら早くはないが遅くはない。
「平成の大合併」の成否にかかわりなく重要なことは、地域の「まちづくり」に高年者がどれだけ参画する意欲をもっているかにある。財政の好転もその結果としてもたらされるからだ。地域が独自に解決しなければならないのが「地域社会の高年化」である。人口の三分の一にあたる高年者層(五〇歳から)が協力して、地域特性や伝統を生かした高年者自身が暮らしやすい地域づくりを推進する。自治体は全国一律の合併を機に、「地域社会の高年化」を施策の柱として位置づける。つまり「高年者の社会参画」が「地方分権」の受け皿としての自治体の特徴を支えて独自性を発揮しうる課題であり、周囲の自治体を比較しながら良所を導入できることが、合併を契機にした全国一律の活動であることの最大のメリットなのである。先の大戦後に育ててきた「地域民主主義」の芽は、「地域生活圏の高年化」活動によって引き継ぐことになる。高齢化率が高い県でさえも、「高齢社会を豊かで活力ある社会としていく」といいながら、なお担当部署が旧来の健康福祉部や土木部という現状では、全国一律の「地域の高年化」対応はむずかしいだろう。 
*・*わがまちの「高年化特産品」*・* 
日本的よき均等性」
新幹線の座席でうとうとした後で、身を起こして、列車の窓から外を見る。
「いま、どこさ走ってるん?」
流れ去っていく風景からでは、どこを走っているかの判別がつかない。外国での話ならともかく、わが国の国内での話。利用した人ならだれもが経験していることなのである。次々に展開する田畑も家並みも、どこも同じような風景なのだ。新幹線の車窓からの風景の中に、「ここはR町 △△が特産」といった程度の看板くらいはあってもよさそうだが、地方特性(特産)がいっこうに立ち上がっていないのである。「地方の時代」といわれてずいぶん経つというのに。
しかし、これは見方の違いによるのであって、いずれの地も凸もさせず凹もさせずに、「冨を等しく分かち合いながら、ともに豊かになる」という、先の大戦後にわが国の先人が選んで目標としてきた「日本的よき均等性」の成果なのである。「豊かになれる者からなれ」とはせず、個人差や地域差をなくして、等しく成果を分かち合おうと務めてきた善意の人びとによる積年の成果なのだ。その意味でなら、これまでも「地方の時代」だったといえる。東京一極集中の風潮の中で、地方の人びとは優れた多くの人材を提供しながら、残った者たちによって、「モノと場の平等な豊かさ」のために、たゆまぬ努力をしてきたのである。
みんなが等しく貧しかった時代、若者を大都市へ送り出し、地元に残って貧しさや不便さにも耐えながら辛苦した人びと。いまはもうその姿は定かでないが、地元のために尽くした先人の努力を無視しては、現状の公平な豊かさに対する理解の公平さを欠くことになる。
新幹線を利用しながらこう語るのは失礼になるが、「善く行くものは轍迹なし」という先哲のことばに耳を傾けたい。すべての業績を周囲の人に振り分けて、みずからは轍の跡を残さず去っていった善意の人の姿を忘れ去るわけにはいかない。等しく冨を享受するという善意から始まった「均等化としての地方の時代」が、時を経て「横並びの安心感」による自立意識の欠如となり、推進力を失ってしまっている。成果主義といった目の先の競争誘因を取り込まねばならないほどの転機を迎えようとしている。
他ならぬ政府が掲げた「骨太の方針」の、「国土の均衡ある発展から個性ある地域の発展へ」 というキャッチフレーズには、そういう理解による転機への要請が表現されている。
ここで注意すべきことは、「~から~へ」に示される政策の変更である。ここは「~を転換して」ではなく、正確には「~に多重化して」と理解すること。地域特性の回復だからといって、一八〇度の「転換」をするのではなく、これまでの国主導の「横並びの均等化」によって得た現況に、さらに地元の発想を「多重化」して、地域の活力を呼び起こそうということである。そう理解しなければ先人が善意として積み重ねてきた営為をまるごと無視することになってしまう。
「地域に根ざした暮らしの知恵がどの地方にもあったはずなのだが」と思いながら、新幹線の客は、どこかわからないまま車窓から目を戻す。前方の出入り口の上の小さな空間をニュースが流れ、「あと三分でN・・」というお知らせが流れた。 
「地方色・県民性」
江戸時代の後半期に各藩が競い合って育てた地域特性は、近代化という外圧の中でも明治・大正期まではなお地域特性として保存する努力がなされてきた。それが昭和の初期に国家主義が全土を蔽って以来、「全国的な均等性」が優先するようになり、「地方色・県民性」などといわれていたそれを消し去ろうとする力が働いてきた。その方向は「お国ことば」が「標準語」の普及のかげで「訛り」として忌避されるなど、戦後にもなお持続してきている。それでも戻りの道が確保されていることは、特産物や郷土料理や民謡や祭事がなお盛んなのをみる限り、潜在して健在であるといえよう。
敗戦後に地域の人びとの安心感を支えてきたのは「モノと場の横並びの平等感」であった。だから新幹線の窓からでは見定めがつかないR町のような町でも、次のような横並びの「基本課題」を共通して持っている。「個性のあるわが町」を創生するには、地元の高年者が協力して、自分の経験をつき合わせて、この中から地域特性を掘り起こすことになる。
「産業・流通」では、主要な物産の確保と地元素材を活かした特産品の形成
「環境」では、「自然環境」では里山や鎮守の森、水辺などの再生・保全。「生活環境」では生活道路の整備、リサイクルに関する住民意識の醸成と施設。「歴史・伝統環境」では四季の祭事や古城跡・旧跡や文化財、人物などの再興・保存・伝承
「情報化」では、情報ネットの形成、パソコン教育・研修、お国ことば(方言)の保存
「国際化」では、姉妹・友好都市との交流、青少年ホームスティ、特産品の共同開発
「少子・高齢化」では、健康保持事業、子育て・孫育て教室、男性料理教室、世代交流
「地域コミュニティー」では、防災・安全事業、まちづくり構想、中心街の再生
「スポーツ・生涯学習」では、地域の歴史・伝統、四季の暮らし、園芸、各種スポーツ、碁・将棋、ダンス、文化講座、芸能、ボランティア・・などなど。
すでに各地から具体的成功例として耳にするのは、環境に関する「エコ・ライフ」や「スロー・ライフ」による再生活動である。「ホタルの里」や菜の花・レンゲ・コスモスといった「花の里」や「そばの里」や「和紙の里」といった名物づくりの里づくり。そして地元の焼き物・織物の再生。和太鼓・歌舞伎・踊りの復活。××弁・民俗芸能の保存と伝承など。いずれも意識されないが、地域の高年者が主体となって活動をリードしている。 
「高年化地域特産品」 
各地の「物産館」や「道の駅」に陳列されている「地域特産品」をみてみよう。
季節ものの青果・果実、水産物、ジャムや味噌のほか、まちの「創作の里」などで住民がこしらえた陶器、和紙、木製品、塗りものといった日用の手づくり製品の中に、伝承技術を生かした「高年化(一生もの)地域特産品」が見られる。高度の伝統工芸もあるが、そこまでいかなくとも地域の素材を活かした素人の熟練した手作り品のほうに地産品の味がある。価格も高いわけではない。没後の遺産としてまではムリとしても、終生の愛用には十分に耐えられる製品になっている。
ここでの「高年化地域特産品」というのは、高年者のための用品と狭く限定するよりも、「丈夫で長持ちする一生もの」という意味でいい。終生用いられるほどの耐久性と「熟練の手ざわり」があればいい。地元の素人づくりのよさを認めあうことからはじまる。
前項の表のように、どこの自治体も熱心に高年者住民が参加する活動の支援をおこなっている。中央から講師を招く定番の文化講座やスポーツや芸能ものが少なくないが、地域と地域を結ぶ活動や国際交流、地場産業の展示・品評会といった「地域特性のモノづくり」を意識した活動に将来性がある。高年者住民と自治体と地元企業がバランスよく協働する活動にも可能性がある。他の地域の追随を許さないレベルにまで技能や特性を磨きあげることで、地域独自の物産が創り出されることになる。  
「企業の地方化」
企業もまた「中央から地方へ」の流れの中での役割を果たしている。かつて若い日に「均衡ある国土」づくりの時代に地方に出た社員が、いままた「個性ある地域」づくりの時代に地方へU・Jターンすることで、高年期での最良の職場選択となる可能性が大いにある。
「地方化」をめざす企業がなすべきことは、地元資本の企業を資金力と経営ノウハウの差で打ち負かし、市場を奪うことではない。それでは良き「企業の地方化」とはならない。勝っても長期的には歓迎されない業態である。
中央で培った経験を地元企業と共有して提携・協力しながら地域の活力を引き出すこと。そのためにU・Jターンする地元出身の高年社員の経験が活かされる。会社に願い出て、地方で定年を迎え、「人生の第三期」のステージとすることも選択肢のひとつだろう。
地域の高年者のみなさんが暮らしの中から発する要望が「高年化地域特産品」につながる。きっかけは思わぬほど身近にあるものだ。また前述したように、海外の姉妹・友好都市が培ってきた伝統的な物産や行事や暮らしの慣習といった特性の中から、新しい意匠や新素材を移入して新製品が生まれることが十分に予測される。そういう新製品の場合は、地域の「高年化特産品」の市場は、地域内にとどまらない。 
「地域ブランド製品」
地域の高年者の要望に応じて、地元企業は「モノづくり」に、自治体は「まちづくり」に、どう柔軟に対応するかが「地域特性のあるまちづくり」の形と質を左右する。各地の高年者のみなさんの「地域の四季」を際立たせる家庭内と生活圏での地道な挑戦が、「地域社会の高年化」の道程であることは確信していいだろう。
「地域の四季」を快適にすごすための住民自身による「モノと場の高年化」の実現。その要望から、伝承技術を活かした「高年化地域特産品」が生まれる。終生にわたって愛用できる「地域特産品」をいくつも持った「個性のあるわがまち」が競いあう。地域の生活を支える製品が超人気になれば、それは「地域ブランド製品」として定着するばかりか、地場物産に新たな活力を与えることになる。その成果を集めて「県都」では毎年、「(仮)高年化特産品展示会」が開かれる。  
*・*地域が担う「少子・高齢化」社会*・* 
「家族総出の子育て」
かつて近代化の過程で、わが国でも「人口急増(爆発)」の時代を経験した。地方の家庭は子どもたちを、お国のために、大都市のために、労働力として送り出してきた。長男が農家を継ぎ、次男坊、三男坊、*男坊は一人前に育つと都会に出ていって働いた。
いまや送り出せる余力はない。それでも地方の家庭では、「家族総出の子育て」で女性の社会進出を支え、「子育て」をおこなっている。都会生活の若い夫婦の子育てに支援の急務があるが、伝統的な子育ての基本は地方の「家族総出」にあることをしっかり把握し直す必要がある。霞が関にも「家族・地域の絆」を再生するための三世代同居支援という動きがあるが、流れをつくるにはいたっていない。
子育て支援といえば「エンゼルプラン」(九四年策定・九五~〇五年度実施)も、「新エンゼルプラン」(九九年策定・二〇〇〇~〇四年度実施)も、そして「次世代育成支援」のための「次世代育成支援対策推進法」(〇三年公布・行動計画〇五~一四年度実施)も、この一五年の施策のどれにおいても、直接には祖父母の育児参加には触れておらず、「地域住民」として扱われてきた。子孫の育成にとって祖父母の存在はゼロなのである。
施策の上でそう軽視して扱われていても、実際には孫の傍らにいて親の目と違った目で見て、知らないことを教え、励ましを与え、孫から二重マルの似顔絵をもらう祖父母は多い。過保護や板ばさみを避けながら、社会適応性のある子どもたちを育てる役割を果たしてきたのは、おじいちゃんやおばあちゃんではないか。それがごくふつうの伝統的な次世代支援であり、家族による自然で当然の「子・孫育て」である。祖父母に可愛がられて育った孫は、高年者になってきっとやさしい祖父母になるだろう。
「ひとりじゃないよ、みんなで育てる未来に輝く子どもたち」
いいキャッチ・フレーズである。家族総出で、そしてさらには地域のみんなで、地域の子どもの成育を支援し見守っていくことが、もっとも有効な「少子化対策」であり「少子・高齢化」社会づくりなのだといえるのである。
 「孫育て講座」
多くはないが、「育孫書」が出版されている。「祖父母が孫と遊べる児童館」へ行ったり、「孫育て講座」や「孫育て教室」に出て、新しい育児のやり方を知り、孫たちとどう接したらいいのかを考えたり話したりするチャンスも増えている。
期待されていないから熱心になれない。「子・孫」を育てるためには、父母の子育てに加えて祖父母の「孫育て」がうまく重なるのが自然であり当然であり、各地でさまざまな取り組みがなされているが、肝心の国の子育て政策が大都市型の「保育施設の充実」や「夫の育児参加」や「育児休業」といった支援対策に片寄ってしまっている。
「三世代同居」や子ども世帯が同じ敷地に家を建てて住む「敷地内同居」が多い地方の町村での次世代支援は大都市型とは同じではない。つまり「子育ての多重標準」としての都市型と地方型とが明確に意識されなければならないのである。
世帯同居ならいうまでもなく、近居の場合には「おじいちゃんち」が成り立っているだろう。保育施設や幼稚園での「おばあちゃん先生」、公立小中学校の補助教員、塾の教師、通学路や公園や公民館、図書館、その他の施設での目配り。事故や犯罪やいじめといった被害から子どもたちを守るのに、地域の高年者の「次世代育成」への関心は欠かせない。さまざまな自然体験、決まった遊具を置かずに子どもたちの自主的な参加で遊び場をつくる「まっ白い広場づくり」には、かつて自然のなかでそうして遊んだ経験をもつ高年者の知恵や手助けがいる。マンガで育ってすぐキレル子どもに、豊かで精細な表現力を身につけさせて感情のコントロールができるようにしようという「読み聞かせ図書館」や地元の伝統技術・芸能を伝授する活動などにも高年者の支援が生きている。 
「総人口減少」
何度聞いても違和感を覚える統計用語のひとつに「合計特殊出生率」(厚生労働省)がある。ひとりの女性が生涯に産む子どもの数を示すが、わが国の場合は、人口を維持するのに必要といわれる二・〇八には程遠いラインで推移している。二を切ったのが一九七〇年というからもう四○年も下がりつづけている。〇八年では団塊ジュニアの出産期ですこし持ち直したといっても一・三七となっている。
そして総人口が二〇〇五年の一億二七七七万人をピークに長期的に減少という事態を迎えている。国会の論議で、「総人口減少」の危惧に対して、政府側答弁は、減るものなら減ってもしかたがないというものだった。明治時代は三〇〇〇万だったし、戦後も七〇〇〇万だったのだから。将来は六、七〇〇〇万人という事態はありうるというもの。為政者としては「子育て」環境を整えつつ、「減ってほしくない」として努力したすえの結果ならいざしらず、無策のままで統計的な予測を述べるのには唖然とするばかりである。
国は「次世代支援」を進めているとはいえ、都市型の夫婦ふたりの抱え込みによる子育てに固執している。地方の実情や高年者を軽視したまま、祖父母の支援による「孫育て」という伝統を引き継ぐことをしていない。支援対策の実態も、結婚・出産期にある人たちの「結婚、出産を奨励」するが約二〇%なのに対して、「結婚、出産を阻む要因を取り除く環境整備」が過半数という(総務省の世論調査)。なのだから、家庭内で、地域社会で、職域で、「孫育て」のための連携した支援が必要なことはおのずと明らかであろう。
 「高齢者センター」
これまで高年者側からの世代間の出会いといえば、「老人クラブ」がおこなってきた「地域を豊かにする活動」(旅、将棋など)がある。「伝承活動」や「世代交流」は組織的な活動の柱になっており、地域の文化や芸能・民芸や手工芸、郷土史などを子どもたちに伝承している。しかしながら既存の「老人クラブ」と「子ども会」との間ではとても扱いきれない地域の問題が山積しており、家庭内とともに地域生活圏でも高年者による「三つのステージ化」の活動が、新たな生活圏の創出とともに次世代育成支援と重なるものになることはまちがいない。そしてその先に地域の課題を解決するための「三世代会議」の発足が想定され、施設として「三世代会館」が構想される。各地に「児童館」「青年館」「高齢者センター」は多くあるが、「三世代会館」はまだ聞かない。合議して名前を変更して、三世代の代表者が管理するようになれば有効な地域の集会所として機能するだろう。
たとえば東京都千代田区の「高齢者センター」は、さすがにトップクラスの地域にあるトップクラスの高齢者のための総合的施設である。憩いの場、健康増進のための場、仲間づくりのさまざまな同好会、講演や映画や演芸も楽しめる。七階の施設でいたれりつくせりだが、世代を超えて発信する拠点というコンセプトはない。
 「三世代会議」
高年者側から発信する「青少年」「中年」「高年」の代表による地域の「三世代会議」には、これまでの「老人クラブ」などによる活動を大きく越えた構想が込められている。
地域の特性や伝統を大事にし、特産物を育て、篤農家を守り、若者を鍛え、子どもたちに強く生きる夢を与えられる地域の高年者層の活動に、地方自治体はもっと期待し参画を求めるべきであろう。そんな活動を担うのは地域の来歴を知っている「昭和丈人層」のみなさんである。
地域住民みんなが暮らしやすくする活動、たとえば「バリアフリー」による環境の整備など「ユニバーサル・デザイン」の考え方に配慮したまちづくりは成果をあげているが、それに重ねて物産、文化、余暇にわたる三世代がそれぞれに暮らしを楽しむために要請され、「青少年」「中年」「高年」それぞれの活動を推進するのが「三世代会議」である。そのための常設の施設が「三世代会館」である。公民館や文化会館はだれもが利用可能な共用施設であるが、それとは別に三世代がそれぞれに活動する場を持ちさらにそれをつなぐ拠点とし、「三世代会議」をおこなえる施設が「三世代会館」である。「三世代会議」を開いて、それぞれの要望を具体化していく。先人の事跡から学び、将来の後人に伝え、いま暮らしている三世代がそれぞれの力をあわせて、外からの風圧に耐えうる「新・ふるさと樹形」を整え、幹を太らせる。そんな活動の中心にいて高年期を享受するのが「昭和丈人」を自覚した人びとの人生である。 
*・*ふるさと人を代表する「地域シニア会議」*・* 
「地域特性を持つまち」
ふるさとに残って地域の物産や伝統を守ってきた人びとを中心にして、ふるさとを離れて大都市で活躍した後に高年期なって戻って過ごす(J+Uターン)人びとが蓄積してきた知識や技術や人脈や資産などを地元にもたらすこと。「地域特性を持つまち」にするにはそれらが有効に働くことが必要であろう。魅力のある町には、これまで関係をもたなかった人びとも高年期を過ごすためにやってくる。いわゆる「田舎暮らし」指向の人びとが参加することになる。
これまでの「均衡ある国土の発展」により平準化された町に重ねて、「地域特性を持つまち」にするためには、まず町の来歴に長くかかわってきた高年者が中心になって、外部で培った経験や知識をもつ高年世代の人びととともに「高年者会議」を構成する。既存の権益を守るために排他的になってはいけないし、一方で外来の人びとも地域の伝統やしくみを無視してこれまでの暮らし方をそのまま持ち込もうとすることはよくないことだ。お互いの長所を組み合わせた「高年者会議」が成立してはじめて良好な「高年期のステージ」を構成することができる。と同時にまちの将来を担う子どもたちのための「青少年期のステージ」にも配慮する。これまでの地域を代表して活動している中年世代のための「中年期のステージ」を合わせて、「地域の三つのステージ」がバランスよく機能する態様をつくりあげることが求められる。
この「地域の三つのステージ」の創出は、地域の「少子・高齢化」に即応する新しい住民活動であり、それはまた三世代それぞれが推挙したメンバーによる「三世代会議」という新しい活動主体を成立させることで推進されることになる。 
「地域シニア会議」
「三世代会議」の「高年者部門」が「地域シニア会議」(名称は随意に)である。ここが「老人クラブ」と重なりつつ異なるところである。五〇歳からの「人生の第三期」に地元で活動している人びとが主要メンバーとなり運営にあたる。地域の隅々を知りぬいた「地識丈人」のみなさんである。Uターンした名誉教授や企業家や高年政治家も加わるが、中心になるのは地元で活躍してきた高年者である。こうした高年者が集まって、いろいろな角度からまちの将来を談論する「地域シニア会議」は、「地域が誇るシニア文化圏」のひとつとなる。すぐれた「地域シニア会議」は、爆笑と拍手と思わぬ展開の質疑のうちに住民の「不言の言」をしっかり聞きとることができる高年者の代表によって構成される。
ひとりひとりはそれぞれに魅力的な「ふるさと人」である。まずは物産・特産にかかわる生産者の代表。物流や人の交流にかかわる商業や観光業の人。宗派や専門科は別にして人生観や生死にかかわる宗教者や医者。専門は問わないが地域を越えた見方や考え方ができる学識者。孫育て期にある女性代表。域外で活躍している「ふるさと人」。柔軟な発想ができる高年議員。「ふるさと創生」で活躍したような行政経験者が加わる。伝統技能の保持者や由緒ある寺院の僧侶などが適宜に参加する。「寅さん」が一目おいていたなつかしい柴又帝釈天の「御前さま」のような人がいると会がなごむ。在住外国人もいい。一般的には九~一一人といったところ、「わがまちのベスト・ナイン」か「シニア・イレブン」といったところ。他地域と異なる構成が「地域特性」の表現となる。
何より「地方からの逆流」をおこす潮目の時期だから、ありきたりの発想や表現力の人(とくに進行役)では当たれない。未整理なままの住民の意見を的確に整理したり、多様な意見を調整したり、党派的な利害を排して中立を保ったり、民主的な進行を保ちながら即座に公平な判断ができ、柔軟な表現力のある人びとの選出が求められる。地域をよく知っている高年者(地識人)なら、たちどころにメンバーの半分は推挙できるだろう。 
「(仮)ふるさと創生21構想」
「地域シニア会議」が中心になって「三世代会議」を呼びかける。「三世代会議」が討議を重ねて作りあげた地域特性を持つまちづくり「(仮)ふるさと創生21構想」として、国をも県をも納得させるレベルで「地方分権」を具体的に担保する自治能力の表現となるにちがいない。
「平成の大合併」が全国一律であることのメリットは、地域社会の「高年化対応」の活動が、各地で同時進行でおこなわれ、その情報が自在に行き交うことにある。ここは本来なら住民を代表する「村(町)議会」に期待したいところだが、地域の利害を離れて求心力をもって「地域の特徴」をつくり出す組織としては、にわかには機能しづらい現状にある。
「地域シニア会議」は、住民の意向を集約しながら、地域の高年者が暮らしやすい生活環境を具体的に検討していく。熱心であればそれだけ多くのテーマについて、まず医療、保健、福祉などについては当然に、それに加えて環境や物産や伝統や教育といったテーマについても議論を繰り広げて、その過程でいくつもの「地域民主主義」の現場を形成する。 
「(仮)市立高年大学校」
「平成の大合併」によって多くの自治体が広域化した。新設合併で求心力を増した中心地域はどこも安堵したであろうが、周囲の合併関係町村や編入町村のなかには、「個性ある地域の発展」という合併による地方分権の目標とは裏腹に、往年の特性や精気を失って萎えているところが想定される。そろそろその気配が見てとれる時期である。
なぜそうなるのか。地域発展のための人材の育成が欠けているからである。
「明治の大合併」のときには、わが村の「村立尋常小学校」が合併のシンボルとされた。村立の小学校は子どもたちに多くの夢を与え、地域を発展させる人材を育成した。その夢はいつしかお国のためとなり、半世紀の後には戦争へと子どもたちを駆り立てていったが。三〇〇~五〇〇戸の規模で教育、戸籍、徴税、土木、救済などが課題だった。
「昭和の大合併」のときには、わが町の「町立新制中学校」が合併のシンボルとされた。子どもたちは町立の中学校を卒業すると、ゆえあって残らざるをえなかった者が地元の産業を守り、多くは都会へ出ていって高度成長の担い手となった。八〇〇〇人の規模で、新制中学、消防、保健衛生などが課題だった。
さて「平成の大合併」では、新しい市は将来の地域を担う人材を育成するために、何を教育のシンボルとしようとしているのか。国は地域の主体性に任せるという理由で明確な指針を示さなかった。明治、昭和のあとの合併のステップからいうと、「市立の高等教育機関」であり、「(仮)市立高年大学校」といった態様のものが今回の合併のシンボルとなる。将来の地域の発展のために活躍する人材を育成するために、地域性を加味したカリキュラムが構成されることになるだろう。そして修学するのは五〇歳をすぎた高年者で、これまでの経験に重ねて行く先長いわが人生を過ごすための知識や技術を新たに習得する。名称は自在であるが、設立の可否が将来の発展の差を生むだろう。活動的な高年者は当分の間、増えつづける。その人びとが地域でいきいきと暮らすために学ぶ公立の教育施設は、個人には豊かな人生を、地域には新しい活力を生むもととなる。 
「地域特性のあるまち」に暮らす
*・*地域が産み出す国際貢献*・* 
「地域ホスピタリティー」
 二〇〇二年六月の日韓共催のサッカー「ワールドカップ」の折りの国際的な熱気はなつかしい。ホスト国として、参加各国チームの選手たちを迎え入れ、みごとな「ホスピタリティー」(歓待ぶり)を発揮した二八市町村。日本各地の人びとには、ワールドカップの期間に、世界中から訪れた人びとに競技場の内外で示したように、おのずから溢れ出る親和の感性によって、国際交流を友好的にすすめることができる潜在力があることを、世界に証明したのだった。
「アリガトー」は世界語になる勢いだったし、街の清潔なこと、花の多いこと、礼儀ただしいこと、どこにも温泉があること、列車が時刻通りに動いていること、スシが「トテモ、オイシイ」など、物価高を除けばホスピタリティーは十分に実証されたのだった。子どもたち、女性、高年者が、それぞれにみせた国際交流での「お国ぶり讃歌」であった。
市町村レベルでの国際的な友好活動の可能性が、それぞれ甲乙つけがたく納得された。アフリカのカメルーン・チームを迎えた大分県の中津江村と、人気NO1だった「ベッカム様」がいるイングランド・チームを迎えた兵庫県の津名町が、とびきり話題にはなったが。
おのずから表れるホスピタリティーはどこから生じるのか。長く孤立した島国であったことで、地域に潜んでいる国際交流への期待感には、計り知れないものがあるように思われる。これこそが今、地域の資産として生かされるべき地域パワーなのではないか。「地域から地域へ」のつながり、とくに海外の地域とのヒトとモノの交流には、労苦をはるかに越えた成果が穏和な経過のうちに実現される可能性が見えている。 
「国民性としての和の心」
わが国の地域の活力を支えているのは、四季の移ろいをじょうずに受け入れながら温和な感性を大切にして暮らしている人びと、だれに対しても等しく親切な高年者のみなさんである。その心の深い層に置かれている繊細さや優しさは、四季折り折りに変化する風物との出会いがもたらしてくれた自然の恩恵といえるものに違いない。繰り返される季節との出会い::
  春は桜前線(三月~五月)が北上し、秋には紅葉前線(一〇月~一二月)が南下する。
  南からは春一番が吹き荒れ、北からは木枯らしが吹き抜ける。
      八十八夜の晩霜を気にかけ、二百十日の無風を祈る。
      南の海に大漁を伝えていわし雲が湧き、北の海にぶり起こしの雷鳴が轟く・・。
わが国の自然は、みごとに四季の変化に調和がとれている。それはまた海の幸・野の幸・山の幸を豊富にもたらしてくれる。収穫を等しく分け合い、奪うよりは譲り合い、見捨てるよりは助け合う、といった「国民性としての和の心」(温和、穏和、調和、親和、平和、協和、総和・・)が、自然のうちに育まれている。と、これは海外の日本研究者が等しく指摘するところ。
だれかれの分け隔てなく萎えた心を励まし、痛んだ身を癒してくれる風物や特産物に事欠かない。それとともに、各地には先人が貯えてくれた歴史・伝統遺産も多く残されている。さまざまな知識や技術が人から人へと受け継がれ磨きあげられて、「地場産業」や「お国ぶり」として暮らしを豊かにしてきたのである。だれかれの分け隔てなく等しく親切な高年者。それゆえの年長者への敬愛の情は、他から与えられたものではない。 
「姉妹・友好自治体」
いま自分が住む自治体が、ふさわしい相手を海外に見出して、お互いの住民同士が親しく行き来し、異質な文化との交流や特産品の共同製作を競う姿を思い描いてみよう。
各地の小村、小都市が、そうして国際協和に努めることで、海外の小村、小都市から信頼される姿が見えてくる。わが国の高年者が持つ「モノづくり」の能力と「親和」の心情は、「シニア海外ボランティア」のみなさんの実績が示すように、途上国の人びとにとっては発展の原動力となるものだ。常に開かれた不凍港のように頼りがいある存在としての小村、小都市。ひるがえってそれは将来かならずわが国の地域の個性や豊かさを生み出す源泉ともなる。
いま「姉妹・友好自治体」は約一五〇〇ほどだが、合弁企業や物産の共同開発といった経済活動や個別分野のさまざまな文化交流が進めば、数も内容的にも広がることが予測される。とくに長い民間交流の歴史をもつ日本と中国の場合には、国家の不和・齟齬の時期を乗り越えて、すでに三〇〇余の「友好都市」が全国にあり、信頼をつなぎ友好の成果をもたらしてきた。これまでに研修生として訪れた多くの若者がいまや中国各地の都市で第一線で活躍している。
首都の東京(各区)と北京(各区)、近代港湾都市の大阪・横浜と上海、歴史文物の京都・奈良と西安をはじめ、勝沼とトルファン(ぶどう)や須賀川と洛陽(牡丹)、富士と嘉興(紙)といった特産物、そして魯迅の故里紹興と藤野厳九郎先生の生地あわら、亡命期の郭沫若にちなむ市川と楽山、中国国歌の作曲者聶耳の終焉の地藤沢と昆明といった人物を介した絆による交流まで幅広い関係を持つ。それを地道に支えているのは、長い日中交流の歴史を思い、大戦時の不幸な記憶を忘れずに信頼を積み上げてきた高年世代のみなさんである。 
*・*狭い国土を四倍にみせる*・* 
「狭い国土を四倍に見せる法」
東北K市の市役所にも「国際交流課」が設けられていて、現地のことばに堪能な職員「国際交流員」が常駐して対応している。市に滞在している外国人滞在者(各分野の研修者や留学生や企業人など)とともに国際交流圏をつくり、深夜にもインターネットを通じて現地とつないでいる。なんとも素晴らしい国際交流の情景ではないか。海外の姉妹・友好都市から友好・参観にやってきた人びとは、まず県都で交流の時をすごし、地方を代表する文化に接する。
それからそれぞれの「友好市町村」を訪れて、目的である文化やスポーツや物産に関する交流の時をすごす。海外からの客人たちは、さらに各地にある温泉施設「(仮)国際友好温泉」(名称は随意に)に案内されて、日本式のもてなしを受けることになる。
周辺の市町村が設けるは、四季折り折りの美しい風物や料理や温泉を活かした「地域のコア(核)施設」である。海外からの訪問者は、「人生に一度は行ってみたい」と心躍らせてはるばるやってくる。「人生っていいな。日本ってすばらしいな。別の季節にまた来たいな」と、野天風呂につかって暮れなずむ異郷の空を眺めながら、母国語でつぶやいてくれる。地元の高年者のみなさんが、だれをも等しく親しく迎える姿は、海外の一人ひとりの友人の心の中に、暮れなずむ星空を見上げるたびに、一生のあいだ輝いていることだろう::。
これはとくに重要な視点であるが、迎える側のみなさんが、四季を「四つの変化」として際立たせることによって、遠来の客人たちは春・夏・秋・冬(新年)の四回は訪れる楽しみを持つことになる。いうなれば、四季を時節の刻みとしてすごす高年世代の人びとの暮らしの知恵が、ここでは「優れた小国」の知恵として、「狭い国土を四倍に見せる法」となるのである。 
「優れた小国・文化大国」
わが国の市町村と海外の市町村との友好的な交流は、援助額では世界二位という巨額なのに国際貢献の評価が低いODA(政府開発援助)支援にはるかにまさる実質的な成果をもたらしていることは確かである。
北九州市が提案した「大連市環境モデル地区計画」がODA案件として国との共同事業となり、両市とも国連環境計画UNEPから「グローバル500」を受賞するという成果をあげたように、いま中国との関係ではODAを減らすのではなく、中国の抱える悩みをともにする支援を、自治体同士を通じた「地域から地域へ」の援助とすることで、貢献度は見違えるほど明らかになる。とくに「開放政策」によって生じた地域格差で取り残されている内陸都市の農村への援助(宇治市による咸陽市など)は、小さくとも友好の絆はいっそう太く深まる。
国は、地方への財源と権限移譲のひとつとして、とくに海外友好活動への支援を明確にすることで、実効のある「中央から地方へ」の潮流を呼び起こし、「国が輝くだけでなく、自治体によって国が輝く時代」への施策をすすめることだ。
とこうするうちに、経済成長をなし遂げた「優れた小国」の高年者が発揮する技術援助や人的交流への貢献が、国際レベルでの日本への信頼を着実に形づくっていく。そして何より喜ばしいことは、海外の市町村との地道で実質的な交流活動が、その経過においてわが国が、
「恒久平和をめざしている優れた小国・文化大国」
であることを、海外各地からの発信によって明らかにしてくれることである。「文化大国」なら大国意識を競っても誇ってもいい。 
*・*さびれた中心街の活性化*・*  
「モノと暮らしの情報源」
二〇年ほど前までは、あれほど地域住民みんなに親しまれていた商店街だったのに。
「ここまでさびれちまった商店街にもう未練はないね」と通りすがりの人から言い放たれるのが一般的。「シャッター通りになんか同情しない、コンビニとスーパーがありゃいいじゃん」と若者から無視されるのが風潮。
M市駅前通りにも「みんなに親しまれる商店街」というキャッチフレーズは掲げられているが、空き店舗が目立つ商店街は、活気が間引かれていて親しみようがない。歩いて商店街にいっても楽しくない。ものを買うだけなら、家にいたってインターネットの「電子モール(商店街)」、テレビ・ショッピング、それに通販。クルマで外に出れば、バイパス沿いに大型スーパー、ファストフード店、町なかには駐車場設備のあるコンビニが網をはっている。変幻自在なこういう商品流通の包囲網のなかで、旧市街から駅へ通じる駅前通り商店街はさびれるにまかされてきた。移動がクルマ中心になる一方で、日用品が国産から安価な途上国商品になるという多重攻撃にさらされて求心力を失い、顧客の足が遠のいていった。
一九八二年が小売店のピークだったという。そのころは全国に一七二万店、商店街は一万四〇〇〇カ所あったという。数もそうだが街に人をひきつける活気があった。元気がもらえたのである。歩行型住民にとって「モノと暮らしの情報源」であった中心街の崩壊。 
「地域の顔の活性化」
まず細々と商いをしていた小売店で儲けが出なくなり、投資ができなくなり、将来に魅力を失って後継者がいなくなった。明らかな「構造の問題」だったが、原因は商店主の才覚の有無に封じこめられ、煤を払った神棚にむかって創業の先人に不明をわびながら、商店主たちは店を閉じたのだった。じわりじわりと鉄道客やバス客が減りつづけ、商店の店じまいの時間が早くなった。それとともに商店街に防犯用シャッターが増え、街を歩く人びとへの親しさを閉ざしたのは商店街のほうだった。めっきり人通りが減り、店内で話し込む客の姿も少なくなった。
中心街の道筋の中心にどっしりと店を構えていた古手の商店までが、「え、あの店も?」といった話題になりながら消えていった。
まことに惜しまれるが、その中には江戸期からの歴史を持ち、「地域の顔」を支えていた特産品の毛筆・べっこう・陶磁器といった工芸品の店、呉服・和紙といった伝統品の有名老舗までが失われていったのである。地味に地方出版を手がけて、地域文化の拠点となってきた老舗書店も、大型店舗の出店のあと、しばらくして灯りを消したのだった。
そしてついには地方の流通を支える砦であり、地域住民に馴染みの濃かった地元資本の百貨店が、宇都宮市の上野百貨店や和歌山市の丸正百貨店といった有名店舗の経営不振が伝えられるのと前後して倒産し、市民に商品流通の変貌を納得させることになった。
  二〇年ほどでこうも変わるものか。
それなら、これから二〇年でどう変えればいいのか。さびれた中心市街地を回復させようという「中心市街地の活性化」のための「中心市街地整備改善活性化法」が遅きに失してスタートしたのが一九九八年七月だった。(二〇〇七年四月に「中心市街地活性化基本計画認定申請マニュアル」を改定)
街を構成する商業者、地域住民、それに市民団体、企業、専門家などが参画して「中心市街地活性化基本計画」を確定して推進するもので、これまでに「基本計画」を提出したところは、六三〇市区町村を超える。決して少ない数ではないし、対象地区には県庁所在地や中核市から小さくとも歴史的な城下町や宿場町、門前町、港町などがそれぞれ独自の活性化に取り組んでいる。知恵をしぼってアイデアを競って「特性のある市街地づくり全国コンペ」といった観すらある。問題は「街の高年化」をどう取り込むかにある。
城下町では「街なか回遊」(彦根市)・「回廊」(会津若松市)、港町では「みなとみらい21・OLD&NEW」(横浜市)・「港町スクエア」(気仙沼市)・「海DO戦略」(下関市)、そして「まるごと博物館」(有田町)、「都市型高感度市街地」(宝塚市)・「体感スポット点在のまち」(久留米市)、「ファッション・ジュエリー都市」(甲府市)・「リ・グラスのまち」(水俣市)、「こみせ・まちづくり」(黒石市)・「詩情公園都市」(小諸市)・「市(いち)の復権」(市原市)、「まちんなかづくり」(臼杵市)・「へそのまちのへそづくり」(富良野町)・・。
街並みや商店街の整備、歩きやすい環境づくり、いこいの場の設置、観光資源や歴史資源の活用、イベントなどに特性を活かしたまちづくりが企図されており、外づらの目立つ成果は処々で姿をみせつつある。
しかし注意しよう。事業がこれまでと同じ手法を踏襲しているところ、つまり中央官庁の監視のもとで、自治体が主導し、商店街の代表とコンサルタントと建設業者が合議し、おかかえ学識経験者が追認するという形で進行して「基礎構造の整備」を完了したところから、さあ住民参加とするような旧態の手法では、中心街としてよみがえることはない。結局は不況下での施行業者救済のための「公共事業」として終わることになる。それは「活性化された中心街」の姿をみればすぐわかる。 
*・*買い物と遊歩を楽しむ「四季型中心街」*・* 
「駅前通り商店街」
何代もかかって、あの戦災を乗り越えて形づくられてきた商店街だったのに、わずか二〇年余でさびれてしまうなんて、何が起こったというのだろう。
全国各地の「駅前通り商店街」(「銀座通り」も多くある)では、毎朝みずから店の前を掃除している商店主の姿が見られ、通りがかりの人へのあいさつに変わりはないが、心中は思いやられる。緩やかな下降のあと、ここ数年はとくに目立って赤字がかさみ、回復のメドも手立てもない。先が暗くても必要としている地域住民がいるかぎり、老舗としてやめるわけにはいかないところまできている。いまわずかに期待をかけている「中心街活性化」だが、構想までの議論は進んだが、そのあと停滞したままだ。
活性化支援事業の中心になる人物を、国では「街元気リーダー」と呼ぶようだが、やや味気ないので、本稿では敬愛して「地識丈人」と呼ぶこともある。
この二〇年の「さびれの経緯」を噛みしめてよく知っている高年者同士である「商店主」と「高年者住民」がともに参加して「基本計画」をつくる。そのプロセスに、商店街を中心とする「街の高年化」への契機が見えるからである。 
「歩行生活圏と車行生活圏」
ここは活性化支援事業にかかわる「街元気リーダー」(地識丈人)のみなさんに聞いてもらいたいところだが、「基本計画」のいう活性化が実現されたあと、「中心市街地」を中心になって支える人びと、つまり安全な「歩行生活圏」で暮らす人びとはだれかということ。「車行(クルマ)生活圏」を持たない人びとによる「買い物+遊歩空間」の形成だということである。
全国のまちづくりの中にも、「歩くまち」(秩父市・倉敷市・安来市など)はテーマになっている。高年化社会への移行を見越して、「買い物空間にとどまらず、心地よく歩いて過ごせる時間消費型の生活圏をめざす」として、街を歩行者モール化する都市もある。
おもな利用者は、日課として小一時間ほどの散策に出動し、暮らしの情報源とする高年の人びと、日用の買い物をする母親たち、それに安全な「居場所」をえた子どもたちである。
「街に子どもたちの姿や歓声が聞こえないようなら活性化に明日はないですよ」と商店会を代表して「基本計画」作成に参加しているUさんは熱意をこめてそう語る。日課としてやってくる人びとが安全に過ごせる歩行生活圏の中心街。おじいちゃんと孫が、母と子が、安心して散策や買い物や遊びを楽しめる「三世代のための交流のステージ」である。 
「三世代四季型の中心街」
ここが「市街地活性化」の重点だが、街の景観として「地域の四季」を組み込んだ「四季型中心街」であることだ。「家庭内の高年化」対応のところで「地域の四季」を存分に取り込む暮らしについて述べたが、家から出てすごす中心街にもまた、はっきりと「地域の四季」を感じさせる仕組みが必要なのである。
まちづくりの中にも「歳時記の感じられるまち」(長岡市)や「歩いて楽しむ街、四季が感じられる街」(盛岡市)をめざすところがある。
これまでは「歳末」(冬)と「中元」(夏)の二季だけだった催事を、季節ごとの「四季の催事」として構成し直し、住民が季節ごと「折り折りの街空間」を楽しみにしてくり出し、さらに次の季節への期待を抱けるような演出に、賑わいを取り戻す契機がある。その演出者は地元の「街元気リーダー」(地識丈人)である「商店主」と「高年者店員」と「高年者住民」が担う。二季型から四季型へ。そしてさらに「三世代四季型の中心街」へ。これなんですよUさん。
しかし商店会代表のUさんは、首をタテに振らない。理屈としてはわかるのだが、年二回でさえもすぐ次がやってくるというのに「年に四度はムリ」という。ムリして二度ではなく、ムリなく四度、あらたに参画する高年世代が「季節ごと四つのわがまちの景観」を街空間に取り込むんで賑いを呼び戻すのだが。Uさんは首をタテに振れない。
四季折り折りの風物を取り込んだ春・夏(中元)・秋・冬(歳末・新年)を表現する祭事・催事が組み込まれ、季節の装飾がほどこされる。「三世代四季型中心街」の演出のために、わが町の歴史・伝統、産物、風物、人物、文化、芸能、技術といった「地域の特性」に目を配り、「わが中心街」の態様として取り込む。こんなまちづくりの日々を、わが人生と重ね合わせる地元の高年者の活動の成果が期待される。
街の「三世代四季型の商店街」の重要なテーマに子どもたちの居場所である「少年期のステージ」づくりがある。たとえば遊具を固定せず子どものアイデアを取り入れて変化させる児童公園や「一八歳以上はお断り」といった「ブック&ゲーム・センター」。好きな本やメカやソフトに存分に触れながら、友だちと歓声をあげて楽しめる。そんな子どもたちのための安全な居場所づくりは、まちを活性化する重要なテーマである。 
「死に筋商品」
ここで暮らしを支える日用品の流通の業態についても触れておきたい。
流通の主役が二〇年前にデパート(三越)からスーパー(ダイエー)へ、そしていまコンビニエンス・ストア(セブンイレブン)へと移ってきたが、たしかに二四時間営業のコンビニほど近隣住民にとって頼りになるものはない。トップ企業の「セブンイレブン」は全国で一万店舗を展開し、日々、レジで男女別・世代別の売れ筋をチェックして選別し、次々に新製品を投入している。売れない「死に筋商品」は店頭から姿を消してしまう。客は店頭にあるモノ以外には期待できない供給側主導の流通である。優越的地位の乱用は常に潜在している。
こんな供給側主導の流通がいつまでもつづくはずがない。高年者といわずユーザーが求めるのは、コンビニエンス(便利)であるばかりではなく、継続して必要とする商品が入手できることや地域の特徴をもったものや、店頭にある商品にはていねいに説明に応じてくれる「商品知識豊かな店員」がいる店である。 
「(仮)地域流通スクエア」
「商店主」と「高年者店員」と「高年者住民」の協議によって地元商店会が経営するのが「(仮)地域流通スクエア」である。お互いに「カオが見える流通」の拠点であり、商品性の高い「地場季節商品」を主力商品としながら、スーパーやコンビニでは入手できない超コンビニ商品を提供し、地域の人びとの要望をサポートする。商品知識の豊かな店員がいて、高年者が継続して利用する日用品の注文と配達を一手に引き受ける。「中心街の中心核」として、会員である個別商店はもちろん、市役所や郵便局や銀行や病院や学校といった公共機関・施設などとの情報をネットでむすんでいる。
「街の景観」に地域の四季を導き入れ、暮らしの情報源としての「三世代四季型の中心街」を組みこむことで、「中心街の求心力」をつくりだす。そして遠からず「スーパー(超)・スーパー」といえる流通機能をもつ二四時間営業の「(仮)地域流通スクエア」(名称は随意に)が登場するだろう。 
「買い物+遊歩空間」
わが街が次の季節の訪れが待たれるような「三世代四季型の中心街」として活性化されることになれば、「クルマ生活圏」と共存する「歩行生活圏」として親しまれる「わがまちの中心街」が再生され、やがて創生されることになる。
「商店街って、おもしろいじゃん」と、通りかかった無季節・無機質そだちの若者たちがいうだろう。高年者が意識して日課として動き出すとともに、地域の中心街もまた動き出す。三世代の住民が生活圏にある「買い物+遊歩空間」をたいせつにするうちに「三世代のための四季型中心街」への変貌がすすむ。近隣に住むだれもが小一時間ばかり、散策や買い物や遊びのためにやってくる。「季節の風物」に安らぎながら、ふと出会った知人と気軽に会話を楽しみ、テラスで一杯のコーヒーと店の自家製ケーキを、あるいは老舗で一服のお茶と和菓子を味わう。高年者同士ひとときお国ことばで語りあい、暮らしの声や音を快く聞き、子どもたちの遊ぶ声を聞き、街の臭いを胸に収めることができる街。みんなでつくるそんな「三世代四季型中心街」なら、今日にでも行ってみたい。 
「シニア専門放送局」
「高年化社会」で暮らす高年者にとって愉快なのは、地元の高年者からの要請を受けて地元のテレビ放送局がすすめる「番組の高年化」である。地域情報を提供するメディアである各地のテレビ放送局が、高年者に特化した「シニア番組」を構成する。キャスターは若づくりを気にせず、本音で語り、出演者と本気で切り結ぶ番組をつくることになる。
生活感に欠けるスプライト(妖精)系の美人アナや物知り顔で舌先なめらかなコメンテーターのかわりに、トツトツとしたお国訛りの語りのうちに経験や知識が光るような人物が中心の番組がいい。現場からの生活感ある情報がナマで伝わるような番組をどしどしつくることだ。
高年者向けコマーシャル製品はいくらでもあるから、広告収入の心配はいらない。高年者が登場するコマーシャルが画一的なのは、出演する側の脇役意識や没個性な扱い方に原因があるが、若い現役の制作者に「高年化社会」に対する想像力が欠如していることが最大の理由である。高年制作者が担当する「シニア専門放送局」が、こまやかな風合いの生活感をもつシニア向け放送をおこなうようになるだろう。
大都市のホテルで、外国からの客人がふと見た映像がこんな番組やコマーシャルだったら、日本人の知性の深さと高年期の人生にかける情熱を知り、「平和で自由で歴史と未来のある国」として率直に認めてくれるにちがいない。 

現代シニア用語事典 #7人民・市民・国民・国際人

#7人民・市民・国民・国際人
#「日本高年化社会」の形成に投じる
*・*この一〇年は高年者不在だった*・* 
「シルバー・デモクラシー
この一〇年をじっくり振り返る余裕は持ちづらいが、ひとつだけ、この一〇年ばかりなぜ「高年化への対応」がないがしろにされてしまったのか、についてだけは触れておかなければいけないと思う。深い自省をこめて。
高年齢者が多くなるだけで「高齢化社会」が成熟するわけではない。高年齢者が多くなる「高齢者社会」と高年齢者が暮らしやすくなる「高齢化社会(本稿では「高年化社会」も)やさらに進んだ「高齢社会」では異なる。本稿が願うレベルの「社会の高年化」を実感できるようにするためには、この一〇年ばかり、みんなでふたつの面での成熟に留意する必要があった。ひとつは一人ひとりの「高年者意識」の成熟であり、もうひとつは社会構造としての「モノと場の高年化」の達成である。当事者である高年者層が努めなかったのだから、どちらも半熟どころか未熟のままなのである。 
 この一〇年ばかりを顧みて、先駆的には高齢者の自立を呼びかけた「シルバー・デモクラシー」(内田満さん)や前述した「老人党」(なだいなださん)といった論考や活動はあったものの、広範な大衆レベルでの高年者がはっきりした「高年者意識」を共有することができず、したがってまた身近な「モノと場の高年化」を推し進めることをしなかった。内田さんは「納税者デモクラシー」(中年)と「年金受給者デモクラシー」(高年)とを区別した上で、予見される世代間の対立を避けるためには「自分がその木陰で憩うことがない樹を植える」(W・リップマンのことば)という「同時代の異なる世代に属する人びとへの配慮」を不可欠のものとし、高齢社会のデモクラシーの成立を、「共生の論理」にもとづく民主政治への構想力に期待していた。 
「社会の被扶養者」
新世紀を迎えて、国際的課題である「高齢化社会」へむかって、その体現者である健丈な高齢者層に参画を呼びかけねばならなかった時に、当時の小泉純一郎首相は「所信表明演説」(二〇〇一・五・七)で何といったか。
あろうことか、将来の「ケア」における負担増だけを取り上げて、「給付は厚く、負担は軽くというわけにはいきません」と言い放つありさま。首相ばかりではなく、それがおおかたの国と為政者の意識であった。その後も国は高年齢者に将来への不安を与える政策ばかりを次々とりつづけてきた。「高齢化社会」にむかう時代だからこそ、
「給付は厚く、負担は軽くだけは、何としても保っていきたい」
と訴えて、国の財政難を説きつつ、国民に「自助と自律」を求めるのが政治リーダーの発言というものだ。本稿は当時もそう記したし、いまもそう主張しつづけている。
これは記したくないが、「心優しい老齢者が善意で死に急いでくれて、日本高齢化社会は思いのほかスムーズに形成できました」なんて海外発信するのでは、来たるべき国際的な「高齢化時代」を構想する時、「先進高齢者国」としてあまりにつらすぎるではないか。善意の老齢者が、「この国の将来の姿はもう見たくない、早く死にたい」とつぶやくような国を、だれが望んだろう。弁解も反論の余地もない。
この国のこの一〇年は、何かがじわりじわりと狂ってきたとしか思えない。
国はひたすらに「高齢者は社会の被扶養者である」と位置づけてきたのであるが、といって「日本高年化社会」のグランド・デザインを模索する動きがなかったわけではない。何より新たな社会構造を要請する主体者としての国民(高年者層)が不在である状況のなかで、霞が関官僚の間での政策ベクトルの総和が、結局は高齢者は「社会の被扶養者」と位置づけるところに引き戻されてきたのである。年々の『高齢社会白書』の記述の変化ににじみでているが、官僚の側は不在であるものへむかっては踏み出せない。それでも高齢者への福祉・医療・介護のしごとは十分にあり、年々の予算規模は増大しつづけてきた。この一〇年は「高年者不在」であり、高年者の主体性のなさが、国の政策の不在を許してきたのである。 
*・*二〇二〇年には四人に一人が高齢者*・* 
「高齢化率」
「高齢者二五%時代」
  これから迎える二〇二〇年。そんなに遠い先のことではない。といって明日どうしていいのかに迷っている人にとっては、どうでもいい先のことであろう。
高年期に達している人、これからさしかかる人びととともに、一〇年ほど先が明るい展望のある未来であることを願って、時代の前方を透かし見てみよう。
国の先進性の指標のひとつとして「高齢化率」(六〇歳以上の人口比率)の国際比較がある。これまで久しく高かったヨーロッパ諸国を追い抜いて、アジアから日本が二〇%に一番乗りをして、国際的な「高齢者二五%(四人に一人)時代」にむかって先駆けをする。
そして二〇二〇年。
ヨーロッパ勢のイタリア、ギリシャ、スイス、フィンランド、スペインなどがトップ・グループを形成して続々と「高齢者二五%(四人に一人)時代」に達するとき、アジアの日本がフロント・ランナーとしてさらにその先をトップで通過する。ヨーロッパ勢のあとを追って、途上国の高齢化も進んで一〇億人を超えるという(世界保健機関=WHO推計)。そして二一世紀のなかばには前記したように、途上国を含めて世界中が「高齢化問題」に直面することになる。 
「二一世紀社会の日本型モデル」
「日本ベビーブーマー」
わが国はトップ・グループを形成している「高齢化先進国」のうちでも、アジアでひとつであり、最速スピードで高齢化が進んでいるといわれる。国際的に「社会的混乱を起こさない手法での問題適応力に優れている」と評価されている日本は、アジアでひとつの先進経済国での高齢化社会として、「二一世紀社会の日本型モデル」として注目されているのである。ということは、二一世紀初めの二〇年ほどは「日本シニア」のありように国際的スポット・ライトが当たっている時期であり、国際ステージでも期待されている時期なのである。
アジア代表として世界のトップへ躍り出る「日本高齢化社会」には何が期待されているのか。
いうまでもなく高年者がそれまでに蓄積した技術や知識や資産を自在に駆使して、いきいきと暮らしている姿であり、それを支える「モノと場」の豊かなありようだろう。
世界一〇億人のシニア世代の前に、日本の高年者による「日本高齢化社会」は、日本型モデルとして立ち現れることになる。そこへ至るプロセスが問題なのである。
これはわが国ばかりでなく、ヨーロッパの先進諸国もまた併走状況のなかで迎えている。ともに二〇世紀前半に遭遇した世界争乱によって多大な犠牲をはらったあと、両親は心から「戦後平和」が長くつづくことを願いながら子どもを生み育てた。日本の戦後生まれの人びともまた同様に六〇歳にさしかかり、高年期を迎えている。
いま六〇歳+の定年期に達してこれから高年期をすごして二〇二〇年には七五歳にたどりつく人びとは一九四五(昭和二〇)年生まれの人びと。そしてそのあとに大戦後の「日本ベビーブーマー」の人びとがつづく。 
「平和団塊の世代」
ご存じのように、一九四五年の敗戦のあと一九四七~四九年に生まれた七〇〇万人の人びとを「団塊世代」と呼んでいる。同じく二○○万人が生まれた一九五○年と、終戦の翌年である一九四六年を加えると、新世紀を迎える時点では一○三七万人(二〇〇〇年一〇月・国勢調査)であった。
この一〇〇〇万人の一人ひとりを、敗戦後のきびしい生活環境の中で生み育てた両親の思いを想って、本稿は「平和世代」と呼んで注目している。「団塊世代」では即物的にすぎて、また「平和世代」では理念的にすぎて、いずれも不満であるかもしれないが。あわせて「平和団塊の世代」と呼ばせていただくのをお許しねがいたい。
先進諸国の同世代の人びととともに、平和裏に安心して後半生をすごせる社会を形成し、長寿をまっとうすることが、惨禍と混乱の中で両親が希い求めた「平和に生きる」ことの証しになるにちがいないからである。世紀を超えた人類の挑戦なのだ。世紀の長さでとらえて、人類の規模でみて、二一世紀に克服せねばならない多重標準の課題といえば「戦争」と「平和」である。二一世紀半ばの「日本国憲法一〇〇周年」のころの国際社会は、「高齢者先進国」の日本の経験を「世界平和の証し」としてスタンディング・オベイションで迎えるだろう。
新世紀を迎えたころには「団塊ジイ、団塊バア」などといわれて「老いるショック」を受けた人びとも、いまはもう驚かない。「日本社会の高年化」の体現者としての自負を持って暮らしている。この「平和団塊世代」の人びとに厚生労働省や大手広告会社が関心を示しつづけているのは、「日本高齢化社会」の形質を左右すると予測しているからである。 
#成熟社会を体現する「昭和丈人層」
*・* 五〇〇〇万人の高年者が際立つとき*・* 
「日本高化社会」
「昭和丈人層」
日ごろ個人的に実感されることではないが、わが国の「高齢化社会」は国際的に、少なくともアジア地域では先行している。シナリオはないものの、その推進役を演じているのは、日々を積極的にすごしている高年者のみなさんである。だが成熟へむかう「日本高齢化社会」がいま形成されているという事情を踏まえて、主役を演じている人びとにスポット・ライトを当てるとすれば、それは「昭和」に生まれて二〇世紀後半の「激動の戦後昭和期」を活動のステージとしてきて、新世紀になってなお新たな目標をもって意欲的に暮らしている高年者。本稿がその潜在能力を信頼している「昭和丈人層」の人びとである。
先にも指摘したが、多様多彩な経験を持っている五〇歳以上の高年者を、餃子ではあるまいし混ぜて包んで一様に「高齢者」なんて表現できるものでは決してない。
そこで新たな五階層の「高年化時代の人生のステージ」を示したが、ここでは、さらに詳しく、後半生の日々をすごしている五〇歳すぎの人びとを五年刻みの幅「五歳階級」でみてみよう。そうすることで決してひとくくりにできない年齢層としての意識・生活感・価値観、時代背景など、特徴の把握が可能になるからだ。個人差はあるものの、ともに刻んできた年輪に特徴をもつ同世代人への理解を広げることができる。 
「高年者(シニア)文化圏」
「高年者(シニア)生活圏」
出会うことで溢れるパワーをあたえてくれる知名の「現代日本文化人」の多くは、激動の「戦後昭和期」を生き抜いてきた経験を共有する人びと、つまり「昭和丈人層」の人びとである。戦争後のモノ不足も貧しさも、そして復興への努力による成果もみんなのものであった。その中でそれぞれに身につけた奥行きのある人柄と能力は、「ゼロの地点」から出発して、切磋琢磨して獲得した個人の貴重な成果なのである。
いうまでもなく、知られることを求めることなく「社会の高年化」を体現して暮らしている人びとが成熟へむかう時代の主役であるが、これほど多くの熟成した力量をもつ人びとが活躍をしているというのに、「高年者(シニア)文化圏」や「高年者(シニア)生活圏」、また暮らしを支える用品・用具、設備・施設などによる「高年化製品経済圏」が、あるべき存在感を示しえていないのはなぜなのだろうか。
答えは即時にこだまのように舞い戻る。「昭和生まれの高年者層が、意識してあるべき存在感を示していないからだ」と。       
*・*湧出する「第三期のステージ」*・* 
「高年者活動」
昭和生まれの高年者層が、あるべき存在感を示していないわけではない。
わが国の「高年者活動」はいままさに湧出期にあって、その中心にいて主導しているのは、まぎれもない昭和生まれのみなさんなのだから。その全容を把握することができないほどだ。長い苦闘の経緯をもつ高齢者ケアとしての「福祉」「医療」「介護」の分野はもちろんのこと、高年者活動は、実にさまざまな領域へと広がっており、うまく分類できてはいないが、動きが際立つ分野だけでもこれほどにある。 
 各種の生涯学習(趣味、生きがい、健康)。
 虐待防止、遺言相談。
 高齢者雇用、起業支援。
 年金、貯蓄・投資、マーケット情報、保険。
 シニア向け新商品開発、介護福祉機器・電化製品、車・乗り物などの製造・販売。
 ショッピング、通販、宅配。
 ファッション、料理、食品、レストラン、居酒屋。
 ケア付き住居、いなか暮らし、住宅改修(バリアフリー)、家具・用具。
 パソコン教室・通信、カルチャー講座・セミナー・シンポジウム、イベント。
 シニア向け新聞・雑誌、テレビ・ラジオ番組。
 短歌・俳句・川柳、ナツメロの会、自分史、楽団、手づくりクラフト。 
 ゲートボール、テニス、ゴルフ、太極拳・ヨガ、碁・将棋、ゲーム。
 環境美化、伝承活動、世代交流。
 国際交流、海外ツアー、旅行、ホステル、国民宿舎。
  ・・などなどである。
組織の名称はといえば、「シニア」が圧倒的に。「老人」や「シルバー」といった先輩格のものも、しっかりと根をはって活動している。
「老人」ということばは、老練、長老、老師など経験を積んだ高齢者をもいうのだが、どうも旗色がわるいのは、長く「老人ホーム」や「敬老会」などが随伴してきたために「高齢弱者」というニュアンスが働いているからだ。「敬老」はいまや「老齢者をねぎらう」ほどの意味合いで用いられている。「敬老」には「敬老尊賢」というすっくと立つことばもあるのだが。
 「老人のつく活動組織」
「老人」については、ここではふたつの活動をみておきたい。
「老人のつく活動組織」で、代表はなんといっても「老人クラブ」である。敗戦後間もない一九五〇(昭和二五)年に発足して以来、自治体と連携しながら地域の高齢者の生きがいと健康づくりに貢献してきた。「全国老人クラブ連合会」(全老連)には、一三万余クラブ、約八五〇万人の会員が参加。「友愛訪問」「伝承活動」「環境美化」「世代交流」といった幅広い活動に乗り出している。
もうひとつは政治活動をおこなう「老人党」で、精神科医のなだいなださんが、〇三年五月に立ち上げたネット上の仮想(バーチャル)政党である。「老人のためだけにではなく、この国を改革するために、老人たちに何が出来るか、を考える党です」と呼びかけたもの。言動者としての老人パワーによってネット上での議論は白熱し注目されたが、行動者としての影響力は未知数である。
本稿が「老人力」や「老人パワー」に関心を持ち、これまでの活動に賛意を表しながらも、新しい「高年化」の活動にあえて「丈人論」を展開しているのは、「老人」はそれはそれでそっとしておいたほうがいいという立場からである。静かにクールダウンしながら過ごす生き方もあっていい。老人みんなでというのは、いささかキツイ話しだからである。といって、みんなが立ち上がらないのはさらに困ったことになるからだ。 
「シルバー」
「アクティブ・シニア」
「シルバー」は、
グリーンやブルーといった「アシッド・カラー」(柑橘類の色)などに対する色彩の比較から生まれた和製語である。
高年者を「シルバーエイジ」としてとらえて、活動的なイメージを付加して、運動・旅行・講座などの研究所や教室が用いている。高年者の能力を活用する「全国シルバー人材センター事業協会」や「シルバーサービス振興会」などは定着している。
ここで確認しておきたいことは、「だれもが」(ユニバーサル)とともに、それよりも優先して「高年者自身のため」を意識した活動であっていいということである。
高年者の活動の湧出期にあたって、さまざまな分野で「アクティブ・シニア」が先行して新しい活動を進めている。そこでカタカナ語の団体・協会が続出している。
「アクティブライフ」は、
活動的な暮らしをめざすことで、高年者主体のボランティア・グループが用いている。「ニッポン・アクティブライフ・クラブ」など。 
「エイジド」
「エージング」
「エイジド」や「エージング」などは、
それぞれに年輪を刻んで到達した営みが意識されて使われている。
「エイジド」は、
ワインやギターやコーヒー豆での利用が優勢だが、経験を積んで熟成した意味で、これも高齢者を支えるボランティア組織やNPOが用いている。
「エージング」は、
老化がすすむことを意識して「アンチエージング」として医療や美容外科などに、「ウエルエージング」や「アクティブ・エージング」として高年期を積極的に受け入れる立場を示している。「日本ウエルエージング協会」は一九五三年から活動をおこなっている。
「エルダー」は、
旅好きのおとなのための「エルダー・ホステル」が世界一〇〇カ国に開設されていて、学習と旅をあわせた高年者対象の活動をしているのが目立つ。「日本エルダー協会」や「エルダーホステル協会」など。 
「エイジレス」
「ユニバーサル」
一方に、高齢を意識しながら人生に年齢は無関係であり、それを超えたものであるという意味での「エイジレス」や「ユニバーサル」などが知られる。
「エイジレス」は、
年齢にとらわれないという意味で「エイジレス・デザイン」「エイジレス商品」「エイジレス・ライフ」などとして広く用いられている。
「ユニバーサル」は、
だれもがという意味合いで、とくに「ユニバーサル・ファッション」が、高年者にも障害者にも快適で喜ばれるファッションとしてバリアフリーが意識されて用いられている。「ユニバーサル・ファッション協会」など。
まだまだあるであろう。ここでやや立ち入ってカタカナ語に触れたのは、高年者活動は、さまざまな方向でそれぞれの立場で熱心に活動している人びとと組織に支えられているからで、どれかひとつとはいかない。それどころか多いことはいいことなのである。 
「高齢化活動団体」
活動の広がりをみるために紹介がカタカナ語に片寄ってしまったが、福祉を核としながら活動している「高齢化活動団体」は枚挙したらきりがないほど。その推進役になっている組織・団体の存在を見落として先にいくことはできない。ここはその場ではないから紹介をかぎるが、 福祉・介護の「さわやか福祉財団」(理事長は堀田力さん)や高齢者研究の「東京都老人総合研究所」、高齢者雇用の「高年齢者雇用開発協会」、高齢女性の「高齢社会をよくする女性の会」(代表は樋口恵子さん)、「ねんりんピック」によって活力ある長寿社会をめざす「長寿社会開発センター」、生涯学習の「生涯学習開発財団」、住宅に関する「高齢者住宅財団」・・などなど、NGO(非政府組織)を中心にして幅広い活動体を形成している。分野は多岐にわたっており、全容の見極めがつかないほどに幅広い。
そして何より心づよいことは、「新現役ネット」「シニア・パワー・ネット」「いきがいの会」など、「高年化社会」の主役を体現しながら活動する組織を支えているのが、先の大戦の惨禍と戦後の混乱を知っている昭和前期生まれの人びとであることである。 
*・*高年化活動への三つの契機*・* 
「高年化活動への三つの契機」
この章の終わりに、高年者が暮らしやすい社会で暮らせるようになるためには、どうすればよいかについて整理しておきたい。
座して待つだけではどうにもならない。本稿は先に、ひとつは個人がもつ「高年者意識」を成熟させること、もうひとつは社会構造の「モノと場の高年化」の達成というふたつの成熟の必要性を指摘した。指摘するとともに参加を要請した。
ふたつの成熟にむかってどこまで参加するかは随意であるが、その活動に身を投じることで、かけがえのない高年期の人生に果断な選択をすることになる。そのために共有するであろう「高年化活動への三つの契機」を抽出して、ここに示しておくことにしたい。
(一)「人生の第三期」をすごす現役としての高年者意識の確立
(二)家庭・職域・地域生活圏といった暮らしの場の高年化対応
(三)風土と伝統に配慮した地域特性を持つまちづくりへの参加(地域の「高年者の生活圏」や地域の「高年者の文化圏」を形成し、発展させる)
 の三つである。 
「高年期現役人生」
丈人モデル型の機能や能力」
(一)は、だれのためでもない。みずからの高年期の人生を滞らせることなく、日また一日を充実したものにする基本である。五〇歳をすぎたころから、「高年者意識」を立てて「人生の第三期」の将来を見据える。その上で自己目標を見定めて達成をめざす。「第二の人生」とか「余生」ではなく、それ自体が「高年期現役人生」として体感されるものにするために丈人意識は有効に働くだろう。いわゆる高年期を生きる「尊厳」は、その上に成り立つ。
(二)は、高齢とともに衰える「老化型の機能や能力」を補助するばかりではなく、高年期を迎えてなお発展、熟達、深化しつづける「丈人モデル型の機能や能力」を支援する「高年化用品」の供給者となり需要者となって、「モノの高年化」のために努めること。また高年者が楽しんで過ごすことができる「場の高年化」をさまざまに進めること。お互いに「人生の第三期」が味わい深くおもしろいと実感しあえるのが、高年化時代の「構造改革」の成果といえるものではないか。
「わたしは高年期を丈人として生きたよのう」と納得して瞑目する。そういう骨太の人生を送る人びとの力によって、高年者同士をつなぐ「高年者(シニア)生活圏」や「高年者(シニア)文化圏」の基礎が着実に形づくられていくことになる。 
「職域の高年化」
「地域の高年化」
(三)は地道な活動の広がりによる広域での成果である。「高年化」時代を迎えて、職域でも地域生活圏でも、企業や団体や自治体は高年化に対応する態勢、つまり「職域の高年化」や「地域の高年化」へむかう成員の活動を支援する立場にあっていいはずなのに、職場のふんいきも社会の風潮もむしろ逆ではないか。そんなよじれた現実の中ででも、「高年化社会」を体現して「人生の第三期の現役にいる」という自覚を持ちつづけることが肝要である。
個人の暮らしにおいて「人生の第三期にいる」という意識をもつということは、職域や地域社会でのありようにおいて、「青少年」「中年」「高年」という三つの世代の存在を常に「多重標準」として意識して対応するということである。
これまで共有してきた生活環境はそれとして、青少年が将来の可能性を求めてのびのびと育つ「青少年期のステージ」、国際化のなかで苦闘している中年世代がさまざまな場面で十分に実力を発揮できる「中年期のステージ」、そして高年者が経験と個性を活かして後半生を自在にすごすことができる「高年期のステージ」という三つの世代のための「三つのステージ化」を実現することになる。
(三)にとって、わが国が幸運といえるのは、戦後の民主主義の根つきを証明してみせた「六○年安保闘争」や「七○年学園紛争」といった噴出期をふくむ草の根の市民・大衆運動に、若い日に参加したり周辺にいて体験し、その後の人生経験をふまえて柔軟な思考と行動を自得した多くのアクティブ・シニアを有していることだ。人材にはこと欠かない。若い日に「社会参加(アンガージュマン)」して大地を揺るがせた熱い心を呼び覚まして動く。
いま高年期に入って、新たな「高年化社会」の形成の場に投じる時、熟成した人びとの活動によって各地に涌くようにして形づくられる地域社会の姿を、心おきなく「成熟にむかう地域社会」と呼んでいいのではないか。二〇二〇年ころには、その総和としての「成熟した日本社会」に出会うことができるだろう。 
#国際評価に耐える日本型モデル
*・*高年期の「尊厳」を守りぬく*・* 
「善く戦う者は怒らず」
「恕と尊厳」
人世のありようを知りつくした東洋の先人は、一個の人間としては人生がかかる、人類にとっては行方がかかる至言として、「善く戦う者は怒らず」といい切った。
怒りによる戦いによって勝利しても、ほんとうの勝利者にはなれず、新たな怒りを呼ぶだけだということは、だれもが体験として知っていることだ。ひとときの鎮静は得られても、紛争の解決にはならない。では紛争の解決策として、ほんとうの成果を得る極意は何か。怒りでなくて何によって戦うのか。「怒」(いかり、憤懣)ではなく「恕」(ゆるし、思いやり、憂慮)だというのが、ここでの実践者としての覚悟である。
漢字というものの不思議な存在感がここにもある。このふたつの字をよく見てほしい。下に心のついたよく似た文字は、人間の「心」のどこか同じところから発するものなのであろう。だから「怒」(「怨」も)と「恕」とは心の中の「多重標準」ということができる。「怒」(いかり)を発しようとするとき、人は「怒」(いかり)ではなく「恕」(ゆるし)として発することができる。漢字をつくり用いてきた先人はそう理解してきたにちがいない。
終章で人生の高年期の「尊厳」(とうとさ)をいおうとして、「怒」(いかり)から始まったのは、そこに一気にいけないからだ。いまや高年者は「憤懣」を抑えきれないところにいるからである。「恕」については、孔子が弟子の子貢から「一言にしてもって終身これを行うべきもの有りや」と問われたとき、「それ恕か。人の欲せざるところを人に施すことなかれ」と答えている。卒寿期にある「明治丈人」の日野原重明さんも「恕」への思いを述べていた。
本稿はここでは「恕」を「憤懣」を鎮める「憂慮によるゆるし」と読むことにしたい。わが心のうちの「憤懣」を「憂慮」に転ずる心の働きを、ここでは「尊厳」と呼びたい。お互いがこの一〇年ばかりを傍観してやりすごしてきた自責の思いを噛みしめ、切迫した深い「憂慮」とともに動く。一人ひとりの「憤懣」をみんなの「憂慮」に変えて、五〇〇〇万人の高年者が高年期を、「恕と尊厳」を守りぬいて暮らすなら、舞台は回るだろう。人生終章の舞台を、みずから「高年化社会」の主役として「昭和丈人」を演じきる。演じるというのは、高年者としての自分を見ている自分の目を意識するということである。 
「友人フォルダ(玉壺)」
「わがシニア文化圏」
「高年化社会」の主役として「昭和丈人」を演じきるといっても特別なことをはじめようというわけではない。晴れた日には日課として一時間ばかり街に出ようというほどのことである。
街に出て、高年者同士ならだれとも快く気候のあいさつを交わし、お互いの健康を案じあい、愉快に今日を語り合い、先輩の姿を思い起こし、親元を離れた子どもたちの無事を願い、わがまちの将来を思う。お店では新しい「高年化用品」の情報を得て、ていねいな手造りの地産品の手触りを楽しむ。ここは現今の若者たちの風気には染まらない。子どものころに見た父母たちがそうしていたように、ひとつ上の境地を共有することでいい。
雨の日には家にいて、「旧雨今雨」の友人たちに想いをめぐらせ、訪れを待つ。やれやれと「マイ・チェア」に収まって、しばし音楽に耳を傾け、書物から先人の叡智を得る。さてそれからウエブ・サイトを開いて新情報をゲットし、ネット仲間とメール歓談を楽しむ。
「一片の氷心玉壺に在り」というのは、かけがえのない友に捧げることばだが、「友人フォルダ(玉壺)」の中に、氷のような澄明な心で終生つきあえる友の名が何人も存在しており、さらに一片また一片と増えていくのは愉快なことである。内にも外にも「高年者同士のための暮らしの場」をさまざまに構成し、コクのある「わがシニア文化圏」をこしらえる。そして高年者の生活を危うくする営為には「憂慮」の息づかいを合わせて対抗する。
いま高年者の生活圏を危うくする火の粉は、超八〇〇兆円まで膨れあがってなお増勢のとまらない財政赤字から飛んでくる。ほかに術なくて、高年者がみずから「粒々辛苦」してつくりあげてきた暮らしの基盤が揺らぐほどに、国は寡黙な高年者にシワヨセを押しつけ出したからだ。高年者は何よりも存在を軽視されていることに対して、怒りを鎮めて「憂慮」の輪を広めなければならない。 
「世界一の長寿国」
「昭和生まれの丈人力」
一国の首相を小論考の狭い行数のなかであげつらうことは避けるべきだから、本稿の立場からの指摘ひとつに止めるが、新世紀を迎えて首相となった小泉純一郎さんは、「自鳴得意」の姿勢を貫きつつ、「構造改革なくして日本の再生と発展もない」といいつづけた。
成し遂げた小泉流の構造改革は「郵政民営化」が象徴的作業となったが、時代の風をとらえたとはいいながら、改革のK点はせいぜいが硬直化した国家機構にかかわる改革までであった。それは内向きなものであって、世論が求めていた外向きの社会改革には及ばず、「高年化社会」の形成に関しては、新世紀になっても手つかずのままだったのである。
改革の主体者である高年者に参加を呼びかけることをせずには「社会の高年化」は決して進まない。だから小泉改革は高年者の期待とは別の方向に動いてきた。「『世界一の長寿国』を喜ぶ」といいながら、次には「高齢者は年金・医療・介護という社会保障の対象」と跳んでしまう。かつて厚生大臣をつとめた小泉さんは旧来の「厚生族」の視点を越えられなかった。静かで目立たない多数派である高年有権者の信頼をつなぎ止めるためには、その存在と動向を正確に把握し、信頼して「参加」を呼びかけなければならない時に、だれの目にも際立つキャリア女性議員と若手議員に国民の目をそらせてしまったのである。
ここで五〇〇〇万人の高年者は「憂慮」の息づかいをそろえよう。てんでんばらばらに怒っていたのでは何も起こらないし、ほんとうの戦いは怒りによって行うものではないのだから。ここは静かに、歴史的役割をわけあって、昭和生まれのみんなが「昭和生まれの丈人力」を惜しみなく発揮して、高年者としての「尊厳」を守りぬいて生きることで、「日本高年化社会」の形成に投じること。それぞれが過ごしやすいステージを紡ぎだすようにして現出し、後人のスタンディング・オベイション(立ち上がっての喝采)に送られて歴史のなかへと去る。それなくして何の人生か。
 *・*未萌の「高年化社会」に賭す*・* 
「家庭内の高年化」
ここであらためて「家庭内の高年化」について整理しておこう。
家庭は「高年化社会」形成のコア(核)であり、ここでの成立がすべての基礎である。さまざまな角度からおこなわれるが、とりたてて特別なことから始める必要はない。
すでに記してきたように、時節の基本を一年一二カ月に重ねて「四季三カ月」として、「地域の四季」の変化に応じた行事を日々ていねいに迎えてすごす。一日の基本にはこれも二四時間に対して三時間ごとに刻んだ「八方時刻」を多重化して採り入れる。明け方から夜までの活動を三時間ごとに分割してムリなく織り込んで暮らしにリズムをつくる。何より家庭内の三世代がそれぞれのプライバシーを納得しあいながら着実に実現する。
「マイ・チェア」から食器まで愛用品を配備して動線で結んで「人生の第三期」を心地よくすごす「わが家の高年期のステージ」を構成する。一生ものの良質な国産の「高年化用品」をところどころに置いて「パパのもの」の存在感を示す。
衣は季節に応じて「和装」を楽しみ、時には「和装街着」で街に繰り出す。高年者同士が街の「四季型中心街」で「丈人登場!」といった元気な姿で談論する。
食は「男子必厨」を志して、長寿のための自家薬膳料理や四季旬菜をものにする。
住は「四季型(通風)住宅」を指向して、四季のめぐりに対応する暮らしをする。できるなら「三世代同等同居住宅」に住んで娘家族を支援し、孫たちの養育にも当たる。知識、経験、健康、資産などを有効に用いながら、自己目標の達成にむかって過ごし、厳選した友人たちとの「シニア文化圏」で交流を楽しみ、ボランティア活動にも積極的に参加する・・などなど。
「職域の高年化」
ここであらためて「職域の高年化」について整理しておこう。
職域では、「企業の高年化」つまり「製品の高年化」と「職場の高年化」を推進する。
来歴に鑑みて、国内の高年需要者層への新しい製品化が見込める企業から「社内ミドル化」と「社内シニア化」を指向する。この「新・終身雇用」のもとで、成員がそれぞれの立場で和気藹々として働ける社風を醸成する。国際競争に直面している「社内ミドル化部門」の中年社員を支援・督励するとともに、生活用品の途上国製品化に違和感をもつ国内の高年者層が納得する「優良高年化製品」を企画し、さらには将来の輸出商品として有望な日本製「高年化製品」の開発も視野にいれて推進する。「高年社員・社友会議」を成立させ、同業他社と競いつつ業界の存在感を明確にする。各社のベテラン社員と終身の愛社意識をもつ引退社友が、高年者としての生活感覚を反映した良質な「高年化用品」を考案し提案する。企業の永続的な発展と重ね合わせて、新入社員が生涯にわたって愛社意識を保てるような「新・終身雇用」や「新・年功序列」の規定を取り入れ、また医療・厚生施設の充実と保持にも努める・・などなど。 
地域生活圏の高年化
地域社会での「地域生活圏の高年化」についてもここで整理しておこう。
高年世代としての経験と構想力を発揮して、地域の「青少年」「中年」用のステージに加えて「高年者」用に特化した「ステージ」の形成に努める。専門領域をもつ人びとが参加した「地域シニア会議」が高年者の課題を話し合うとともに、「三世代会議」をつうじて子どもたちに地域文化・物産を伝承する。とくに子育て期の女性を支援し、さらには内外の姉妹・友好都市からやってきた青年・高年者に「国際交流員」として応対する。
地域の中心街には日課として出向いて、高年者仲間とともに地域の「四季型中心街」の活性化を担う。自治体の「高年(生涯)大学校」や地元大学の「シニア大学院」で、高年期の暮らしのためのスキル・アップを心がける。地域の四季をたいせつにし、地域の「自然環境」や「生活・伝統環境」を守る活動に参加する。伝承として残る手づくり技術を活かした「高年化地域特産品」の創出活動の先駆けをする。そして「高年化用品展示会」や「昭和の日」の行事にも積極的に参加する・・などなど。 
「一〇・一国際高齢者の日」
国際的には「一〇・一国際高齢者の日」に一年の成果を公表し、世界に発信する。
国際的といっても、とくに海外の目を意識する必要はない。日々の活動による「高年化社会」への参加と過程そのものが、ノウハウとして国際標準のひとつになるのだから。
前世紀に体験した国家同士による戦争の惨禍を負の資産として、「平和の絆」として提携した姉妹・友好都市との交流から、手づくり技術を生かしたアイデアを得て、途上国製品のひとつ上のレベルの日用品を考案することで、「国際平和の証しとしての高年化」という次の目標に備える。日本の高年者が獲得した「モノと場の高年化」に関するノウハウは、海外の高年者の関心を引くとともに、優れた日本製「高年化製品」への需要を呼び起こし、国際的な「高年者製品経済圏」の形成に先駆的な役割を果たす。「国際高齢者の日」には、さまざまな分野の成果を公表する。そして「一生に一度はいってみたい日本」を現出する・・などなど。 
「昭和中期丈人層」
「昭和前期丈人層」
史上にまれな「少子・高齢化」時代に遭遇した「昭和生まれの高年者」としての歴史的役割は、なるべく「ケア」を受けないですむ「自立」の姿勢を保持しながら一日でも長く生きることである。「からだ・こころざし・ふるまい」という三つの「いのちの多重標準」をつねに意識して、「ひとりの高年化」を体現しながら「高年化社会」を安定させるのが、「昭和丈人層」の歴史的役割なのだ。
国政の担当者から発せられた「痛みをともなう改革を」ということになれば、実際には弱者の犠牲を前提とせざるをえないし、成果はその上にしか成り立たない。失政のはてのそんな愚直な訴えを聞き、そんなたわけた社会をつくるために高年者は苦闘してきたのではない。
「昭和丈人」のみなさんなら、怒りをこらえて憂慮(恕)の声を発するだろう。
「国民自身の『痛みをともなわない改革』によって、日本高年化社会の形成は着々となされることとなるのだ」と。そして行動派の高年者であるみなさんが、たしかな高年者意識を持って過ごした「第三期の人生」での総和が、「高年化社会」の日本型モデルとして、近い将来には国際的な評価を受け、次世代の資産になる信頼をかちうるにちがいない。
二〇二〇年に、国際的な注目をあびて高年期を迎えているのは、だれだろう。
「敗戦」(一九四五・昭和二〇年)の年から「エキスポ70・大阪万博」(一九七〇・昭和四五年)の年の間に生まれた「昭和中期丈人層」である人びと。「日本らしさ」を活かして成し遂げた成果を、参観のため来日した外国人高年者に示すのは愉快な役割ではないか。そして先駆者として力を尽くした「昭和前期丈人層」であるみなさんの輝かしい体験記とともに、二〇二〇年に、書棚にあってその成果を見定めたいというのが、本稿の実現目標2020である。 
*・*春爛漫の「(仮)シルバー・ウイーク」*・*            
「敬老の日」
「老人の日」
きょうはなんの祝日だったっけ。二○〇三年からは九月一五日であった「敬老の日」は、九月第三月曜日に変更されたからなおのこと、実感に乏しい祝日となった。
「ちょっと待ってください。わたしたちは少ない予算で必死にやっているのですから」
先回りした善良な官僚の悲鳴にも似た反論が聞こえる。社会に尽くしてきた功労者として高齢者をねぎらい、顕彰することは後進の者の当然のつとめ。お年寄りを敬いいたわる日があることは・・。
 べつに「なくても良い」といっているわけではない。ねぎらわれ、いたわられる「高齢弱者」(被扶養者)を設定し、善意を率直に表現できる「敬老の日」があることは、だれもが納得していることである。前年度プラスの予算を確保して、熱心に「敬老行事」をすすめてきたのは、だれがみても良いことである。しかし、官製の敬老には納まらない多数の高年者(予算に関係ない人びと)から「敬老の日」は次第に遠くなってしまったのではないか。年々に「敬老行事」を予算化することでしごとを固定化し、そこから先の発想の広がりと可能性を殺いできた。
現行の爽やかな秋の「敬老の日」は、公的にでなければできない高齢者への施策を中心にした善意の日として、「老人の日」(九月一五日)を合わせ支えながら継続する。それとともに、一○月一日の「国際高齢者の日」は、国際的な行事の日として、「国際高齢者交流会議」といった海外の高年者が参加する行事の開催にあてる。そうすることで高齢化先進国であるわが国の活動が、国内ばかりか国際的にも関心を呼ぶことになる。 
「昭和の日」
「(仮)高年者週間=シルバー・ウイーク」
たとえば春ののどかな一日、「こどもの日」や「母の日」と同じように、高齢者が高齢期の人生をどう切り開いているかを、年々のその日に確認する日、「高年者の日」があっていい。
「いい時代に、いい人たちと出会った」
というのは、脇役の名優笠智衆さんの残したことばだが、そう率直に言って、終生を脇役として地味に生きてきたお互いを賛嘆しあう日があっていい。後人にねぎらわれるのではなく、後進の者を安心させ、激励を与え、将来の目標になるような健丈な高齢者のための、「(仮)高年者の日=シニア・デー」(四月二八日)を設定しようというのは、出版人Mさんの着想である。歴年で祝うには、季節もよく活動するにもよく、記憶するにもよい日がいい。早めに一日を確保しておくことにしよう。
翌四月二九日が〇七年からは「みどりの日」を改めて「昭和の日」にかわった。丸ごと高齢者のための日とはいかないだろうが、「昭和の日」もまた「昭和の人びと」のための日とすれば、高齢者が二日間にわたって主役をつとめることになる。家庭で、屋外で、津々浦々で、高齢者が元気な姿を示しえたら愉快ではないか。
そして五月五日の「こどもの日」までを視野にいれて、世代をつなぐ活動の成果を公表すれば、いきいきとした厚みを増すことになるだろう。さまざまな「J(ジュニア)+S(シニア)会議」や「三世代(JMS)会議」が、五月五日までの間に開かれることになる。
たとえば日本の誇る「国際人シニア」である小沢征爾さんが主宰している「ジュニアのための音楽塾」のような、熟達者と新進の若者が芸術の高いレベルの成果に挑戦するような世代をつなぐ活動は示唆的である。また「憲法記念日」(五月三日)での大江健三郎さんのような作家と子どもたちとの定点対話は、憲法をテーマに、表現力によって深く伝え、想像力によって理解を堅固にすることの大切さを知る出会いとなるだろう。
春の「ゴールデン・ウイーク」に先がけて、高齢者の存在感を示す一週間が「(仮)高年者週間=シルバー・ウイーク」である。「高年齢者週間=シルバー・ウイーク」として、みんなで勝手気ままに高齢期の成果を示すステージを作りあげていくのもいい。
行事はさまざま。各地・各分野で、技能や芸能を磨きあげ、経験を積み、知識を深めてきた人びとを、企業や民間団体が紹介する。代々に引き継がれてきた伝統芸能や技術、話芸、ライフワークを追い続けている研究者の成果を実演・講演する。高齢者スポーツ大会、健丈度・活動能力診断、ウオークラリー、金婚・銀婚・賀寿を祝う会、そして全国や地域の「高年齢者用品展示会」・・などなど。そのために高齢者は健丈であること。 
平均寿命世界一」
「国別健康寿命世界一」
世界保健機構(WHO)が「国別健康寿命」を初めて発表した(二○○○年六月)。「平均寿命」が年齢ごとの死亡率から計算されるのに対して、「健康寿命」は平均してどの年齢まで健康で暮らしていけるかを示すもの。
その計算式によると、一九一調査国のうち日本は「平均寿命」では八○・九歳で「平均寿命世界一」だったが、それより六・四年短いものの七四・五歳(男七一・九歳、女七七・二歳)で「国別健康寿命世界一」だった。ちなみに二位はオーストラリアで七三・二歳、三位はフランスで七三・一歳。インドは五三・二歳で、アフリカ諸国の中には三〇歳台というところも少なくない。長寿世界一の「日本シニア」が、いよいよ注目されることになる。 
 # 平和の証しとしての「日本高年化社会」
*・*何もしない「国際高齢者の日」*・* 
「国際高齢者年」
新世紀に迎える地球規模での「高齢化社会」を予測して、国連が一九九九年を「国際高齢者年」(International Year of Older Persons)と定め、そのテーマを「すべての世代のための社会をめざして」としたのは一九九二年のことだった。
世紀末近くにそんなことがあったことを知っている高年者がどれほどいるだろうか。善意の提唱者が、テーマを「すべての世代のための社会をめざして」としたのは、世代を越えた人びと(エイジレス)の賛同と参加を期待したためであったろう。しかし「すべての」という呼びかけは、それが提唱者の善意の期待からであるとしても、活動の主体者をあいまいにしてしまうことは否めない。実際には活動を強める力とはならないのである。
活動の中心となるのは、世紀の初頭に高年期を迎える人びとであり、最初に迎えることになる先進諸国であり、なかでも大型で最速で進む「日本」が台風の目となる立場にある。そういう明確で強烈なメッセージが、九〇年代から新世紀にかけてのこの国に、警鐘にも似た強い風圧として横なぐりに叩きつけられていれば、いまこの国で高年期を迎えている人びとの「この一〇年」の取り組み方も、その結果も大いに異なっていたと推測されるのである。
そう主張した人びとがいた。が、そうはならなかった。「国連中心」といいながら、「分担金は多く実践活動は少なく」の実態がここにもあったのである。 
「国際高齢者の日」
「高齢者のための国連五原則」
各国とくに先進国から新世紀に迎えることになる「高齢化社会」にむかってスムーズに移行できるよう、国連から次々に取り組みが提案され、九〇年代を通じた国際的テーマとなっていたのである。 
毎年の一〇月一日を、「国際高齢者の日」と、国連が定めたのが九○年であり、運動の展開への願いを込めて、
自立(independence)
参加(participation) 
ケア(care)
自己実現(self-fulfilment) 
尊厳(dignity)
という五つの「高齢者のための国連原則」を採択したのが九一年であり、そして「高齢者に関する宣言」とともに九九年を「国際高齢者年」と決定したのが九二年のことだった。わが国も総務庁を中心に各自治体も参加して全国的な活動を展開した。現在の高連協(高齢社会NGO連携協議会)が結成されたのもこの時である。それに先立つ九五年には「高齢社会対策基本法」も制定されている。だれあろう、毎年一○月一日の「国際高齢者の日」に、他国に先んじて実質を与えるのは、この国の高年者の役割だったのである。 
新世紀ふたつの課題」
「高齢化国際人」
二一世紀初頭の国際的な潮流は、先進諸国が先行して迎える高齢化に対処する「社会のグローバリゼーション」であり、アメリカ一極下で開発途上国が中心になって推進する「経済のグローバリゼーション」は新たな時流であり、アジアで唯一の先進国としてのわが国が取り組む「新世紀ふたつの課題」だったのである。この間、ヨーロッパ諸国はソビエト崩壊後の混乱期にあったからなおのこと、わが国がこの新世紀初頭のふたつの国際的テーマを引き受けて総力をあげて立ち向かうポジションにあったことは確かである。 
とくに高齢化へのわが国の対応がそうならなかったからといって、よその国からとやかく責められることではなかった。しかし、知らなかったからといって許されないのが日本の高年者自身なのである。
一九九九年の「国際高齢者年」をひとつの契機として、新世紀へむかって「日本高年化社会」への構想が提案され、高年化対応の具体的な取り組みが九〇年代から新世紀にかけて次々になされていたなら、高年者意識もまた広く醸成されていたことだろう。自治体によっては先駆的に「高齢者憲章」を定めたところもあったのだったが、全国的な活動にまでは進まなかった。団体でも個人でも国連の高齢者原則の五つすべてでもひとつでも意識して活動することが「高齢化国際人」なのである。
九〇年代を通じて、高齢者みんなが「わたしの高齢期」を意識し、みずからの暮らしを充足させる家庭や地域生活圏の「モノと場」の高年化のために活動し、国産の「高年化用品」や用具、設備や施設を要望し実現させていたならば、企業や組織は「高年化対応のリストラ」にも努めていたことだろう。そして新世紀を迎えてさらに着実に推進されていたなら、わが国のとりわけ高齢者があらゆる局面でシワヨセを受けてこれほどの苦難を強いられることにはならなかったのでる。 
「高齢者憲章」
「高齢化に関する世界会議」
一九九九年、この国の「国際高齢者年」は主役不在のまま過ぎていった。国も自治体も音頭をとったが、肝心の高齢者自身がわがこととして理解しなかったのである。国際的に先頭に立つべきわが国の活動は際立つこともなく、総務庁(当時)を中心に取り組まれ、高齢者関連団体NGO(非政府組織)と連繋しておこなわれ、淡々と過ぎていった。高齢者年NGO連絡協議会による「高齢者憲章」(補注)が、九九年九月に発表されている。 
二〇〇九年は一〇周年に当たった。それすら知っている高年者は少ないだろう。
国際的な活動としては二〇年ぶり二〇〇二年にマドリッドで「第二回高齢化に関する世界会議」(第一回は八二年にウイーンで)が開かれた。「高齢化に関する国際行動計画2002」を採択し、世界の多くの地域で平均余命が伸びたことを人類の大きな成果とし、世界的に前例のない人口転換が生じていること、二〇五〇年までに六〇歳以上の人口が約二〇億人に増加し、人口比率では二一%に倍増する見通しであり、すべての国に対して、「高齢者が潜在力を発揮して生活のあらゆる側面に参加する」ことができるような機会の拡大を要請した。
この一〇年、この国に世界の高年者にむかって誇らしく発信できるような「高齢化社会のグランド・デザイン」などなかったことは、すでに何度も指摘したとおりである。 
*・*「日本高齢社会」は世界平和へのメッセージ*・*       
「平和と非暴力」
「文明間の対話」
二一世紀の国際社会が、なお平和裏に推移するかどうかはわからない。国連は、新世紀が「平和と非暴力」にむかうことを願って、「文明間の対話」を課題とし、二〇〇一年を「文明間の対話年」としたのであった。ところがそれに逆らうように、ニューヨークの「九・一一テロ事件」、そして〇二年三月の「イラク戦争」を引き起こし、報復テロの恐怖が世界を覆うことになってしまっている。アメリカ国民は初めて身近に戦争の恐怖を実感したことになる。
そんな中で、日本は「人道支援」という名目で自衛隊を海外の戦場へ送り出した。アメリカの軍事戦略に沿って、アメリカとともに国際的には孤立化の危険をはらむ道を選び、新たな「有事の時代」へと動き出した。そのことは、為政者がどういいつくろってもまぎれようもない事実であり、「憂慮」すべき事態なのである。それでも一兵も失うことなく、現地の人びとに受け入れられて作業を遂行できたのは、「平和憲法」をもつ国からの「自衛隊」だったからであり、イラクはもちろん国際的にもそう評価されていることの実証例となったのである。
世界をまきこんだ未曾有の戦乱期を経て得た平和期がつづいて半世紀あまり。その間の日本の「平和」が、アメリカの軍事力の傘ととくに沖縄の人びとの重い負担に頼ってきたこともまたまぎれようもない経緯であるが、国民の一貫した強い意志を置いてほかにない、そしてその向こうには、戦場となったアジアの国々とそこに暮らしている人びとの戦乱と戦後の経緯があったことを忘れてはならない。いまグローバル化という時流に乗って、アジアの人びとが日本のような平和のもとでの豊かな暮らしを夢みて過ごしてきていま実現している姿を、先の戦乱の犠牲者を思いながら戦後の復興に身を挺して尽力してくれたわが国の先人の姿に重ねて、アジアの将来のために心からの謝意をささげるべき時なのである。 
「ものづくりに優れた国民」
「和を愛する国民」

一九四五年に敗戦国となって以後の日本が、半世紀をかけて努めて獲得した国際的な評判はふたつある。まずは平和裏に、みんなが等しく享受できる良質の製品を、ユーザーの利便性を思いつつ力を合わせてつくることで経済復興を成し遂げた「品質の優れた製品をつくる産業国」であり、「ものづくりに優れた国民」としてである。そしてもうひとつは、戦禍への道をふたたびたどらないために、被害者であり加害者であった双方の立場を包摂して国際社会に「恒久平和」を宣した「日本国憲法」をもつ「和を愛する国民」であることである。かつて欧米列強国と覇権を競ってアジアの隣国に被害をもたらした加害者となったことを反省し、一方で原爆による唯一の被爆被害者として近代兵器の脅威を経験して、「戦争放棄」をきちっと守りつづけてきた「平和に徹する国」であり、それを守りつづけるとともに敗戦の焦土から立ち上がって粒々辛苦して働き、平和裏にみんなが等しく享受しあえる繁栄を築いてきた「戦後日本人」のたゆまぬ営為によるものであった。したがって、そのプロセスは「人類標準=ヒューマン・スタンダード」となりうるものである。日本に対するふたつの国際評価、「品質のいい日本製品」と「平和を愛好する品格のある日本人」像は、半世紀の積み上げによって作られた貴重なものである。 

「日本国憲法」
「日本高齢社会」
平和な時代が長くつづくことを、先人は、「戴白の老も干戈を見ず」(髪の白くなった老人さえ戦争を知らない)といって、長い平和の時期をすごすことができた幸運を伝えている。と同時にそれはまた、戦乱の不幸が途絶えたことがなく、人間同士の対立の解決がいかに多く武力によってなされてきたかを思わせる。人類にとっての最重要課題である多重標準は「戦争」と「平和」なのだ。先の大戦から半世紀余り、この国の戦争を知っている人びとの髪は、大方は白くなった。そして日本は「有事に動く」という意味では「干戈を見ず」に過ごしてきた。二〇世紀の「戦争の惨禍」を先人が引き受けてくれたことで得た貴重な平和の期間。
その平和期を実感しながら「戴白の老」となった高齢者が、自分たちの手でつくりあげた生活環境で憩い、往時を顧みて衣食住にもほぼ満ち足りている姿がある。「世界一の長寿国」であり、長寿者が敬愛されている姿こそ、なにより世界に誇っていい「平和の証し」なのである。理念としての「日本国憲法」(とくに九条)を掲げつづけるとともに、現実の「日本高齢社会」の形成が、ふたつながら新世紀初頭の国際社会でなすべき日本の貢献なのである。 
「世界平和へのメッセージ」
「平和憲法施行一〇〇年記念」
「恒久平和」を掲げた日本国憲法は、「原子爆弾」という人類をも破滅させる可能性をもつ武器が登場した先の大戦で亡くなった人びとへの「哀悼のモニュメント」(歴史的記念碑)であり、とくにその九条は先人の心火によって燃えつづけている遺言の灯ともいうべきものである。半世紀を越え、新世紀を迎えたいま、その経緯を確認し、党派性を排して「衆議」して引き継ぐべき貴重な文化遺産である。したがって「そのまま残すべきもの」である。
国際紛争は絶えることなくつづき、世界の軍事技術は仮想敵国を想定しながら自己増殖をつづける。それは朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争で、その恐るべき一端をみせつけた。局地戦はいまも絶え間なくつづいている。そんな悪夢を押し止めるのが、大戦後に平和を託されて生まれたベビーブーマーである「平和団塊の世代」の人びとを中心にして体現する「日本高齢社会」なのである。それがそのまま「世界平和へのメッセージ」となることに希望がある。
先の大戦によって被害者となり加害者となるに至った戦争の惨禍への経緯を繰り返さないために掲げた「日本国憲法」を改変する能力も立場もないことを、想像力の深度も構想力の精度も足りない現代の若手政治家に知らさねばなるまい。日本がどういうプロセスを踏んできたかの論議を尽くすにはいい機会だが、自分が納得できるレベルの認識で改憲を実行しようとすれば、必ず過ちをおかすことになる。
憲法は今ある人びとのためのものではあるが、今ある人びとのものではない。
「自主憲法」と称して根幹を傷つけるとすれば、先人にも後人に対しても、これほど恥ずべき行為はない。いま確認すべきことは、憲法の条文の文言の改変をおこなうことではなく、条文の裏に燃えつづけている「先人の心火」を感得し、その地点から戦争の惨禍を想起する想像力を培うことである。若手政治家が謙虚になすべきことは、平和を希求する憲法の趣意を「国際世論」とするためになお努めて、四〇年ののちに「平和憲法施行一〇〇年記念」を国際平和のもとで祝えるように保ちつづけることである。  国会での議論がどのようになろうとも、最後に国民投票での決定権をもつ国民として、冷静にしかし先人の心意を確かめながら見守りつづけることにしよう。
国際的に先行してたどる「日本高年化社会」形成への歩みを、「世界平和へのメーセージ」として対置すること。天年(天寿)を全うする一人ひとりの高年者の日また一日の生命の灯を、戦争への兆しがあるかぎりひたすらに、歴史を貫いて流れる「不戦不争の叡智」に託して「戦争放棄・恒久平和」の明かりとして灯しつづけること。「日本国憲法」が放つ不戦不争の明かりが途絶えたとき、わが国はまた半世紀を積んで得た国際的評価を閉ざし、歴史的な輝きを失うことになる。耳をすまして過ぎこし百年の声を聞き、目を見開いて来たるべき百年を見透かせば、おのずと明瞭なことである。 
*・*・「寿終正寝」(天寿)を全うする*・* 
「不戦の武力」
「能戦の文化力」
国民が穏やかに生き、天年(天寿)を全うできる「寿終正寝」を願わない国などない。
国際的に「高年化社会」の姿を競うことが、二一世紀が「平和の世紀」であることの証しとなる。だから世界の高年者がわが国に期待するものは、紛争地に支援に向かう部隊よりは「恒久平和」を掲げた憲法の下での「日本高年化社会」の実現であり、その形成へいたるプロセスである。古来わが国は「君子の国」として、「譲るを好みて争わず」と伝えられてきた。とはいえ「自衛の力」は独立国であるかぎり、可能な範囲で他に劣らない質を自ら保持して常備しないわけにはいかない。常日ごろ訓練によって養った、他のいかなる国にも依存しない自衛のための「不戦の武力」と、常日ごろ鍛えあげて相手をねじ伏せるほどの外交のための「能戦の文化力」と、それを支える「経済力(民力)」とは、常に整え備えるべき三位一体の「国民力」なのだから。
個人としては、歴史にまれな平和の時代に、「日本高年化社会」を構成するひとりとして加わり、みずからが充足して長く生き天年(天寿)を全うすることが、そのまま国際的な信頼を引き継ぐ「平和へのメッセージ」となることを確信することである。そして生涯の最後までお互いを支えあうことが主体者としての「現代丈人の証し」ともなる。
$$[補注]
*「高齢者憲章」
わが国はこの半世紀の間にめざましく発展し、国際的にも経済大国といわれるまでになりました。国民の生活水準や保健医療も向上し、いまや人生八○年、世界一の長寿国となっています。
しかしその一方で人口の少子高齢化が急速に進んでおり、二一世紀の初頭には四人に一人が六五歳の超高齢社会になると予測されています。私たちの身のまわりでは、これまでにない多くの問題が表面化しています。とくに、高齢者を「社会の被扶養者」と位置づけている制度や慣習が多く、現在の高齢者の意識や生活行動にそぐわない社会のありようが、問題を生んでいるといえます。介護を必要とする高齢者も少なくないのは事実ですが、一般には高齢者のほとんどは健康で、就労やボランティアの社会参加、若い世代との交流など、生きがいのある生活を望んでいます。
こうしたわが国の状況の中で、高齢者問題にたずさわる関係団体(NGO)は、国際高齢者年にあたり、「高齢者年NGO連絡協議会」(高連協)を結成し、「すべての世代でつくろう ふれあい社会」をスローガンに活動を展開しています。高連協は、国連が提示している「自立、参加、ケア、自己実現、尊厳」の高齢者のための五原則に、高齢者自身の「社会的役割」を加えたキーワードをもって、すべての世代が平和で生きがいある生活を追求できる社会、年齢による差別のないエイジレス社会の創造をめざしています。
そこで私たち高連協は、この運動の基本的指針を「高齢者憲章」としてまとめ、ここに提唱します。
[高齢者憲章 提言]
一 尊厳 個人の尊厳は他の世代の人々と同様に高齢者についても重んじられる。
二 社会参加 高齢者が生き生きと暮らすことは、すべての世代の人々が安心して暮らせる社会をつくるために不可欠である。そのためには、高齢者の能力を活用する事業や職種を社会全体で開発するなど、高齢者が意欲を持って社会参加できる機会を広げることが望まれる。
三 社会貢献 すべての世代にとって住みよい社会をつくるために、高齢者は若い世代と交流しつつ、その経験を生かして社会福祉、環境整備、コミュニティづくり、文化の伝承、国際交流などの社会貢献活動に参加する。
四 健康づくり 高齢者は、地域社会において充実感を持って生きることができるよう、自らの身体的機能の維持に努める。そのために、保健センターや健康づくりネットワークなど、地域における支援の仕組みを整備することが望まれる。
五 まちづくり 身体的能力や生活能力がいかに異なっていようとも、安心して暮らせる社会にするために、バリアのない住宅やまちをつくることを公共事業の重要なテーマとすることが望まれる。また、すべての人々は、心のバリアを取り払い、地域社会において助け合って生きるよう努める。
六 社会保障制度 年金、医療保険、介護保険などの社会保障の制度は、国民の生涯にかかわる制度として確立され、これによりすべての世代が安心して暮らせる社会にすることが必要である。これらの制度は相互扶助の精神に立ち、負担の公平と効率的な運用の確保に努め、社会全体の活力を失わせないよう総合的に構築されなければならない。これらの制度によりサービスを受けるものは、可能で適切な範囲において、その費用の一部を負担するとともに、その自己決定権は最大限に尊重されなければならない。
七 生涯学習 高齢者の多様な生き方を支援するため、生涯にわたり学習できる仕組みの整備が望まれる。また、高齢者の経験や知恵が子供や若者の教育に活用される仕組みも、つくらなければならない。
高齢者を含むすべての世代の男女は、共同参画して以上の提言の達成に努める。
         一九九九年九月一五日    高齢者年NGO連絡協議会
 

現代シニア用語事典 #8高齢期(三世代同等型)をこう生きる

#8 高齢期(三世代同等型)をこう生きる
#「長寿社会」はみんなでつくる
*・*「五つのステージ」をどう生きるか*・*  
高年期人生のステージ
「人生のステージ」というと、ふつうには「幼年期」「少年期」「青年期」「壮年期」「老年期」という五つの階層にわけて説明されてきた。この「五つのステージ」は、自分の経験として、あるいは子どもの成育の姿や父母の生き方をつうじて、だれもが納得できる分け方として認めている。ところが史上まれな「少子・高齢化」という状況にあって、「高齢社会」の実情をつぶさに考察しようとすると、上の「五つのステージ」ではうまく把握できない。なぜといって五つのうち三つまでが二〇歳代の「青少年期」に当てられていて高年層に窮屈だからである。
「高齢社会」の把握には、高年層に配慮し高年者が納得する別途の「高年期人生のステージ」が要り用なのだ。それが自身の「高年期の人生」への意識変革をもたらし、みずからが暮らしやすい新たなステージを創出する契機となる。
本稿がここでいう新たなステージは、いまあるしくみや高齢者意識をそのままにして対処しようする「高齢化社会」とは区別して、「高年化社会」と呼んでいる。みずからが「青少年期」「中年期」を過ごしおえて「高年期」にあること、いま「青少年期」「中年期」にある人びとに対して「高年期」にあること。五〇歳以上で五〇〇〇万人(六〇歳以上で三九〇〇万人)の人びとが主体者として新たに形成する社会だからで、みずからが暮らしやすい「モノと場の高年化」を成し遂げ、「新しいしくみ」を創り出し、さまざまな分野の成熟した活動が展開される新たなステージだからである。と同時に、次の世代に将来の資産をつくっているという配慮をつたえて、みんなが参画しているという意識の共有が必要である。
東アジアの先進国であるわが国には、国際的なフロントランナーとしてアジア地域での独自の社会モデルが期待されており、「日本高齢社会」は、自まえの経済・文化・伝統の条件のもとで、独自のプロセスを案出しながら達成に向かわねばならない。 
「高年期三期の新ステージ」
わが国の高年齢化の実情をよく観察した上で、体現者である高年者のみなさんに納得されることを期待して、本稿が採用した「高年化時代の新ステージ」は、#1の「高齢時代のライフサイクル」「賀寿期五歳層のステージ」を参考にしていただきたい。
 三つのステージは、二五年を区切りとする「青少年期」「中年期」「高年期」であり、「高年期」を「パラレルゾーン」「高年期」「長命期」の三つのステージに分けることで、当面するわが国の実情に見合った高年期人生のステージが形成されることになる。
同じ「五つのステージ」でありながら、前項とは逆に高年層を三区分に厚く分類しているのに気づかれるにちがいない。これでどうやら「日本高年化社会」を考察する本稿の立場からは納得がいく。
自己形成期にあたる「青少年期(二五年)」と社会参加期にあたる「中年期(二五年)」の人びとは、改めて「高年三期」の存在感の厚みに気づくであろう。「高年期」にある人びとは、いま自分が人生のどんな時期にあるかに思い当たるだろう。 
「超高年期は第五ステージ」
先ごろ「後期高齢者」(七五歳以上)の医療費支払いが話題になって、七五歳で階層を刻むことの意味が問われたが、七五歳で截然として人生が変わるわけはない。それでも人生のステージとしての一階層上の高年齢期に達することが誇らしく愉快であるなら、とやかくいわれることはないだろう。七五歳に達したら、最良の医療を無料で提供し、健丈で長寿である人生を支援しますという施策であるなら誰も異議をとなえることはないのである。国の財政のしわよせを高年者に押し付けようとする意図が透けてみえるような施策は、国際的にも関心を持たれている「日本高齢社会」構築のプロセスにあってはならないことだ。高年齢者はそろって憂慮の声をあげねばならない。
本稿の高年時代の新ステージの特徴は、敬愛すべき「長命期」(八五歳から)を設けていることにある。「高年期」と「長命期」との刻みがなぜ八五歳なのかという刻みの整合性について異議をとなえる人があるかもしれない。ここでは「平均寿命」(女性)が八六・〇五歳であるという現実に留意しておいてほしい。まずは素直にご自分の人生と重ねあわせてみていただきたい。
 前項の表の第三期である「高年期」を重ねて納得していただいた方には、「青少年期」「中年期」のふたつのステージを過ごし終えて、高年期になったいま属している職域や地域でのご自分のありようを見据えていただきたい。現状では中心になって関わることのできる現場は少ないのではないか。これからの行く先長い「高年期の人生」を過ごすことになる「家庭」「職域」「地域」という三つのステージでの自分のありように思いをいたすとき、「第三期」の現役としてさまざまな不足・不満・不安に気づくはずである。 
*・*国際化対応の第一・第二ステージ*・*  
「青少年期第一ステージ」
「即戦力正社員」
「青少年期(〇歳~二四歳)は第一ステージ」で、青少年の暮らしのためには、育児・保育施設、学校、その他の教育施設、遊園地ほか、さまざまな「青少年のためのステージ」が用意され、次世代を育成するための「少子化特任大臣」が内閣府に置かれている。
人生の第一ステージである「青少年期」をみてみよう。
 近ごろは結婚後一〇カ月目の「ハネムーンベビー」よりも、結婚前の「できちゃったベビー」が多いという世の中だから、生まれて以後の養育についても不確定な要素をもちながら推移することになるだろう。といっても子どもたちはみな、たいせつに養育され、学んで自己形成をして、選んで社会参加をすることに変わりがない。複雑な時代ゆえに、現状ではさまざまな選択のための猶予期間(モラトリアム)」の「バトンゾーン(二五歳~二九歳)」を置いて、一般的にはおよそ三〇歳前までが「青少年期」として許容されている。
 しかし、本稿の「第一ステージ」の区分では、二四歳までにしっかりとした自己意識を確立し国際的な知識を身につけて、職業選択を終えて、若い柔軟な能力を企業や組織内で発揮するチャンスを活かしている青少年を想定している。国際化した企業が必要とする人材だからである。中国、インドほかのアジアの途上国の若いリーダーたちと伍して、その先頭に立つような同世代の人材が要請されており、それが企業が求める「即戦力正社員」なのである。すべての青少年が即戦力である必要はない。当面は三分の一ほどで対応することになる。
高年者としては、この孫世代の人びとにどう対処するか。みずからの来し方を省みて知られるように、自己形成期の「人生の第一期」にあって、遠い「第三期の人生」での自己実現へとつながる「こころざし」(初志)を定めることは、放っておいてできることではない。「人生の第三期」にいる高年者(祖父母)として「高年期のステージ」で存在感のある生き方を示すことによって、遠い先に遭遇する「第三期の人生」に安心感と可能性を与えることになる。
ということは、隠退して何もしないおじいちゃん、優しいばかりのおばあちゃんではなく、「高年期のステージ」の形成に参画しながら、なお未来を見据えて過ごしている先人であることを示すこと。ジュニアたちはそういう姿に接することで、高年者(祖父母)に敬愛の思いを持ち、時には記憶違いを助けたりモノ忘れにもつきあいながら、何気ないふるまいやことばづかいの中に、人生の知恵やきらめきを見出して引き継ぐことになる。高年者を敬愛する立場をわきまえて育つ青少年の存在は、「日本高齢社会」の基盤であることはいうまでもない。 
「中年期第二ステージ」
「キャリア・アップ」
「中年期(三〇歳~五四歳)は第二ステージ」である。急速な国際化に直面している中年世代の人びとのためには、多くの企業、自治体、団体などが総力をあげてその活動を支えるための場を用意している。それが国際化時代の対外的な国力として認識され評価されるからである。いま高年期にある人びとが中年期に粒粒辛苦して創り出してきたステージでもある。
急速な国際化に直面して、中年世代の人びとは内外のさまざまな不確実要素を引き受けながら労働参加をし、次世代を生み育て、地域での要請に応じて社会参加もし、ヒマを上手につくって趣味や娯楽にも興じ、「キャリア・アップ」にも心がけ、加えて高年期にいる父母の介護をするという「八面六臂」の活躍をして、超多忙な日々を送っている。とくに女性は変動期にある日本社会の基盤を支える「キャリア・ウーマン」として、口八丁手八丁となかなかに力量が要るのである。 
他項でも述べたが、この国にとっての何度かの外圧のひとつである「グローバル化」によって、「政治のアメリカ化、経済の途上国化、社会のIT化など若年化・女性化」との対応を迫られることになった。現実政治ではひとり勝ちしたアメリカの意思・指示に従って軍隊を中東に送らざるをえず、経済的にはアジアの先進国として途上諸国からのさまざまな要請に即応せざるをえず、とくに中年世代は「暮らしを途上国化する」ことによって対応することになった。
わが国は先の大戦のあと、いま高年世代となっている人びとの努力によって、アジアの他の国に先駆けて「一国先進化」に成功した。ひとときではあったが、だれもが等しく中産階級の豊かさを享受する生活ができ、将来もできると予想した。先進国入りをしたと思っていた高年者にとって、「暮らしの途上国化」には不服とするところが多々あるのである。「バブルの崩壊」のあと日本の企業や社会ははげしい構造変化を余儀なくされたうえ、「グローバル化」の進展とともに活発になった開発途上諸国の経済活動によって、日本企業も社会も早急な途上国対応を迫られた。途上国産の生活用品を受容し、家庭内の「暮らしを途上国化する」ことで対応してきたのである。
高年世代としては、わが国の若年・中年世代が海外の同世代と伍して能力を発揮できるよう、業種によっては職場や権限をすみやかにシフトして環境を整え、活動を督励することになった。これが「企業のリストラ」(構造改革)の外向きにみた実質なのである。内向きにみて高年社員の被害者としての発言が目立つけれども、ここでは高年社員も企業現場の実態は実態として直視せねばならないのである。 
*・*第三ステージは時めき人生*・* 
「高年期第三ステージ」
「パラレル・ライフ」
「高年期(六〇歳~八四歳)が第三ステージ」である。その初期の五〇歳代後半は「パラレル・ライフ」で過ごして、高年期真っ盛りの六〇歳代は「時めき人生」というところ。
「高年初期」に当たる五〇歳代というのは、どういう時期か。現状では企業内の「窓際族」が常態化してしまって、残念ながら能力発揮の場所を見出せないままに六〇歳を迎えてしまう人も多い。
この貴重な時期に手痛い停滞期間をつくらないように、五九歳までの期間を、すでに始まっている長い高年期人生での課題(自己実現)の模索と移行のための期間として、「パラレル・ライフ」(ふたつの人生)」を提唱している。五〇歳代はその後のわが人生にむかっての能力蓄積の助走期間として、けっこう多忙なのである。
穏和なプロセスで高年期をすごす見地から、五〇歳代にふたつの生き方を模索するというのは、ひとつはこれまでの「労働参加・社会参加」の延長での生き方、もうひとつはこれから始まる「高年期の人生」での自己目標をさぐる生き方をあわせて実現することである。
「パラレル・ライフ(ふたつの人生)のフィフティーズ(五〇歳代)」とでもいうべき多忙な期間なのだ。 
「職場の高年化」
高年期職場異動」
高年社員として職場ではどうするか。高年者としての生活感覚を活かした「製品の高年化」を成功させて「職場の高年化」を試みる。あるいは「職場の高年化」を成功させて「製品の高年化」を試みる。キャリアを活かして別な職域への「高年期職場異動」も考慮する。
地域ではどうするか。青少年や中年世代とともに生活圏の「三世代ステージ化」(別項)に努める。それらを通じて確かめた高年期の自己目標への準備をする。大学など教育機関の「高年カリキュラム」を受講したり、自治体の「地域生涯大学校」に学ぶことでキャリア・アップすることになるだろう。
こうした高年期の人生への準備期間として多忙な五〇歳代のはずなのに、現状の五〇歳代は「ポストレス」で活動の閑散期となっている。あまりにも惜しいではないか。
五〇歳代になって、企業の製品若年化・女性化によって職場で能力を活かす場がなくなりながらも、「自社製品の高年化」や「職場の高年化」が課題と心得て、次の目標を模索して過ごしている高年社員に、穏和なプロセスでの「社会の高年化」への移行の実感があるはずなのだ。  
「団塊シニア」
思い起こせば、「団塊の世代」(一九四七年~四九年生まれ)と呼ばれる人びとは、「中流・核家族」(一九六七年)や「昭和元禄」(六八年)や「エコノミック・アニマル」(六九年)などが騒がれた時期に成人となり、「大阪万博」(七〇年)を満喫し、「脱サラ・ゴミ戦争」(七一年)と「列島改造」(七二年)にとまどいながら競争と選択の渦中で「労働参加」し、さめた目で 「企業戦士」のしんがりをつとめてきた。だから五〇歳代をすごし終えるに当たって、「高年期」の自己目標を見出して納得して実現をめざすという方向転換にも柔軟に適応していくことができているだろう。
会社人間として「窓際族」に黙々と耐えているだけでは何も生じない。「パラレル・ライフ(ふたつの人生)」に折り合いをつけた暮らしが、穏和なプロセスでの「高年化社会」形成への参加なのだと自得するべきなのである。企業も高年社員の能力保持を支援すべき時を迎えている。市場開拓が期待される熟年むけ製品やサービスは高年社員によって実現されるからである。
これまで見落としてきたこの国の「地域」がもつ良さを探しながら、「パラレル・ライフ(ふたつの人生)」を過ごして高年期人生に道筋をつけること。一人ひとりがなお現役として活動をつづけ、穏和で安定した高年期への移行を成功させることに時代の要請があるのである。いまやおおかたの「団塊の世代」の人びとは、「団塊ミドル」から「団塊シニアへ」の移行を終えようとしている。 
「六〇歳代時めき人生」
「生涯現役」
 まだ世情では六〇歳代を定年・還暦後の「第二の人生」とか「余生」としているが、本稿では新たな暮らしの場を形成して経験や知識を活かした「第三期の現役生活」として認識している。蓄積してきた知識、経験、資産などを滞らせることなく活用し、「六〇歳代(シクスティーズ)時めき人生」として過ごすには、引きこもってなんかいられない。
「高年期の人生」を謳歌し「社会の高年化」を体現する。ことあるごとに「もう歳だから」とつぶやいてみずから力を削ぎ、老け急ぐのは何としたことか。五〇歳代の高年社員と力をあわせて「製品の高年化」や「職場の高年化」といった「企業内の高年化」にも参加する。高年期真っ盛りの時を迎えて、「秀(ほ)にして実らず」などということのないように、花が実となる時期にあって力を出さずに終わってなんかいられない。
 一〇年を超える不況の下でこわばってしまった巷の表層を割って入れば、同じ高年期にある人びとの多くは、「高年期のステージ」について語る同世代の人の熱い思いに必ず応じてくれるはずだ。なぜといって、あの大戦後の復興期の混乱と貧困をともにしのいで苦労してきた者同士なのだから。生き急いで「老成」にむかうことなく、みずからの持つ力を惜しみなく限りなく発揮して、目前に居座る手つかずの障害を乗り越えて、「高年期のステージ」の形成に努める昭和生まれの高年者を、ここでは敬愛の心を込めて「昭和丈人」と呼ぶ。ボルテージ(情熱の位相)を高めていえば、これから成熟期を迎える職域や地域生活圏のさまざまな場面で、「昭和丈人層」である高年者が「丈人力」を発揮することで形成していくのが「日本高齢社会」であるというのが、本稿の一〇年にわたる洞察によるゆるぎない結論なのである。自己目標の達成をめざす高年者の暮らしぶりは、その穏かな表情も、奥行きのある発言も、配慮の行き届いた行動も、青少年や中年者から羨ましがられるほどに魅力をそなえたものになるだろう。
七〇歳の「古希」を迎えても引き続いて職域・地域での役割を要請される立場にある人も多いだろう。「自己目標」がそのまま職域・地域にかかわるものであるなら、「生涯現役」としての道を歩むことになる。すでにこういう「七〇歳代(セブンティーズ)は生涯現役」コースをたどっている先達を周囲に見かける。 
*・*第四ステージからは意のまま人生*・* 
「高年後期は第四ステージ」
「晨星のような長命期」
おおよそのところ職域・地域での成果を後人に託しながら「自己実現の集大成」を果たすべく「高年後期(七五歳~)は意のまま人生」といった第四ステージを過ごす人びとも多い。このあたりからが人生の楽しみは定めに捉われることなく自ずからしてなるもの、つまりこれまで論じてきた「五つのステージ」とは多重の標準である「無為自化の人生」でもあるからだ。この老子のことばの意味合いはこの年齢までたどってきた人にとって、はじめて人生の達意のことばとして感得されるものだ。
「高年後期(七五歳~)」の階層の人生にかかわることなら、聖路加国際病院名誉院長で、みずからは百寿期に到達された「明治丈人」の日野原重明さん(一九一一・明治四四年~)の独壇場である。日野原さんは、六○歳からが「午後」の人生、とくに七五歳からの「高年後期」を創造的に意欲的に暮らし、自立した生き方を選択し、すぐれた文化を次代に引き継ぐ役を果たせる人びとを「新老人(ニュー・エルダー・シチズン)」と呼ぶことを提唱してきた。予防医学によって健康を管理し、リスク(危険因子)を避けながら積極的に生きる「新老人運動」の輪を広げている。「新老人」の活動エネルギーは、本稿がいう「丈人力」と重なる意味合いの表現と理解している。
そしてさらに誇るべきは「超高年(スーパー・シニア)期」ともいうべき「長命期」(本稿では八五歳~)を過ごしておられる人びと。明け方の空にいつまでも輝きつづける「晨星のような長命期」を迎えてこの階層となった「大正丈人」である方々は、一九四五(昭和二〇)年の敗戦には二〇歳から三三歳で遭遇し、奇跡ともいわれた戦後復興と成長の中核を担ってきた。熱い志を胸に秘めて、その道一筋に過ごしてきて、いまもなお多くの人びとが活躍しておられる。この「人生の第五ステージ」期にある先達の叡智に学ばなければ、国際的に注目される「日本高齢社会」の頂上(サミット)は成立しない。みずから主体者の列に加わって、未踏の「日本社会の高年化」の課題にともに臨みつづけてくれるだろう。 
「高年期三階層のステージ」
「尊厳とともに生きる」
「パラレル・ライフ期」(五五歳~)、「高年期」(六〇歳~)「長命期」(八五歳~)という「高年期三階層のステージ」を過ごしている高年者層の人びとが、家庭内・職域・地域で共有して形成する社会構造が「高齢社会」であり、この国独自の経緯をたどりながら存在感を示すのが総体としての「日本社会の高年化」の姿である。現状の世界標準である途上国主導である「若年・中年社会」が国際的に安定するように支援しながら、世紀中葉へむかっての国際的課題である「国際社会の高年化」を見据えて、先進諸国の高年者の人びととともにひとつ上の世界標準を成し遂げるために、「日本型モデル」を創出する。二〇世紀の奇跡といわれた「昭和時代」を担った人びとが、二一世紀初頭の奇跡といわれる「日本高齢社会」を、歴史的存在としての「昭和丈人層」として担う。すばらしい人生ではないか。
特別に変わったことをするわけではない。家庭内で、職域で、地域生活圏で、多種多様な経歴をもつ同世代の人びととの出会いを通じて、「人生の成熟」を実感しながら暮らすこと。愉快に日また一日を送れればそれでいい。
さまざまな分野で、それぞれの地域圏で、有名無名の水玉模様を形成して「高年期」を過ごして、若年層から敬愛を受けがら過ごすこと。「高年期三階層のステージ」をリンクして、だれもが高年者であること、さらに高年者になることに安心しつつ「尊厳とともに生きる」ことが実感できる社会をめざす。
「日本高年化社会」は、こうして全国の津々浦々に暮らす高年者の人びとのたゆまぬ営為によって成立し、世界平和へのメッセージとして国際的な評価を得ることになるだろう。それは「一生に一度行ってみたい国、日本」の成立を示す証しとなる。それは二〇世紀中葉の戦禍によって犠牲になった人びとのかなわなかった願いでもあった長寿の実現である。そこにいたるプロセスは二一世紀の「人類標準=ヒューマン・スタンダード」ともなりうるものである。
 

現代シニア用語事典 #9おわりに

#9おわりに
*・*「昭和丈人」のひとりとして*・*                            
「二〇〇〇年遡行の旅」
洛陽(ルオヤン)。
いまも現代都市として輝いている洛陽市には申し訳ないが、わたしが関心を寄せつづけたのは、歴史の底に輝く華夏文明の揺籃の地であり、周公旦が「土中」と呼んだ洛邑であり、何より二〇〇〇年ほど前の後漢時代に倭の奴国王の遣い(五七年)が、そして三国時代の魏に女王卑弥呼の遣い(二三八、二四三年)がはるばると朝貢に訪れた都、「日中交流の原点」ともいうべき古都としての洛陽であった。 
「二〇〇〇年遡行の旅」は、若い日からの志として、心の奥のあちこちに移動させながら持ちこたえてきた。「初志」というよりは夢の領域に近かったから、実際に果たすとなると何か特別の力が、それも内側からというより外から呼び覚ましてくれるような衝撃的な力が必要だった。
そんな衝撃的な力が何度もやってきた。契機はこれといって明確ではなかったが、何かの力に押されるようにして、中国中原の古都洛陽へ出奔した。一九九四年の秋、五五歳で、通い慣れた東京築地の新聞社を自主退社して、遠い日の夢であった「二〇〇〇年遡行の旅」を果たすことになったのである。 
「日中交流の原点」
「洛陽漢魏故城」
日本からの遣使がおとずれた故地「日中交流の原点」である洛陽を訪ねて、この国と大陸との関わりの原点に立つことで、大陸とこの国の将来を見はるかす糧を得るという漠とした目標を課しての出奔であった。
王朝が変わるごとに隆盛と繁華と衰微とを何度となく繰り返して、「九朝の王都」となったといわれる洛陽の、いまは「洛陽漢魏故城」と呼ばれている同じ地に、二〇〇年ほどを隔ててこの国からの遣い人が訪れたことはあまり知られていない。
朝貢を受けてくれたのは、漢王朝を再興した晩年の光武帝劉秀であり、三国時代の魏では曹操の孫の曹叡であった。蜀の諸葛孔明は四年前に五丈原の陣中で寿終の時を迎えていたが、司馬懿仲達は遼東の公孫淵を討ってなお健在であった。いずれも王朝の初期にあたり、首都は破壊後の建設途上にあってにぎわっていたころのことである。
くだって唐代になり、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という劉希夷の有名な詩が東都洛陽の花の季節に詠われたが、「歳々年々人同じからず」の中には、遣唐使として命がけで海を渡った阿倍仲麻呂や吉備真備や井真成らの姿も見られたことだろう。この詩の花はもちろん桜ではなく、洛陽の東郊に咲き誇った桃李の花であった。花の下で今を時めく「紅顔の美少年」に対して白頭の老が昔日の憶いを述べたものだが、いま洛陽郊外の花といえば、花もまた同じからずで、北郊の丘に春を誇るのは大輪の牡丹である。
あたたかく迎えいれてくれた洛陽外国語学院の外籍専家として滞在中の四月中旬、「花城」といわれるほどに街中が牡丹の花に埋もれる「牡丹花会」のころに、ふと「丈人」ということばと出会ったのだった。その時は力の篭もることばだというほどの印象で、異郷にいるわたしを力づけてくれたことばは、「樹大招風」や「単刀赴会」や「非常之人」のほうであった。 
「漢字文化圏」
「東アジアの大都市東京」
漢字の力は限りなく、測りがたい。四〇〇〇年余を使いこまれてひとつひとつ輝いている。 わが国の先人が移入して扱いはじめて約二〇〇〇年。時代の変遷とともに多重な意味合い(音訓の多様さ)を付与して使いこんできた。「漢字文化圏」に生まれ育った者として、東アジアの歴史と文化の揺籃の地に、高年になって降り立ったのだった。
といって五〇年余を過ごしてきた東京を、時空のむこうに忘れ去ったわけではなかった。
いまは城壁のほか何も残らない「洛陽漢魏故城」の畑中の道を歩きながら、倭国からの遣い人の姿を思い、邪馬台国からの難升米や都市牛利(どう読むのかわからない)を偲び、二〇〇〇年を遡行して中原の王城跡から漠として東方をみたとき、「東京」は奈良や京都に対応する東都であるとともに、北に「北京」(ベイジン)があり、南に「南京」(ナンジン)があり、西に「西安」(シーアン)があるように、東に当然あっていい「東アジアの大都市東京」(ドンジン)として多重化して意識されたのであった。かつて青年の日に、奈良や飛鳥の地をたずねて畑中の道を歩きながら東京をみたとき、日本の歴史が漠として納得されたのと似ていた。 
「天命を革めて立つ」
「侵略者の蛮行」
それとともに、この中原の地に繰り返されたいくつもの王朝のようすが思われた。ひとつの王朝(長くて約三〇〇年)が衰亡期を迎えるたびに、穏やかに「禅譲」する場合もあり、前王朝のすべてを破壊し夷平しつくして「天命を革めて立つ」こともあり、あるいは武威をもって北方から踏み込んだ異民族が漢化することによって蘇ることもあった。後者の例には鮮卑拓跋族(北魏)や蒙古族(元)や満族(清)があり、それと重なって、二〇世紀前半の日本の軍事行動が「侵略者の蛮行」の繰り返しとして理解されたのだった。
だから両国の長い関係の中でまことに不幸なことだが、近代騒乱期に中国に踏み込んだ日本軍によって引き起こされた「盧溝橋事件」(一九三七年七月)と「南京事件」(同年一二月・中国では南京大賭殺)とは、新たな政権(中華人民共和国)からは、侵略者の蛮行として末長く非難されつづけざるをえない事件となっている。同じ時期に、さまざまな分野でなされていた穏和で文化的な日中交流の経緯を覆ってしまった蛮行は、蛮行として率直に謝罪をしつづけながらも、侵略の非難はむしろ先行してアジア諸国を席捲した「欧州列強」の営為に対してこそ向けられるべきものであり、日中韓国が力をあわせて明らかにする事業が、東アジア史の課題として残されているのである。 
「敵人の砲火」
「国際的ルール違反」
新世紀の東アジア安定の要である日中国民がお互いに信頼し合うためには、中国国歌にうたい込まれている「敵人の砲火」がだれによるものかを忘れ去ることができるほどに、冷静に親密に対応しつづけねばならないのに・・、と洛水の河畔をそんなことを考えながら歩いた。
何よりも「盧溝橋事件」や「南京事件」を繰り返し思い起こさせるのが、A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝である。すべての戦争犠牲者の冥福と平和を祈るという理由での参拝は、国際ルールとしては成り立たない。盤上で争うすべての駒を生かそうとする「日本将棋」のルールを人道的として自認することで、敵対した駒を盤上からきびしく抹殺する「中国象棋」や「チェス」のルールを無視することになる。「誤解にもとづく」などといってすむことではない。子どもすら納得させえない「国際的ルール違反」なのである。
同じ場所(中原や中国)に勃興しては衰亡することで重ねられてきた歴史(正史)が、王朝の断代史であることの厳しさは、A級戦犯を断罪できない日本の国民性からは、良くも悪くも理解がむずかしい。
「二〇〇〇年遡行の旅」へとわたしを押し出した力が何であったのかは世紀を越えたいまも定かでない。が、華夏文化の発祥の地であり、この国との関わりの原点ともいうべき「洛邑土中」の地に立たなければ得られなかったもの、それは「東アジア」の来し方をさかのぼることで、将来にむけて平和裏にこの国がなすべき漠とした役割であった。「平和憲法」の堅持そして世紀末に還暦とともに「国際高齢者年」を迎えたことで、この国に綺羅星のように輝く「現代丈人」である人びととともになすべき事業「日本型高齢社会」形成への確とした信念であった。十年をかけて推移を観察しつつ本稿をまとめた力もまたそこに起因する。 
*・*津々浦々の「丈人」である人とともに*・* 
「日本列島総不況」
「綺羅星のごとき人びと」
中原の古都洛陽での暮らしから戻ったのが一九九八年の秋で、折り返してまた出かけようと思っていたところが、さして長くはないタイム・トンネルを抜け出てみた、幹とも頼むこの国のようすがどうもおかしい。「日本列島総不況」がいわれたころで、幹がやわになってしまっては、海外に張った小枝に葉を茂らせ花を咲かせようにもむずかしくなる。春まで持ちこすことにして、とこうするうちに厳冬期をすごして九九年春の訪れ。四月には寒い春にこごえるように桜が咲いて、侃侃諤諤の都知事選挙が争われたのだった。
そのころしきりに、さまざまな場で出会った先輩が思い出された。洛陽で東の空にみた「あの「綺羅星のごとき人びと」は、いま何をしているだろう」と思ったのである。 
「国際高齢者年」
「年たけてまた越ゆべし」
有名であるよりも無名であることにこだわり、個人の利よりも共同作業をする人びととの益を願う人びと。いろいろな分野で業績を残して後輩に後をゆだねて、なお余力をもったまま引退していく先輩を送るたびに感じたことは、この優れた人びとを失って、自分たちでこれからの難局を抜けられると思ったら、後進としてはあまりにも不遜ではないかということだった。
疾風怒濤のような「昭和時代」を生き抜いてきて、新世紀を迎えてなお健丈にすごす高年者のみなさんには、歴史の舞台から去りゆく前になすべきことがあるのではないか。
一九九九年はすでに記したように「国際高齢者年」であった。その年から「還暦期」にはいったわたしは、この優れた人びとによって国際的に誇れる「日本高齢社会」の形成が可能に思われた。それは、駆け抜けてきた半世紀の「昭和時代」に心なくも失ってしまった良き風物を再生し創生すること、後人の資産となるような「地域の四季」が息づく特徴のあるまちづくり、「わが土中の地」に立って生きて実感できる地域生活圏の姿として。 
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや」
とつぶやきながらも、みなさんは人生の第三期の「丈人力」を奮い起こしてこの山を越えてくれるにちがいない、という楽観的な信頼があったからである。それは未踏の領域へ踏み出すようなものに思われた。そんな活動に「昭和丈人」のひとりとして参加するというのが、わたしの高年期での目標となった。 
「日本型高齢社会」
「日本丈人の会」
一九九九年の「国際高齢者年」から十年。経緯をみていると趨勢はなお逆方向に動いている。本稿は世紀をまたいで長い模索の時を過ごすことになったが、なお「滄海の一粟」の思いがする。本稿の趣意が同時多発であることを願いながら、ここに「高年期」人生論であり「高年化」社会論として、一石を投ずることになった。一々には触れないが、その間、土壌をやわらげてくれた先人の著作や、いくつもの水脈の在りかを伝えてくれた同僚の報道記事やアドバイスや、何より先駆して行動をおこしてくれている各界のみなさんの「現代丈人」としての営為に勇気づけられてきた。
新世紀に入って、民意を問う総選挙が二〇〇三年一一月九日に、〇五年九月一一日に、〇九年八月三〇日におこなわれたが、どの政党の政策にも明確な「高齢社会」への構想も契機も見出すことができない。
だから高年者層が何かを要望して参加した国政選挙とは思えない。趨勢はさらに逆方向に動こうとしている。世代交代を叫んで呼集される新人議員や女性議員に多くを期待するわけにはいかないし、二世議員を中心にした若手リーダーの視野は狭く、ことばは貧しい。
みずからが動かなければ高年者は危うい。これが最良でありすべてといえるわけもないが、十年の観察期間をへてえた本稿を契機としたい。そして「津々浦々の現代丈人」であるみなさんとともに、見定めえない二〇二〇年ころの「日本型高齢社会」の姿を見据えながら、ここに「日本丈人の会」のもとにひとつの旗幟を掲げて立つこととした。
どこまでいっても完結することのない課題を負った本稿だが、みなさんとはどこかの「丈人の会」でお会いすることになるだろう。 
「おわりにの終わりに」
ここまで飛び跳びにでも読んでくれた人には「おわりに」だが、初めにここを読んだ人には「はじめに」となる。が、どちらからでもよいのは、これが哲学書(ものを考える参考書)だからである。「どう生きる」「こう生きる」という見出しからそれに気づいた人もいるだろう。どうしたら自分で、家庭で、職場で、地域で、「満足」と納得する暮らしができるか、を考えて実行する糧となればいい。ここでページを閉じる前に、いくつかの項目を拾い読んでほしいと思うのである。