友好都市・港が絆-三方に開く海を恵みに

三方に開く海を恵みに

下関市と青島市(山東省)  

下関は、古くから開かれた大陸への門戸であった。また水産業での深い関連もあって、早くから官民一体で日中友好促進の活動に取り組んできた。すでに一九七四年と七七年には下関市訪中団を派遣している。

そして七九年五月に「友好の船・明華号」が訪日の折り、最初の寄港地となったのが下関だった。訪れた中日友好協会会長である廖承志団長から、青島市との友好都市提携の正式な呼びかけがあって、締結へと進むことになった。知日家の廖承志団長の意中には、赤間関市(下関市の旧名)と青島市とのあざやかな色同士の配合もあったかもしれない。

両市の友好都市議定書の調印式は、七九年一〇月三日、下関市に青島市友好訪問団を迎えて、市民会館でおこなわれた。劉衆前革命委員会主任(市長)と泉田芳次市長が議定書に署名して交換した。下関市の泉田市長は、
「関門海峡の水は膠州湾からうちよせたもの」
と、国境を越えた両市の近くて密接な絆を強調し、訪れた劉市長に国際親善名誉市民の称号を贈り、両市の友好交流への熱意を示した。その後、八二年八月には山東省と山口県の省県友好提携も成立している。

下関市は、本州と九州の結節点であり、源平の合戦や明治維新といった歴史の転換期の舞台となってきた。一八八九年に初の市制による三一市のひとつ赤間関市として誕生した。九七年には「日清講和条約」(下関条約)の締結地になった。一九〇二年に下関市と改称した。吟詩の人なら知らないもののない伊形霊雨の「赤間関舟中」には「碧海遥かに回る赤間関」とある。フグ、アンコウの水揚げは日本一である。人口は約三〇万人。

青島市は、山東半島の西南に位置する沿海開放都市である。二〇世紀初頭にドイツ統治下にあって形成された街並みがいまに残る。「赤い瓦、紺碧の海、真っ青な空、緑の樹」の美しい町並みは観光客を楽しませている。毎年八月に開かれる青島ビール「国際ビール祭り」(二〇〇三年は一〇〇年記念だった)は青島の夏の最大イベントとなっている。経済技術開発区には内外の進出企業も目立つ。人口約七〇〇万人。 

提携後の友好交流は、市代表団の相互訪問、青年研修団(八一年から)や小・中学生(九〇年から)の派遣、市職員の相互受け入れなど。SARS募金(〇三年)で医療機器を寄贈、国際フォーラム、青島物産展、八九年の下関市市制一〇〇周年記念中国青島市博物館所蔵「明清書画名品展」などもおこなわれている。八〇年に初就航したフェリー「ゆうとぴあ」が週二便(所要時間は下関―青島二八・五時間)就航している。

二〇〇四年一〇月九日~一五日には、青島市で「青島日本週間」が開催された。「投資、ビジネス、生活、観光」をテーマとしたもので、この年の開校しあ青島日本人小学校の生徒によるソーラン踊りは人気を博した。JASCO(佳世客)での「日本商品展示会」は大賑いとなった。つづいて一〇月一八日には、下関・青島両市の「友好都市二五周年記念式典」がおこなわれ、晩餐会では和太鼓・三味線に合わせて江島潔・夏耕両市長をはじめ関係者みんなが加わった「平家踊り」が友好を実感させるセレモニーとなった。お茶・いけばななどの文化交流展や記念植樹のほかに、親善ヨット競技大会も青島江泉湾海域で実施した。

この会場は、〇八年の「北京オリンピック」ではヨット競技の会場になった。(二〇〇八年九月・堀内正範)