三更半夜
さんこうはんや
年度末の東京の夜は明るい。とくに霞が関界隈では深更までしごとをしているからだといわれた。
旧暦では日暮れから日の出までを五つの刻みにわけて初更~五更と呼ぶ。すると三更が真夜中であり半夜でもあることから「三更半夜」といわれ、いわゆる午前さまである。
宋の塩鉄税の徴収官であった陳象輿と財政官であった董儼らは、夕方から趙昌言の屋敷に会して、深更まで熱心に談議していたという。それで都の連中からは「陳三更、董半夜」といわれた。
晩唐の詩人李商隠の「半夜詩」にあるように、「三更三点萬家眠る」という寝静まった長安と違い、宋都の東京開封(「清明上河図」に画かれる)は深夜まで夜市で賑わった。それでも能吏に三更まで税徴収の談議などされたら、おちおち眠れない者もあったであろう。
冬の夜の霞が関。かつての国土発展の予算配分ではなく、増税や予算を減らす「三更半夜」の明かりだと思うと寒さがつのる。
『宋史「趙昌言伝」』から