薬がもうひとつの絆
富山市と秦皇島市
中国の北境に、東西約三五〇〇キロ。延々と横たわる「万里の長城」という巨龍が、東の端で渤海に入る。その「龍頭」に当たるのが秦皇島市である。いまは半島であるがかつては小島だったという。
紀元前二一五年、秦の始皇帝は、東遊の折りにここにきて、海中の神山に長生不死の霊薬を求めた。天下を極めた皇帝として、大地の極まったこの地で、海中に不老不死の霊薬を求めた事跡はあったのだろう。命を受けた徐福は、三千人の童子と百工と伴って海中に浮かぶが、ついに不死の霊薬は得られなかった。
徐福にちなむ伝説は佐賀市、新宮市、富士吉田市、いちき串木野市などにあるが、富山市には聞かない。が、始皇帝の事跡と名は市名となって長く残ることになり、長生不死の霊薬はここで富山の薬と出会うこととなった。
富山市は、江戸時代いらい薬業や和紙などの産業が奨励され、とくに「越中とやまのくすり」は全国に知られた。薬をあずけて使った分の代金を後に受けとる「先用後利」の家庭配置薬は、新しい薬がいつも使える状態で詰まった薬箱として、全国の家庭に安心感を常備してきたのだった。
富山市と秦皇島市を結んだのは、一九七九年五月に「中日友好の船」の団長として富山市を訪れた廖承志中日友好協会会長であった。富山市長から友好都市としてふさわしい都市の紹介の申し入れを受けて、廖承志会長が選んだのが秦皇島市だった。
知日家だった廖承志会長のことだから、とやまの薬と始皇帝の仙薬の絆まで考えただろうが、港のある産業都市として規模が似ているというのが第一の理由だった。七九年一〇月の市制九〇周年式典には秦皇島市代理として大使館員が参加した。八〇年五月には市長を団長とする「日中友好富山市民の船」の三五九人が秦皇島市を訪問した。
両市の友好都市締結の調印式は、一九八一年五月七日、秦皇島市使節団を迎えて富山市でおこなわれ、改井秀雄市長と許斌市長が議定書に署名した。五月九日には市公会堂で、二三〇〇人の市民が参加した「日中友好富山市民の集い」が開かれている。
秦皇島市は、南に渤海に臨む港湾都市で、大慶油田からの石油や石炭の積み出し港。また東北と華北地区を結ぶ交通の要。北京市、天津市に近く、長城東端の山海関や有名な避暑地、北戴河がある観光都市でもある。北戴河は、毛沢東や鄧小平時代までは、七月に重要な非公式会談がおこなわれて注目されたが、現政権指導者は公開性を損なうとして避けている。港湾施設、投資環境に優れており、欧米、日韓などからの企業進出も盛ん。人口は約二七〇万人。
富山市は、北陸道、飛騨街道や北前船航路などの交通・物流の要衝として栄えた。いまも「共生・交流・創造」のまちづくりを推進する中核市である。四月の全日本チンドンコンクール、八月の富山まつり、一〇月のとやま味覚市、年末のとやまスノーピアードなど、年間を通じた観光にも力を入れている。環日本海交流の活動も。人口約四二万人。
両市の友好交流は、市代表団、経済視察団の相互訪問をはじめ、各分野の考察団の来訪、とくに農業や医学を中心に工業・日本語・商業などの研修生の受け入れ。友好病院、医療技術友好訪問団派遣、医療機器贈呈(一〇周年)、救急車の贈呈もおこなった。トレードフェアでの市紹介、物産展。子供の作品展、中学生の友好訪問。ゲートボール友好訪問、芸能公演、卓球交流など年々、着実に推進されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)