「一言九鼎」(いちごんきゅうてい)
トップリーダーである人の発言が軽すぎはしないか。仔細に配慮して心に響くことばによって国民に安心を与え鼓舞するのが務めであり、その逆に国の内外で混乱を増幅するような発言をするようでは資格を問われることになります。
「一言九鼎」(範浚『香渓集・一八』など)というのは、将相たるものの一言は国家を象徴する宝器である「九鼎」の重みにも当たるという意味です。それだけの影響力を持つことばを常に心底にとどめて発言しなければならないのです。
「鼎」は三足をもつ器で、宗廟への供えものを盛ることから礼器となり、禹王が九州(全土のこと)から集めた青銅によって鋳造したと伝える「九鼎」は、古代王朝の王権の証とされました。いまでも「鼎の軽重を問う」(問鼎軽重)というと、大きなしごとをこなす実力の有無を問う場面で使われています。将相には「一言九鼎」の表現力が求められ、それに値する人物でなければ任に堪えないのです。
「山中宰相」(さんちゅうさいしょう)
都から離れて山中に「隠居」して出仕しない賢人をいいます。とくに王朝の衰退期には、優れた人物は政権の中枢には近寄らないで身を処したことから。それでも朝廷から丁重に諮詢されれば、きちんと対応をしました。それを都の人びとは敬愛をこめて「山中宰相」(『南史「陶弘景伝」』など)と呼びました。
南朝梁(都は建康いまの南京)の陶弘景の場合は、みずから華陽隠居と号して山中の館に篭もり、皇帝(粱の武帝)から礼をつくして招聘を受けても茅山の館からは出ませんでした。30歳代に致仕して以後、門弟たちに囲まれて医薬、道学などを講じ、琴棋書画を愉しみ、80歳余まで「山中宰相」でありつづけました。
「戦後日本」の形成に参画し、成果を後人にゆだねて退き、歴史・文化・伝統などに精通しながら「山中宰相」と呼びうるような暮らしをしている優れた先人から学ばずに、現代の政界人自身に何ができるというのでしょうか。
「賢妻良母」(けんさいりょうぼ)
日本では「良妻賢母」です。8・15「終戦記念日」に心から黙とうをささげる老いた女性の姿。戦場で兄や夫を失って以後、女性が「銃後」を支えてきたのです。中国では「賢妻良母」(馮玉祥『我的生活』など)といいます。この語順の違いに両国の女性観や女性の果たしてきた役割の違いがこめられている四字熟語なのです。
日本の場合は、明治維新のあと西洋から帰った啓蒙家が女子教育の指針としました。「富国強兵」で働く男子を支えて内助に努めて「良妻」となり、子女を薫育して「賢母」となる。初代の文部大臣森有礼は「良妻賢母教育こそ国是」といっています。
中国の場合は、日本に留学した康有為や梁啓超が「賢母良妻」教育として移入したのですが定着しませんでした。男女がともに働き、ともに子育てをし、平等の社会的役割を果たした革命中国では、自立意識を持つ「賢妻」であり優しい「良母」となることが志向されました。両国とも「賢良な妻と母」を必要としたことは確かです。
「雨過天青」(うかてんせい)
雨が去って雲が切れて、見る間に広がってゆく晴れやかな青空。世情を暗く覆い尽くしていた弊風を打ち破って、天命を革めて新たな時代を実現しようとして立った英傑のひとりが、五代後周の創成者、世宗柴栄でした。
その後「雨過天青」は、厳しい状況が大きく好転することの例えとされ、暗澹とした気分を吹きはらったあとの爽快な心情を伝えることばとなっています。「デフレーション(萎縮)」状態を脱して好況を呼びさまそうという「アベノミクス」がすべての国民にとってそうなるかは、国民の共感次第です。「雨過天晴」ともいいます。
柴栄は商家の出で、茶を商ったこともあったといいます。みずからの柴窯での磁器焼造にあたって、苦しい境涯の好転を願う思いをこめて、明朗な「雨過天青」(謝肇淛『文海披沙記』から)の釉色の器を求めたのでした。その願いは次の宋代に引きつがれ、官窯が焼造した「宋の青磁」は時代を画する逸品となりました。