友好都市・歴史が絆-日中韓交流の回路を開く

日中韓交流の回路を開く

唐津市と揚州市(江蘇省) 

唐(大陸)に渡る津(みなと)という名をもつ唐津市には、長い間かかって先人が培ってきた外向的な気風が市民の間に息づいている。日中友好都市の交流や環黄海圏域の国際交流にスムーズに対応できるのは、そういう「草の根交流」の伝統が生きているからだろう。これまでに揚州市のほか大連旅順口区(交流意向書締結)、韓国の麗水市や西帰浦市(済州島)との交流も市民ぐるみで培われてきたものである。

日中友好都市の提携に際しても、国交正常化以来、中国のいずれかの都市との友好関係をむすぶため、行政の枠を越えて市・市議会・市民による訪中団を結成し、一九七八年からは四次にわたって代表団を派遣して、自主的に候補市探しをおこなった。

その結果、文化遺産と風光美との調和を図りながら生産都市としても発展するというまちづくりに期待して選んだのが揚州市であった。とくに鑑真和上の生誕地であるとともに日本との交流の深いつながりがあり、独自に選んで積極的に締結の交渉をすすめたのだった。

そして国交正常化一〇周年に当たる八二年二月二二日に、瀬戸尚市長ら代表団が揚州市を訪れて、祝志福市長との間で友好都市締結の議定書を交わした。

揚州市は、二四〇〇年前の春秋時代から知られ、隋の煬帝が黄河と長江を結ぶ大運河を造り、ここに離宮を置いたことから水運の拠点として栄えた。京杭運河が長江と交わる地点の北岸に位置している。かつて海路をたどった遣唐使が、南方の海岸にたどり着き、のちに西方の長安市や洛陽市などへむかう途中に必ず滞在した歴史文化都市であった。鑑真和上はここで生まれ、出家し修行し、のち日本を知り、留学僧の要請に応じて渡海したのだった。

文化事業である書画、琴、戯曲、工芸技術、造園、盆景などで揚州は一派をなしている。漆器、玉器、剪紙、刺繍が名産品。古運河、鑑真記念堂がある大明寺、何園など名勝古跡は数多い。人口は約四四〇万人。

唐津市は、佐賀県の西北部に位置し、玄界灘に面した城下町である。日本三大松原のひとつ虹の松原が知られる。天正年間に豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地として名護屋城を築いた。また港から送り出した伝統工芸の茶器「唐津焼」は有名で、九州では陶器を一般に唐津もの(瀬戸ものと同じ)と呼ぶほど。勇壮華麗な一四台の曳山が巡行する「からつくんち」は、国の重要無形文化財である。二〇〇五年一〇月一日に合併して、人口約一三万人の唐津市になった。

主な友好交流は、両市の友好都市訪問団をはじめ、食品加工、水産、調理、医療、農業、縫製技術ほかの分野の研修生の受け入れ。中学生交歓、囲碁交流、児童書画展、日本舞踊と揚州人形劇の交換公演、花火競演、「煙花三月祭」「美食節」への参加、大型バスなどの車両の贈呈、「揚州友好会館」の開設支援などがある。 

唐津市が、国際交流事業で官民一体となって力を入れているのが、日中韓の三都市交流である。九三年から唐津市、揚州市、韓国の麗水市が持ちまわりで「三市長会談」を開催している。職員の相互派遣や共有文化である囲碁の「日中韓囲碁交流大会」などを通じて、たやすくはないが玄界灘の荒波を越えて、唐津の名にふさわしい日中韓交流の成果を着実に実現している。

二〇〇七年は二五周年にあたり、四月には坂井俊之市長らが訪れて揚州市で、一一月には揚州からの友好訪問団をむかえて唐津市で記念式典がおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)