友好都市・港が絆-新亜欧交流の東の起点

新亜欧交流の東の起点

堺市と連雲港市(江蘇省)  

ピラミッド、秦始皇帝陵とともに「世界三大墳墓」のひとつに数えられるのが仁徳陵古墳である。
仁徳陵を中央にかかえ、大阪湾に面する堺市。そこから同緯度を西にたどって約一五七〇キロ、黄海に面しているのが連雲港市である。

紀元前二一〇年ころ、徐福は、始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めて、童男童女(未婚の若者)や百工(技術者)を連れ、五穀の種子を携えてこの国にやってきた。薬は得られず、各地にさまざまな技術を伝えたとされる徐福の生地が連雲港といわれる。
徐福伝説のある地は二〇カ所にも及ぶが、堺市にはそれにちなむ行事はない。が、弥生時代の集落遺跡や仁徳陵をはじめとする古墳群の存在は、当時の大陸からの人的・物的な影響を強く受けずにはありえないものだろう。仁徳陵と秦始皇帝陵というふたつの巨大陵墓をつなぐ人物徐福の実在は、堺市と連雲港をつなぐ絆を太くした。 

その連雲港を起点として、鉄道はもうひとつの大墳墓「秦始皇帝陵」がある西安市をつないでいる。その先さらに西方のオランダまで、全長約一万九〇〇キロの「ユーラシア・ランド・ブリッジ」(新亜欧大陸橋)が通じている。二〇〇四年には高速道路が貫通して、道ははるか西方の第三の大墳墓、エジプトの「クフ王ピラミッド」へと連なる。歴史の大ロマンにはちがいない。
連雲港市は、亜欧ルートの東端であり、堺市はさらにその東の起点となる。 

日中国交が回復して友好交流が広まるなか、堺市では同緯度にあって中国八大重要港であり工業都市を擁するという類似性から、連雲港市との友好提携への機運が高まった。一九八三年四月に堺市友好訪中代表団が連雲港市を訪問、さらに一〇月に堺市友好訪中視察団が訪れて友好交流、調印について協議をおこなった。
そして一二月三日、連雲港市何仁華市長ら代表団が友好都市提携の式典に臨み、堺市の我堂武夫市長とともに議定書に調印した。 

連雲港市は、「沿岸開放都市」として、めざましい発展を遂げている。北京と上海とを南北につなぐ物流の要衝ともなっている。歴史上の人物、徐福の生地はいま徐福村になっている。孫悟空の誕生にちなむ花果山は観光名所である。人口は約四六五万人。 

堺市は、人口約八〇万人。すでに中世に「自由・自治都市」として「ベニス市のよう」(宣教師ビレラ)と報告されたように、早くから都市経営と海外交易の先端に立ってきた。戦国時代に自由人として死を賭して茶道を完成させた千利休を生み、日露戦争に際して「君死にたまふことなかれ」と詠った与謝野晶子を生んだ堺の街は、平和を願う民の心を潜在させている街である。

友好都市提携の一五周年に当たった九八年には、交流の拠点として連雲港市に「中日友好会館」を建設した。二〇周年の〇三年一〇月には、市長と代表団が相互訪問して両市で記念式典をおこない、太極拳の競演や胡弓と琵琶の競演などで交流を深めた。
八三年九月に提携と同時に発足した堺日中友好協会は、友好訪中団や技術者・経営管理者の派遣、各種研修生の受け入れ、京劇公演、書画展、中国語教育、スポーツ大会など、市の活動の中で重要な役割を果たしてきた。二〇周年には連雲港市を紹介する経済セミナーと徐福伝説の研究を発表する文化セミナーも主催した。(二〇〇八年九月・堀内正範)