友好都市・人物の絆-船頭伝兵衛と喜兵衛

船頭伝兵衛と喜兵衛 

気仙沼市と舟山市(浙江省)   

気仙沼の回船「春日丸」は、塩鰹、昆布、葉煙草などを積み、船頭伝兵衛ら一三人が乗り組んで銚子港へとむかった。一七五二(宝暦二)年一二月五日、いまから二五〇年ほど前のことである。 
船は折からの烈風に遭って四カ月ばかり漂流をつづけ、舟山列島の花山(現在の舟山市桃花島。上海の南方約一三〇キロの小島)にたどりついた。伝兵衛たちは舟山の人びとの救護と手厚いもてなしを受け、一年半ほどのち長崎を経て無事に故郷へ戻ってきた。気仙沼の人びとの喜びはいかばかりであったか。

「精神つかれ、人力既に尽きて、船頭伝兵衛をはじめ十三人の者、いかんともすべきようなく、船中に臥して泣き悲しみけるとや」(南部藩古文書)

この事実が『船頭伝兵衛漂流記』によって世に知られることになり、伝兵衛の八代後裔であり、気仙沼で水産業を営む佐藤亮輔氏らが一九九二年に舟山市を訪れることになった。二百四十年前の先人の恩義に謝意を表したことが現地のメディアで伝わり、気仙沼市と舟山市の親密な関係が深まった。
地元の史家西田耕三さんの調べによると、もう一艘、一八四一(天保一二)年一〇月七日に、船頭喜兵衛ら八人を乗せて江戸へむかった「観音丸」も、舟山にたどりつき、同様の救護ともてなしを受けたという。

舟山市は、上海市の南方、杭州湾の東に広がる一千余の島々からなる。水産業の基地としては中国屈指の規模を誇っている。また観音霊場「普陀山」には三〇余の寺廟が点在し、春には雲霧の仙境が、秋には東海の日の出が絶佳とされて、訪客が絶えない観光地でもある。

気仙沼市は、人口六万余。三陸の沖合漁業の拠点から、いまや世界の海へ出漁する遠洋・沖合漁船一三〇余隻を有する全国一の船籍港となっており、「国際水産文化都市」を標榜している。中国やインドネシアなど市在住の外国籍の人びとの支援を目的とする「小さな国際大使館」が設けられ、困りごと相談や日本語指導、交流イベントなどで応援している。

ともに水産業を基盤とする両市の交流は、気仙沼漁協が舟山市の漁業を視察した一九八六年三月に始まる。九二年六月には彭国鎮市長が訪れて魚市場や加工施設を見学、市主催の歓迎会に出席した。九五年には舟山市に「友好記念碑」を建立した。そして九七年一〇月八日、鈴木昇市長が訪中して、王輝忠市長との間で提携の調印が行われたのだった。
その後、代表団の相互訪問や水産加工技術の研修生の受け入れ、小・中学校の作品交換など、行政、産業、教育、文化といった幅広い分野での交流を進めている。友好都市の提携以来、舟山市から毎年六〇人を受け入れていた水産加工技術の研修生は四〇〇人を越え、若い人びとの交流を生んだが、交流と実務の両立がむずかしいことから、市の交流事業としては七期生までで中止された。

舟山の漁民が日々の生活を描いたのが「漁民画」である。気仙沼市が「舟山漁民画館」を開設するにあたって館名を揮毫した平山郁夫日中友好協会会長も、「素朴で暖かさが溢れていて、漂流民を救護してくれたかつての舟山の漁民たちと同じ人間愛が見られる」と評価している。
海に挑んで町の歴史と伝統を築いてきた無名の人びとを絆とする友好都市提携は珍しい。船頭伝兵衛や喜兵衛のような先人が残した絆こそ、地から地へ、人から人へと語り継ぐにふさわしい。(二〇〇八年九月・堀内正範)