風雲流離のひと郭沫若
市川市と楽山市(四川省)
激動の革命期を乗り切った一九五五年、郭沫若(中国学術文化使節団団長)は、かつて亡命して一○年をすごした市川市須和田に残る旧居を訪れた。近隣の人びとの変わらない情愛に触れ、ありし日の姿を懐かしみ、身を死地に処する覚悟で去った日を、
「ひそかに思うに我は帰るを得で あるいはこの地に葬らるる身とならむか」(長詩「別須和田」)
と万感の思いをこめて想起する。
郭沫若は、一九一四年に日本に留学した。一五年から第六高等学校医科(岡山市)にまなび、その間に安娜(佐藤富子)と同棲した。二三年には九州帝国大学医学部(現在の九州大学医学部)を卒業して帰国したが、難聴が理由で医学を捨てて、文学の改革や政治活動の道をたどることとなった。
そして二八年に国民党政権に追われて家族とともに日本へ亡命する。上海時代の知人村松梢風に紹介されて仮寓の地となったのが、東京と川ひとつ隔てた市川だった。憲兵や刑事が常に監視の目を光らせる中での滞在であった。
異郷の地の「斗室」(小さな室)に篭ってまとめあげた『中国古代社会の研究』など三部作は、唯物弁証法による方法論と堅実な分析が中国古代史を読み解く実践的手法を示すこととなり、上海で出版されると知識層の支持を得た。
しかし時代はなおも暗転する。
三七年七月七日に華北で事変(盧溝橋事件)が勃発したのである。国家と民族が危機に瀕している、一身を顧みていられようか?
七月二五日の早暁、郭沫若は心を鬼にした。妻の安娜、和夫、博そして末っ子の志鴻まで五人の子に置き手紙をしたためて、市川の家を出た――。
郭沫若のふるさと楽山市と亡命の地であった市川市を繋いだのは、長男の郭和夫氏だった。七九年六月に市川市を訪れた際に、友好都市提携の希望を聞き、帰国したのち、郭沫若の生誕の地である楽山市を推薦した。
八〇年四月には、市川市議会議員訪中団が楽山市を訪れて、市川市長の親書を手渡し、提携の意向を伝えた。両市の友好都市提携の調印は、八一年一〇月二一日に、楽山市友好代表団を市川市に迎えて、薛万才市長と高橋国雄市長によって行われた。
楽山市は、四川省中央部にあって、長江水系の三つの河が合流する地点にあり、成都や重慶を結ぶ交通の要衝として栄えた。「峨眉山と楽山大仏」はよく知られた世界遺産である。峨眉山は仏教聖地で万仏頂は標高三〇〇〇メートル余。途中に明代以後建立の寺院が残る。楽山大仏は八〇三年に完成した磨崖仏で、像高五九メートル余は残存する磨崖石仏では最大である。楽山市の人口は約三五〇万人。沙湾という、大渡河に臨み峨眉山を望む町が、郭沫若のふるさとである。
主な友好交流としては、川劇・民族歌舞団の公演、レッサーパンダの贈呈、梨栽培や都市建設技術研修生の受け入れ、「中日友誼学校」(沙湾区)の建設、毎年交互に行われる高校生の親善使節などがある。
市川市は、万葉集の真間の手児奈で知られる。近年は都心に近く東郊の風光明媚な地として文人に愛されて、北原白秋、幸田露伴、永井荷風なども暮らした。人口は四五万。
二〇〇一年の二〇周年には「郭沫若写真展」を開催、〇四年の市制七〇周年を記念して、市川市は「別須和田」詩碑(郭沫若の自筆・六七年に建立)と旧居を移築した「郭沫若公園」を開設した。(二〇〇八年九月・堀内正範)