四字熟語「蝿頭微利」「各有千秋」「明日黄花」「猫鼠同眠」「来日方長」

「円水社+ 四字熟語の愉しみ」 連載中

「来日方長」(らいじつほうちょう) 2013・10・30

黒姫に居をかまえるC・W・ニコル(73)さん、熊野の山里に住むE・ハンソン(74)さん、そしてD・キーン(鬼怒鳴門、91)さん。それぞれに「来日まさに長し」の日本国籍をもつ知名人です。

こういう「来日」の読み方で、山東省の臨海都市のひとつ日照市(室蘭市の友好都市)は、わが日照市に来れば人は健康で長寿になり、投資企業は末長く発展しますと「来日方長」(汪由敦『瓯北初集序』など)を市の紹介と産業招致に用いています。

そこで、わが日本に来れば親しいオモテナシを受けて、順調に活躍しつつ長生きできますよ! と世界一の長寿国として、世界中の優れた技能者や教養人に長期滞在を呼びかけたらいい。それが来たる日々を豊かで明るい展望を持って過ごせる定住から永住につながる広報となり、三氏のような日本を日本人より良く知る人びとがいる国際文化立国にむかって、本来の「来日まさに長し」を示すことになります。

猫鼠同眠」(びょうそどうみん) 2013・10・23

猫と鼠がいっしょに眠る「猫鼠同眠」(『金瓶梅「七六回」』など)というのはありえない情景です。あればネコのほうに問題があることを示しています。これは王朝内では「猫鼠同処」(『新唐書「五行志」』など)ともいわれて、官吏の職務怠慢を戒めることばとして、しばしば使われてきました。

「猫鼠同眠」は今でも見られて、片目を開いて片目をつぶって製品検査をすることでの「互利互恵」がそれに当たります。とくに食品や医療部門の製品での管理者と被管理者の「灰色の黙契」によって問題が発覚すると、「猫鼠同眠」として騒がれることになります。「トムとジェリー」(猫和老鼠)でみるように、善悪より先に敏捷性も問題の要因で、警察官が犯人を捕えられないこともこの類ということになります。

さて十二支に猫がいない理由は、中国では歴代見られる猫的官吏が避けたのかもしれません、なぜなら漢字文化圏のベトナムでは兎のかわりに猫が入っています。 

「明日黄花」 (みょうにちこうか) 2013・10・16

「明日」というのは、重陽節(旧暦9月9日・今年は10月13日)が過ぎたあとの日のこと。「黄花」は菊の花。重陽節には菊を観賞するならわしがあり、その日に合わせて花の盛りを迎えるよう栽培されます。ですから「明日黄花」(蘇軾「九日次韻王鞏」など)は、節日を過ぎて人びとの関心が薄れたあとの菊の花のことで、遅れて盛りを迎える花の場合には「役たたず」ということになります。

普及のはじめは独占状態だった人気デジタル商品が売れなくなるのが「明日黄花」。女子バレーで日本が中国を破って金星を挙げると、中国は「昔日の影もなし」で、日本は「遅れて今更」という意味で、「明日黄花」の評を受けたりします。

重陽節は中国では「老人節(敬老の日)」で、年老いた両親に会いにいきます。高齢化率1位の上海では10月の「敬老月」には敬老・愛老・助老といった「崇尚敬老」の行事がさかんです。気がつけばこの稿も節日をすぎており「明日黄花」でした。 

「各有千秋」(かくゆうせんしゅう) 2013・10・09

TOKYOはもちろん、2020年オリンピック招致の3都市は「各有千秋」で優劣つけがたかったといわれました。「千秋」は千年のこと。一つひとつの物事、一人ひとりの人間にはそれぞれに遠く久しい流伝があることを「各(おのおの)に千秋有り」(趙翼「瓯北誌鈔・絶句」など)といいます。

漢の李陵は、「三載(三年)は千秋となる」と詠ったとき、同じ時代の天の一隅に生きながら、もはや友人蘇武と再び遇えないという思いを込めました。「千古絶唱」といわれる唐の李白や杜甫の詩は、文字どおり千年を重ねて「名流おのおの千秋あり」を証明して読み継がれています。名も無き者の人生だって、それぞれ千年の来歴をたどって現在があるわけです。しかし現代四字熟語としての「各有千秋」は、ずっと軽くて、ものの特徴ややり方の特色といった意味合いで使われています。新車の外観や女性の髪型の特徴も、こそどろの手口だって「各有千秋」なのです。 

「蝿頭微利」(ようとうびり) 2013・10・02

「蝿頭」を「ようとう」と読める人はどれほどいるのでしょう。ハエを見なくなったことも関係しているのでしょう。給食のパンに混入していて、食べても害がないとかで話題になりましたが。中国ではちっぽけな利益をいうのに「蝿頭微利」(口語では「蝿頭小利」)が用いられています。日本で少量をいう「雀の涙」と「猫の額」。「雀の涙」は見たことがないし、「猫の額」は尺度として範囲があいまいだからでしょうか、中国では見聞きしません。少量を代表するのはハエの頭とカタツムリの角。

「蝿利蝸名」は、わずかな利益とささやかな名声。宋の蘇軾は「蝸角虚名、蝿頭微利」(「満庭芳」から)といって、利得も名声もまとめて突き放しています。

ハエとカタツムリ。どちらも身近でなくなりましたが、ネコだけは健在です。ソファの上に寝そべるネコの狭い額を見て、転じてわが家の狭い庭を見ますと、なるほどと思える違和感のない巧みな表現なのですが。