現代シニア用語事典ー「国際高齢者年」(一九九九年)

 「国際高齢者年」(一九九九年)のあと
みんなの関心を呼ぶイベントは一〇年不在 
唯一、「高齢社会対策」として国民に存在感を示したのは、一九九九年の「国際高齢者年」(International Year of Older Persons 1999)に、総務庁高齢社会対策室(小渕内閣)が中心になって関係省庁連絡会議を設けて、官民協働で全国展開をした関連事業のみといえます。
これはご記憶にある方も多いでしょう。ないとしたら「参加意識」が欠如していた証です。そして残念ですが、事業の趣旨が一般の高齢者にまで届かなかった証です。
国連が二一世紀に迎える国際的高齢社会を予測し、九〇年代の初めから各国に対処を訴えた活動でした。長寿で得た期間を生き生き過ごす「高齢者のための国連原則」としての、
「自立、参加、ケア、自己実現、尊厳」
という五原則や一〇月一日を「国際高齢者の日」とするといったメッセージが広報され、「すべての世代のための社会をめざして」がテーマでした。
当時、高齢者に関係する団体がこぞって参加し、地方公共団体が参加した広報・事業関係の実施件数は一〇八四件に及び、東京の二一一件をはじめ、北海道、埼玉、長野、大阪などでは五〇件をこえました。四月に知事に就任した石原慎太郎都知事も、一〇月一日の「国際高齢者年記念式典」で、
「この国を持ち直し、周囲からも尊敬される日本の社会をつくり直していくよう、お互いに頑張りましょう」
と訴えています。
この年に始まった「みんなの体操」や「エイジレス・ライフ実践者表彰」は継続していますが、一般の高齢者が参加する目立った活動がなく、一九八八年に始まった「ねんりんピック」のほかはニュースにはならなくなったのでした。
国民の高い支持を受けて登場した小泉純一郎首相が「所信表明演説」(二〇〇一年五月)でいったことばが、世紀初めの「高齢者意識」のありようを伝えています。
「給付は厚く、負担は軽くというわけにいきません」
といって、負担増だけを取り上げたのでした。その後も国民を代表する政治リーダーは一貫して高齢者を「社会の扶養者」として扱い、小泉発言の後追いをしてきたのです。
そのことに「高齢社会対策」担当の官僚が気づいていなかったわけはないでしょう。が、国民や政治の側からの要請が出なければ動くこともできず、三年ほどの担当期間を過ごして、厚労省などの部局にもどるだけのことでした。
この一〇年の間、自治体関係者や民間の人びとによるボランティア(無報酬)の献身的な活動はつづいてきましたが、増えつづけた高齢者の多くは、定年後を「余生」とする旧態依然の通念にしたがって日々を過ごしてきたといえます。
ウオーキングをし、釣りをし、ゴルフをし、パチンコをし、孫をみ、展覧会にいき、小旅行をし、仲間と安酒で会して誰彼の病状を憂え、テレビのニュースだけを拾い見し、貯蓄の目減りを心配して、「平成萎縮」のなかで自分も萎縮して暮らしてきたのではないでしょうか。
新たな「社会の高齢化」(aging)という状況に対する新たな対応、高齢者を「社会の扶養者」とみる「二世代+α型」社会であるとともに、高齢者を自立した対象とする「三世代同等型」社会への穏やかで緩やかな変容への対応、「AからB」ではなく「AとともにB」という多重型の対応を怠ってきた証なのです。そしてそれは、だれもが理解できる構想として掲げる役割を担う政治の側が負うべき「一〇年の失政」としてあったし、今もあるのです。
(まったなし「日本長寿社会」への展開 2012・3・11)