国際観光の優れた標識都市
別府市と煙台市(山東省)
日本からの最初の遣唐使は、六三一年に山東半島北部の登州に上陸している。いまの煙台市である。明朝になって一三九八年、倭寇防御のために烽火台を築き、煙台と呼ぶようになった。さらに遠くは秦代に、徐福が不老長寿の仙薬を求めてここ(蓬莱)から海を渡ったと伝えられる。どれもあまり知られていない煙台と日本との絆である。
煙台市は、山東省北東部にあって黄海と渤海に面している。古くから芝罘(チーフー)と称された歴史都市でもある。蓬莱というのは、蜃気楼が発生することであらわれる「仙境」で、海中にある仙山や仙薬のありかを映しだしたとものと考えられた。そのことが、ここから徐福が渡海した背景にあるのだろう。
一八六一年の中仏通商条約で開港し、以後、英、米、日、独、伊、露、仏など一七カ国が領事館を開設した。その当時からの建物が市内に多く残されている。ワイン、リンゴ、じゅうたん、水産品が特産。開発区には日本企業も進出して活況を呈している。煙台市には養馬島に温泉があって、海のむこうに仙境蓬莱の日本が見られるかもしれない露天風呂もある。〇八年七月には市内にJASCO煙台店も開店している。全国優秀観光都市のひとつで、人口は約四四七万人。
別府市は、大分県東海岸の中央に位置する観光都市。古くから「別府八湯」と呼ばれる温泉群が点在し、江戸時代には貝原益軒の「豊国紀行」にも静かな湯治場として記されている。二九〇〇余の源泉は湧出量とともに全国一を誇る。戦災をまぬかれた観光温泉地として発展し、また学術・文化交流を進める「国際観光温泉文化都市」という役割を果たしている。年間の来客数は、約一一〇〇万人。市の人口は約一二万人である。
友好都市について、当時の別府市長から市日中友好協会が折衝の要請を受けたのは、一九八三年一二月のことだった。全国本部に取り次いで駐日中国大使館を通じて働きかけ、八四年一月には宋之光大使から観光都市で形態が類似している煙台市が紹介されたのだった。
さっそく脇屋良可市長を団長とする視察団が八四年二月には北京、済南(山東省の省都)を経て煙台市を訪問し、董伝周市長に友好都市提携の希望を伝えた。一〇月には煙台市からも経済考察団が訪れて、観光施設等を視察した。さらに八五年四月には別府市長が再訪して、議定書作成や調印日程など事前協議をおこなって友好交流を深め、提携への準備を整えていった。
友好都市締結の調印式は、大阪から船で別府入りした煙台市代表団を迎えて、八五年七月二六日に催された。董伝周・脇屋長可両市長が議定書に署名した。
別府・煙台両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問、留学生派遣、経済・文化交流、歌舞団公演など。市日中友好協会は、市を支援して一、五、一〇周年には歌舞団の招聘や物産展を開催した。また桜を贈る運動を展開、九五年の一〇周年には桜一千本を植樹し記念碑を建立(天地公園)、〇五年の一五周年にはさらに一千本(西砲台公園)を記念植樹した。〇四年四月には煙台で桜花を見る訪中団を派遣するなど両市交流に努めてきた。煙台産のぶどうで作った「別府貴人香」は白ワイン。日中国交正常化三五周年を記念して北京でおこなわれた「中日友好都市小学生交歓卓球大会」には五八チームが参加した。四つのブロックで優勝があらそわれて、煙台・別府組は優勝した。
〇五年の二〇周年には、煙台市から友好の証しとして「八仙人彫刻像」が贈られた。 (二〇〇八年九月・堀内正範)