友好都市の第一号として
神戸市と天津市
神戸市と天津市が、「日中友好都市」の第一号となった。
その記念すべき「友好都市宣言」は、一九七三年六月二四日に、天津市でおこなわれたのだった。
北京にある中日友好協会の招きを受けた「京阪神三市長訪中友好代表団」は、香港・広州をへて北京に到着し、六月二二日に、李先念副首相および廖承志中日友好協会会長と会見した。そのあと六月二三日にはそれぞれに、神戸市の宮崎辰雄市長は天津市へ、大阪市の大島靖市長は上海市へ、そして京都市の船橋求己市長は西安市へと友好訪問に向かった。
神戸市の宮崎辰雄市長一行は、六月二四日、熱烈歓迎をうけて天津市が主催した歓迎集会に出席した。
席上、解学恭天津市革命委員会主任(市長)が挨拶し、
「天津市と神戸市は、きょうから正式に友好都市関係をうち立てた」
と宣言した時、参加した一五〇〇人余の市民代表の拍手は鳴り止まなかったという。
宮崎市長は、前年の七二年一〇月、日中国交正常化の直後に「日中友好青少年水泳訪中団」の団長として、北京で周恩来総理と会見し、天津市との「友好都市」提携という新たな平和の絆の実現に同意を得たのだった。当時、訪中団員として参加をしたために、橋爪四郎、木原美知子選手らが日本水泳連盟から除名されるというきびしい両国関係の環境のもとでのことであった。
天津市は、直轄市のひとつである。人口は約九五七万人。北京への海の玄関として、一八五八年に天津条約により西欧列強の租界地となって開けた。現在は中国北方地域の総合産業都市として発展している。周総理はここで青年期を過ごし、南開中学へと通った。夫人となる鄧頴超女史とはここで出会っている。市内に「周恩来鄧頴超紀念館」がある。
神戸市と天津市が友好都市として結ばれるにあたって、孫文の姿を重ねないわけにはいかないだろう。孫文は一九二四年、死の前年に神戸を訪れて、日本国民にむかって最後の問いかけをし、船で天津に向かったのだった。
神戸市の舞子浜にある「孫中山記念館」には、神戸から天津にむけて出航した「北嶺丸」船上での孫文と宋慶齢の写真が残っている。孫文の表情は、日本への永別と病気の進行による疲労が重なってか、鎮痛である。
このとき、上海から長崎経由で神戸入りした孫文は、二四年一一月二八日、「大アジア問題」と題して講演し、
「西方覇道の鷹犬(手先)となるか、東方王道の干城(守り手)となるか」
について日本国民の慎重な選択を求めたのだった。アジアのリーダーとしての選択は、なお今日的な課題である。
神戸市は、一八六八年の開港以来、外国人が最も住みやすい町といわれて発展してきた。いまでも人口約一五〇万人のうち約四・五万人が外国人である。一万人を超える中国人が居住し、中華街(南京町)、学校、病院、墓地などもそろっている。神戸・天津両市を結ぶフェリー「燕京号」が就航し、ポートアイランドでは二一世紀の日中関連ビジネスの核となる「新たな中国人街」の形成が進んでいる。
市民の交流活動も多彩である。神戸市外国語大学と天津外国語学院の学術交流協定、「中国五〇〇〇年の秘宝展」の開催、神戸・天津友好画家交流会、太極拳カーニバル、神戸王子動物園と天津動物園の動物交流、天津水上公園「日本神戸園」の建造など。中国にとっては世界の一四〇〇友好都市のうちの第一号であり、日中友好の絆は、国際都市神戸市―天津市の成功にひとつの象徴をみることになるだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)