友好都市・物産の絆-大杏と林檎が友好の果実

大杏と林檎が友好の果実

北上市―三門峡市(河南省)  

「仰韶大杏」といえば、三門峡市名産の杏の名である。「仰韶遺跡」といえば、新石器時代(五〇〇〇~七〇〇〇年前)の文化を代表する遺跡の名である。同じ大地の上に、いまも杏のほか棗、山楂、胡桃、葡萄、林檎など、さまざまな種類の果実が豊かに実っている。大河のほとりの肥沃な土地、古代からこのあたりに人と物の交流の拠点のひとつがあったことを推測させる地域である。

黄河は、ひとたび北上したあと、内蒙古高原から一気に南下してくる。このあたりは中流である。山岳地帯から平原へとむかうところで左折して渭水をあわせて東流する。ここで黄河を東流させるために、伝説時代の聖人、禹が三門を穿ったというのが市名の由来という。西周時代には虢国があったが、「唇亡びて歯寒し」の故事を残して虞国とともに滅亡した。いま当時の車馬坑が発掘されており、西周時代の生活や社会の解明に新しい素材を提供している。

そして市の西境が天下の険として知られる「函谷関」である。ここは「鶏鳴狗盗」の故事の鶏鳴のほうの現場である。また老子が都洛陽を捨てて西方に去るにあたって『老子道徳経』を残したことでも知られ、太初宮には長髯の老子が筆をもつ坐像が安置されている。「函谷関」の西は陝西省であり、黄河の北は山西省。三門峡は河と陸を通じる古くからの交通の要衝であった。いま工事中の西安・三門峡・洛陽を結ぶ高速道路が完成すれば、新たな拠点となるだろう。農産物ばかりでなく、採掘しやすい浅い層にある鉱産資源にも恵まれている。三門峡ダムの建設にあわせた工業化が進み、新しい技術の導入にも意欲的であることから、内陸の中核都市への発展が期待されている。人口は二一〇万人。 

早くから日中交流に熱心だった北上市の提携相手として三門峡市を推薦したのは、河南省の対外友好協会会長だった蔡流海氏であった。一九八四年に友好親善訪日団の一員として来日した蔡氏を、北上市日中友好協会が市へ招いたことが契機となった。

北上市は、北上川と和賀川の合流地点に広がる田園都市である。林檎は名産のひとつであり、長芋や里芋の主産地となっている。古くから奥州路の交通の要衝で、いまは「水と緑豊かな文化・技術の交流都市」が目標。北上川流域テクノポリス圏域の中核都市として発展している。

両市の友好都市提携の調印式は、八五年五月二五日に、斎藤五郎市長ほか市民友好訪中団五○人が訪中して、三門峡市でおこなわれた。同年一一月には三門峡市から候国富市長らが北上市を訪れた。
以来、両市の交流は、大杏と林檎の苗木交換を絆としながら交流の輪を広げてきた。民俗芸能の「鬼剣舞」と「獅子舞」の交換公演も行われ、「北上みちのく芸能まつり」にも出演した。また三門峡市の「中日友好植物園」と北上市の「詩歌の森公園」には交流の証しとしてそれぞれに「友好亭」が完成している。北上市民の友好訪問は回を重ねて、一五周年(二〇〇〇年)の一八次友好訪中団「北上市民の翼」には、伊藤彬市長をはじめ市民七五人が参加した。

三門峡市から贈られて、北上の地に移植された大杏の苗木四〇〇本に、実がなるようになった。真っ赤な大粒の実である。北上市ではこの友好の果実を「直売にかけるのか、ジャムやジュースに加工するのか」という課題にも取り組むことになった。
一方、三門峡市では林檎「富士」がたわわに実をつけるようになっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)