友好都市・歴史が絆-六〇年余戦禍を語り継ぐ

六〇年余戦禍を語り継ぐ

広島市と重慶市 

一九四五年八月六日午前八時一五分、広島市細工町の上空五八〇メートルで、人類史初の原子爆弾が炸裂、熱線、爆風、放射線は一瞬にして多くの市民を殺傷し、街を廃墟とした。傷ついた市民は肉親の姿を求めてさまよった。この一発で約三五万人が被爆し、四五年末までに約一四万人が死亡したといわれる。この未曾有の惨状を現出したのは、米軍B29エノラ・ゲイ号による無差別爆撃であった。

中国の臨時首都であった重慶市の中央放送局は、八月一〇日午後六時、「日本無条件投降」の重大ニュースを放送した。日本軍による空爆の恐れがなくなった重慶の街は沸騰し、市民は歓喜の声をあげて屋外へ繰り出し、街にあるかぎりの爆竹を鳴らして戦争終結を祝ったのだった。 

しかし、米国大使の仲介で八月二八日に延安から重慶に着いた毛沢東・周恩来と、蒋介石との溝は埋まらず、さらに四年にわたる国共内戦がつづくことになる。

大戦後、平和を希求する人々の要請が、両市を引き寄せていったといえよう。八〇年には広島市議訪中団が重慶市を訪れた。八四年には重慶市で「現在の広島」写真展と「原爆ポスター」展を開催する。そして八五年八月に広島市で開かれた「第一回世界平和連帯都市市長会議」(現平和市長会議)には、重慶市の肖秧市長が出席した。八六年五月には、荒木武市長ら広島市代表団が重慶を訪れた。

そして八六年一〇月二三日、重慶市代表団を迎え、荒木市長と肖市長が友好都市提携の協定書に調印した。他にも増して大きな戦禍を蒙った両市提携の意味は、
「この提携はアジア、世界の平和に貢献することを確信する」
という荒木市長のあいさつに込められて、両市を越えて両国の国民の間に伝わった。肖市長も、

「両市、両国の人々の幸福、平和のために、協定書の精神を守っていきたい」

 と述べた。友好交流都市提携を記念して、広島市からは「平和の鐘」が、重慶市からは彫塑像が贈られることになった。また広島市からキリン二頭、フラミンゴ一六羽が、重慶市からレッサーパンダ三匹が、動物大使として交換された。記念植樹には、白モクレンが市役所の緑地帯に植えられた。

両市の友好交流は、平和市長会議への重慶市代表の参加、平和の絵コンクールへの重慶児童の応募など「平和」を軸に多分野に及び、近年は酸性雨研究や環境保全、市立病院の交流、さらには自動車関連など経済交流にも取り組んでいる。

重慶市は直轄市のひとつ。長江上流で最大の商工業都市である。南宋の趙淳が王になり、その後に皇帝についたことから、二重の喜びを意味する「重慶」と呼ばれるようになった。人口は約三一〇〇万人。上流の三峡ダム建設で新たな時代を迎えようとしている。  

広島市は、人口約一一五万人。一五八九(天正一七)年、毛利輝元が海陸路交通の要衝の地に築城し、広島と命名した。近代の日清戦争(一八九四年)には大本営が置かれ、また高等教育機関が設けられて、軍都、学都として知られた。

被爆から六〇年、核兵器廃絶への道は進まない。原爆犠牲者を追悼し、「核兵器廃絶」と恒久平和を願って八月六日に開催される平和記念式典では、二〇〇五年、「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切る「希望」を掲げて新たな道へと踏み出した。二〇〇六年は二〇周年に当たった。広島友好訪問団(団長秋葉忠利市長)が一〇月二三~二七日まで重慶市を訪問して王鴻挙市長と協議、世界恒久平和への貢献と友好都市関係の強化に関する覚書を交わした。あと「広島園」近くの公園内に「常緑と永遠の友情を表わす」松の木を植樹した。(二〇〇八年九月・堀内正範)