友好都市・港が絆-表玄関である自負と実力

表玄関である自負と実力

大阪市と上海市  

「上海が稼ぎ、北京が使う」というようだが、そう一方的なものではないだろう。大都市住民の活力によって、それぞれに発展してゆくのだろう。二〇〇八年の「北京五輪」と一〇年の「上海万博」を機にして、南北のふたつの大都市が競って都市インフラを含めた変容を遂げようとしている。

一九七〇年の「大阪万博」や〇五年の「名古屋博」を上まわる規模の「上海万博」は、一〇年五月一日~一〇月三一日の会期で、七〇〇〇万人の入場者を見込んでいる。テーマは「都市、生活をさらに美しく」(城市、譲生活更美好)で、先に東京が返上した都市博であることがまた示唆的である。

日中国交回復後の七三年、中日友好協会の招きを受けた「京阪神三市長訪中友好代表団」は、六月二二日に北京で李先念副首相、廖承志中日友好協会会長と会見した。その後、京都市長は西安市へ、神戸市長は天津市へ、そして大阪市の大島靖市長は上海市へとそれぞれ向かった。大島市長は、翌七四年に友好都市提携をおこなうという合意をみて帰国した。京阪神三市による日中友好都市提携の幕開けであった。

七四年四月一五日、「大阪日中友好の船」は、団員四二〇人余を乗せて大阪港を出港した。各団体・協会の代表をはじめ、書道家、鍼灸師、医師、棋士、ママさんバレーや児童劇団のメンバーなど各界の市民代表が参加、四月一八日の上海市大会堂での式典に臨んだ。

四月一八日、会場では上海市各界の市民代表が大阪市友好訪中団を熱烈に歓迎、馬天水上海市革命委員会副主任(副市長)と大島靖大阪市長が、両市が正式に友好都市になったという歴史的な宣言をおこなった。集会のあと代表団は、雨のなかを西郊公園での記念植樹に臨んだ。

上海市は、横浜市との友好都市提携のところでも述べたように、一八四三年の南京条約によって開港して以来、飛躍的に発展した。新中国成立の後、ことに改革開放後に長江流域を龍身とする「龍の頭」として、首をもたげるように沿岸地域の経済をリードしながら、その地位を揺るぎないものとした。最近では浦東新区の開発により、国際的な金融、貿易、経済のセンターとしての機能を果たしている。

大阪市は、古代日本の海外への門戸であった難波津のころから水運によって栄えた水の都である。江戸期には全国からの物資の集散地となり、「天下の台所」といわれて、国内最大の経済都市に発展した。歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃(世界無形文化遺産)などの上方文化は、いまに伝統芸能として伝えられている。大戦後は東京に首位を譲ったが、西日本の中枢として「大阪万博」や「花と緑の博覧会」(九〇年)などを開催した。「二一世紀のモデル都市」をめざしている。人口は約二六〇万人。

提携後の友好交流は、各界にわたって展開している。七五年の一周年記念展物産展の開催、七八年には「大阪教育の翼」訪中団の派遣、八〇年には大阪府が上海市と友好提携をおこなった。八一年には上海曲技団がパンダ「偉偉(ウエイウエイ)を伴って来阪、八五年には大阪上海経済交流会議(第一回)を大阪で開催、九五年にはビジネスパートナー都市(商業伙伴城市)として提携した。

三〇周年の〇四年の記念事業も、「中国五千年の名宝・上海博物館展」、フォーラム「都市の相互依存」をはじめ、写真展「上海の風情」、「中国の調べ、日本の調べ」演奏会、小中学生絵手紙交流展、記念植樹(大阪に白玉蘭、上海に桜)など、多彩な分野で開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)