友好都市・港が絆-近代開港ふたつの東方明珠

近代開港ふたつの東方明珠

横浜市と上海市  

上海の虹橋空港に飛鳥田一雄横浜市長ら市友好代表団が降り立ったのは、一九七三年一一月二八日のことだった。

色とりどりの旗や桜の造花を手に手に、歌い踊る数百人の市民の歓迎を受けた。一一月三〇日、飛鳥田市長は上海市革命委員会の馬天水副主任(副市長)とともに「友好都市宣言」をおこない、上海市大会堂に集まった市民代表の熱烈な拍手のなかで、錦旗を交換した。神戸市―天津市に次いで二番目、上海市にとっては海外初の友好都市となった。

上海が正式に開港したのは、一八四三年。横浜は一八五九年である。
ともに東アジア近代化の門戸として類似した役割をになってすすむことになった。一八七一(明治四)年の日清修交条約締結のあと、欧米諸国の通商事業に合わせて両市の接触も始まった。初の国際航路として横浜―上海が結ばれたのは七五年のこと。それ以来、近代化の役割を共有しながら港湾都市としてともに発展してきた。

新中国になってからの出会いは、一九六四年八月に貨物船「燎原号」が中国船として横浜に入港したときに始まる。以後、両港を窓口として人や物の往来が活発になり、中国との交流をつづけてきた市民団体や地元経済界、横浜華僑総会などを中心に、上海市との友好都市提携への活動が地道にすすめられた。
すでに横浜市は、サンディエゴ市(米)、リヨン市(仏)、ボンベイ市(インド)、オデッサ市(ウクライナ)、バンクーバー市(カナダ)、マニラ市(フィリピン)などと姉妹都市提携を結んでおり、隣国中国の上海市ともという機運が市民のなかに強まった。

横浜市が上海市に友好都市提携を呼びかけたのは、一九七一年六月だった。七二年九月の日中国交正常化より前だったが、卓球、バスケット、サッカー(けがをした劉文斌君の入院と激励)といったスポーツを通じた青少年の交流が、両市の市民の関心と親近感を高めるのに力があった。横浜市には、とびきり元気なまち元町中華街があることで知られる。人口は約三五五万人、中国人は約二万三千人が居住する。

上海市は、一八四三年に南京条約により開港し、英米仏などが租界を開設、外灘には次々に洋風建築が並んだ。一九二一年には共産党第一回全国代表大会が開かれ、三七年の日本軍による占領など苦難な時期を経て、四九年に解放された。とくに改革開放以後の発展はめざましく、二〇一〇年には万国博が開かれる。人口は約一三三四万人。

これまでの両市の友好交流の主なものは、両市友好代表団の相互訪問をはじめ各分野での幅広い交流、横浜工業展覧会や上海工芸品展覧会の開催、友好港提携、横浜上海友好園の開設と朱鎔基上海市長の来浜、金絲猴の寄贈など。二〇周年には両国関係者が五年をかけて制作した『横浜と上海』が発刊された。

二〇〇三年は、友好都市提携三〇周年に当たった。日中間のきびしい政治環境を象徴する上海市へ、横浜市友好訪問代表団が訪れ、一一月三日には中田宏市長と韓正市長との間で五年間の「友好交流事業に係る協定書」に調印、「横浜港セミナー」や「日中観光フォーラム」などを開催した。〇五年が創立三五年の横浜日中友好協会は、七月に日中韓民族舞踊交流会を催し、機関誌「移山」は一〇〇号を迎えた。
横浜は開港一五〇年を迎える二〇〇九年に「世界卓球選手権横浜大会」を開催する。それに先立って「横浜・上海・北京友好都市対抗卓球大会」が開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)