友好都市・歴史が絆-小学校交流から友好区へ

小学校交流から友好区へ

東京都北区と北京市宣武区
北京市城内は四つの地区に分かれている。北側半分は政治の中心となる区域で、故宮をはさんで西城区と東城区。それに対して南側半分は庶民が暮らす区域で、西に宣武区と東に崇文区がある。

北京オリンピックのマラソンで天安門前のスタート地点から少し東に走って南に折れて天壇公園を通過してもどってきたが、あのあたりが崇文区である。もどって今度は西長安街を西に走って右折して北京動物園を通過したが、あのあたりが西城区である。北京大学や清華大学は西北郊外で、ゴール地点の「鳥の巣」は北の郊外ということになる。

だからここに取り上げる北京市第一実験小学校のある宣武区は走らなかったし、競技会場もなかったから、五輪の影響が最も少なかった地区ということになる。穏やかな北京が戻ってくれば、和平門の南、骨董のまちとして有名な瑠璃廠文化街のあるところだから、文化的な賑わいが戻ってくるだろう。瑠璃廠のすぐ北に、北京第一実験小学はある。

一九一二年に北京高等師範学校附属小学校として創設され、九〇年余の歴史を持つ。北京第一実験小学となったのは解放後の五五年。周恩来夫人で全国政協主席だった鄧頴超さんが初の女性教員として務めていたことでも知られ、「鄧頴超教師奨励金」が設けられている。「全面育人」の先進学校であり、「北京第一実験小学教育叢書」を出版している。余暇活動では紅十字活動にも力を入れている。

王子小学校のある東京都北区は、その名のとおり東京都の北部に位置して、荒川を隔てて埼玉県と接している。飛鳥山は江戸時代に享保の改革で桜を植えて行楽地としたことから、江戸庶民が訪れる景勝地となった。一九一一年には王子電車(今も残る都電荒川線の前身)が開通し、二三年の関東大震災のあとに都市化が進んだ。 

王子小学校は一八七四(明治七)年に荒川学校として開校し、八四年に王子小学校に改称。戦後の四七年に北区立王子小学校となり、二〇〇四年には創立一三〇年を迎えた。青少年赤十字(JCR)活動は四〇年を越えてつづき、奉仕・国際理解の伝統は親子二代に受け継がれている。また国語教育のための「ことば・きこえの教室」で知られる。

 一九八五年七月に、由緒のある両小学校校の交流が正式に決まり、関係者の往来や絵画や書の交換が始まった。それをきっかけに荒川区議会の調査団や区民の友好交流が進み、九三年四月二二日、宣武区友好代表団を迎えて、北本正雄・劉敬民両区長の間で友好交流と協力関係の合意書の調印が交わされたのだった。

それ以後、両区の間では文化、スポーツ、青少年、環境、女性など、大都市が共有する課題について交流は幅広い分野でおこなわれている。

学校交流をはじめ、両区の市民交流に関わってきた丸山典義さんの活動を忘れるわけにいかない。九四年八月には小学生の野球チーム「王子ドルフィンズ」を率いて親善交流試合を成功させ、それ以来、子どもたちの出会いの場も作った。また不動産のしごとがら多くの留学生の面倒もみた。「青少年の間にまかれた友好の種」は将来かならず実となることを丸山さんは確信している。

二〇〇四年には、協定締結一〇周年を記念して区長を代表とする友好代表団を相互に派遣して、次世代を担う子どもたちを中心にした交流を推進することを確認した。二〇〇五年九月には「北京第一実験小学校管楽団」(四四人)が交流に訪れた。紅葉中学校吹奏楽部との交流演奏会などをおこなった。(二〇〇八年九月・堀内正範)